日誌 (2004年)
中島虎彦






★★★  日誌 (2004年)  ★★★ 
◆◆◆◆◆ 日誌 ◆◆◆◆◆                                                                           
■第三百二十五回 (2004年11月20日)

 昨日の朝日新聞土曜版「be」の「フロントランナー」で
ライブドア社長の堀江貴文氏(福岡県生まれ、32歳、東大中退)
がこんな放言をしていた。

 ☆「カネで買えないものなどあるわけない」

 「世の中、お金で買えないものはないし、おカネの前ではすべて平等なんです。
いくら貧乏でも、才能があれば、それをおカネに換えられるし、頑張った分だけ報われる。
頭がいいとか、運動能力が高いとか、芸術的な才能があるとかって、
絶対的な基準で比較はできない。でも、稼ぐおカネで推し量ることはできるんです。
 『おカネでは買えない価値がある』なんていうのは、自分が努力しないことに対する逃げ、
自分の才能が足りないことを認めたくない逃げですよ。僕は、自分に能力がないんだったら、
努力するか、あきらめるか、はっきりしろよって言いたいですね」
 
 「おカネの前ではすべて平等」というのはある意味で痛快だ。
かつてフランスのブランド店に日本女性のツアー客が押し寄せ、
バッグなどをあさっていた頃、店員が猿にでも投げ与えるように
横柄に渡していたという話(本当かどうか)があった。
 そんな屈辱をバネにして日本人はがむしゃらに頑張ってきた。
そしてブランド店の支店を東京に出させるまでになった。
彼らはいわばジャパンマネーの前にプライドを捨てて屈した格好となり、
日本人はひそかに「ザマーミロ」とほくそ笑んでいたことだろう。
そんな中から上のような台詞も飛び出してくるのだろう。
 とはいえ、そうして得られた「平等」ではあったが、 
いずれろくなものでなかったことは最近の世相をみれば明らかだ。
 それにお金で買えないものは、もちろんある。
たとえば頸髄損傷の特効薬とか、売り物にならぬがかけがえのない短歌とか。
 しかしまああえて挑発的な物言いをして
宣伝効果を狙っているのだろう。
これにカッカするようでは氏の思うツボというもの。
 大人は苦笑いして聞き流せるが、
子どもの中には真に受ける者もあるだろうから、それが心配だ。

★きょうの短歌
またしても感謝の念を如才なく先に言われてもごついている  東風虎









■第三百二十四回 (2004年11月18日)

 新聞・雑誌の読者投稿欄などでよく見かける論調に
「子どもたちは塾通いで忙しく・・・・」というのがある。
塾が諸悪の根源であるという決めつけを感じる。
 私も十数年英数塾を営んでいたので、忸怩たる思いである。
確かに子どもたちの放課後を縛っている一面は否定できない。
そのため数年前からやめていて、無年金者には収入減がこたえる。
 しかし、子どもたちの様子をつぶさに観察してみると、
放課後を縛っているのはその他に部活や習い事や家庭教師やTVゲーム、
地区の催しやボランティアなどなど、いやはや忙しい。
 とりわけわが村では部活が強制参加で、日曜休みもないのが多い。
私たちの頃のような「帰宅部」の『物思い』は選択の余地もない。
これでは彼らが聞こえぬ悲鳴を上げるのも無理はない。
 私は小心者なので馬鹿正直に(?)反省してやめたが、
(というより不景気で生徒が減って自然消滅したのだが)
ほかの業者さんたちはどう考えているのだろう。
 あるいは政治家や官僚や企業家の方たちは、
これをどう考えられるのだろう。

★きょうの短歌
首相よりありがたかったお言葉はなっちゃったもんしょうがねえだろ  東風虎











■第三百二十三回 (2004年11月15日)

 日朝実務者会議で北朝鮮から示された拉致者の資料類は、
またしても変り映えしないもので、裏切られた失望感が広がっている。
本当にあの国(金主席)には誠実さのかけらもないのだろうか。
 交渉に当たる政府関係者たちは気の毒なことだが、
拉致被害家族たちにしてみれば「拉致は国際テロなのだから、
もっと毅然と責任を追求してほしい」という憤懣があるだろう。
 ところがそれを前面に押し立てると、向こうは心得たもので、
「朝鮮併合から大東亜戦争にかけて日本軍も同じような事をしたではないか、
それについてはどう責任を取るのだ!?」
 と何とかの一つ覚えのように切り返される。
(戦争中の事蹟の真偽については今もって議論があるが)
思い当たるところがあるからか、日本の交渉者たちは二の句がつげず、
すごすごと引き上げて来ざるをえなかった。(というイメージがある)
そのふがいなさにどれだけの国民が臍を噛んできたことだろう。
 ことほどさように過去の戦争における横暴は、
後世の国民の矜持と国益を大きく損なうのであるから、
当時の軍人や政治家や財閥やその取り巻き連中やシンパは、
よくよくその責を自覚するべき時ではないかと思われる。
 それがわかっているのであろうか。
そうとは思えない出来事が続いている。

★きょうの短歌
こたつ鍋なんか嫌いさ秋風にポテトチップス400キロカロリー  東風虎













■第三百二十二回 (2004年11月13日)

 町の文化祭に初めて短歌(短冊)を出品した。
文化協会の伊東求さん(歌人)から勧められていたからだ。
 体育館内の展示会場に下見にいくと、案の定
ほかの方たちの作品群とははっきり傾向が違っていて、  
いわゆる「浮いた」状態であった。でもまあそれを承知の上だったし、
少しは異端児も混じっていたほうが面白いだろう。
 その帰り、寺辺田のあたりで久しぶりにイタチを見かけた。
この山里でもさすがに珍しくなった。
明るい茶色の毛並みがうっとりするくらい艶やかだ。
分限者たちが首に巻きたくなるのも無理はない。
しかしカワウソのほうはもう全く見かけない。
 何かいいことでもあるかなと思っていたが、
そのころからまた過緊張反射による冷や汗が止まらなくなった。
とりわけ電動車いすに座ったときがひどい。
そのためいつも頭にタオルをかぶっている。
ますます風采のあがらぬことおびただしい。
 ここ数年、冬が近くなると始まるのである。
原因はよくわからない。治療法もない。
このひと冬を付き合ってゆくしかない。

★きょうの(文化祭出品)短歌
元はといえば裸んぼうで泣きながら生まれ出てきた私じゃないか  東風虎












■第三百二十一回 (2004年11月12日)

 BS放送で映画「AIKI」(天願大介監督、加藤晴彦主演、2002年)を観た。

事故で脊髄損傷になった青年(加藤)が合気道を通じて更生してゆくという話。
障害者モノとしてはわりあい観やすかった。
 しばらくは事実を受け入れきれずあれこれと彷徨するが、
たまらなくなって同じ病室の先輩患者(火野正平)に、
「俺はどうしたらいいんだ!?」と泣いて訴えると、
「なっちゃったもんはしょうがねえだろが!」と突き放される。
この台詞ゆえに観やすかったのである。
 実際のところ「なっちゃったもんはしょうがねえだろ」
とでも思わなければやってられない理不尽が多すぎる。
ブッシュ再選にしたってそうである。
 それにしても、ともさかりえのベッドシーンのへたくそなこと(笑い)
そして日本の商業映画で障害者が取り上げられるのは
脊髄損傷あたりが限界という事情も相変わらずのようだ。

★きょうの短歌
絶滅の先割れスプーンこの日ごろコンビニ弁当で生き延びている   東風虎













■第三百二十回 (2004年11月7日)

 ブッシュ再選後、初めての「とろうのおの集」更新となる。

 中学高校のころ夏休みになると父に連れられて杉山の下草払いに行った。
急斜面とカンカン照りと汗と蜂とまむしとでことのほか苦役だった。
それでもお昼になり弁当を食べ軽く昼寝などすると生き返った。
 さてそれから一時になると仕事の再開である。
またぞろ急斜面に取りついてゆくときの重たい足取りといったら!
ちょうどあの時のような気分である。

     「とろうのおの集」(13)

台風に蹂躙される列島をかの国はどう見ているのだろう
台風で亡くなるお一人お二人に私がならぬわけを知りたい
台風で都市の汚わいや政治家や官僚たちも蹴散らされるか
この夏は台風のうたどっさりと詠ませていただきました
蟻塚のようだと言われきょうもまたホームページを掘り進めるよ

ボランティアセックスとセックスボランティア月とスッポンくらい違うんぞ

ウォシュレットそれで初めてオナニーを覚えたという小山内美智子
青春のフォーク世代とはすなわち先割れスプーン世代でもある

ふるさとで同人雑誌売りさばくピエロのような電動車いす
自然薯のつるにムカゴが太るころ感謝の念は詩歌にしがたい          
大川にポイってなもん猫の子にかぎらずご用心ご用心
いわし雲キンモクセイにみちおしえ電動車いすグランドゴルフ
落馬してもスーパーマンであり続けねばならないということはない
味噌汁をスプーンですくうストローで吸うよりはまだ美味しそうでしょ
ラベルでしか通用しない作家にはなるなと言った陶芸作家
コスモスの白とピンクを嗅ぎくらべる物好きはほかに見当たらない
溝そばが好きで継子の尻ぬぐいなんかじゃありませんってば
ボランティア津波となって若者ら新潟へ押し寄せてくれよう

サマワなどすぐ引き払い新潟へ向かえと言いたそうな顔々
機械オンチ事なかれ主義ひより見の私が更新しているのだから
テレビから島倉千代子の淋しさがそくそくと伝わってくる秋

赤とんぼコントローラに止まられて身動きとれぬ中年をとこ
えんがちょの指もできない頸損で逃げも隠れもしない晩秋
尿コップ代わりとはいえ空き缶の一個や二個をひろって帰る










■第三百十九回 (2004年11月3日)

 アメリカ大統領選でブッシュがケリーを破り再選されたようだ。
「過ちを認めて世界からの尊敬を取り戻そう」という主張より
「テロリストを徹底的にやっつけよう」という主張が受け入れられたわけだ。
単純なアメリカ人らしい結果と言えよう。
恐怖心はすべての良識をマヒさせてしまう。
 小泉首相は本当に運の強い人だ。
これでまた四年間の腰巾着生活がつづく。
世界の紛争にも一段と拍車がかるだろう。
自衛隊もどうなるかわからない。
 私はひきつづき「とろうのおの集」を更新しなければなるまい。
奥歯をぐっと噛みしめて堪えていこう。
30年いや50年堪えてきたのだからできないわけがない。

★きょうの短歌
赤とんぼコントローラーに止まられて身動きとれぬ中年をとこ  東風虎













■第三百十八回 (2004年10月30日)

 昨年から配信してもらっている「非戦つうしん」
(毛利正道主催、http://www1.ocn.ne.jp/~mourima/)
というメルマガに、小千谷市でボランティア活動をしている人から、
「大人用紙おむつ、パンティーライナー、貼るカイロ」
などが不足しているという投稿が載っていた。
 また報道陣が避難所の玄関前に50人も陣取っているので、
救援物質を乗せたトラックが着いても、遠くに停めねばならず、
ボラたちが必死に行き来して運び入れても手伝いもしないという。
 政治家が視察にきてトイレを所望されたので、仮設トイレに案内すると、
「私に仮設トイレでやれというのかね!」と怒り出したという。
信じられないような話だが、それが日本の現実だ。
 そんな中でも確実に若者たちのボランティアは増えている。
私のような者たちの代わりに駆けつけてくれているのだ。
ありがたいことだ。

★きょうの短歌
台風で都市の汚わいの政治家や官僚たちも蹴散らされよ  東風虎











■第三百十七回 (2004年10月29日)

 28日の園遊会で、米長邦雄棋士(東京都教育委員、61歳)が、
「日本中の学校で国旗を掲げ、国家を斉唱させることが私の仕事でございます」
と話しかけたら、陛下が
「やはり、強制になるということではないことが望ましい」
と述べられたという。 
 ちょうど前回、昭和天皇の率直な謝罪の念にふれたばかりだが、
今度もまた天皇そのものは思いのほか柔軟であることがわかる。
 それなのにまわりの取り巻き連中が硬直していては、
陛下の「みこころ」を踏みにじることになる。
 だいたい「国旗・国歌法」制定時に、首相も有馬文相も
「強制しようとするものではない」とはっきり答弁しているのだから、
東京都で処分者を出したなどという話は違法で論外なのである。
 米長などたかが一地方の教育委員が「日本中の・・・・」などと
何を高ぶった世迷言をぬかしているのであろうか。
  
★きょうの短歌
テレビから島倉千代子の淋しさがそくそくと伝わってくる秋   東風虎











■第三百十六回 (2004年10月28日)

 「昭和天皇『謝罪詔勅草稿』の発見」(加藤恭子著、文芸春秋、2003年、1600)
という本によると、最近下記のような草稿が発見されたそうである。


 「朕、即位以来滋二二十有余年、夙夜祖宗ト萬姓ト二背カンコトヲ恐レ、自ラ之レ勉メタレドモ、勢ノ趨ク所能ク支フルナク、先二善隣ノ誼ヲ失ヒ延テ事ヲ列強ト構ヘ遂二悲痛ナル敗戦二終リ、惨苛今日ノ甚シキニ至ル。屍ヲ戦場二暴シ、命ヲ職域二致シタルモノ算ナク、思フテ其人及遺族二及ブ時マコト二仲怛ノ情禁ズル二能ハズ。戦傷ヲ負ヒ戦災ヲ被リ或ハ身ヲ異域二留メラレ、産ヲ外地二失ヒタルモノ亦数フベカラズ、剰ヘ一般産業ノ不振、諸価ノ昂謄、衣食住ノ窮迫等二ヨル億兆塗炭ノ困苦ハ誠二國下未曾有ノ災オウトイフベク、静二之ヲ念フ時憂心灼クガ如シ。朕ノ不徳ナル、深ク天下二愧ヅ。身九重二在ルモ自ラ安カラズ、心ヲ萬姓ノ上二置キ負荷ノ重キ二惑フ。(後半略)

 当時、戦争責任と謝罪と退位の問題に頭を悩ませていた昭和天皇の胸のうちを率直に吐露したもので、
もしこれが発表されていたら昭和の戦後史は大きく変わっていただろう、と作者は言っている。
 これは昭和23年前後、宮内府長官の田島道治が陛下の日頃の心中を受けて下書きし、
昭和天皇からは「八鉱一宇的ではないか」と言われたが承諾を得ていた。
 しかし側近や吉田茂首相らから「講和条約も締結され国際社会に復帰しようというとき、
『愧ヅ』とまでいう表現はいかがなものか」などと注文がつけられ、
結局発表されることはなかったという。

