・車イスすが結んだ日比の愛 ・
【フィリピンの福祉施設で身体障害の自立訓練をしていた日本人男性と、現地の女性ヘルパーのカップル2組が25日、福岡市博多区のお寺で結婚式を挙げた。
結婚したのは、福岡市南区日佐の島田正光さん(42)とノリ・ビアヘさん(40) 北九州市八幡西区東川頭町の高松祥二さん(40)とリヒーナ・キムラさん(27)。
島田さんは筋ジストロフィー症、高松さんは交通事故が原因でともに車いすの生活を続けている。
出会いの場は、フィリピンのマニラ南方約130キロのルセナ市にある・日本人障害者の家・
北九州市の福祉団体・グリーンライフ研究所・代表、向坊弘道さん(55)が、自立訓練の場として9年前に建てた。
島田さんらは、日本では介護費用がかさみ、冬場の介護入浴が大変なことなどから5、6年前、向坊さんの紹介で・身障者の家・に入所。年に10ヶ月間ほど現地に滞在し、ヘルパーだった新婦の介護を受けるうちに恋が芽生えたという。 友人らの祝福を受け、高松さんは・早く独立しないといけんと思ってました・と笑顔をみせていた。】
1933年5月26日 朝日新聞朝刊
◆ 育て! 四人の孤児
人間としての価値は、その人を全体から見ないと分かりません。頭の良しあしだけでは決められません。また、社会的な習慣の違いも考慮に入れなければなりません。
日本人は小さいときからファミコンやハイテクおもちゃに慣れていて、技術的なことに詳しくなります。学校での試験にも慣れていて、知能テストをするといい結果がでます。 そこへいくとフィリピン人の子供は土の上で遊び、近所の友だちとよく交わり、情操豊かに育つので、人格的にはいい人物ですが、ハイテクについては何も知らない子供が多いので、ちょっと目には無知でバカのように見えるのです。
だから、偏差値評価に慣らされている日本人はこの国に来るとたいへん驚くことも多いです。日本人障害者の家を建ててまもなく、デ・メサ家のはしくれに4人の孤児がいるのに気づきました。長男のノリ君は一〇才くらいでしたが、市場の中をネズミのように駆け回り、あちこちで手伝いをしてなにがしかの見返りをもらい、弟たちを養っていました。 感心してみているうちに、私も手伝わなければと思うようになっていくらかづつお金を渡すうちに、彼らは実の子のようになついてきました。そのうちに、毎月定額をノリ君に渡すようにして、私が買った農場に家を建て、安心して兄弟みんなが学校に通えるようにしました。
電気も水道もない農場に住んでいるので勉強はできないだろうと予想していましたが、4男をのぞいてみんなトップクラスの成績なのには驚きました。
時には言うことをきかないとノリ君は弟をぶん殴るらしく、下の子が泣いてくることもあったので、誰か面倒を見てくれる人を探さなければと思っていると、4人の男兄弟で、ちゃんと炊事、洗濯、掃除をやってのけるので、また感心しながら見守っていました。
そんな話を聞いた高石住職や渡辺住職など、浄土真宗の福岡教区西嘉穂組というお寺さんの組合が5年くらい前から義援金を寄せて下さるようになり、私の負担は大きな覚悟?をした割には小さくなりました。
ノリ君兄弟はときどき私の所に日本語を習いにきます。それで覚えた片言の日本語でノリ君は日本から来たお客さんを案内するので、彼の活躍に感心した日本人が「私の息子と取り替えてくれませんか。私の息子は口もきいてくれませんよ」などと苦笑したこともありました。
去年の3月、フィリピンでの越冬を終えて日本にひきあげる予定の日に、日本からの見学者の接待で疲れて入院してしまいました。そういう時にはノリ君がよく世話をしてくれるのですが、病院にとまりこんでいる隙をねらって、酒に酔った隣の叔父がノリ君の家に刃渡り五〇センチのボロ(蛮刀)をかざして暴れ込むという事件が起きました。
ノリ君兄弟のように安定した生活をしていると、うらやましがられたり、ねたまれたりして、時にはいやがらせをされるらしいので困ったものです。暴れた男は昔、私に奨学金を出してもらって大学に通っていた男で、あまりの怠けぐせと嘘の多さに、私に出入りを断られていたものでした。
彼は私に言い訳をしようとなんども部屋の前を行ったり来たりしていましたが、私は怒ったふりをしていました。外国では“イエス”と“ノー”をはっきり言う必要がありますが、この国では特に、気に入らないときには不機嫌な顔を見せる必要があります。いつもニコニコ、どうでも“いい人”ではこの国の人と長くつきあうことはできません。
それからすぐに日本に帰った私は事件がどうなったかと心配していましたが、2カ月後にノリ君にヘルパーになってもらってネパールに行く機会がありました。 香港で彼と落ち合った時、事件後の推移を尋ねてみたら「ほぼ仲直りをしました。あのときに逃げ出した家は彼らにあげて、今度、ネパール行きでもらう給料で少しいい家を建てたいと思います」という話でホッとしました。
