★1997年11月〜1999年3月
佐賀新聞連載 「くわるてっと」
( 四週間に一度ずつ)
中島虎彦





★第1回 文学を旅する


この「くわるてっと」では、万徳寺さゆりさんの奔放
な子育てなどをニヤニヤしながら読んでいたが、まさか
自分にお鉢が回ってくるとは思わなかった。私には今を
ときめくような中央での受賞話などないからである。ど
うやらこの八月に「障害者の文学」(明石書店)という
評論を出版したためらしい。

 これはもともと文芸同人誌「ペン人」二十号に一挙掲
載し、そのあと全国脊髄損傷者連合会の機関誌「脊損ニ
ュース」に二年半にわたって連載したものである。それ
を編集者の友人であった明石書店の担当者が読んで下さっ
ていたらしい。連載中いくらかの出版社から問い合わせ
があったのだが、最後の詰めになると「辛口すぎて売れ
ないだろう」と敬遠されていたのを、明石が「類書がな
い」と引き受けて下さったのである。いずれも世間の皆
さんにはほとんど知られていない誌面である。しかし、
コツコツやっていればどこかでちゃんと見てくれている
人がいるのだなあ、とあらためて勇気づけられるようだっ
た。地方の無名な障害者の書き手にとって、自費出版と
いう形でなく本が出せるということは文字通り「有り難い」
ことなのだと羨ましがられている。

 生まれ育った土地で二十年近く同人雑誌活動をやって
きた私にとって、実にこれが初めての本となる。数多の
著書を誇る同世代の作家などとくらべて、まことにのろ
まなみなので照れ臭いばかりだ。私の著作は決して少な
くないのだが、著書となるとどういうわけだかふんぎり
がつかないできた。

 この本でも何か結論めいたものを出そうとしているわ
けではない。なるべく自らを空しゅうして、障害者の文
学についてあらゆる可能性を提示してみせているだけで
ある。「これくらいは(障害者なら)誰でも書ける」と いう人もいるかもしれないが、何故だか今まで誰も書か なかったのである。  私は頸髄損傷のため排泄が不如意なうえに風采の整わ ないこともあって、とにかく派手なことや威勢のよいこ とが苦手でたまらない。そういう場所や人物には極力近 寄らないようにしてきた。外国へも行ったことがない。 ひたすら文学の広大無辺な世界を旅してきたのである。 本だけ読んだ人は私が戦闘的な人間だと思われるかもし れないが、実はグズな性分なのである。そのギャップに ちょっと悩んでしまう。(もっともこれは重度の障害を 負った者たちには普遍的な悩みであることに気づいてい るが)  そのため、いろんな方たちから陰に陽に尻を叩かれて きた。たとえば、「作者(障害者)の苦悩を万人のもの とせよ」という叱咤を始めとして、ある同人誌の先輩か らは「これを書いたないば、後はもうなーも書かんでよ かごたるもん」などと言われている。彼は県文学賞の常 連でもあるから、なかなか愛憎のこもった意見だと受け 取らねばなるまい。そういう苦言を呈してくれる読み手 をもっているところが、実は私の財産と言えるのかもし れない。これは他の障害者の書き手たちにはおいそれと 望めないことなのである。


★第2回 本と人のネットワーク


 「障害者の文学」を書く上で、資料を集めるのがひと 苦労であった。なにしろ障害者関係の本は私家版が多く、 たとえ出版社の企画であってもちょっと古いものだと品 切れや絶版になる。店頭ですぐ手に入るという幸運には 地方ではなかなかありつけない。  そのため、絶版になっている本は障害者の出版物を専 門に扱っている関係者から、私蔵の古本を分けてもらっ たりする。また、自費出版物で本人にも残部がなかった り、本人が亡くなっているような場合には、その縁者た ちの所蔵から全ページをコピーさせてもらうこともある。 その他は、やっぱり図書館が頼りである。  しかし私は電動車いすに乗りはじめた十五年ほど前、 三キロ下った吉田の公民館の図書室や、そこに巡回して くる県立図書館の貸し出し文庫にも、恥ずかしくて借り に行けなかった。数年後ようやく行けるようになったら、 今度は「利用者が少ない」ということで巡回してこなく なった。村の民度が問われているようで恥ずかしかった なあ。もう一度巡回してもらえるようにならないものだ ろうか。  なにしろいちいち出版元に注文していたら、とてもの ことお金が続かない。というのも私は大学生時の私傷ゆ え国保に加入しておらず無年金であり、福祉手当(現・ 特別障害者手当)のわずかな収入しかない時期が長らく 続いていたからである。  何とかしなければならないぞという必要に迫られて、 しだいに面の皮が厚くなり、十キロ離れた嬉野町の産業 文化センター(図書館)まで、往復四時間かけて借りに 行けるようになった。面倒そうに思われるかもしれない が、ドライブ気分で心楽しいものである。  そのうち私の事情に融通を利かしてもらえるようにな り、読みたい本がたまればFAXでリクエスト一覧表を 提出しておく。それを新規購入してもらったり、近隣の 図書館から取り寄せてもらえるのである。また、ついで の折りに持参してもらったりこちらの公民館に預けてお いてもらえるので、それを好きな時に受け取りに行くの である。返すときはまた公民館に預けておけばよい。ホ ームヘルパーさんに頼むこともある。  その他に、テレビ番組や新聞や雑誌の記事を見て、直 接作者に手紙を書いたり電話をかけて分けてもらうこと もある。これは手間と費用がかかるが、何度か礼状や批 評をやりとりするうちに友誼が培われて、その後長らく 文通が続いたりする。そういう友人が北海道から沖縄ま で広がっていったのは収穫の一つだった。  また、福岡の頸髄損傷でパソコンによる障害者情報の データベース作りをライフワークにしている友人がいる ので、そのファイルから作者の年譜や詳細を教えてもら えたのも大きい。そのお返しに私も自分の集めた情報を フロッピーディスクで送ったりしている。いつのまにか 人と本と情報の細やかなネットワークが形作られてきた のである。

