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the Death of Mr. Phil Draper
Mr. Phil Draper in 1991

1993年03月、 フィル・ドレーパー氏の死、 『障害者の福祉』93年3月号、 pp.33-35、 日本障害者リハビリテーション協会
フィル・ドレーパー氏の死
重度四肢まひ者の就労問題研究会
清家 一雄
1.はじめに

 本年、C5頚髄損傷者であり、自立生活センター・バークレー(以下CIL)の初代理事長であり2代目所長であったフィル・ドレーパー氏が膀胱癌で亡くなられた。享年、52歳であった。

 1992年9月、西日本新聞記者の吉田昭一郎さんと用事があって出かけていたとき、ドレーパー氏死亡の知らせが入った。アメリカの中島岳人さんからの国際電話だった。

 吉田さんは、1991年9月、1か月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレーに社内研修で行き、帰国後、1992年2月、「障害者 自立のまち 米国バークレーを訪ねて」という記事を、20回連載で執筆した。

 中島さんは東京生まれ。1978年、留学先のカリフォルニア州立大ヘイワード校で会計学を学んでいた時、車の事故で脊髄損傷を負った。卒業後、帰国せずに公務員試験に合格し、バークレー市があるアラメダ郡の固定資産税課オフィスで、税の会計処理を担当している。中島さんはCILバークレーの理事であり、中島さんにとって氏は父親がわりの存在だった。

 著者は、C5レベルの頚髄損傷者である。1973年7月、高校2年の時、ラグビーの試合中の事故により受傷した。著者は、ドレーパー氏と米国で何度かお会いし、氏の経歴、CILの歴史などに関し詳しい話しをうかがったことがある。

 現在、日本国内でも、CIL類似の団体がいくつかできつつあり、JIL(全国自立生活センター連絡協議会)も設立され、米国のCIL創生期に似た状況と思われるなか、ドレーパー氏がめざした方向性は参考になるのではないか、と考えられる。そこで、著者の能力の許す限り、氏の1948年の受傷、72年のCIL設立と理事長就任、75年から81年までの氏のCIL所長時代、85年から86年の著者の米国留学時代、91年の21世紀に向けての自立生活カンファレンスでの氏の名誉議長時代の足跡をたどり、1992年の日本と比較しながら、氏の人となり、言葉思想を浮き彫りにし、氏の米国での重度障害者の自立生活運動における業績を検討してみたい、と思う。

 ただ、米国でのことということと、1958年の受傷以来34年間、72年のCIL設立以来21年間という長い年月ということもあり、実態を正確に把握することは容易ではなかった。また著者の能力から、論述に不正確な点も多々あることと考えている。しかし1973年の受傷以来、頚髄損傷者をモデルとする重度四肢まひ者の「介助」と「就労」の問題を考え続けて来た1人としての率直な声である。多くのご批判、ご助言をたまわれば幸いである。


2.著者の出会ったフィル・ドレーパー氏

 (1)1985・6年のドレーパー氏


Center for Independent Living Berkeleyで。
フィル・ドレーパー氏は、中央。

 著者は、米国の介助サービス事業の調査研究を主目的として、1985年11月から約11カ月間、潟~スタードーナツの奨学金を得て、(財)日本リハビリテーション協会の協力で留学生活を行なった。当時、ドレーパー氏は、CILのディベロップ部門のスタッフとして、基金設立や寄付金を募る仕事をしていた。長身で、もの穏やかに話しをする、落ち着いた感じの人で、電動車いす利用者であった。

 当時の留学で、著者が具体的な研究のテーマとしたのは、@介助者費用の根拠と基準、A障害者と介助者の関係で生じる緊急事態管理、B米国社会における重度身体障害者の実態の3点であったが、それらの課題に加えて、著者自身が米国の在宅介助サービスを実際に利用し、重度身体障害者がどこまで自由に生きられるかという課題を、著者自ら実験することも、当時の米国留学の重要な目的であった。

 1986年1月、著者は、渡米約2カ月経過後、初めての一人暮しや米国生活の緊張感など疲労が原因か、突然、排尿が著しく困難になった。このような障害の発生は受傷当時を除けば初めての経験だった。この時期、著者は、ドレーパー氏と、障害者と介助者との関係についてミーティングしたが、氏は、

「感覚のない腹部を押すことは決して悪いことではない。パンチあるいは激しく押すことは悪い。咳をするとき押してもらうのと同じ考えだ。どれくらい強く、どれくらい長く押すか、ストップと言えば良い。

 この場合、@古い介助者を解雇して新しい介助者を雇用する、A緊急時介助者、別の介助者、友人を準備する、B現在の介助者を訓練あるいは教える、という三つの選択肢がある。

 賃金を支払うことで障害者は権利を持つ。障害者は強くなければならない。しかし、それを実現するためには、何人かの支援介助者、電話による介助者、友人、親戚、あるいは家族が、緊急時に対して必要だ」

 という助言をしてくれた。

 またその後も、自立生活センターバークレーで、ドレーパー氏は、

「具合いはどうだ。新しい介助者は腹を押してくれるか。本や資料についても協力してやるから、正確な名前を知らせてくれ」

 と言ってくれた。

 氏は、非常に暖かい人柄の人だった。


 (2)1991年のフィル・ドレーパー氏

 著者が、最後にドレーパー氏に会ったのは、1991年10月、アメリカ合衆国カリフォルニア州オークランド市のバークレー・オークランドで開催された「21世紀に向けての自立生活カンファレンス」においてであった。

