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ニューヨーク入院ツアー
井出 一史




 6月18日、ノースウェスト航空にて一路デトロイトに向かった。同航空会社の利用はこれが3回目。運賃が比較的安いのとハンディキャップの対応がフレキシブルなのが理由。デトロイト空港は前回ニューヨークを訪れたときに、大雪でケネディ空港が閉鎖されて強制着陸したいやな思い出がある。今回の目的地はニューヨークだが、水量の多い季節なのでデトロイトからトロント経由でナイアガラを観ていくことにした。トロントからナイアガラまではバスの移動となり、滝の近くのホテルに着いたのは18日の夜半だった。国際線を2回、そしてバスを乗り継いでの18時間の旅はいささか疲れた。翌日はナイアガラを船で観光したが、さすが全てバリアフリーで不自由は何も感じなかった。しかし、ナイアガラは大瀑布と言うだけの迫力はあるものの観光開発が進みすぎて、なにかテーマパークのような印象すら感じた。以前、西部のヨセミテの滝に行ったことがあるが、そこは大自然とバリアフリーが見事に両立していたことを思い出し、少し残念に思った。

 19日、バスでバッファロー空港に向かい、国内線でニューヨークのラガーディア空港に向かった。ニューヨークのホテルはマンハッタンの中心街から少し離れた安いホテルを予約したが、ハンディキャップルームは何の支障もない。ホテルで甥が出迎えてくれ、そのままエンパイア・ステイト・ビルに行きマンハッタンの摩天楼を観ることにした。以前に登った世界貿易ビルもそうだつたが、入場料は無料のうえ長蛇の列もフリーパス。逆差別の視線を感じないでもなかった。



 20日は午前中に路線バスでメトロポリタン・ミュージアムに行ったが、バスのリフトから落ちそうになり冷や汗をかいた。午後は事前にチケット予約をしてあったニューヨーク・メッツの試合観戦をした。ちょうど野茂が登板したが負けた。ここでも3階外野席の値段でホームベース裏で観ることができた。夜はサークルラインという遊覧船に乗りマンハッタンの夜景を水上から観た。自由の女神が赤いトーチを持ち青く浮き上がっていたのが印象的だった。



 さて、ハプニングは明くる朝21日に起こった、というか発覚した。着替えをしようとすると左足の先を中心に多量の浸出液がシーツを汚していたのだ。驚いて靴下を脱いでみると、小指が赤く腫れ上がり先端は紫色になっていた。すぐに保険会社に電話し医者の往診を依頼すると、30分ほどで少し日本語が分かる中年の医者がやって来た。そして私の足を見ると、「洗ってあげるから病院に来なさい」と言って住所を書いたメモを置いて帰っていった。この日はフィラデルフィアに行く予定だったが、医療施設も見学したいと思っていたので、これは好都合と思いすぐ出かけた。病院はセント・ルーカス・ルーズベルト・ホスピタル・センターというでかい総合病院で徒歩でもほんの数分のところにあった。日曜日ということもあり、かなり待たされ救急外来で受診した。処置が終われば帰れると思って いたら、なんと入院をすすめられた。「それは嫌だ」と言うと「指を切り落とすことになってもいいのか」と叱られ、ことの重大さを知りしぶしぶ承諾した。病名は骨髄炎と診断され、骨まで菌がまわってなければ1週間の入院と言われた。それでも私のショックは大きい。診察は期待していたが入院までは予想していなかったからだ。「とんでもないことになってしまった。ああどうしよう」と思ってもどうしようもない。



 やがて病室にストレッチャーで運ばれ、早速ナースの問診を受けた。問診では甥の通訳で自分のハンディとニーズについて事細かに伝 えた。その日は排便の日だったが、私はベッド上で点滴に 縛られたままなのでナースに頼むしかない。そして夜、ナースコールを押して排便を要求した。日本と違ってナースは医療行為が主で、ナーシング・アテンダント(准看と看護助士の間のようなもの)が看護婦の倍くらいいて、彼女たちが患者の世話をする。さっそく黒人のアテンダントがおまるを持ってきた。そして尻の下に入れると、「さあ、がんばれ」と言って行ってしまった。「おいおい、俺は横を向いてするんだ」と言っても「上を向いてするもんだ」と聞き入れてくれない。一応がんばってみたが出るのは屁ばかり。話にならないので「終わりにする」と言うと「何も出てないじゃないか」と言う。「でも終わりだ」と言って返した。私に作戦があったからだ。消灯時間が来て、私は点滴が漏れようとかまわず自分で横を向き、持ってきた手作りのレシカルボン(座薬)挿入器と鏡を取り出して自分で排便を始めたのだ。おまるは当然自分でできないので、シーツの上に出してしまうことにした。そうするしかなかったから仕方がない。部屋は悪臭が充満し、同室の爺さんが気の毒だったが無視することにした。そしてすっかり全部出し終えるとナースコールを押し、「もらしちゃった」と言うと今度 は夜勤のナースがやって来て、私を見るなり発した言葉が「Oh my god!」だった。しかし私にしてみれば必死だったのだ。翌朝、下半身がなにかゴソゴソしてると思ったら、いつのまにかパンパースをされていた。また漏らされては困ると思ったのだろう。好奇心半分と不安感半分で決心した入院生活も、1日目にしてこんなにも苦労するとは思わなかった。問診で頸損と私の介助法について伝えたはずだがアテンダントまで全て伝わってなく、意志の疎通に大変苦労した。