 確かに戦争で国民に塗炭の苦しみを味わわせたのは「自らの不徳の致すところ」
と素直に謝罪してあるのは新鮮だが、あくまで日本国民に対しての謝罪であり、
諸外国に対してのものではないので、驚くほどのことではない。
 
★きょうの古い短歌
靖国には何にもいない南洋のジャングルに今も転がったまま   東風虎








■第三百十五回 (2004年10月26日)

 23日夕刻の新潟中越地震の惨状が次第に明らかになりつつあるが、
今回もお年寄りや子どもなど弱い立場の者が多く被害に遭っていた。
また避難所生活などでは障害者の難儀がことのほか案じられる。
 新潟(十日町市)にはメル友の山下多恵子さんがおられるのでなおさら心配だ。
今年の日本エッセイストクラブ賞(?)の候補に上がった作家である。
その日のうちにお見舞いのメールを送ったが、
なにしろライフラインがずたずたに寸断されているので返信はない。
 遠く離れた電動車いすでは何の力にもなれないのが歯がゆい。
せめて義援物質なりともわずかに日赤へ送るばかりだ・・・・・。
 こんなふうにもどかしい思いをしている国民は多いだろうが、
しかし私はそれほど心配をしていない。というのも、
阪神淡路大震災の時のように若者たちが各地から澎湃として起ち上がり、
ボランティアの津波となって現地に駆けつけてくれるだろうと
強く確信しているからである。

 (なお山下多恵子さんはその後無事が確認されました)。

★きょうの短歌
ボランティア津波となって若者ら新潟へ駆けつけてくれよう  東風虎











■第三百十四回 (2004年10月25日)

 ある新聞の投稿欄に「ホタル族はやめて」というのが載っていた。
「ホタル族」とは家でタバコを吸わせてもらえないお父さんたちが、
団地やマンションの夜のベランダでポツリポツリと吸うさまをいう。
 その女性は夜中ベランダに出ると隣近所から紫煙が漂ってきて、
苦しくなるから窓を閉めなければならない。人の迷惑を考えてほしい、
と訴えているのだった。
 となるとお父さんたちはどこで吸えばいいのだろうか?
ロビーか集会所の喫煙コーナーまでいちいち出なければならないのか。
タバコ吸いたちの受難も来るところまで来た感じだなー、と気の毒になった。
 私も19歳のときから19年ほど吸っていたが、胃の具合が悪くなって、
12年前にやめてからは一本も吸っていない。あれほど依存していたくせに、
こんなにすっぱり止められるとは自分でも意外だった。
 自分の身体の具合には代えられないというところだろうが、
考えてみると、ちょっと現金な話だ。
それまで他人の身体の具合の悪さには無頓着だったのだから。 
 そういうわけで禁煙の流れは押しとどめようもないが、
だからといってホタル族まで槍玉に上げないでもよさそうなものだ、
それくらい大目に見てやる度量は持ちえないものだろうか、
という気もどこかでしている私だった。
 たとえばの話、同じ嗜好品ということでは女性の化粧品、
世の中にはあの匂いにもアレルギーを起こすからやめてほしい、
という男性だっているかもしれない。
 しかし女性たちには美しくあってほしいから我慢している、
と言われたら先の投稿者などどんな気持ちがするであろうか。

★きょうの短歌
ドメスチックバイオレンスに勝るとも劣らぬコスメチックバイオレンス  東風虎

 













■第三百十三回 (2004年10月22日
)

 アテネ五輪が終わってしばらくしてから、
某女性週刊誌が「女性の嫌いなスポーツ選手」というアンケートを
発表しているのを、新聞の下欄の広告面で見かけた。
 それによると一位が「ヤワラちゃん(谷亮子)」となっていて、
(二位か三位には例の卓球の愛ちゃん(福原愛)も入っていた)
私は思わず『ひょえーっ!?』と内心の声を上げた。
女性の敵は女性、などと言ったりするが、本当に厳しいなーと(笑い)。
 なにしろ五輪期間中はヤワラちゃんの金メダルに
どのTV局も手放しの賛辞を送っていたし、
街の声(女性)もおおむねそのようなものだった。
 のみならず国民栄誉賞も取り沙汰されている頃だったので、
その建前と本音のギャップは容赦のないものだった。
 おそらく五輪前のド派手な結婚式やファッションセンスが
同性たちの神経をひそかに逆撫でしていたのだろう。
わからないでもない。
 実をいえば私も彼女がインタビューの中で
「嬉しく思います」と答える口癖に「おまえさんは皇族か!?」
などと突っこみを入れたりしていたのである(笑い)。
 大体スポーツ選手のインタビューや私生活など蛇足そのもの。
彼らはただ競技場で輝いていてくれればそれで十分。
女性たちの眼は節穴ではないというところだろう。
 それにしても、あの新聞の週刊誌広告の見出しというやつ、
実際に買って読めばほとんどが拍子抜けするものばかりなのだが、
チラリと斜め読みするだけで強烈に脳裏に焼き付けられるよう、
実に扇情的に工夫を凝らしてある。
 あたかもそれが真実であるかのように思い込まされる。
書かれたほうはたまったものではあるまい。
私たちもなるべく半信半疑の視線を保ちつづけたい。

★きょうの短歌
この夏は台風のうたどっさりと詠ませていただきました   東風虎










■第三百十二回 (2004年10月20日

 超大型の台風23号が過ぎた。
電動車いすの私は部屋でひたすらやり過ごすしかない。
哀しみをやり過ごすしかないように。
 これで今年の台風上陸は10個めとなり新記録を更新した。
人も農作物もやられっ放しの夏秋となるのだろうか。
 台風が来て、何かいいことってないのだろうか?
昔なら焚き木拾いが楽になっただろう、とは以前書いたが、
電器釜やボイラー風呂の時代には関係ない。
 都会の汚れた空気や水を蹴散らしてくれるとか?
ついでに汚職議員や官僚も蹴散らしてくれればいいのに。
 そうだ、土砂崩れや水害の跡を修復するために、
地元の土建屋さんたちは仕事が回ってきて潤うだろう。
それくらいのものだろうか。
 いや、待てよ・・・・・。
女性詩人のOさんや川柳作家のSさんは台風が好きだと言っていた。
私にもその気持ちがわからないではない。
そういう人もいる。
 そして最後に私のように台風の歌をたくさん詠む者もいる。

★きょうの短歌
台風は嫌いではない首ねっこねじ伏せられそうになりながら  東風虎












■第三百十一回 (2004年10月18日)

 韓国ドラマ「冬のソナタ」が大人気だが、
ちょっと前にも似たようなブームがあった。
NHK朝ドラ「ちゅらさん」である。
 「ちゅらさん」が沖縄を舞台にしたドラマとしては、
異例の高支持を得たのは、それまでの沖縄モノとはちがい、
戦争や基地など過去の歴史を匂わさないからだった。
 「冬ソナ」もそれまでの韓国モノとちがい
侵略や植民など過去の歴史を匂わさないらしい。
(らしい、というのも私は全編を見ていないので)
だから本国では異端視されているらしい。
 それが日本でブームとなったのは皮肉であろう。
本来避けては通れない歴史を棚上げにすることにより、
両者は日本の視聴者たちに新鮮に受け入れられたのだろう。
喉に刺さった小骨を逆なでされずにすむからである。
 それはそれで私の知ったことではないし、
相手をより深く知る契機になれば幸いというものだ。

★きょうの短歌
ラベルでしか通用しない作家にはなるなと言った陶芸作家    東風虎












■第三百十回 (2004年10月16日)

 ちょっとした椿事があった。
昨夜、4時間半つづけて眠れたのである。
受傷して30年間で最長だったかもしれない。
(全身麻酔による頚椎固定手術の夜はのぞいて)
 なにしろふだんは一時間おきぐらいに起きて、
小便と縟瘡予防のための体位交換をしている。
そのため「一時間膀胱」「100cc膀胱」と呼んでいる(笑い)
 昨夜は排便をすまして残尿も叩きだしたあとだったので、
よけいに眠れたのだろうが、それにしても時計を見て驚いた。
今までにも三時間や三時間半というのは稀にあったが、
四時間半とはなあ。夢みたいだったなあ。
 こんなことで小躍りしている私って、
ふつうの人たちにはきっと変人に映るだろうなあ。

★きょうの短歌
裏年の柿のうちにも一個二個なっているのは意味があるのか   東風虎













■第三百九回 (2004年10月13日)

 一昨夜BS2で「ナビィの恋」を観たら泣かされました。
噂には聞いていたけれど、やっぱりいい映画でしたあ。
小渕元総理も急死する前に観たというやつ、餞になったかもしれません。
なにぶん私は世間から二三年遅れているもので(笑い)。
 ところで何に泣かされたのだろうと考えてみると、
まずは恵達の男っぷり。次に連絡船の操縦士のふられっぷり。
そのあとようやくナビィの恋を貫く姿。奈々子の恋のいじらしさ、と続きます。
 そしてまだ泣ける自分に酔っているところもあったかもしれません。
 総じて「よさ恋」がテーマであり、あんたらも恋をしなきゃ駄目さー、
と言われているようで、最後は自らのふがいなさに泣けたのかもしれません。

 すると不意に高校時代のひとコマを思い出しました。
高2のころクラスの女子たちの間で落書きノートが回されていて、
あるとき男子全員のニックネームがつけられていました。
(使われない時は後ろの棚に置かれていて男子も見られたのです) 
 私のは「ソフト君」という何かおざなりな感じのものでした。
(中には「位置エネルギー」なんていうエスプリの利いたのもあったのです)
それぞれの命名理由をコメントしてあるところには、
「あの声、ねっ! とってもいい人」と書かれてありました。
いい人、というのが恋愛の対象にはならない人という意味だとは気づかず、
ひそかに二ヤついたりして、今にしてみれば噴飯ものでした。
 それから数日後もう一度覗くと、コメントに継ぎ足すように
「あたし、おヨメちゃんになりたいな」という丸っこい文字がありました。
さらに数日後もう一度覗くと、その文字に矢印をして「誰?」とありました。
 いまだに誰なのかはわかりません。
私にもそんな日々があったのです。

★きょうの古い短歌
青春とはつねに克服しなければならない何か大楠のこぶ    東風虎










■第三百八回 (2004年10月12日

 自慢ではないが、親類縁者の中に文学趣味の人は一人もいない。
代々が由緒正しい水呑み百姓だから当然といえば当然だろう。
しいて言えば姉の旦那が絵描き(中学美術教師)であるくらいか。
それを「係累にひとりの趣味の人もなし」という句にしたりした。
 そんな中に私のような文学青(壮)年が登場したのは突然変異か、
あるいは鬼子のようなものであろうか(苦笑)。
二世作家や三世作家などという人たちの気が知れない。
その孤高感をひそかに恃んでもいた。
 ところが、最近一人の縁者ができた。
結婚した姪の旦那の叔父か誰かに作家がいるというのだ。
その名は津野創一(故人)、沖縄在住の推理小説家だったという。
 もともと沖縄で新聞記者から雑誌編集者をつとめ、
「手遅れの死」という小説で中央の推理小説の文学賞を受けている。
 姪の旦那から本を借りて何冊か読んでみた。
正直いって推理小説を読むような時間はないと高を括っていたが、
なかなかどうして沖縄の風土に深く根ざしながら書かれてあり、
「手遅れの死」では知的障害者の結婚を題材にとってあるので、
「障害者の文学」の文脈の中でも貴重な資料となった。
 ちょうど映画「ナビィの恋」に涙していたところでもあり、
思わぬところから沖縄が身近に感じられてきた。  

★きょうの短歌
大川にポイってなもん猫の仔にかぎらずご用心ご用心    東風虎















■第三百七回 (2004年10月11日)

 映画「スーパーマン」の俳優クリストファー・リーブが亡くなった。
心不全、52歳だった。43歳のとき馬から落ちて頸髄損傷になっていた。
 その後、知名度を生かして神経の再生治療研究の必要性を訴えていた。
自らも最先端の治療・手術などを受けて、いわばモルモットとして身を曝していた。
その過程で無理を重ねたための、早すぎる死であったかもしれない。
著書に「車椅子のヒーロー」(布施由紀子訳、徳間書店、1998年、1800円、
原題「Still Me」)がある。
 スーパーマンであり続けねばならない、という自他とものプレッシャーと
闘いつづけているように痛々しく見えた。どうもお疲れ様でした。
「書評」欄に詳しく取り上げているので、ご参照願いたい。

 http://www.normanet.ne.jp/~JSCF/SYOHYOU/fuse.htm

★きょうの短歌
落馬してもスーパーマンであり続けねばならないということはない   東風虎













■第三百六回 (2004年10月10日)

 脳性マヒで性(風俗)の探求を続けている熊篠慶彦氏が、
朝日新聞の「ひと」欄に取り上げられていたので、
そのHP「熊篠邸の地下室」を久しぶりで覗いたら、フリートーク欄に
 「気持ち悪いんだよ。障害者が性のことなんか考えるな」
という健常者らしい書き込みがありました。案の定ですね。
 相も変わらずぬかるみに足を取られてゆくような感じ。
人間って進歩がありませんねえ。

 そんなことはどうでもいいけど、昔大阪の深夜ラジオで
「ぬかるみの世界」という名物番組がありましたっけ。
放送作家の新野新と笑福亭鶴瓶がうだうだと世間話をするんですが、
その頃の鶴瓶は実にセンシティブで好感が持てました。
 ところが今は見る影もなく無残な姿に成り果てましたねえ。
東京のテレビに出てタモリにいじめられたのが災いしたのか、
豪邸を建ててすっかり安心してしまったのか(笑い)。
 おいおい、あの頃の君はどこへ行ってしまったんだい?
と嘆いている古いリスナーが大勢いると思いますよ。

★きょうの短歌
タモリもう好かれてしまい精彩の欠くことおびただしい黒メガネ  東風虎












■第三百五回 (2004年10月7日
)

 原稿書きがなんとか一段落したので、
久しぶりに両岩あたりまでぷーらぷーらと散策に出た。
するとまあ世間は実にいい時候になっていた。
 空にはウロコ雲、家々の軒先にはキンモクセイ、
田んぼには黄金の稲穂、道の上には斑猫(ハンミョウ、道おしえ)。
足りないものがあるとすれば不なりの柿ぐらいか。
まさしく世はこともなし、という感じ。
 イラクでの紛糾も国内の相次ぐ凶悪事件も

本当に起こっていることであろうかという気がする。
こちらが現実ならばあちらは虚妄か?
あちらが現実ならばこちらは虚妄か? 