 当時、著者は、トヨタ財団の助成による調査研究「高度技術社会の進展と外傷性重度四肢まひ者の生産活動参加過程に関する日米比較研究およびハイテクの活用による新しい可能性に関する研究」のための実態調査を兼ねて、サンフランシスコのベイエリアに滞在していた。

 ドレーパー氏は、名誉議長として参加していた。氏は元気で、積極的に活動していた。そして、多くの人々に慕われていた。


 3.ドレーパー氏の経歴とCILの歴史

 ドレーパー氏は、1940年6月23日に、ロサンゼルスで生まれた。1958年、17歳のとき、間もなく高校を卒業するというとき、自動車の交通事故で第4・5頚髄を損傷し、重度四肢まひ者となった。

 1970年、褥創の手術のため、氏はバークレーにやってきて、バークレー市の病院で手術を受けた。退院後、バークレー市に居住した。

 1970年、重度障害をもつ学生であるエド・ロバーツ氏たちが、カリフォルニア州立大学バークレー分校(以下、UCB)で、連邦政府教育部門からの補助金によって、身体障害学生プログラム(DSP)を作った。

 ドレーパー氏は、バークレーで、DSP、自立生活運動について知り、その活動に参加するようになった。

 この当時の状況を、1992年1月の著者とのインタビューで、氏は次のように話した。

 「当時、たいていの重度障害者は、ナーシングホームか、病院の中か、あるいは家族と生活していた。1968年から72年まで、学生グループは、UCBのキャンパスでのみ、サービスを提供していた。機会の平等という観点からも、学生以外の街で生活している障害を持つ人々へのサービス提供の必要性を感じていた」

 1972年4月、9人の設立者たちが自立生活運動の拠点・CILバークレーを、非営利の法人として設立した。そして、肢体、視覚、聴覚、精神…あらゆる障害者を対象に、実際に社会に参加するのに必要な自立支援サービスを提供し始めた。ピアカウンセリング、職業訓練及び相談、住宅及び介助者紹介、セックスカウンセリング、法的援助、交通、自立生活技能訓練、健康管理、レクリエーションプログラムなどである。

 創立期の9人のメンバーの哲学は、@障害者のニーズを最も良く知る者は障害者自身である、Aこれらのニーズを満たすために包括的なプログラムが緊急に必要である、B障害者は地域社会に出ていかなければならない、ということであった。

 1972年、ドレーパー氏は、バークレーCILの初代理事長に就任した。

 彼は、組織化の功労者であった。CIL設立の1年半前から、週1回の連絡会議を続け、理事会や、CILの組織について、弁護士と相談し、その原型を形づくった。

 1972年4月に、CILが正式に設立されたとき、緊急の課題は、資金不足であった。同年7月、連邦政府のリハビリテーションサービス局が、5万ドルの補助金を交付した。これによって、他の財源が確保されるまでの間、何とか乗りきれるようになった。

 1975年、氏は、初代CIL所長エド・ロバーツ氏のカリフォルニア州リハビリテーション局局長への転出にともない、2代目の所長に就任した。

 1977年、フィル・ドレーパー氏は、シャロンさんと結婚した。

 1978年 、米国では、リハビリテーション法改正により、PL(公法)95602第7章として、初めて連邦政府が自立生活センターに補助金を出し始めた。79会計年度に8千万ドル、80年は1億5千万ドルの予算を認められた。その後、全米にCILが誕生し、現在、300カ所を超すと言われている。

 CILバークレーは、1977から81年のカーター政権の時代、年間200万ドルの行政補助を得、職員が200人いたこともあった。しかし、続く1981年から89年のレーガン政権時代に入ると、補助金は大幅に削減されて破産状態に陥った。職員は10人余りになり、所有地とビルを売却し、一部のサービス部門を切り離してしのいだ。

 1986年当時、ドレーパー氏は、ディベロップ部門のスタッフとして、著者ととの数回にわたるインタビューにおいて、とくに強調されていたのは次の点であった。

「CILの運営にとって重要なことは、どれだけ資金を集めることができるか。細かいことはいろいろあるが、最終的には私たち障害者自身も含んだ人々の意識態度を変える必要がある。そのためには、もっと多くの人が地域で生活し、より多くの目に見える存在となりの、社会的に統合されることが必要である。」

 ドレーパー氏は、クリスチャンであり、温厚な人であった。彼の信条は、「人ががっかりしたときに、その人をけっとばすもんじゃない」というものであった。


4.むすび

 1972年設立のCILバークレーは、障害者の自立生活運動を生み、世界中に広がった自立生活センターのモデルとなった。そして1993年の現在でも、CILが障害をもつ人々が自立生活を行なうことを可能にするこれらの基本的な中核のサービスたちを、提供し続けている。

 日本においても、重度障害者の「生活の質」を重視した自立生活を実現し、支えるためには、障害をもつ人々が管理、運営する自立生活センターの創設とならんで、重度の障害をもつ人々が自立生活を行なうことを可能にするサービスを提供し続けていける、継続的で安定的な基盤を日本社会に築いていくことであると考えられる。



参考文献:

@ソニー・クラインフィールド、「バークレーでの自立宣言」、『障害者の自立生活』、pp.190-205、

Aエドワ-ド V.ロバーツ、「慈善から統合へ」、『障害者の自立生活』、128頁、

Bガベン・デジョング、「自立生活:社会運動にはじまり分析規範となるまで」、『障害者の自立生活』、pp.158-189、他

1993年03月、
フィル・ドレーパー氏の死、
『障害者の福祉』93年3月号、
pp.33-35
日本障害者リハビリテーション協会


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