ノリ君のように大ファミリーからはみ出しても、元気に生きていこうとする兄弟をみているとこちらまで勇気を与えられるような感じがします。
◆ フィリピン人と日本人
日本ではフィリピンの印象は大変悪いようです。フィリピン人はみんな貧しく、怠けものであり、フィリピンに観光旅行に行けば生きては帰れないように思いこんでいる日本人が多くなりました。
そこで残念ながら、越冬のために私がフィリピンへ旅立とうとすると「よくそんなところへ行きますね」という冷ややかな反応を見せる人が大部分です。私は「フィリピンはアメリカより犯罪が少ない安全なところなんですよ」と言っても理解しようとする人はほとんどありません。
フィリピンに来て長く居る日本人でも頭から彼らは遅れていると思いこんでいるものですから、なんでも教えてやろうとコマンド(君臨)したがります。そうなると、彼らはその人を仲間として見ませんから、そういう日本人は“よそ者”のレッテルを貼られます。 こうなるとその“よそ者”は実に苦労がふえることになります。だまされたり、ぼられたり、ということにもなります。“よそ者”にされた日本人はまったく面白くないものですから、彼らを悪者扱いにして悪口をいい始めます。
そもそも誤解の始まりは“進んでいる”人間として彼らに何か教えてやろうという傲慢な考えにあったわけですが、それさえも気がつかないという、工業国に住む人間の優越感を私たち日本人のほとんどが持っているのではないでしょうか。
そうして、同じ人種のアジア人どうしの間に誤解と偏見が広がり、お互いに面白くない関係をもたらしていることを私たちは素直に認めねばなりません。
フィリピンという国は昔から日本と強いつながりがあり、一般的には、フィリピン人は日本人を非常に尊敬しています。日本人は皆、億万長者だと思っています。日本は有色人種の中では白人に対抗できるチャンピオンだという認識が強いです。
戦争中、日本軍はフィリピンでひどい仕打ちをしたらしく、よく現地人を殴ったり殺したりしています。結果的には米軍がカムバックしましたが、アメリカ人も今は人気はよくありません。
大戦後、日本が負けたあと、日本軍に協力的であったフィリピン人や日系人たちはひどい報復をうけました。とくに日系人は抗日ゲリラに命を狙われて逃げ回ったために家族は離散し、財産を奪われ、現在も立ち直れずに貧しい悲惨な生活をしています。
長い間日系人であることを隠して暮らしてきた2世や3世は、近ごろようやく日系人であることを名乗り、誇りにするようになってきました。
フィリピンで日系人が多い地域は首都のマニラ、夏の避暑地になっている北方高原の都市バギオ、麻で栄えた南端の都市ダバオです。マニラ麻が全盛のころ、ダバオでは日本より高級をもらえるというので、1920年代ですでに一万人の日本人が住みついていました。
日本人障害者の家があるルセナ市は、マニラから南百キロあまりです。日本人障害者以外にフィリピン人芸能者と結婚した十人内外の日本人が居るらしいのですが、ときどき日本からくるだけですから、横の連絡はまったくありません。
日本人障害者の家からわずか五分の所にヘネロ・ヤマモト氏が住んでいます。彼は和歌山県出身の父とフィリピン人の母の間に生まれた二世で、元サマール市長です。
若いときはマニラで夜警のアルバイトなどをしながら苦学して法律学校を卒業、すぐに司法試験に合格して弁護士になり、日系人の中では例外的に出世していい暮らしをしています。
あわや国会議員というところでしたが、共産ゲリラと妥協しなかったために選挙戦で妨害され、六十才過ぎながら引退して晩年の静かな生活を楽しんでいます。 私たち日本人障害者の世話をよくしてくれるので、全幅の信頼をおいているのですが、彼のような清潔な政治家はきっと再び活躍するチャンスがあるに違いないと私たちの間では話し合っています。
そういう日本関係者にとっては、日本が憲法上でも平和国家になったのは唯一の誇りです。ODA援助をかなりやっているのもいいことで、戦前の汚名を挽回できます。
しかし、的外れの援助がかなりあります。近くのダラヒカンという港には巨大な冷凍設備を供与しましたが電気はいつも停電していました。
援助は彼らの活力を信じて、道路網と電話網を提供すれば十分だと思います。交通と通信の手段の整備によって、彼らのたくましさは未来をきり拓いてゆくでしょう。
私たち日本人障害者の家にいるものは滞在が長くなると、日本恋いしや懐かしやの想いがつのり、ふだん日本ではあまり口にしない梅干し、らっきょう、たくあんなどを好んで食べるようになります。
ふだん分からなかった日本のことがよく見えるようになり、気になることはもの申したい気分になります。国際交流とは? 国際貢献とは? 世界平和とは?