★きょうの短歌
このごろの鰯は空に群れていて電動車いすまで届かない  東風虎 














■第三百四回 (2004年10月2日)

 ネット上の「漢字変換ミスコンテスト」というのが面白そうなので、
応募しようかとも思ったが、賞品(辞典)がしょぼいのでやめにした。
 それよりこのHPのタウン掲示板で私的に開催している。
私を唸らせるような快作をお待ちしています。
 たとえばこんな自作はいかがでしょう?
(ちなみにパソコンでは以前の文書で使った名詞や用語を、
コンピュータが学習して次回は第一番目に変換してくる。
そのため全てのパソコンに通用するとはかぎらない)

☆ 佐藤俊夫は台所に欠かせない (砂糖と塩は台所に欠かせない) 
☆ 悪魔でもここだけの話ですが (飽くまでもここだけの話ですが)
☆ 育児なしのヤングママさん  (意気地なしのヤングママさん)
☆ 公務員の油脂麺食      (公務員の諭旨免職)
☆ 日米時間給会議       (日米次官級会議)
☆ 国民の恋済み首相      (国民の小泉首相)
☆ 医学は稼ごう        (医学博士号)
☆ チャットの長さ危険の佐世保市(チャットの長崎県の佐世保市)
☆ 桃太郎の鬼切り       (桃太郎のおにぎり)
☆ 温泉行きの列車は有馬線   (温泉行きの列車はありません)
☆ 大庭萱郎          (大馬鹿野郎)
☆ 角田輝子、都内でしょ?   (角立てることないでしょ!?)    

★きょうの短歌
ウォシュレットそれで初めてオナニーを覚えたという小山内美智子  東風虎














■第三百三回 (2004年9月29日)

 人間はどうしてこんなに蛇が苦手なのか、
それについて面白い説を聞いた。
 「哺乳類が海から陸に上がってくるとき、
爬虫類からいじめられたので、DNAに刻まれているのだ」
というもので、なるほどありそうな話だと膝を打った。
 とりわけ蛇にはいじめられたんだろうなあ。
私なども巳年生まれのくせにてんでだらしない。
 しかし世の中には蛇やカメレオンを嬉々として飼う人もある。
そういう人のDNAはどうなっているのだろう。
 それはともかく、反対の例だってあるのではないか。
たとえば犬はどうしてあんなに人間になついてくれるのだろう。
こんなに不祥事つづきの人間なのに、と済まない気さえする。
 察するところ、かつて犬の祖先が危急存亡のとき、
人間の祖先がなぜか身を挺して助けてやったのではないか。
それを律儀に忘れずにいてくれるのではないか。
そうとでも思わなければ説明がつかない。
 いわゆる「情は人のためならず」というやつだ。

★きょうの古い短歌
つくづくと犬はどうして人間を信じてくれるのだろうこんなにも  東風虎 













■第三百二回 (2004年9月25日)

 「そういえばアテネ五輪でギリシャ人というものを初めて見る」

 という短歌を作ったが、その後ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を思い出した。
ハーンはギリシャ生まれ。母がギリシャ人で父がアイルランド人だった。
その後世界を歩き、アメリカで新聞記者として活躍したあと来日し松江で教鞭をとった。
 しかしハーンの写真はほとんど横を向いている。
少年の頃ロープで擦って失明した片方の眼を隠しているのだ。
自分の障害をついに受け入れないままだったのだろうか。
 あれほどの作家にしてもそんな体たらくなのである。

★きょうの短歌
ウルトラマン一族も七十体となり正義なかなか貫かれない    東風虎













■第三百一回 (2004年9月22日)

  柴崎昭雄の第二句集「少年地図」(文芸社、1155円)が出た。
氏は青森県在住の頸髄損傷者で、第一句集「木馬館」で注目された。

  たんぽぽの綿毛どこまで少年期
  光る舟を隠し持ちたる少年期
 
父は子の梯子をはずす夏銀河

前句集よりも読みやすい感じがする。
句集名からも連想させられるように、
なつかしく爽やかなリリシズムが香り立つ。
 しかしその他の句をみると、
相変わらずのカッ飛んだポエジーに溢れているから、
なかなかどうして一筋縄ではゆかない。
 障害を得てから文芸の研鑚を積んだ人としては
、 
伊万里市の酒谷愛郷などとともに群を抜いていると言えよう。
 本を買うほどではないという人でも、それぞれ地元の図書館にリクエストして
新刊を取り寄せてもらえば、作者を手助けするボランティアになるでしょう。
 ちなみに私の一押しは

 茶漬け食うひとりの海を揺らしつつ

★きょうの短歌
しあわせというひらがなを見かけるとしどろもどろになってしまう  東風虎

 










■第三百回 (2004年9月20
日)


 田代まさしがまた逮捕された。これで四度目。
今度は覚醒剤所持と銃刀法違反だとか。
おそらくずっと内偵されていたのだろう。
私の「魔差し光線」のギャグももうシャレにならない。
 佐賀県出身というだけでなく、
お笑い芸人として才能のある男だったので、
何とか立ち直ってほしいとひそかに願っていたが、
同じような過ちを四度もくりかえすとは馬鹿な男だ。
私だって過ちは犯すが、それほどではない。
 人間は逆境に立たされたときその真価がわかる、
というのは陳腐な箴言だが、本当に弱い男だ。
 実刑は免れないだろうが、今度出所してきたら、
いったん佐賀にもどって百姓でもするがよい。
そうすれば少しは正気を取り戻すだろう。
 志村けんのバカ殿様と組んだ側用人の当たり役では、
やりたい放題の殿を何とか諌めようと苦心してきたではないか。
その諌め役がこの始末では、いったい誰がバカ殿を諌めるのだ。

★きょうの古い短歌
バカ殿はやりたいほうだいしほうだいそれを諌める若年寄は   東風虎













■第二百九十九回 (2004年9月18日)

     「とろうのおの集」(12)

炎天にトマトの脇芽も生えたくて生えているのであろうけれども
ひと夏を裏のキュウリの塩漬けにかろうじて持ちこたえさせられる
日本に台風アメリカにハリケーンそんなとこまで似通らずとも
役立たずいんぽてんつに腰抜けと思われたってへのへのもへじ
兵隊にも企業戦士にもなれず蟷螂の斧ふりかざしている
ひとさまの手をつけてない食材を使いまわされてもかまわない
まさかなあハワイ五泊で五時間しか眠れなかったとは言えない

患者様とまで言われて苦笑い浮かべるしかないへのへのもへじ
えらそうな日誌書きつぎクーラーをつけっぱなしのことにはふれず
ひまわりという映画にも原発のサイロが映っている昼下がり
原発が安全ならば神宮の森にでも造ればよろしかろう
心太が酒の肴にならないと知るよしもない新妻の背
アテネ五輪日本野球が負けたのは元木を連れてゆかなかったから
そういえばアテネ五輪でギリシャ人というものを初めて見る
朝顔のしぼんだころにやってくる電動車いすになりたい
台風はやりすごすしかない哀しみをやりすごすしかないように
舗装路をころんころんとする猫になりたくもありなりたくもなし
コンクリの電柱で鳴く空蝉の恋も知らずに夕暮れてゆく
母親としてしまう脳性マヒの話を聞いてこみあげてくる
おセンチというのも死語に近くなりいたずらに秋深まるばかり
お名前をちょうだいしますと言われてもおいそれと差し上げられません
ものごころついて以来のごたごたに育てていただいたようなもの








■第二百九十八回 (2004年9月15日)

 障害者たちの間でひそかに話題になっている
「セックスボランティア」(河合香織著、新潮社、2004年、1570円)
を町の図書館にリクエストして取り寄せてもらった。
(なかなかの太っ腹でしょう?)
 オランダなどでは障害者に対して性サービスを派遣する団体があり、
自治体によってはその料金を援助するところさえある、
というような話は以前から聞いていたが、この本によると
日本国内でも無償でそれをする個人・グループが現れているという。
 インターネット上のホームページなどで呼びかけて、
ひそかにサービスを展開している様子を綿密にリポートしてある。
提供する主婦やOLらの使命感に支えられている面が大きいようだ。
収入の少ない障害者たちにとって朗報ではあろう。
とうとうここまできたかと隔世の感を強くする。
 もちろん各種の風俗産業を利用する障害者は(私を含め)すでに多く、
ビジネスライクに割り切ったほうが後腐れもなく長続きする、
という意見もちゃんと紹介されている。
 にもかかわらず某所某所で起ち上がった者たちは、
それぞれ複雑で深刻な経緯を抱えてきていることが明かされる。
中にはそれによって家庭が壊れたり病気になる者もいる。
まだまだ手探りの段階で周囲の理解も得にくいという。
 世の中に障害者へのボランティア活動をしている人は多いが、
これはまさしく究極のボラと言えるだろう。

★きょうの短歌
舗装路でころんころんとする猫になりたくもありなりたくもなし  東風虎












第二百九十七回 (2004年9月12

 台風のあくる日、いつもの散歩道を歩くと、
木切れや竹切れや杉の葉がいっぱい落ちている。
焚き木集めにはもってこいだろうがなあと思った。
 私の小学校低学年のころまでは竈で煮炊きしていたので、
毎日の薪や焚き木を集めてくる必要があった。
うちはまあ山際の農家だからそんなに困らないが、
少し開けたところの勤め人の家などは大変だったろう。
あるいはお年寄り夫婦だけの家とか障害のある人の家とかは
お金を出して買わねばならぬところも多かったろう。
 しかし台風のあくる日だけは、そこらをひと歩きすれば
両手に抱えるほど集められたのではないだろうか。
今まで台風にはやられっぱなしだったが、
たまにはそんな余禄もないとやってられんよねえ。
と、そんなことをつらつら思いめぐらした。
 はてさて、このところ家庭の事情でごたごたして
何かをしようとしても気分の逸れてゆくことが多い。
しかしまあ、ごたごたしてるのは物心ついてからずーっとだから
別におたおたすることもない。

★きょうの短歌
コンクリの電柱で鳴く空蝉の恋も知らずに夕焼けゆく   東風虎て














 

■第二百九十六回 (2004年9月9日)

 不思議な笑いがある。
台風で農作物に大きな被害を受けた百姓が、
テレビのインタビューを受けるようなとき、
「半分ぐらいの収穫しか望めませんねー」などと答えながら、
たいていうすら笑いを浮かべるのである。
 それを見るたび私は「笑うなー、泣き叫べー!」
と言いたくなる。まるで自分に言い聞かせるように。
その映像を途上国の百姓が見たらどう思うだろう。
何でこの人たちは被害を受けて笑うんだろう?
と素朴な怪訝を抱くにちがいない。
 日本の百姓たちにしてみれば、
『しょせんお天道様にはかなわない』という諦めがあるだろう。
諦めが早くなければ農家はやってゆけないのも事実である。
そのために共済保険を掛けているから大丈夫だと。
そういう苦笑いだと見たほうがいいのだろう。
 あるいはもう一つ、テレビに対する照れのようなものもあろう。
田舎の人間は都会からテレビがくると愛想笑いのひとつもしなければ
済まないような気がしてしまうのであろう。
(所ジョージの「ダーツの旅」などにもそれは如実に表れている)
 それだけテレビに対する信奉がまだ生き残っているのだ。
教師や警官や僧侶や代議士に対する信奉が生き残っているように。
しかし実際はそれらの権威が地に堕ちて久しい。
 ともあれ、人前で泣き叫ぶことはできないとしても、
せめて笑わないでほしいと思うのだ。

★きょうの短歌
台風はやりすごすしかない哀しみをやりすごすしかないように  東風虎













■第二百九十五回 (2004年9月5
日)

 今年は台風の当たり年のようだ。
大型の18号に続いて19号も続いているという。
 ハワイではオーシャンビューの部屋だったが、
帰ってきてからは台風ビューの部屋となっている(笑い)
皆さん、お互いに気をつけましょう。
 ところで韓国・北朝鮮でも中国でも天気予報はしてるだろう。
するとこの時期台風が次々と日本列島を直撃してゆくのを、
彼らはどんな気持ちで見ているのだろうか。
放送でもどういう表現をしているのだろう。
 ありがちな反日感情から内心「いい気味だ」などと思っているのか。
たいてい中国・朝鮮の手前で計ったように方向転換してくれるのだから、
「これこそ神風ではないか」とでも溜飲を下げているのだろうか。
 それとも「いくら何でも気の毒だ」と思う人も多いのか。
それにしては義援金(物)が届けられたという報はあまり聞かない。
 一度本音のところを聞いてみたいものだ。

★きょうの古い短歌
懲らしめられ続けねばならぬわけでもあるかのように台風がくる   東風虎











■第二百九十四回 (2004年9月4日)

 私も遅ればせながらようやくケーブルネットに切り替えた。
地域的不利から長らく原始的なダイヤルアップで辛抱していたのだが、
コンピューター・ウイルス退治ソフトをインストールしてから、
毎度毎度のメールを送受信するたびにスキャンする時間がかさみ、
先月の電話代が12000円にもなって、さすがに頭を抱え込んだのである。
 これだとテレビ九州の工事費と部品代あわせて6400円ほど、
ネットにつなぎっ放しでも月々3700円ほどですむし、
通信速度も今までの200倍くらい速くなるという。
 もっとも、それだけウイルス進入のリスクも高くなるし、
雷にも弱いというから、新たな対策も必要になる。
 いずれにしてもこれで家族には気兼ねしないですむ。
ちなみに新しいアドレスは下記の通りです。

henomohe@po.ktknet.ne.jp
http://www.ktknet.ne.jp/henomohe/ 

 ただし旧アドレスも来年の3月まで使えるので
皆さん、合わせてよろしくお願いします。

★きょうの短歌
朝顔のしぼんだころにやってくる電動車いすになりたい   東風虎













■第二百九十三回 (2004年8月
27日)