 ここで病院の医療体制についてふれてみたい。総合病院で規模は30階建てくらい。ベッド数はおそらく2000床くらいだろう。警備は大変厳重で一般は入ることができないし、患者も病棟から勝手に出ることはできない。職員はドクターから掃除婦まで必ずIDカードをぶら下げている。ニューヨークは移民が多いためスタッフも国際色豊かである。しかしナースとアテンダントは中南米系とフィリピーナ、チャイニーズが多かった。最初に驚いたのは何でも使い捨て主義であることだ。病室の入り口にティッシュのような箱があり、何かと思ったら入室の度にスタッフはそこからゴム手袋を出し手にはめるのである。そして出る度に横のゴミ箱に捨てていくのだ。感染予防のためだろう。それも患者のためではなく自分のためにだと思う。そして、これは患者のためだろうが体温計は口に入れる部分が使い捨て。プラスチックのおまるや膿盆も洗えば使えそうなのに使い捨て。食器に関しては全て使い捨てである。医療設備はさすがに先進的。検査室などもやたらコンピュータを駆使した最先端の医療機器が整然と並んでいた。病室の各ベッドには一般的な医療設備に加え、電話、テレビ、ラジオが集中スイッチとともに備え付いている。そしてシャワー室とトイレもだ。とにかくハード面の完備に驚いた反面、大量消費に疑問を感じ、そして大量のゴミ対策にまで余計な心配をしてしまった。

 病院の食事はやたらと多く、また食文化の違いをほとほと見せつけられた。メニューはだいたい朝はコーヒー、ジュース、ミルク、シリアル(コーンフレイク)、オートミール、パン、ラザニアやフレンチトーストなど。昼からビーフシチューやステーキなども出る。味付けは貧困でだいたいトマトベースか塩コショウである。掃除夫が「それだけじゃ少ないだろう」と言っていたがとんでもない。

 さて、3日目に精密検査を受けた結果、最悪の事態となった。細菌はしっかりと骨の中心まで浸透していたのだ。そしてドクターの判断は最低6週間の入院を必要とし、徹底的にバンコマイシン(抗生剤)を投与し続けなければならないというものだった。しかし、私以上に困ったのは保険会社だっただろう。何故ならなんと1日10万円以上もかかる入院費と超高額医療費の負担だ。

 入院して1週間。少しずつ入院生活にも慣れてきて、車いすの乗車許可もおり、ナースとのコミュニケーションも楽しくなってきた頃、私はカメラを持ってロボット探しに出かけた。病棟内をロボットが徘徊するのである。彼はエレベーターにも一人で乗りどこへでも行く。掃除夫に聞いたら、どうも書類を配達しているらしい。そして居場所を聞いたら「14階で見た」と言うので私はナースの目を盗んでエレベーターに乗り込んだ。午後の病院の廊下は人気も少なく静かだ。だからロボットが来るとモーターの音ですぐ解る。しかし結局、地下から25階まで捜索したがカメラに納めることができなかった上にナースからこっぴどく叱られた。いい土産になると思ったのに本当に残念だった。

 29日、にわかに日本の病院へ転院する話がドクターから出た。水面下で保険会社も動いていたのだろう。それは日本の医療費の方が 安いからだ。転院先は静岡赤十字病院と決まり、条件はナースが付き沿い機内で点滴を打つこと。そして成田からは専用車両で移送することであった。さらにドクターの指示でシートはファ
ーストクラスと聞いて驚いた。ちなみに後でチケットを見たらなんと5000ドルとなっていて更に驚いた。ナースとも仲良くなったせいか帰国が現実的になってきたら今度はなにか急に寂しくなってきた。

 30日、アトランタから派遣されてきたナースにつづき、アンビュランスがやってきた。ストレッチャーに乗せられ搬出口に向かったら、銃弾を受け血だらけになったポリスと自動小銃を持ったポリスたちと行き違った。日本では見ない光景に改めてアメリカのピストル社会を実感した。



 渋滞で1時間以上もかかりケネディ空港に着いた。出国手続きなどは予想以上に簡単で、約30分後にはリクライニングシートに座らされていた。離陸前にアンビュランスからしっけいしてきた尿瓶に尿を取り床に置いておいたら、離陸と同時に床は滑り台と化して尿瓶はずっと後ろの方に滑って行ってしまい、「しまった」と思っていたら、やはりスチュワーデスに優しく注意された。ジャンボのファーストクラスは2階部分なので視点が高く気分がいい。たった30席に5人ものスチュワーデスがいてサービスは満点。シートはエコノミーの1.5倍くらいあり床屋の椅子みたいに寝れるし、一人一人好きな映画が見られる。食事もコットンのテーブルクロスに陶器の皿、そして高級ステーキ。世界の銘酒は飲み放題だし、果物やクッキー、アイスクリームなど次から次へと出てくる。まるで空飛ぶ高級クラブか高級レストランである。

 快適な空の旅を終え成田に到着すると既に移送車両が待機していて、高速道路を一路静岡に向かった。車窓に写る見慣れた風景を眺めていたら、大した期間ではないのに妙に懐かしく、なにか夢の世界から現実に戻るような安堵感を覚えた。

 日赤のドクターへの引継が終わりナースは帰っていき、私は病室へ移動した。そこはルーズベルト病院ではなく静岡赤十字病院。ナースに私のニーズは全て伝わるし、看護姿勢も非常に献身的だ。そして何よりご飯とみそ汁の食事が涙が出るほどおいしかつた。やはり日本人が入院するなら日本の病院が一番である。思いの外回復が早く7月11日に退院することができたが、体調が戻らず本調子が出るまでに一月くらいかかった。今回はニューヨークにわざわざ入院しに行ったようなものだったが、なかなか体験できない貴重な旅となった。

 最後に海外旅行には絶対旅行保険に加入することを是非お勧めしたい。ちなみに私は最低のプランである7000円の保険料で、医療費や救援費を含めなんと約540万円の費用負担から逃れることができたのである。