藤田 恵功 1967年 受傷 頸髄損傷 3,4,5番 不完全麻痺 左手を
辛うじて動かすことが可能。左手でトラックボールを動かすことが可能。電動車椅子
はジョイステックコントロールを50gの力で動かせるようにして左手で操作をして
いるが10%の登り道では手を前に押し出せない。寝ているとき、曲げた左手が伸ば
せない。右手は蚊がとまっても判るが全く動かない。
頸髄損傷になって31年、もう半年で32年です
長かったような気もするが、あっという間だったという感が強い。
怪我をした1967年頃はまだ障害者は私どもの地方では大変珍しく、殆ど見かけた
ことがありませんでした。(居ないのでは無くて、家に閉じこもっていたので見かけ
なかった)
私の家のすぐ近くにポリオの方が居られたのですが軽い方でしたし賢い方でしたので
障害を意識したことはありませんでした。
それがいきなり重度障害者になりましたので人生が終わったと思いました(最初のう
ちは直ると思っていた。医者もそう云って誤まかした)
まず、一番苦しかったのは仕事が出来なくなったことです。
その時は、まだ、19歳でしたが一生懸命仕事をして人に認められたい、お金持ちに
なりたい、仕事ができることが男の価値と考えるような時代でしたので、当然、私も
そういった価値観をもっていましたので、筆舌に現し難いもの凄いショックでした。
(土佐弁では「げに誠、ことうたぜよ。」)。
毎日、毎日が仕事、たまの休みにバイクに乗ること、音楽ゴッコ(兄だけが才能に
恵まれて、私は恵まれなかった。)を少しすることで時間がなくなっていました。
今考えると滑稽ですが、仕事ができない=価値のない人間=誰にも取り合ってもらえ
ない人と考えた時間が6年位ありました。
それが入院生活を続けていく中で私と全く違う考えを持つ人たちと付き合うようにな
り、人の価値はこつこつと努力をすること、人を思いやれることにと変わっていくこ
とで少しづつ楽になっていきました。
そんなことを云って置きながらも、私自身は人を思いやるようなことも、努力をする
ことも何にもしていません。でも、少しでも人を思いやること、一人はみんなの為
に、みんなは一人の為にと今も思い続けてますがなかなか役立つ人間には熟れませ
ん。この時期がなければ今も障害のあることを卑下する自分がいるかも知れません。
(1998/4/12、電子メール)
(1998/3/17)