 アテネ五輪ハンマー投げで室伏を押さえて金メダルを取った
アヌシュという(きわどい名前の)選手にドーピング疑惑が持ち上がっている。
 近年ドーピング逃れの裏技術が進んできているそうで、
たとえば肛門に他人の尿を入れたカプセルを忍ばせ、
検査時にすりかえたりするのだという。
 (その他、女性の場合は性器に他人の尿のコンドームを忍ばせておくとか、
カテーテルでいったん自分の尿を抜き、他人の尿を入れておくとか、
そこまでやるのかと耳を覆いたくなるが)
アヌシュ選手にもその疑惑が囁かれているというから、
文字通りシャレにならない話である。
 しかしもし彼が無実だとしたら、私にはある考えが浮かぶ。
尿検査のときは検査官がトイレの中までついてきて、
不正がないよう間近に凝視しているという。
そんなにまじまじと見られたら私など出るものも出なくなるだろう。
 というのも私にはかつて「排尿困難」「会食不能」「雑魚寝無理」という
軽いノイローゼがあって、人のいるところでは排尿できなかった。
そのため学校時代の休み時間のトイレなど苦労したものだ。
これと同じ症状をアヌシュもひそかに抱えていたのではないかと。
そうだとしたら尿検査は苦痛以外何ものでもなかっただろう。
 案の定彼は会見で「再検査などもうたくさんだ。メダルなんか欲しくない。
引退する」などとやけっぱちなことを答えている。
 あるいは彼とてスポーツマンだから自ら進んで薬物を使用したのではなく、
コーチから嫌々ながら強制されてきたことが、良心に耐えられない、
と言っているのだとも受け取れるが。
 いずれにしても採血など他の方法はないのだろうか。

★きょうの短歌
そういえばアテネ五輪でギリシャ人というものを初めて見る  東風虎











■第二百九十二回 (2004年8月25日)

 佐賀新聞(8月7日)に発表したエッセー
「砂浜にもぬけのからの車いす イン ハワイ」について
「一服の清涼剤となりました」という励ましの絵葉書をいただいた。
おおかたは好意的に受け取られているようである。
 その中でも、唐津市の旅館「洋々閣」の女将さんから、
ホームページ英語版の「女将挨拶=GREETING]の9月号に
あの一文を英訳して転載させてくれという申し出をいただいた。
もちろん喜んでOKした。
 その英訳はなかなかに的確なものだった。
俳句や短歌の訳も好感のもてるものだった。
「自己導尿」の訳にも「カテーテル」の変形が使われており、
彼らの厳しさが伝わるだろう。
 友人たちにも紹介したが皆「英訳がいい」と感心していた。
世の中には隅に置けない人が多いものである。
 皆さん、ぜひ覗いてみてください。
http://www.yoyokaku.com/sub7e-54.htm


★きょうの短歌
ひとさまの手をつけてない食材を使い回されてもかまわない  東風虎












■第二百九十一回 (2004年8月20日)

 アテネ五輪で日本の柔道勢は大活躍だった。
男女合わせて14階級のうち8階級で金メダルとはねえ。
「お家芸」という言葉を久しぶりで思い出させられた。
 それに関してもう一つ感心させられるのは、
対戦相手の国々が実に多岐にわたっていることだ。
とりわけアジアとヨーロッパはほぼ全土を網羅している感じ。
その他、南北アメリカはもちろんアフリカの一部も見られる。
会場も常に満員でコーチ陣など熱気にあふれている。
 これは日本の指導者がはるばる派遣されてゆき、
その土地その土地で献身的に努めてきた証しだろう。
(ペルー女子バレーの監督も日本人男性で崇拝されていた)
あまりに熱心すぎて一時は庇のみか母屋まで奪われるさまであった。
 何やらキリスト教の伝道師を思い起こさせる。
もっとも彼らは帝国主義のお先棒でもあったわけだが、
まさか柔道の場合はそんなことないだろうなあ。
 それにくらべて野球競技の閑散としたことよ。
五輪種目に採用されるためには世界で40カ国(?)以上
実施されていなければならない、とか何とか規約があるらしいが、
アメリカはそれ以上普及させようなどという気はないらしい。
金持ちの殿様商売のようものだ(笑い)。
 もちろん野球は柔道やサッカーと比べて高価な道具類が必要だから、
貧しい国々にはあまり浸透しないという事情はあるにしても、
(それにしては戦後の東南アジアによく浸透したものだ)
日本とアメリカの違いを痛感させられる。
 
★きょうの短歌
役立たずいんぽてんつに腰ぬけと思われたってへのへのもへじ  東風虎











■第二百九十回 (2004年8月19日)

 ハワイ旅行の新聞エッセー掲載から一週間以上たつが、
快く思っていない人がどうやらいるらしいということが、
なんとなくわかってきた。
その理由もおおかた察せられるもので、無理もない。
 それよりもその背後に、
「障害者が自らの不遇をくよくよ嘆いているうちは、
まわりの健常者たちもおうような態度でいられるが、
一転して自分の人生を楽しみだすと、
何だかにわかに機嫌が悪くなる」
 というあのパターンが繰り返されているとしたら、
なんとまあ進歩のない世間というものだ。

★きょうの短歌
ひと夏を裏のキュウリの浅漬けにかろうじて持ちこたえさせられる  東風虎













■第二百八十九回 (2004年8月13日)

 このところ教師のハレンチが後を断たない。
誰ぞが「魔差し」光線でも照射してるのではないかと、
以前この日誌でも同情したことがある。
 しかしその原因の一つではないかと気づいたことがある。
それはここ数年、入学式や卒業式などの式典で、
日の丸・君が代の強制がひたひたと進んでいることだ。
かつて法制化のとき学者の有馬文部大臣が「決して強制はしない」
と明言したことも屁のように蹴散らされている。
 ある学校では起立しない先生や生徒に向かって、
校長だか教育委員会だかが「立ちなさいっ!」と
怒鳴りつづけたという話も聞いた。
 あの法制は「日の丸を国旗、君が代を国歌とする」と規定しただけで、
教育現場で強制してよいなどとはどこにも書いてない。
それを怒鳴りつけるとは、彼らのほうこそ罰せられるべきだ。
 そんな中で座り続けるのはものすごいストレスで、
胃に穴が空いたり病気になる例が多いという。
それは良心に反して立った先生にも言えることで、
自責の念のために鬱々として楽しめないだろう。
 そしてそんな大人たちを見ている生徒たちの心にも
想像以上に大きな裂け目を残していると思われる。
そんなあれこれを真面目に突き詰めて考えていると、
(一部は学習塾講師などへ転職してゆくようだが)
われ知らずハレンチ行為に及んでしまう先生たち・・・・・・。
わからないわけではない。
 人の魂を試すようなことをするものではない、
とは聖書の昔から言われていることだ。

★きょうの短歌
原発が安全ならば神宮の森にでも造ればよろしかろう   東風虎











■第二百八十八回 (2004年8月10
日)

 夏場になるとテレビの女性アナウンサーたちが、
ノースリーブ姿などで涼やかさを演出してくれるので、
凡庸な男としては目の保養をさせていただくのだが、
隣の男性アナウンサーは相も変らぬ背広にネクタイ姿で、
つりあいの取れぬことおびただしい。
 そんなこと彼らもとっくに痛感しているだろうが、
いまだに改まらないところをみると、
彼らの頭は相当なカチンコチンだ。
表現の自由を標榜するジャーナリストも名ばかり。
 そんな中でも、最初に背広を脱ぎネクタイを外してみせる
その可能性があるのはフジTVだろうと踏んでいるが、
昨日も今日もその気配はない。
「楽しくなければテレビじゃない」
のコピーが聞いてあきれるぜ。

★きょうの短歌
炎天下トマトの脇芽も生えたくて生えているのであろうけれども  東風虎













■第二百八十七回 (2004年8月9日)

 自然や環境を取りもどそうという声が高まり、
あるいは税金の膨大な無駄遣いなどが発覚したため
公共事業の見直しという時代の大きな潮流が起こり、
各地の建設業界に仕事が回らなくなり倒産が相次ぎ、
それにまつわる官官(民)接待で潤ってきた飲食業も閑古鳥が鳴き、
社会不安まで巻き起こそうとしている。
 そんなとき新聞やテレビなどで
各地のオンブズマンの執拗な活動が報じられると、
失業中の人などは苦々しい思いで見ていることだろう。
中には脅迫まがいの行為が起こったりしているかもしれない。
 私には建設業側にもオンブズマン側にも友人がいるので、
そんな自家中毒的な紛糾をみるのはなんとも忍びない。
本当に糾弾すべき相手は他にいるはずだ。
 倒産が相次ぐのも元々は土建屋が多すぎたためだろう。
(数年前の統計では国民の六人に一人がゼネコン従事者)
選挙区への利益誘導型政治がいかに社会や人倫を歪めてきたか、
天下り法人の税金の無駄使いがいかに憎々しいことか、
それは建設業界側だって一市民として異論はなかろう。
 そうかといって他の仕事にもおいそれとは就けないだろうし、
大型の機械類を野ざらしにしておくわけにもいかないだろう。
そこで官僚や業界の人たちに大きく考え方を転換してもらいたい。
 つまり今までのような巨大な橋やダムや道路や堤防を造る方向から、
今度はそれをエコロジーに添って修復する工事への転換である。
極端にいえばせっかく造った三面コンクリート水路を、
バリべりとひき剥がして環境にやさしい工法に替えるのである。
ドイツなどではすでに先例があるから視察してほしい。
 これだと今までの公共事業制度や機械類や人員も活かせるだろう。
『そんな女々しい工事なんか男のやる仕事ではない!!』
という人がいたら(大いにいそうだが)路頭に迷ってもらうしかない。

★きょうの短歌
まさかなあハワイ五泊で五時間しか眠れなかったとは言えない   東風虎











第二百八十六回 (2004年8月6日)

 昨日、長崎県諌早市在住の詩人、山田かん氏(昨年死亡)の奥様和子氏から、
「山田かん追想 かんの谺」(草土詩社)という本が送られてきました。
「ペン人」28号後記の私の追悼文なども収録されていて驚きました。
 かんさんは長崎原爆を浴びて以来、糾弾の詩を書き続けてこられた人です。
とりわけ「聖人永井隆」批判の余波は大きいものでした。
「原爆詩人」という看板をいやおうなくぶらさげさせられて、
それとも格闘してこられた人でした。
 島比呂志さん、松下竜一さんと敬愛する方々が次々と亡くなられ、
夏バテがことのほかこたえるようです。

★きょうの短歌
戦争はしたいやつがいるから起こり止めたいやつが止められない   東風虎













■第二百八十五回 (2004年8月5日)

 クーラーのなかった時代の頸髄損傷者たちは
どうやって夏をしのいでいたのだろう。
その苦悩がしのばれる日々だ。
 頸髄損傷は首の神経の中の体温調節中枢がイカれるので、
どんなに暑くても汗が出ないのである。そのため
熱が内部にこもり灼熱地獄のような感じになる。
そうなるとアイスノンや氷枕を当ててひたすら冷やすしかない。
もちろんクーラーは朝から点けっ放しである。
 電気を人一倍使って申し訳ないなあ、と思う。
しかし殊勝にそう思うのもほんの一瞬で、すぐにまた喘ぎだす。
そうなればもう冷えること以外、何の欲も得もなくなってしまう。
イグアナのような爬虫類と大差ない。

★きょうの短歌
えらそうに日誌書きつつクーラーを点けっ放しのことにはふれず   東風虎









■第二百八十四回 (2004年7月28日

  とろうのおの集(11)

独裁を打ち倒すにはケータイを出回らせるのが早道という
どうしてもっと怒らないんですかと不思議がられて長雨に入る
官僚が天下りの退職金を返納したという報をききたい
バカ殿はやりたいほうだいしほうだいそれを諌める若年寄は
自立とは自己決定と自己責任そんならいつもやっていること
台風がくるのはいたしかたないせめて100キロで突っ走ってくれ
戦争はまだ終わらない父からの排尿困難・会食不能
連呼する候補者なんか入れる気にならないことがわからないのか
とろうのおのボディーブローのように効いてくるのはこちらのほうか
街角で自己導尿する友のため壁となる摩天楼となる
常夏の島くんだりまで来ていてもやっぱり眠れないこの男
サンダルのあとの日焼けが十年も抜けないという郁子のハワイ
雪国のダイヤモンドダストならぬとんぼダストときらめいている
シャラポワはファザコンなのかもしれないと思い始めるウインブルドン
公明で正大なのが政権に入ってからはろくなことがない
飲まないと一日が戸締らないそんな感じがするんですよね
避難所に配られてくる炊き出しのおにぎりはせめてうまそうである
カレーひとつ作るにも半日がかりそれもをとこの一生といおう
脱走するくらいだから心やさしい男なのではあろうけれども
博覧会ミスコンテスト壮行会まだやっている大暑のなかを
オリンピックまでの辛抱とうすらへら息を潜めているやつばかり











■第二百八十三回 (2004年7月27日)

 夏休み頃の楽しみのひとつに、
NHKラジオの「子ども電話科学相談」がある。
 昨日、その中で「ハンミョウ(斑猫)」の話題が出ていて、
思わずニヤリとした。そうだろう、子どもならみんな気になるはずだ。
 私も大好きな昆虫(甲虫)のひとつである。
道の好きな蜂だなあ、といつも気になっていた。
とはいえこのごろあまり見かけないことに気づいた。
 それが今朝の散歩時、シンクロ二シティーでもあるかのように
忽然と目の前に現れたのである。赤や青の斑点模様が美しい。
人間の歩く前の道を先へ先へと飛んでゆくので、
(本当は自分の巣に近づいた者を牽制しているのだという)
「道おしえ」「道しるべ」「道あんない」などの愛称がある。
しかしどうしてこんな漢字が当てられているのかわからない。
 昔は土の道だったので、道端に巣穴を掘っていたのだろう。
しかし今はコンクリートやアスファルトで固められているから、
彼らも住みにくくなったことだろう。
 ちなみに今朝は茶柱も立った。

★きょうの短歌
脱走するくらいだから心やさしい男なのではあろうけれども    東風虎 















■第二百八十二回 (2004年7月21日)