やはり日本にいて頭で空想するのとはだいぶ違うのではないか、という話題が多くなります。とは言え、自分たちでも分からない矛盾がいっぱいあります。
市内の障害者との交流、小学校への学習用品の寄付などを通じて、感謝の気持ちを表すことなど。。。一部の者たちを援助したところでどうにもなるまい、という批判もあります。援助をするから、彼らが怠けるのじゃあないか、という意見もあります。しかし、彼らの意見も聞かなければ、、、、
日本よがんばれ、未踏の地に向かって道を拓け、世界の人々に夢と希望を与えてくれ、という声なき声があることを肝に銘じてほしいのです。
◆ 念仏婆ちゃんの「日本人障害者の家」訪問記
福岡市の念仏婆ちゃん、開田チヨトさんは八四才にして、福岡グリーンライフ研究所を主宰する萩原さんの恒例の「日本人障害者の家」訪問ツアーに参加しました。若い念仏同行の山川さんと一緒にフィリピンにまで足をのばした感激を次のように記しています。
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女学生時代に世界地図でフィリッピンの存在を知り、さらに先の大戦で多くの若者が戦火に散って行ったニュースを聞いていましたが、それでも私には遠いフィリッピンでした。
今回、「日本人障害者の家」のお誘いもあってフィリッピン行きを決意、子供達の心配を感じつつも、最後の海外旅行になるかも知れないというひそかな思いを胸に秘めて、機上の人になりました。
旅行は2週間の予定です。福岡に帰ってくるころは少しは暖かくなって桜の花の咲き始めるころでしょうか。
午後3時、武内洞達先生たちの見送りをうけて、萩原さん、山川さんの3人で福岡空港を離陸。
これから展開されていくフィリピンでのことなどを思い、機内食を食べたりしているうちにマニラ空港に着陸しました。飛行時間約3時間30分です。思ったよりも近い外国でした。
5、6人の人が大きく私の名前を書いて待っていて下さいました。マニラからルセナまで途中おいしい食事をいただきながら自動車で3時間、夜の10時ごろ「日本人障害者の家」に到着して挨拶を交わすことができました。
以下思い出されること柄の2、3を書いてみましょう。
食事は少し焼いた小さなパン、もち米の混じったごはん、日本から持参した調味料で美味しく味つけされた料理などで、いつも美味しく食べることができました。
それにフィリピン料理と果物が必ず添えてありました。福岡でも食べられるバナナは甘く、表面が黒く中が赤い西瓜、名前も知らない珍しい果物など、豊富です。
私の周囲には常に5、6名の人達が和気あいあいに過ごしていて、日頃ひとりで過ごしている静けさがかえって懐かしく思い出されることでした。
さて今回の旅行の目的は「福祉」というテーマでした。
車で30分ほど走ったルセナ市立第三東小学校に行った時のことです。女校長を始め、先生と大勢の生徒が一斉に走り寄ってきたので、山川さんが「学校は、休学中だろうか」というほどでした。
校長室でしばらく休憩して、ノリさん、萩原さんが足踏みのミシンを買い求めて来られたので、授業ベルと一緒に学校に寄付しました。後から聞いたのですがミシンは小学校が長年希望していたのだそうで、日本の同行から預かってきたダーナ(布施)によってまた小学校の希望が満たされました。
市内のヘルマーナという福祉施設は一生独身で社会のために尽くしたクリスチャンの女の人が自分の財産の全てを投じて建てたのだそうです。今も施設の中で住む家がなく、親もない10数名の子供が育てられています。
その子供達に武内先生から寄付された文房具、島根県の西楽寺さんからの”折り紙の帽子”と福岡の同行からのお菓子を私の手から手渡すことが出来、ありがたい思いでした。 教室に入る時は生徒達が合唱で迎えてくれました。それらの教室には便所が備えてあり、珍しいと思いました。
また「日本人障害者の家」に近い小学校も尋ねました。ここも日本人の身障者に馴染みのところでしょうか、マンドリンクラブの生徒さんが、女先生の指揮で上手に合奏を聞かせてくださいました。
曲は知らないけれども、合奏も指揮も心からなごむ姿に、私達も心が暖まる思いでした。
