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うれしの温泉のホームヘルパーさん
中島 虎彦 さん
WORKING QUADS 編集者
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中島虎彦・編集者のプロフィール
中島虎彦
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中島虎彦:『ワーキング・クォーズ』編集者:佐賀県嬉野町在住
1997年8月27日、
第12回リハ工学カンファレンス佐世保
の会場で
うれしの温泉のホームヘルパーさん
佐賀県嬉野町吉田 中島虎彦
私は大学3年のとき器械体操の事故で頚髄損傷(略してケイソン)になって、今年ではや23年になる。言いたかないが44才のチョンガーである。現在は自宅で文筆業を営んでいる。昨年の八月には初めての本「障害者の文学」(明石書店)が出版されたばかりである。一月現在800部ほど売れているそうで、昨年末に第一回めの印税24万円ほどが振り込まれてきた。ケイソンになって以来最高の入金で、思わずニヤついてしまう。寝たきりで福祉手当の月額一万円しか収入のなかった長い期間を思えば夢のようである。また、文筆業のかたわら自然発生的にはじまった補修塾も開いている。なお、大学生時の私傷ゆえ国保に加入しておらず無年金で、現在は特別障害者手当(月額26000円)を受給している。
介護は主に母親に頼っていたが、さすがに老齢で弱ってきたため、平成八年から嬉野町のホームヘルパーさんに、週二回一時間半ずつ来てもらっている。入浴と着替え、掃除とリハビリ、買い物などの用事をやってもらっている。これは特別養護老人ホーム「うれしの」の中に併設されている介護支援センターの中の「ホームヘルプステーション」の管轄になる。
そもそもは町役場の厚生課に手紙を書いて窮状を訴えた。すると三日もせずに職員とヘルパーさんがやってきて、その場で派遣が決定された。恥ずかしながら世帯の所得の関係から個人負担は無料である。それはありがたいことには違いないが、精神の安寧のためにはわずかなりとも負担する形のほうがいいかもしれない。嬉野町にホームヘルパー制度が取り入れられたのは、はっきりとはわからないが十数年ほど前からではないかと思う。
県内でも基山町のケイソン西和雄さんなどは週6日来てもらっているというし、粗相の緊急時などはまた別枠で来てもらえるというから、市町村でも対応に若干の差はみられるようだ。もっとも私はケイソンの中でも比較的軽度で、自然排尿・排便を維持しているし、電動リフターを導入して自力で乗り降りできるので、週二回でもかなりの手助けになっている。しかし排泄が予定通りいかずに粗相することが、ケイソンにとっては一番の悩みだから、そういう緊急の場合にどう対応してもらうかが課題であろう。私の場合直前に電話すれば曜日を振り替えてもらうこともできるので、ある程度は助かっている。そういう意味では週二回一時間半ずつ来てもらうより、毎日15分ずつぐらいでも顔を出してもらうほうがありがたいかもしれない。風呂に入らなくても別に死にはしないが、粗相の始末はしてもらわないわけにはいかないからである。
現在、嬉野町には10名のヘルパーさんが登録されていて、全員既婚で子持ちである。募集要項に別段そういう規定があるわけではないという。津屋崎町のケイソン鈴木郁子さんに聞いたところでは、彼女は20代の独身ヘルパーさんに来てもらっているというから、自治体によってさまざまなのであろう。嬉野町はもちろん女性ばかりである。男性障害者に女性ヘルパーさんたちが入れかわり立ちかわり来てくれるのは「ハーレム状態だ」などと笑い飛ばすケイソンもいるが、あまり大っぴらにできる話ではない。中には男性のほうが気安くていいという人もいるだろう。現におとなり長崎県には男性のヘルパー(主任)さんがいるという。
対象となっている利用者は60名ほどである。そのうち障害者は八割ぐらいで、残りは老衰の方たちであるという。特に嬉野町の場合は国立病院に温泉治療によるリウマチの名医がおられるので、それを慕って移り住んできたお年寄りが多く、その方たちが利用者となっている。しかし保守的な風土から障害者はなるべく身内で面倒を見たいという世間体からか、対象者は増えていないらしい。そのため支援センターでは対象者の掘り起こしに乗り出しているという。
ヘルパーさんの平均年齢は45才というところで、私とほぼ同年代なのでちょっと照れ臭い。最初に来てもらった人は中学校の一年後輩だったし、現在来てもらっている人は高校は違うが同級生である。狭い田舎では当然こういうことが起こってくるので、プライバシーの面でいささか問題はあろう。「付かず離れず」という態度が望ましいために、担当ヘルパーは一年ごとに入れ替わる。それでも家庭の事情に深入りされたくない家族や、変にプライドの高い障害者は受け入れられないかもしれない。何を隠そう私の母も初めは猛烈な抵抗を示した。しかし身体が弱ってくるとそんな我も通せなくなるのだった。
なにしろ学校時代はピンピンしていた姿が今では電動車いすに乗った姿に変わり果て、アリノトワタリまで見られて介護してもらわねばならないのだから、最初の抵抗感は一通りではない。私はそれを「ありのとわたりまでヘルパーさんのもの」などという句にひねって笑い飛ばしている。たまにはうら若いヘルパーさんに来てほしいと思わないこともないが、きっと照れ臭さが増すことだろう。
いずれにしても、ヘルパーさんのおかげで飛躍的に自立が進んだことは間違いなく、いくら感謝してもしきれるものではない。ヘルパー制度もなく野たれ死にするように無念の最期を遂げていった過去の障害者たちを思うと、私たちははるかに恵まれている。しかし馴れるにつれてその感謝の念をともすれば忘れてしまうから、情けない話である。人間はいつもいつも「ありがとう」と言いつづけることにも疲れてしまうように出来ているらしい。
そのためヘルパーさんに私の編集している文芸雑誌をあげたり、社協に古切手を寄付したり、脊椎カリエスの友人が発行しているミニ新聞を他の利用者たちにあげたりするなど、イヤ味にならない程度で気を遣っている。母のほうも帰りにお茶菓子を出したり、畑でとれた野菜をお土産に包んだりして、負い目を薄れさせている。ヘルパーさんの中にはそういうことを杓子定規に辞退される人もいるが、素直に受け取ってもらったほうが私たちとしても気が楽になるのだから、世間とはそういうものであろう。とはいえそういうなあなあの風土が、やがては大蔵省金融検査官のような汚職を引き起こす大本になっているのかもしれないから、これはなかなか難しい問題ではある。ちなみに障害者はノーパンしゃぶしゃぶなどに接待されない分だけ果報者であると思わなければならないだろう。
とはいえ、現在のヘルパー制度が完璧というわけにはいかない。たとえば私が今要望しているのは、社協にあるリフト付きワンボックス車をヘルパーさんが県外などにも運転してくれないだろうか、ということである。というのも昨年初めて歯科医に4回ほど通院したとき、ヘルパーさんに付き添ってもらったうえ、当のリフト車を社協の所長さんに特例で運転してもらえたので大変助かったのである。しかし現在は運転手ボラを自分で確保しなければならないし、手動車いすしか乗れないし、町外の用事には使えない規則である。やはり事故が起こった場合の責任問題がネックになっているようなのだ。昨年のように融通を利かすこともできるのだから、もう少し柔軟に運用してもらいたいものである。
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清家一雄、代表者、重度四肢まひ者の就労問題研究会
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YS2K-SIK@asahi-net.or.jp