 中国で流産した胎児の鼻の粘膜からES細胞の皮膚を移植して、
脊髄損傷の神経の再生に活かす手術を受けるため、
日本の脊髄損傷患者9名がひそかに訪中していたという。
 しかしそのうち8名は「何の変化もなかった」と言い、
残る1名も「こころなしか指がよく動く気がする」程度だという。
 医学的にはまだ検証されておらず、安全性の面でも
倫理的にも問題の残る治療法である。
一部には中絶胎児を利用しているという記事もあった。
 にもかかわらず『治りたい』という患者たちのはてしなき願い、
そして『子どもを持ちたい』という願いは飽くことがない。
金にあかせて世界中へ飛び出してゆきそうな勢いだ。
そこにつけこんで商売に利用する輩もあとを断たない。
 なんとまあ、溜め息の出るような話であることよ。
そんなにまでして治りたいのか、
そんなにまでして子がほしいのか。
 『当たり前じゃないか』という囁きは、
私の中からも聞こえてくるだろうか。
『いいや、それでも俺はいらない』という痩せ我慢の声も
聞こえてきつづけてほしいところだ。

★きょうの短歌
博覧会ミスコンテスト壮行会まだやっている大暑のなかを   東風虎












■第二百八十一回 (2004年7月16日)

 フェミニズム、あるいは女性学の動向は
私たち障害者にとっていつもながら他山の石となる。
常に先取りして実験してみせてくれているようなものだからだ。
とりあえずは感謝しなければならないだろう。
 たとえばこのところの潮流でいえば、
「負け犬の遠吠え」などという逆説的な開き直りも見られるように、
結婚に対する肯定的なムードがぶり返しているようである。
 つまりひと昔前の「自立」とか「自己実現」などという掛け声に対し、
若い女性たちが『そんなしんどいことなんてゴメン、
条件のいい男をつかまえて家庭におさまるのが一番ラク』
という本音が堂々とまかり通っている感じなのである。
上野氏や小倉氏や田島氏などは顔色なしだろう。
 確かに人間は放っておくと易きに付きがちだし、
少子化問題で反動的政治家たちから子産みの圧力をかけられて、
内心ちぢみあがっているのかもしれない。
 これを障害者に引きつけていえば、かつての「自立生活運動」によって、
街なかのアパートなどで一人暮らしに踏み出した重度障害者たちが、
カレーひとつを作るのにも半日がかりで、他に創造的な仕事ができないとか、
年末年始や連休時に介護者の確保に苦労し綱渡りのような生活であるとか、
一人の障害者の維持に延べ千人にも及ぶボランティアが必要だとか、
どうしても意地があるから無理を重ねて早死にする例が多いとか、
そういう厳しい実例をみるにつけ素朴な疑問をもちはじめる。
 つまり生家でできるかぎりは家族(からヘルパーへ負担を移し)介護を受けながら、
創造的な仕事を見つけだしてゆくほうが利口でラクなのではないか、
その中から自己決定と自己責任を高めてゆくほうが実りあるのではないか、
という内心の声に抗しがたい気がしてくるのである。
 とはいえ、フェミニズムについていえば今の潮流はしょせん
一時的な「揺りもどし」に過ぎないのではないかという気がする。
家庭におさまった女性たちがやがてそれだけでは満足できない、
と叫び始めるのは目に見えている。
 それは障害者についても当てはまることだろう。

★きょうの短歌
避難所に配られてくる炊き出しのおにぎりはせめてうまそうである   東風虎














■第二百八十回 (2004年7月10日)

 ハワイ行きから帰て、ぼーっとしていたら、
いつのまにか盆花が咲き、盆トンボが乱舞していた。
 盆花とは一般的にはキキョウの花をさすようだが、
ここではうちらへんの通称で呼んでいる。
蘭の仲間にはちがいない。したたるような赤い花。
 盆トンボは正式にはウスバキトンボという。
薄い羽根の黄色い蜻蛉、ということ。
いわゆる精霊トンボのことかどうかは知らない。
 これが朝晩田んぼの上を虫を狙って乱舞するさまは
さながら雪国のダイヤモンドダストのような煌きだ。
私はひそかに「とんぼダスト」と名づけて愛でている。
 
★きょうの短歌
イラクでは泥沼というのに能天気アロハとマハロばかりの国へ   東風虎











 


■第二百七十九回 (2004年7月9日)
 
 ナベツネさんがまたもや放言。
パリーグ合併問題について選手会長の古田が話し合いたがっていると聞いて、
「無礼なこと言うな。分をわきまえなくちゃいかん。たかが選手が」
と言ったのだ。これでがぜん面白くなってきたなあ。
 なにしろ今年のプロ野球はさっぱり面白くなかった。
特に巨人軍が小久保とローズを取った時点で、
長年の巨人ファンである私も今度こそとうとう愛想を尽かして、
テレビ中継もほとんど見ていなかった。
せめてこれくらいの場外乱闘は楽しませてもらわなくちゃ。
 ナベツネさんの放言は今に始まったことではないので、
別に驚くほどのこともない。親友の石原都知事ともども、
 『世の中の難しいことは優秀な俺たちがちゃーんと考えておくから、
おまえら(女・子ども・年寄り・障害者・選手)はすっこんどれ!』
 というのがあの人らの基本的態度なのである(笑い)。
そんな「強者の論理」では遠からず行き詰まってしまうことを、
私たち全身性障害者はよくよくわきまえている。
古田の逆襲が見ものである。
 そうそう。もう一つ放言めいたものが聞こえてきた。
参院選に出馬した鈴木宗男の親友である松山千春が、
久しぶりのコンサートの中で応援演説をぶちあげ、
 「日本の不幸は生活感のない政治家が上に立っていることだ」
 と言ったという。一般的な常識としてはお説ごもっともなのだが、
その裏では『ムネオ先生なら地元に細やかな利益誘導してくれる』
というのだろう。そもそも例のムネオハウス疑惑のころ彼は、
「もし本当に鈴木宗男が悪いことをしていたらオレがぶっ飛ばす」
と啖呵を切ったのではなかったか。
 その後鈴木は受託収賄の罪で逮捕され、現在公判中である。
たとえ無罪だったとしても、賄賂なのか献金なのかが限りなく灰色で、
どちらとも言い逃れできるような仕組みを作り上げた政治家たち。
それらが子どもたちに及ぼす悪影響ははてしなく大きい。
 そんな人物がまた選挙に立つということ自体、人を小馬鹿にした話だし、
それを応援する松山は二枚舌もいいところである。
 だいたい松山の歌も歌い方も昔からいかがわしかった。
それを見抜けずコンサートに集まる連中こそいい面の皮だ。
 日本の不幸は彼らのような人間が大きな顔をしていることだろう。

★きょうの短歌
街角で自己導尿する友のため壁となる摩天楼となるまで    東風虎











 

■第二百七十八回 (2004年7月7日)

 この世情の騒がしいときに、能天気なハワイ旅行から
五日の夕方になんとか無事に帰りつきました。
五、六時間くらいの(直接)時差でまさか時差ボケはありますまいが、
さすがに疲れが浮きだしてきました。
 出発時、佐賀駅の階段にある車いす用エスカレーターで
いきなりひっくり返って後頭部にたんこぶをこさえるなど、
波乱の幕開けでしたが、介護者の都留くんと何とか珍道中を終えました。
 行きの飛行機の7時間45分は聞きしにまさる生き地獄でした。
(帰りは最後尾の席で、隣りが空いていたので楽でした)
おかげでホテルに着いて尻を確かめると縟瘡が軽く再発。
ヨーチンとバンドエイドをつけて騙し騙しの毎日でした。
 しかし二日目にワイキキの浜で泳ぐ(浮かぶ)ことができたので、
エメラルド海水の妙なる力で縟瘡も足指の傷も快方に向かいました。
泳いだあと、二人の介護者が重い私をふうふう言いながら抱えようとしていたら、
隣で泳いでいたたくましい白人男性二人がすーっと近寄ってきて、
手伝ってくれました。そんな振る舞いがごく自然に見える所ですね。
もちろん満面の笑みで「サンキュー」と言いました。
 あとは楽しいばかりの常夏の島をうろうろ、うろうろ。
ポリネシア文化センターのフラダンスショーや、広大なホノルル動物園、
シェラトンホテルのラウンジでのバーベキューパーティー、美術館など、
そして何といっても美しいビーチにたむろするビキニの美女たち。
 それにしても若い人たちだけでなく老夫婦や障害者もたくさんいて
それがビーチに渾然と融け合っていました。
もうひとつ車道と歩道の段差が、今までに行ったどの街よりも
電動車いすにやさしかったのが忘れられません。
 帰りの日が米独立記念日に当たっていたので警戒厳重で
空港までの道が心配とは逆に空いていて助かりましたが、
出国審査が蟻一匹ももらさぬ厳しさだったのには閉口しました。
 その他、お土産話は尽きませんがそれはまあおいおい。
新画像掲示板に写真をいっぱい載せていますのでごらん下さい。 

★きょうの短歌
常夏の島くんだりまで来ていてもやっぱり眠れないこの男  東風虎











■第二百七十七回 (2004年6月27日)

 この29日から4泊6日でハワイに行くことになった。
「はがき通信」という頸髄損傷者たちの情報交換誌の
年に一度の懇親会に参加するためである。
 今までは浜松や横浜や京都や広島や福岡などで行ってきたが、
たまには海外体験も積もうという編集者向坊弘道さんの呼びかけによる。
総勢40名(うち電動車いすは半分)の大ツアーとなる。
ほとんどが海外初体験者なので、弥次喜多道中となることだろう。
 ふつうの人なら楽しい物見遊山になるだろうが、
全身性マヒの頸髄損傷者にとっては飛行機内の9時間や
ホテルでの補助具なしのベッドが大きなストレスとなる。
それらをどう工夫するかが知恵の出しどころである。
 たとえば飛行機では膝の下に空気ざぶとんを何個か敷き、
身体を前にずり伸ばすようにして縟瘡を防ぐ。
ベッドでは横に電動車いすを置き、現地で買った物干し竿などを
ななめに突き立ててその先から補助具をぶらさげる。
ベッドから車いすへの移乗はほかの介護者と組んで助け合う。
トイレやシャワーや海水浴も同様である。
 最大の楽しみはワイキキの浜で泳ぐ(浮き輪で浮かぶ)ことだが、
足指をまた怪我しているし、波が高いしスリが多いというから
ちょっと難しいかもしれない。そのときはホテル32階屋上のプールで
我慢するしかないかもしれない。
 まあ、みんなお互い様だから何とかなるだろう。
案ずるより産むが易しである。

★きょうの短歌
連呼する候補者なんか入れる気にならないことがわからないのか  東風虎













■第二百七十六回 (2004年6月25日)

 佐賀県神埼郡三田川町にある吉野ケ里(よしのがり)遺跡の
弥生中期前半(紀元前一世紀)の甕棺墓(かめかんぼ)から、
両腕に36個の貝輪をつけた女性の人骨が見つかった。
 貝輪は、銅鏡などとともに祭祀や呪術の道具とされ、
吉野ケ里が最も栄える弥生後期から200年以上も前に
「女性司祭者」が存在したことを示す資料となりそうだという。
 腕輪は奄美大島以南で採れる巻き貝の「イモガイ」製で、
右腕に貝殻を縦に切断した「縦型」貝輪25個、
左腕に「横型」貝輪11個をつけていたという。
ほかにゴホーラ貝製のものなどもある。
 
 これを権力者の優雅なアクセサリーだと見ることもできようが、
それだけだと思ったら大間違いである。一説によると、
将来シャーマン(巫女)や女王として育てる女児の腕や
稀には首にはめこみ、そのまま成長するにつれて外れなくなるという、
そら恐ろしいしろものなのである。
 貴重なものだから勝手に壊すことなどできなかっただろうし、
一生その重荷を背負ってゆかねばならなかったのである。
選ばれた者ゆえの栄誉と憂鬱であったろう。

★きょうの短歌
戦争はまだ終わらない父からの排尿困難・会食不能   東風虎 












■第二百七十五回 (2004年6月21日)

 佐賀大学医学部の斎場三十四教授(脳性マヒ、松葉杖使用)は面白い人だ。
数年前、我が家へ明石書店の鈴木正美さんと遊びにこられたとき、
(旧)佐賀医大の学生たちへの講義で「今夜紙おむつをして過ごしてみなさい」
という宿題を出したら、四割くらいの学生が実行してきた、
(うろ覚えなので、四人だったかもしれない)
という話を聞かせてくださり、仰天したことがある。
 四割(四人)が多いのか少ないのか私にはわからない。
プライドが高いだろうお医者さんの卵たちのことだ。
かなりの勇気が要ったことだろう。
女子学生もいたら、セクハラすれすれの講義だろう。
 おおかたは排尿止まりだったろうと思われるが、
もし排便まで体験してきた学生がいればたいした猛者である。
それを機に変な趣味に走ったりしなければよいが(笑い)
 寝たきりの患者の気持ちを少しでも汲み取らせよう、
という試みだったのだろうが、質実な佐賀では破天荒な話だ。
 斎場さんは各地方の大学を転々としておられて、
気楽なよそ者の立場から、行く先々の旧態依然とした福祉観を、
引っかき回す役回りを自らに課しておられるように見える。
ひょっとしたら大学側からもそれを要請されておられるのかもしれない。
 その後も相変わらずの活躍ぶりである。
先だってはあえてバリアフリーでない自宅を新築された。
どういう意味が込められているのか皆さんも考えてほしい。
 それにしても佐賀に永住されるつもりなのだろうか(笑い)

★きょうの短歌
台風がくるのはいたしかたないせめて100キロで突っ走ってくれ   東風虎












■第二百七十四回 (2004年6月20日)

 第二百六十七回で小泉首相の支持率が54%と書きましたが、
今朝の新聞では45%(共同通信調べ)となっていました。
どうやら国民はそれほど愚かではなかったようです。
 それにしても、一昨日は例の通り魔事件で危機一髪でした。
私は村の公民館まで用事に行こうと予定していたのですが、
雨もようだったので取りやめました。
 するとちょうどその時間帯に公民館向かいの小学校の駐車場で
犯人らしい男が逮捕されていたのです。
車の中で助手席に出刃包丁をおいて様子を窺がっていたといいます。
 どうやら下校の児童を狙っていたようで、
こんな電動車いすのおっさんには興味なかったかもしれませんが、
一歩まちがえば鉢合わせしているところでした。
そんな大げさな、と思われるかもしれませんが、
この過疎の村で昼間からうろうろしているのは私くらいなのです(笑い)
 隣の温泉街での通り魔でしたから、こんな村までは来ないだろう、
と高をくくっていたのが間違いでした。
 何とかこのホームページも続けられて幸いでした(笑い)。