7日の日曜日、この日も晴天でした。10時頃からカラ・デ・オロ海水浴場へ14、5名で出かけました。
車の中は言葉は解らないままに賑やかで楽しい時間でした。田園の中を走るので信号がありませんし、自分の都合のいい所で乗り降りできるので便利だなと思いましたが、車の乗り降りは大変でした。
日本の田園風景と違って米が年3回収穫されるます。苗代の隣は稲穂が実り、まだ青々した田もあって面白く、道端にはバナナの樹が並んでいて、その間に貧しそうな家が建っています。
おそらく電気や水道はおろか、台所さえも無いような、屋根はヤシの葉か何かで覆ってある家でした。
洗濯は濁ったような川の水で洗い、洗い終った着物は太陽光で漂白するためにそこらの草むらにひろげてあります。普通の家でも洗濯物は針金を張って、それに吊るしてあります。日本のように竹竿になるような竹がないからだそうです。
現地の人は朝起きると1番に水にかかり、体を清めるのだそうです。家に風呂がないせいもありましょう。水にかかることで清潔の保持と宗教的な清めを同時にはたしているのです。
この海水浴場は有料だそうです。日曜日でたくさんの人で混んでいました。海は遠浅で、珍しいことには”着の身着のまま”で海に入るのです。濡れてもしばらく浜で遊んでいるうちに乾いてしまいます。
以前萩原さんから「雨が降っても傘は要りません」と聞いても納得いかなかったのですが、実際の体験でわかりました。私も着たまま海に入り、そして乾かしてしまいました。 午後3時頃帰宅、サマールの前ヤマモト町長宅のパーティに招待されていましたので、和服に着替えて大勢で出かけ、沢山のご馳走に舌鼓を打ちました。町長の父親は日本人の方だそうです。しばらくよもやまの話をしましたのも恵まれた機会でした。
「日本人障害者の家」にはたくさんのお客の出入りがあり、差別なく、長いおつき合いのように打ち解け、飾り気が全くなく、言葉が分かったらさぞ楽しかっただろうと残念です。
台所のフキンに古いシャツを使用していたので、新しいタオルに取り替えたら、いつの間にか古いシャツに変わっていたので苦笑しながらも、物を大切にしていることと判断しました。
雨はスコール。ゴミ取り車は来ないので、川に流したり、燃やしたり。家も土地も物価も安い。服装も簡単。すべてに競争が少ないのか、争う心は少なく、明るい態度です。日本人への感化は大きなものがあると感じられ、私のキョウマン心が恥ずかしい。
有難いことには、車イス生活者がみんな求道者であったことです。
「人と生まれた所詮は聞法より外にありません。仏さまは方便として障害者となしてまでも、法のご縁を与えて下さるのではなかろうかと思います。
生かされていること一切が人手を取らなければならないことを身をもって体験しておられるではありませんか。考え、味わう時間も充分与えられ、しかも金銭の心配も少なく、有難いことではありませんか。
あなた達は幸せ者ですよね」と申しました。
きっとフィリピンに仏法の華を咲かせて下さる方々と信じられました。また法の華咲くことを念じ「日本人障害者の家」の働きを喜ばせていただきます。
島田さん、薄さん、高松さん、フィリピン人のお嫁さんたちの感化を期待しています。あなた達が「フィリピンでなきゃ、お婆ちゃんとの出会いはなかった」と喜んで下さったこと、不思議な御縁と思っています。
この度の旅行、わずか2週間でしたが、平年よりも涼しい季節にも恵まれてずいぶん過ごしやすかった日々。それに加え現地の人の暖かい眼差しなど、みなさんの並々ならぬ尽力にも感謝申し上げます。
山川さんにも私の分まで働いて下さり、フィリピンの人々と仲良く過ごして下さって有難うと深くお礼を申し上げます。
以前行った韓国にも仏法がありました。それは韓国の仏法です。フィリピンにはフィリピンの風光に合った仏法がありました。私にも私に合った仏法がありました。
それがお念仏という仏法であることを確かめながら、無事おかげさまで帰国して、あの素晴らしかったフィリピンの人々との出会い、そしてその自然と風光を書き表すことの難しさをかみしめています。
おわり
向坊弘道さん("Working Quads"執筆者)のホームページ
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