★きょうの古い短歌
自立とは自己決定と自己責任そんならいつもやっていること   東風虎














■第二百七十三回 (2004年6月18日)

 松下竜一さんの死去(17日)にショックを受けていたら、
もう一つ小さなショックが続いた。香川県善通寺市で四角い西瓜が出荷された、
というTVニュースを見ていて、しまったあー、と軽く頭を抱え込んだのである。
 ご記憶の方もおられるかもしれないが、昨年のちょうど今ごろ
私は下記のような日誌をしたためている。 
そしてそれを「ペン人」28号の後記にも転載している。
 
 「テレビのニュースで四角いスイカの出荷のもようを映していた。
普通のスイカをある程度大きくしたところで、枠をはめこみ
四角に矯めてゆくのだという。竹などでも見たことがある。
しかし成功率は六割ぐらいで、なかなか容易ではないらしい。
そのため一個一万円ぐらいで料亭などへ観賞用に卸されるという。
 その姿のユーモラスなことといったら、思わず癒されそうになる。
最初に考えついた人はたいした知恵者だなあと感心する。
スイカにしてみれば迷惑な話だろうが、付加価値の勝利といえよう。
一体どこの人だろう、と素朴な好奇をもつ。
 ところが、それが香川県観音寺市と紹介されて、
私はすーっと興が冷めてゆくようだった。というのも、
観音寺市は先ごろ亡くなったハンセン病の小説家
島比呂志(本名岸上薫)の郷里だからだ。
 家族に迷惑がかかることを恐れ、鹿児島の星塚敬愛園に入所し、
晩年は園を出て北九州市で自立生活を送っておられたが、
ずっと帰郷を願いつつ兄弟から拒まれてついにかなわなかった。
死後、養女の昭子さんがお骨だけ抱いて帰られた。
 そういう観音寺市であるだけに素直な気持で見られない。
別に観音寺市の農家や住民や街並みには何の責任もないのだけれど、
文学に関わる地名というものは記憶にこびりつく。
 岩手県の渋民村などもその一つだろう。
啄木を追い出した郷里ということ以外何の特色も知らない」

 これは「善通寺市」の勘違いだったのである。
観音寺市にはとんだご迷惑をおかけしてしまった。
それにしてもどうして香川にはこんなまぎらわしい地名があるのか?
私が見間違うのも無理はないではありませんか。
 とはいえひょっとしたら昨年の二ュースは
本当に観音寺市の話だったかもしれないではないか。
善通寺市だけでなく観音寺市でもいくらかは作られているかもしれない。
 そう思い直した私は、今度はヤフーで検索した観音寺市と善通寺市の
それぞれのホームページに下記のようなメールを出した。
(ハンセン病のことは触れずにおいた)
はてさて、どんな返信が届きますことやら。

 「謹啓 善通寺市(観音寺市)様
 初めてメール差し上げております。私は佐賀県嬉野町の中島虎彦と申します。
不躾ながら一つ質問があります。今朝の二ュースで善通寺市の「四角い西瓜」
出荷のもようを拝見し、おやっと思いました。
 昨年も同じ二ュースを見てその微笑ましさに癒されるような気がし、
自分のホームページや友人たちにその旨書き送りました。
ところがそのとき私は「香川県観音寺市」とばかり思い込んでいたのです。
自分では確かにそう聞いたような気がするのですが、
今朝の二ュースでは「善通寺市」と言っていました。
なるほどまぎらわしい名前ではありますよね。
それで私が聞き間違えたのだろうかと、にわかに不安になりました。
 なにしろホームページで公開するということは全世界にむけて発信することですから、
そこに間違った記述を載せたということは、
どこでどなたにどんなご迷惑をかけているかしれません。
私はすーっと血の気が引いてゆくようでした。

 そこで質問なのですが、「四角い西瓜」は善通寺市でしか作られていないのでしょうか。
私が昨年の二ュースで見たように、万が一観音寺市でもいくらかは作られている
ということはないでしょうか。それなら私も訂正する必要はないですからね。
 この件について、まことに恐縮なのですが、至急下記のメールアドレスへ
お返事をいただけないでしょうか。何とぞよろしくお願いします」

 するとその日のうちに返信をいただき、
「善通寺市以外では作られていません」
 ということだった。私は深く頭を垂れるばかりだった。

★きょうの短歌
バカ殿はやりたいほうだいしほうだいそれを諌める若年寄は    東風虎










■第二百七十二回 (2004年6月16日)

 一昨日、昨日とつづいて、町内で白昼の通り魔事件があった。
裏通りとはいえ飲食店と民家の連なる町のど真ん中である。
女子中生と女子高生が鋏で切りつけられている。
たいした被害はなかったようだが、犯人は逃走している。
 このところ全国で似たような犯罪が後を断たない。
すぐお隣り長崎県の佐世保市では小六同士の殺人も起こった。
自分ところはまだ大丈夫だろうなどと思っていたが、
こんな田舎町にも付和雷同する輩はいるということだ。
 電動車いすで散歩中に襲われたら防ぎようがない。
明日は買い物に行こうと前々から予定していたが、
この分ではやめておいたほうがよさそうだ。
私もやっぱり小心者なのだなあ。

★きょうの短歌
ジェンキンスまさか銃殺にはされるまい出てきてみたらいかがなものか  東風虎












■第二百七十一回 (2004年6月15日)

 先日、自衛隊のイラク派遣(交替要員)壮行会か何かで
ある大臣だか代議士だかが送辞を述べるなか、
 「皇国の興廃、この一戦にあり」
 という大時代がかった文句を引用したという話を聞いて、
思わず嘔吐をもよおしそうになった。
 彼はさぞかし血沸き肉踊っていたのだろう。
人間(特に男性)の中にはそういう性向が潜んでいることを
あえて否定はしないが、それにしてもだ、
いやはや何というアナクロニズムだろう。

★きょうの短歌
とろうのおのボディーブローのように効いてくるのはこちらのほうか  東風虎











■第二百七十回 (2004年6月15日)

 ある若手お笑いタレントがトーク番組の中で、
「大ファンの関根勤さんから食事に誘ってもらったとき、
隣に座らせてもらい腕や足を触らせてもらった。
だってテレビで見ていた関根さんと全くおんなじだから、
実際に触って確認してみないと安心できないんです」
 というようなことを話していた。
その場にいたほかのタレントたちは半ば気持ち悪がって
笑っていたようだが、私はいささか驚愕していた。
 なぜなら私もまたかなり以前から同じような不安と言おうか
もどかしさを感じていたからだ。私の場合は人間だけでなく
風景のようなものにもそれを感じていた。 
 だから今度ハワイに行っても、ダイヤモンドヘッドなど
テレビや写真で見慣れた風景にはきっとそれほど感動はなく
現地で触ってみて初めて実感するのではないだろうか。
 だからそのタレントはしごくまっとうな感性をしているし、
将来性もあるのではないだろうか。

★きょうの短歌
官僚が天下りの退職金を返納したという話をききたい   東風虎














■第二百六十九回 (2004年6月14日)

 ご存知の方も多いと思いますが、
無年金障害者の救済案が発表されました。

 「国民年金が任意加入だった時代に未加入だったため、
障害基礎年金を受け取れない無年金障害者の問題で、
与党年金制度改革協議会は8日、元学生と専業主婦を対象に、
月4万〜5万円を「特別障害給付金」として支給する法案を、
議員立法として今国会に提出することを決めた。
ただ、今国会での成立は難しく、継続審議となる方向だ。
 提出するのは「特定障害者に対する特別障害給付金の支給に関する法律案」で、
来年4月施行を予定している。給付水準は障害の程度に応じて1級が月額5万円、
2級が月額4万円。税財源で賄い、来年度予算で約130億円を確保する方針。
 元学生は91年度、主婦は86年度に国民年金が強制加入になっており、
それ以前に障害を受けた人が対象。受給者は、申請すれば
国民年金の保険料支払いが免除される。(中略)所得制限を設ける。
 厚生労働省の推計では、特別給付の対象となる無年金の元学生は約4000人、
専業主婦は約2万人とみられる。 (朝日新聞)

 この欄でも何かとご心配いただきましたが、
ようやく私たちの声が「おかみ」にも通じたようです。
やはり当事者が声を上げ続けることの大切さが再認識されました。
 この間陰に陽にご協力いただいた方たちには心よりお礼申し上げます。
それにしてもこの30年は長かったーっ。
無為に過ごさざるをえなかった日々はもう取り戻せません。
 それにまだ抜本的に改善されたわけでなく、
あくまでお情けの便宜的な「措置」としての扱いですから、
早く本来の国民年金制度による正当な権利としての受給となるよう、
関係の皆様方のご尽力を願います。

★きょうの短歌
ハワイ行き心配性のおふくろにぎりぎりまでは言い出さずおく   東風虎













■第二百六十八回 (2004年6月13日)

 近鉄とオリックスの合併話には驚いた。
お客が入っていないことはプロ野球二ュースなどでわかっていたが、
とうとう来るべきものが来たのかという感じだ。
これを機に1リーグ制などになったらプロ野球はおしまいだ。
 外野席からの勝手な意見を言わせてもらうと、
このさい日本で唯一プロ野球の球団がない四国の企業、
セシールとか(笑い)に買い取ってもらえないものだろうか。
 たとえば松山は俳人の正岡子規の生地だが、
子規は「野球」という語の翻訳者でもあり大ファンでもあった。
あるいは漱石にかこつけて「坊ちゃん球場」などというものもある。
 そのへんを発展させて何かできないものだろうか。

★きょうの短歌
どうしてもっと怒らないのですかと不思議がられて長雨に入る  東風虎















■第二百六十七回 (2004年6月11日)

 国民の七割が反対していた年金改革法案の強行採決や、
アメリカシーアイランドサミットでの独断的な多国籍軍参加の表明、
その直後の世論調査(NHK)であるにもかかわらず、
小泉内閣の支持率は54%の高さを維持している。
 ほとほと首をひねってしまうが、「支持の理由」をみると、
「ほかに適当な人がいないから」という消極的なものが大多数だから、
まああまり褒められたものではない。
 あるいは現体制を維持してもらったほうがウマイ汁を吸い続けられる
という国民がそれだけいるのだと考えてみることもできる。
既得権益を手放すのがどれほど難しいことかよくわかる。
 なんともはや溜め息がもれるような世相のことなど知らぬ気に、
散歩道には今年も鮮やかに石榴の花が咲いた。
まぎれもなく夏の名花の一つだと私はひそかに称えている。
何よりもその色合いがいい。深紅色というのだろうか。
あるいはショッキング・レッドとでも言おうか。
 赤の中でもこれほど鮮やかなものはない。
新画像掲示板に写真をアップしているのでご覧いただきたい。

★きょうの短歌
独裁を倒すにはウラ経済を自由化させるのが早道という   東風虎













■第二百六十六回 (2004年6月7日)

    「とろうのおの集」(10)        中島虎彦

靖国には何にもいない南洋のジャングルに今も転がったまま
春嵐にひとり暮らしの車いすとなればさぞや心細かろう
おそらくはブラックリストに載せられて徒労の斧をアップしている
憲法にも最高裁にも服さないではしもじもが服すわけない
冷や飯にもワラビの味噌汁ぶっかけてめざましいから案じめさるな
このままじゃ大統領は撃たれるのではないかしらそれも身内に
父よなぜ私の受傷直前に保険なんかに入れたのですか
ベルリンの壁が取り払われてもバカの壁はいかんともしがたい
日本のことばの軽さひきかえに中東あたりのいのちの軽さ
生きていてよかったような夕焼けにさよなら三角またきて四角
無年金30年で3000万もらいそこねて卯の花くたし
健常者にはどうしても障害者が必要なのかもしれぬ五月晴れ
占いで名前を変えるタレントに売れたためしを見たことがない
チャンプルーちゃんぽんちゃらんぽらんとは同じ語源でごたまぜになる  
バタンキューこのごろあまり聞かないし縁もゆかりもない私には
畦をぬる腰のしびれを知っていて田ごとの月と風流がれず
俵万智未婚の母になるというサラダばかりは食わせられまい
昔ならひっかき合いですむところ銃をもちだしひっこみつかず
青梅をいただきすぎて小便も出なくなるほど大人げがない
わが歌集号泣しながら読んだというおばさんもいてしののめがくる
舗装路をひぴ割りもたげ竹の子の竹となるまで散歩している
このところ目が弱ってと恩師いう全盲にも音声パソコンがあります
赤ちゃんを玉子で産みたいという女優電池が切れるまでは生きるか
ど演歌の「泣かない約束してたのに」という文句に泣かされている
竹の子は不法投棄の何やらも突き刺したまま伸びてゆきます













■第二百六十五回 (2004年6月6日)

 北九州市の頸髄損傷、向坊弘道さんが新しい本を出された。
「平和の鐘をならそう!」(グリーンライフ研究所、2004年、1000円)という労作である。

 キリシタン弾圧については知っている人が多いだろう。しかし同じ時代に仏教の念仏者
(浄土真宗)に対しても激しい弾圧が行われ、およそ14万人もの信者が迫害を受けて
亡くなっていることはほとんど知られていない。かくいう私もこれほどまでとは知らなかった。
それは歴史の教科書に出てこないからである。

 その隠れた歴史を念入りに探索し光を当てたのがこの労作である。半ばほどには
南九州に今も点在している隠れ念仏の里が、地図入りで詳しく紹介されている。
 江戸時代の後半、今の鹿児島県や熊本県や宮崎県の一部がおもな舞台である。
とりわけ鹿児島県(薩摩藩)では、天台宗や禅宗が武士などを中心に信仰されていて、
念仏を唱える浄土真宗ははっきり禁止されていたという。

 なぜかというと、浄土真宗では身分の高い者も低いものも富める者も貧しい者も
分けへだてなく、念仏すれば浄土へ行けるという教えのため、百姓を中心に貧しい者たちに
ひそかに広まろうとしていた。

 しかし為政者たちにとってはそれでは権力を奮えないから都合が悪かったのである。
ご法度を破れば各種の拷問・遠島・極門・張り付け・打ち首などの重罪が待ち受けていた。
キリスト教の場合とよく似通っている。同じ人間に対してどうしてここまで残酷になれるのか、
つくづく希望というものが萎えそうになる。

 同じ仏教内の宗派同士でそんなふうに反目しあうとは、なんとも了見の狭い話であるが、
それだからこそ違う宗教の間でなら(イスラム教とキリスト教のイラク戦争を見れば
明らかなように)もっと激しく憎みあいいがみあうのも無理はない。

 さて、キリスト教と同じく表向きは禁止されている念仏ではあったが、各地に百姓などの
代々の隠れ信者というものがいて、彼らは「ガマ」と呼ばれる山奥の洞窟や滝の裏の祠などで
ひそかに「講」という集会をもち、念仏を唱えつづけていた。

 そのうち本の前半では薩摩藩の侍の娘「千代女」を主人公として、物語ふうに彼らの
信仰ぶりを伝えてあるので、今までの向坊氏の本の中では異例といっていいほど読みやすい。
タネ本はあるらしいが、氏に小説作者としての才能があったとはちょっと微笑ましくなる。

 聡明な千代女は娘盛りになるとご法度である都の本願寺へお参りしたいという
熱情を抑えきれず、幼馴染らと馬喰(ばくろう)夫婦になりすまし船の旅や徒歩の旅を決行し、
ついに念願を果たす。このあたりはわくわくドキドキさせられる冒険話となっている。

 しかし里へ帰ってから数年後警戒心に油断が生じたころ、誰かの密告にあい捕らえられる。
お白州に引き出されて取り調べを受けるとき、その奉行の顔をみあげると
何と以前ガマに訪ねてきたことのある男だった。
 「遠山の金さん」ならスパイとして潜り込んでいたことになるが、この奉行の場合は
千代女らと同じ隠れ念仏者だったのである。さあ、思いもよらないご対面のあと、
事態はいかにあいなりますことやらそれは本を読んでのお楽しみ、ということにしておこう。

 本の後半では向坊氏の持論である「仏教の不殺生の教えが世界の平和に貢献する
ときがきた」というメッセージが力強く展開される。とりわけ隠れ念仏者たちが
あれほど長く激しい迫害を受けながらも、取り締まりの役人たちに対して決して
武力や暴力で抵抗しようとせず、また憎しみも持たなかった、
という経緯の偉大さに今こそ注目すべきであるという。

 たとえばイラク戦争でのように武力と暴力の応酬だけでは事態は決して解決しないこと、
それどころかさらに憎しみを増殖させ、世界を紛糾させるばかりであることを思いみればよい。
そこで求められるのは相手を憎まず、生かされていることに感謝する態度であろう。

 そのため氏はインドやネパールでの活動を例にあげ(それについては
「日本せきずい基金」HP関連著書(書評)欄の氏の他の本を参照していただきたい)、
仏教研究所に世界から優秀な若者を集め念仏の高邁な教えをたたきこみ、
それぞれの故国を導いてほしいという遠大な計画を述べている。

 聞いているとまるで馬喰のような(笑い)大風呂敷で、あまり現実味のない話ではないのかしらん、
と首をひねりそうになるが、氏の抱いている危機感と熱情はどうやら本物のようなのである。
その真剣さに研究所のソナム師やインド仏蹟巡礼の客の中からも理解者があらわれ、
資金面での援助を申し出てきたりしている。

 今から30年前に頸髄損傷を受傷して、その寝たきりのベッドの中で、「歎異抄」の
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」という言葉を
文字通り骨の髄まで思い知らされた私などは、その衝撃からなかなか自力の行為を踏み込めないで
いるのだが、この本を読むと『ひょっとするとひょっとするかもしれないぞ・・・・・』、
という一縷の望みを抱かせてくれる。同じ頸髄損傷者としては晴れがましい気分だ。
私もわずかなりとお手伝いしようと、フィリピンへ中古の車いすなど寄付させてもらっている。

 最後になるが、浄土真宗の念仏の理念を世界の指導的な立場の人たちに伝えようとする場合、
「阿弥陀教」や「観無量寿教」の中の「弥陀の本願」についてどうしても
説明しなければならなくなるだろう。しかし西欧的な合理主義に長く染められてきた彼らが、
「菩薩が救いようのない私たちをどうしても救おうと願いを立てられて修行に入られ、
とほうもない年月の末に晴れて阿弥陀になられたのだから、私たちはただそれを信じて
感謝の称名『南無阿弥陀仏』を唱えるだけでいいのだ」という説明に、
果たしてどれくらい納得してくれるものだろうか。

 彼らのことだから「誰か見てきた者がいるのか」「本当に阿弥陀になったという証拠はあるのか」
というような疑問をもつ者も出てくることだろう。それについてはどう説明すればよいのだろう。
 もっともキリスト教徒だって旧約聖書の冒頭の「創世記」で「この世界(地球)は
神によって最初の七日間で造られた」というような、現在の地質学や考古学や生物学から
みるとナンセンスな記述を、そのまま信じているのだろうから、お互い様ではないか
という気もする。信じるとはそういうことであろう。

 あるいはそれぞれの宗教の中から向坊氏のような純粋な使命感に燃えて、
世界平和のためにと布教に邁進する者が出てきた場合、その軋轢はどうなるのだろうか、
という素朴な疑問もあいかわらずなくならない。
 そんなとき、たとえば中沢新一と河合隼雄の対談集「仏教が好き!」の中にある、
世界の各宗教をおおらかに包括するような新しい価値観の創出が求められている、
というような意見も何らかの参考になるのではないだろうか。

 とはいえ、そんな杞憂など芥子飛ばすほどの危機感と熱意に貫かれた本である。
多くの方(とりわけ歴史教師など)に読んでほしい一冊である。なお本の売り上げは
先の仏教研究所の運営に寄付されるそうである。

 連絡先は(〒808-01 北九州市若松区毛3106  eメール(hmukaibo@yahoo.co)

★きょうの短歌
占いで名まえを変えるタレントに売れたためしを見たことがない   東風虎












■第二百六十四回 (2004年6月4日)
 
 佐世保市の大久保小学校で起こった小六児童による殺人事件のため、
その原因の一つとみられるインターネットのチャットが槍玉に上げられている。
安易な「悪者さがし」とはいえ、こちらも家族の中で何となく肩身が狭い。
 それより実は数年前からパソコンに関して気になっていることがある。
現在日本人の何割くらいがパソコンを扱えるのだろう。
五割は越しているだろうが、年配者など頑固なまで寄り付かない人もいる。
その人たちの心性がちょっと案じられるのである。
 というのも私はワープロ専用機はだいぶ早くから使っていたが、
パソコンのインターネットは45歳を過ぎてからようやく始めた。
その間、友人から「パソコンをやればいいのに」と何度か勧められていた。
しかし生来の機械オンチのためなかなか重い腰が上がらなかった。
 とはいえ友人の親身な勧めに私はひそかにストレスを溜めこんでいた。
やれば便利だろうとわかっているのに自分の臆病さや怠惰のために
ずるずると一日延ばしにしているのが情けなかった。
 そういうストレスは人間の心性を濁らせ曇らせてゆく。
私にはそれがよくわかっていた。そうしてついに
清水の舞台から飛び降りるような心地で(大げさな)始めたのである。
 いったん始めてしまえばこれほどめざましい楽しみはなく、
ストレスも吹き飛んでいった。私はまあそれでよかったのだが、
寄り付かないままの年配者たちは相変わらず心性を濁らせたまま、
いまひとつ気勢の上がらぬ老後を過ごしているのではないか。
 戦後の混乱期を楽しみも少なくひたすら働いてきた人たちが、
そんなていたらくではあまりにも気の毒ではないか。

★きょうの短歌
このところ目が弱ってと恩師いう全盲も音声パソコンを使います   東風虎


















■第二百六十三回 (2004年6月1日)

 裏の畑の若木に数十個の青梅がなった
日一日とつぶら実が太ってゆくさまを見ているうち、
どうしても焼酎のつまみにいただきたくなった。
 塩漬けにしてもらい数日前から食べ始めたら、
案の定こたえられない初夏の味である。しかしあいにく、
食べすぎたらしくお腹の調子をくずしてしまった。
 昔から梅雨どきの青梅は危ないと言われてきたのに、
(生で食べて死んだ子もいるくらいである)
塩漬けしているから大丈夫だろうと甘くみていた。
 食い(飲み)意地が張っているからである。
貧乏人は根がいやしいのである。反省・・・・・・。

★きょうの短歌
青梅をいただきすぎて小便が出なくなるほど大人げがない   東風虎














■第二百六十二回 (2004年5月30日)

 演歌はおおむね嫌いだったが、
50歳もすぎて人並みに涙腺が緩んできたのだろうか。
 「のど自慢」で86歳の女性が(何という歌か知らないが)、
「泣かない約束してたのにー」とかぼそく歌ってるのを聴いて
なぜだか突然涙があふれて止まらなくなってしまった。
何気ない歌詞の中にも光るものがある。
 そのあとゲストの天童よしみが「美しい昔」という歌を熱唱し、
森進一が「狼たちの遠吠え」を歌い上げるころには、
さらに涙で顔がぐしゃぐしゃになった。
 特に天童の歌は確か原曲が東南アジアのものらしく、
単調なメロディーの繰り返しの中にもしだいに抒情が高まってくる。
しかもあの声量と歌唱力だ。打ちのめされてしまった。
久しぶりに何かが昇華されてゆくようだった。
 ちなみに以前、金田たつえの「おかあさん」という歌にも震えた。
痴呆の母親を介護する娘の歌である。

★きょうの短歌
畦をぬる腰のしびれを知っていて田毎の月と風情がれない   東風虎














■第二百六十一回 (2004年5月24日)

 アメリカ軍のバクダッド郊外アブグレイブ刑務所における
組織的なイラク兵捕虜に対する虐待や暴行の写真は、
ナチスのユダヤ人虐殺写真以来のグロテスクさだった。
 特に裸のイラク兵たちを人間ピラミッドのように積み上げ、
米軍女性兵士が煙草をくわえ笑いながら肛門を指さしている写真は、
まったくもって胸くその悪くなるものだった。
 開戦前(中)はあれこれ大義を美辞麗句で並べ立てたブッシュ大統領だが、
いざフタを開けてみるとこのありさまである。
いったん戦争が始まってしまえば理性など働かす余裕はなくなり、
泥仕合の深みにはまってゆくばかりだということがよくわかる。
 それで塗炭の苦しみを味わわされるのは末端の兵士であり、
市民や年寄り・女・子ども・障害者たちである。とりわけイラクにおいて
障害者たちが今どういう暮らしをしているか皆目見当もつかない。
 それは日本の憲法改正論議などでも同じことである。
あれこれ大義を並べ立てて備えと協調の必要性を訴えてくるが、
要するに集団的自衛権とやらでアメリカの勝手な都合による戦争に
なすすべもなく引きずりこまれて右往左往させられるのである。
 そのとき障害者の自立のためのささやかな要望など
とても言い出せる雰囲気でなくなることは火を見るより明らかだ。
そうしていつ果てるとも知れぬ冬の時代を
ひたすら耐え忍んでゆかねばならなくなるのである。
 今でさえ無年金者問題などの懸案が片付いていないのに。

★きょうの短歌
ベルリンの壁は取り払われてもバカの壁はいかんともしがたい    東風虎















■第二百六十回 (2004年5月22日)

 今年のカンヌ映画祭は嬉しいなりゆきとなった。
「誰も知らない」(是枝OO監督)に出た中学生の柳楽優弥クン(14歳)が
史上最年少で主演男優賞を受けたことはもちろんだが、
「華氏911」でマイケル・ムーア監督がパルムドール賞を受けたのだ。
これはブッシュ大統領とイラク戦争の欺瞞を暴いたものである。
 ムーア監督といえば昨年のアカデミー賞でのスピーチの件を
この日誌でも応援の意味をこめて取り上げたことがある。
 そのとき彼は「イカサマだらけのイラク戦争には反対だ。
ブッシュ大統領よ、おまえの持ち時間は終わりだ」と
激しい批判をくりひろげて、その身の安全まで心配させた。
 しかしその後撃たれることもなく今回の受賞となったことで、
アメリカにはまだ半分の理性が息づいているのだと安堵した。
 もっともこの映画はアメリカでは上映禁止となっているらしいし、
カンヌという土地柄(戦争に反対したフランス)も有利だったろう。
 日本ではこのところ言論を封じようというさまざまな動きが見られ、
稚拙なナショナリズムが幅を利かせているようだが、
アメリカのこの懐の深さを思い見るべきだろう。

★きょうの短歌
生きていてよかったような夕焼けにさよなら三角またきて四角    東風虎















■第二百五十九回 (2004年5月19日)

 奈良の大仏様の門前町にある土産物屋で、
「大仏さまの鼻くそ」という菓子が話題になっているという。
昔の「げんこつおこし」のようなもので、色形いかにもそれらしい。
売り出した店主はなかなかの知恵者だなあと笑わせられた。
 ところが、それを東大寺のお坊さんが「大仏様に対して不敬だ、
ふつうの常識ある人ならわかるだろう」とクレームをつけているという。
店主のほうも「奈良の観光のために役立てばと思ってやっている、
人を導くお坊さんなら理解してもらいたい」と負けてはいない。
 はてさて、この騒動どんな決着をみますことか。
当人たちにとってはそれぞれ大真面目な問題なのだろうが、
傍から見ていると、この多事多難の時代のただなかにあって、
さながら一服の清涼剤のようである(笑い)。

★きょうの短歌
無年金30年で3000万もらいそこねて卯の花くたし    東風虎















■第二百五十八回 (2004年5月16日)

 いつからかギャグのへのもへ流家元を勝手に名乗っているが、
このところマジで入門者が増えて、なかなかに忙しい(笑い)。
 上納金をかすめ取ったりはしないし、指導や添削もしないが、
一応、飽きられないよう実力差を見せつけておかねばなるまいと、
せっせと新しいのを製作している。
その成果はメニューの「言葉遊び」欄にまとめてある。
 ちなみに、私のギャグがうなっているとすれば、
それは世界が苦悩に満ちているからである。
してみると最近の世相はうってつけ。

★きょうの短歌
日本のことばの軽さひきかえに中東あたりのいのちの軽さ    東風虎















■第二百五十七回 (2004年5月12日)

 ラジオでちょっと胸に残る話をきいた。
どこかの温泉町のタクシー会社の運転手の話である。
 その会社の駐車場には二十年くらい前から燕が巣をかけるようになったという。
毎年十個ほどがかけられ五十羽くらいの雛が巣立ってゆくという。
 しかし、どういうわけか必ず十羽くらいが巣から落ちるのだという。
落ちるというより虚弱なため落とされるのかもしれない。
巣に戻してやってもまた落とされるという。
 生存競争の激しさか、畜生の浅ましさといえばそれまでだが、
本当のところはよくわからない。
障害者だったらとうてい生きてゆけない世界だ。
 そこで運転手は保護して蜘蛛や釣り餌などを食べさせてやり、
六月の終わり頃には空へ放してやるのだという。
ここまでならありがちな美談にすぎない。
 ところが話はここからである。
運転手は駐車場の前の庭で、雛を空高く5mほど投げ上げてやるという。
するとパタパタと初めは弱弱しくとも10mくらいは自力で羽ばたく。
そんな練習を何度かくりかえすうちに巣立ってゆくという。
 そしてそんな様子を、いつのまにどこから集ってきたのか他の燕たちが
雛のまわりを取り囲むようにして飛びながら見守るのだという。
まるで「頑張れ、頑張れ」と声援を送っているようなのだという。
 私はその場面を思い浮かべてちょっと胸が熱くなった。 
わが子を虐待したり殺したりする人間たちはこれをどう聞くか。

★きょうの短歌
靖国にはなんにもいない南洋のジャングルに今も転がったまま   東風虎 

















■第二百五十六回 (2004年5月10日)

 先夜、BS放送で映画「DOLL」(北野武監督、管野美穂主演)をみた。
映画全体の出来はまあたいしたものではなかったが、
その中に本邦初の電動車いすお笑い芸人ホーキング青山が出ていた。
 (青山については書評欄に「身障者お笑い芸人という生き方」を
 取り上げているので、ご参照ねがいたい)
 その扱い方が今までの障害者モノには見られないものだったので、
さすがはたけし監督と見直した。
 青山はやくざの大親分の昔の兄弟分の遺児という設定で、
ときどき大親分の屋敷の門前に現れては、小遣いをせぴるのである。
そのせびり方に微塵も卑屈なところがなく、
たったそれだけの登場場面なのだが、なんとなく痛快であった。

★きょうの短歌
ゴールデンウィーク通し住井すゑ「橋のない川」を読破した日々    東風虎
















■第二百五十五回 (2004年5月9日)

 大臣や議員の国民年金(保険料)未納が問題になっているが、
実をいえば私もかつて一年一カ月の未納者であった。
 (くわしい事情はメニューの「書簡集」欄をご覧下さい) 
 そのため現在無年金になっている。
いわば罰(ペナルティ)を受けているわけである。
 具体的にいえば、障害基礎年金を受けている他の一級障害者とくらべて、
この30年間でおよそ2880万円をもらいそこねている勘定になる。
(計算してみて自分でも度肝を抜かされてしまった・・・・・)
 こんな理不尽がまかり通っている現代日本なのである。
ある人からは「どうしてもっと怒らないんですか?」と不思議がられた。
 大臣・議員らも当然罰を受けてもらわねば釣り合わない。
そしてこれほどうっかりミスの起こりやすい制度の手直しもせず、
新しい年金法案を通そうという人たちの気が知れない。

★きょうの短歌
憲法にも最高裁にも服さないではしもじもが服すわけない   東風虎















■第二百五十四回 (2004年5月7日)


 新緑の営みがそれぞれにめざましい。
樫、椎、楠、柿、桜、栗、山吹、お茶、オオバギボウシ。
よりどりみどりという感じである。
 毎日のようにふらふらと出歩いている。
安・近・短でこんなに贅沢な行楽はない。
都市部の障害者たちにはもうしわけない気分だ。
 それにしても「緑さん」はいるのに
どうして「黄緑さん」はいないのだろう。
 
★きょうの短歌
このままじゃ大統領は撃たれるのではないかそれも身内から   東風虎












■第二百五十三回  (2004月5月2日)

 先の「とろうのおの集H」の最後の歌について。
私はずっと不思議に思っていたのです。
農業高校や大学を卒業した生徒が農業を選択するのは当たり前ですし、
農家の子息が跡を継ぐのもふつうですが、それらも稀少になりました。
 そんなとき、会社員や商家の子息が卒業とともに
農業をしたいと願う例もきっといくらかはあるはずです。
その就職指導や受け皿は整えられているのでしょうか。
 察するところ、都会の若い教師やハローワーク職員の中には
「農業したい? そんな夢みたいなこと考えてないで、ちゃんとした会社を探しなさい」
なんて無神経な返答をする人もいるのではないでしょうか。
 しかし地方の農村は過疎化が進み、空き家も点在していますし、
減反で休耕田もいっぱい空いています。そんなところへ
住み込ませるという選択肢があってもよさそうに思います。
 不登校や引きこもりの受け皿にもなれると思うのですがねえ。
リストラで再就職先を探している人たちは言うまでもありません。

★きょうの古い短歌
早苗田を吹きわたってくる風くらいしかおごちそうとてございませんが  への












■第二百五十二回  (2004月4月26日)

    「とろうのおの集」H              中島虎彦

エイプリルフールの法螺も年ごとに磨きがかかりへのへのもへじ
ほの暗いランゲルハンス氏の島へ海馬が犬かきをしてゆく
慇懃に感謝のうたを詠む人へ批評めいたことも言われず
今年こそジャイアンツ戦のテレビなど見ないぞ五十男の自立
平和主義をわらう風潮しのびより唇寒くなる花ぐもり
四つ足のテレビは歩きだしたまま二十一世紀にもどらない
うた詠みはうた詠むことでさらされてゆかずにはおれぬ同時代 
いつなんどき臨時ニュースが飛びこんでくるかひやひやもののお花見
お花見の宴のあとの忘れもの女性下着が多いという
うろつくに子ども110番の旗みだりに増えてそそくさとゆく
もれてゆく私の個人情報は三円という大根花よ
夫(つま)の実家に一度も行かぬまま別れ女子アナがニュースを読んでいる
どこから来てどこへ行くのかありがちな問いだけれどもたんぽぽの花
ボロ買いのトラックに道をあけている後光が差してくるのはどっち
車いすの進出していない唯一の分野それが軍隊である
春さがし春遠足に春耕といいときに生まれ合わせてきた
ダム川にクレソンがやけに増えてきてさほど食べたいとも思わない
女子高生たのみますからスカートをもうすこし長くしてください
北九州100万都市を切るという憑き物も落ちてゆくことだろう
蕗となりようやくフキノトウのありか知らされているこの初夏も
柿若葉みれば誹謗中傷のことも忘れて背伸びしている
もっている免許といえば体操の三級審判員のみ
安全な国に身をおき戦争をうんぬんするのはおこがましいか

ななめから見ていると言われそういえばタイヤも片方からすりきれる
戦争中なにをしたかと問われれば「とろうのおの」を更新したのみ
日本には風鈴がある座布団がある風呂敷がある稲妻だって
人材が払底しているという声をよく聞きながら車いすがゆく
電話ぎらいなのはトラウマでもあるか思い当たりの徒食の時代
棒に振るほどの人生でありやなしコメンテーターのいかがわしさ
どうしてこう知性を感じさせてくれる政治家が少ないのだろう
霊ならば融通無碍のはずだから墓地から遠くてもわかるでしょ
これだけの就職難に百姓が選択肢となる話をきかず













■第二百五十一回  (2004月4月24日)

 英語指導助手として来日している外国人などがよく、
「日本の生徒はシャイだ」
ともどかしさをこめて指摘する。
大人の私たちが見ていてさえ歯がゆい。
 しかしそういう子どもたちの中から今のような
お笑い芸人やプロスポーツ選手や政治屋や青年実業家やコメンテーターが
雨後の筍のように育ってきているのだから、何の心配もいらない(笑い)。

★きょうの短歌
日本には風鈴がある座布団がある風呂敷がある稲妻だって   東風虎












■第二百五十一回  (2004月4月22日)

 このところちょっと屈託の日々を過ごしている。
佐賀県立美術館で星野富弘詩画展が巡回されているからだ。
 お隣のS学会員のおばさんも大ファンらしく、観に行きたいと騒いでいる。
キリスト教嫌いの家人も何か言いたそうな素振りである。

 神様がたった一度だけ
 この腕を動かしてくださるとしたら
 母の肩をたたかせてもらおう

 という詩句などにおそらくは心酔しているのであろう。
(ということは自分の子どもはそうじゃないからだろう)
『それにくらべてアンタは・・・・』というボヤキが聞こえてきそうだ。
 何のけれん味もなくこう書き放てる星野氏はすばらしい。
世の多くの全身性障害者たちがそう願いながらも
なかなか素直に口(や詩)に出しては言えず、
至らぬ自分に苦しんでいるのにちがいない。
そこにこそ文学の生まれてくる素地がある。
 気の毒なのは、世間の歓喜と好奇にさらされた星野氏だ。
いつもこんな見上げた心がけで過ごしていられるわけでないことは、
同じ障害を抱える私たちにはよーくわかっている。
にもかかわらず星野氏は「いい人」「できた人」を演じつづけねばならない。
さぞかし疲れることであろう。
そんなことを同情してみても負け惜しみとしか映らないだろうが。
 星野氏については拙著「障害者の文学」(明石書店、1997年)で
きちんと批評しているのだが、ほとんどの母親は読んでいない。
(なにしろ一家に一冊の星野本とちがって1500部しか刷っていないのだから)
あいも変わらぬ反応を見ているとよくわかる。
 星野氏へはその自著や同人誌などを寄贈しているが、返事はない。
おそらく何千、何万というファンレターが届くだろう氏には、
いちいち返事を書く余裕はないだろう。無理もない。
有名になるというのはある意味でつまらないことだ。
 同人誌仲間の一人は「取り合わないほうがいい」と忠告してくれている。
しかし地元紙が主催していて毎日その関連記事が載るから
いやでも目に飛び込んでくるのである。
いやあ、まいったなあ・・・・・。
 「障害者の文学」というこのホームページの性格上
一応は取り上げておかねばなるまい。

★きょうの短歌
ななめからものを見ているとよく言われタイヤも片方からすりきれる   東風虎















■第二百五十回  (2004月4月19日)

 平成の市町村大合併のため、
わが町でも一市四町の話し合いがもたれている。
新市名についても住民から公募されていた。
 それが先日「湯陶里(ゆとり)」市が選ばれたと発表された。
聞いた瞬間、「イヤだな・・・」と思った。だいたい
「湯ーとぴあ」「遊遊ひろば」「夢タウン」の類は大嫌いだ。
 そう感じたのは私だけではなかったらしく、
隣市の議会が大反対をしているという。
もっとも彼らは旧来の市名を熱望している。
 しかしそんなことを言えば、
わが町だって旧来の町名に人一倍由緒を誇っているのだから、
それを熱望する人ばかりになって、話はまとまらない。
 そこで私は「温泉市」というシンプルな名前を応募していたが、
(隣市もわが町も温泉地なのだから、痛み分けというところだ)
それは最終候補にも残らなかった。
 ちょっとムッとしていたが、
その後本州のどこかに「温泉町」というのがあることを知った。
ああ、それではまぎらわしいから無理もない、とあきらめた。
 隣市はここへきて脱退もありうると息巻いている。
それにしても「湯陶里」を応募した人はどんな気持ちだろう。
選定した委員会のメンツも丸つぶれだし、
この先、まだまだひと悶着もふた悶着もありそうだ。
 合併の願いが住民の間から澎湃(ほうはい)として湧き起こってきたものでなく、
おかみから「机上の論理」で突然押し付けられたものであるため、
こんな騒ぎになるのである。
 とはいえ「行政のスリム化」の必要性については誰も異論はない。
文字通り「総論賛成、各論反対」の例のとおりだ。
 私は新市名にもまして、新市議会の議員数をどれだけ削減できるか
そっちのほうを大いに心配している。

★きょうの短歌
柿若葉みれば誹謗中傷のことも忘れて伸びをしている   東風虎













■第二百四十九回  (2004月4月17日)

 先夜テレビのスター・チャンネルでアメリカ映画、
「ギルバート・グレイプ」(ラッセ・ハルストレム監督、ジョニー・デップ主演)を見た。
これで三回目ぐらいだが、そのたびに胸に迫るものがある。
「やかまし村の子どもたち」以来、この監督は失望させない。
 アメリカ映画というのは刑事ものやホラーものやSFものを初めとして、
平凡な庶民の暮らしというものがなかなか伝わってこないが、
この映画では普通の暮らしというものが切なく垣間見える。
 主人公は超肥満の母親と知的障害の弟の面倒をみなければならず、
さえない食料品屋で働き、得意先の人妻と不倫などしてお茶を濁しながら、
その狭い町からほとんど外へ出たことがない。
まずその設定がアメリカ映画らしからぬものである。
私(たち障害者)にも身につまされるものがある。
 そこへキャンピングカーで旅をしている母娘が通りかかり、
主人公と娘が恋に落ちる。外の世界への誘惑にかられるが、
母と弟を捨ててはゆけず、ぐずぐずと煮え切らない。
ここらへんもアメリカ映画らしからぬところである。
(なにしろスゥエーデン出身の監督だから) 
 主人公役のデップも繊細だし、弟役のデカプリオもすばらしい。
しかし最後の大団円は言わずにおこう。
あれでよかったのかどうか私にはわからない。

★きょうの短歌
春さがし春遠足に春耕といいときに生まれ合わせてきた   東風虎














■第二百四十八回  (2004月4月15日)

 やくざの論理、というものがある。
(かつて嬉野の病院に長く入院していたころ、同じ病棟にその世界の人が
二人入院してきたので、間近に接することができたのである)
 まず有無を言わせぬ既成事実をつくり、
誰かが文句を言おうとすると
「もう済んでしまったことをごちゃごちゃ言ってもしょうがないじゃないか」
と情感たっぷりに逆ギレするのである。
 まったくもってむちゃくちゃな話である。
何やらどこぞの首相を思い浮かべさせられる。

★きょうの短歌
私にも可愛いお嫁さんひとり来たって罰は当たらないだろう   東風虎