 このように、実に多くの方たちの手助けによって、一 冊の本というのは出来あがるものなのだなあ、とあらた めて思い知らされている。


★第3回 見えないハードル


電動車いすに乗るようになると、さまざまなハードル
が待ち構えている。道路の段差や駅の階段は言うまでも ないが、心の中にもそれは立ちはだかっている。たとえ ばその一つに運動会があった。町民運動会や母校の運動 会などをなかなか見に行けないのである。不自由な自分 にひきかえあのはち切れそうな健康が妬ましいし、同級 生やその妻子たちに出会うのも気まずいからだ。これが 見知らぬ街へなら、新幹線でも飛行機でもフェリーでも 乗りついで行けるというのに、わずか三キロ下ったグラ ウンドまで行けないのである。その界隈にはバリヤーで も張りめぐらされているかのようだった。なんとか行け るようになったのは実に十七年めだった。私がいかにグ ズな性分であるかわかるというものだろう。

 さて運動会とともに、もう一つどうしてもクリアーで きないものがあった。それが同窓会である。ふがいない 自分にひきかえ同級生たちはちゃんとした定職につき、 家庭を築き、社会の中で相応の責任を果たしているので あろうから、とてもそんな中へのこのこ出かけてゆく気 持ちにはなれなかった。それに畳の会場だと電動車いす では何かと不調法で、落ちつかない思いをさせられる、 などと言い訳しながら逃げているのだった。  このたびの高校の同窓会にも、そんな事情を記して欠 席の返事を出していた。するとガタリンピックでおなじ みの幹事D君が、「洋間の会場にするから是非出てきて くれ」とわざわざ電話してきた。そう改まって言われる と断るほどの理由も見当らず、はずみでとうとう出席す る返事をしてしまった。卒業以来実に四半世紀ぶりであ る。  そうしてこの正月二日、さながら鬼門にでも踏み込む ような心境で、鹿島市の割烹に出かけていった。しかし 会場までの階段は男性陣が担ぎあげてくれたし、トイレ の心配は看護婦の同級生がしてくれた。「障害者の文学」 出版の記事が出た直後だったので、みんなに声をかけて もらい気遣ってもらった。落ち着いて見渡せば、なつか しい顔や思い出せない顔の数々。物故者が四人もいたの には胸を衝かれた。それに欠席した二百名の人生もひそ かに思いめぐらさずにはいられなかった。  そうやってお喋りにくれたあっという間の三時間だっ た。終わってみれば運動会の時とおなじく「何というこ ともない」のだった。本人が気にするほど周りは気にし ていないのであり、しょせんは障害者の自意識過剰にす ぎないのであった。これでまた一つハードルをクリアー することができたと、私は胸をなでおろして引き上げて きた。  その夜はみんなの顔がくりかえし浮かんでは消えてい き、なかなか寝つけなかった。そこで年末年始のテレビ の唯一の恩恵である深夜映画をつけ、ジュリア・ロバー ツの「愛の選択」というのを見た。白血病で死んでゆく 若者に添い遂げるジュリアを見ながら、私は他の多くの 障害者たちの現実をうつらうつらと考えていた。


★第4回 「ノンストップからノンステップヘ」


電動車いすでとろとろ歩いていると、がらがらに空い た路線バスに追い越されてゆく。そのたびに「もったい ないなあ」と思う。もしあのバスにリフトか超低床のス ロープが取りつけられていたら喜んで利用するのだが・ ・・・。  なにしろ重度の障害者たちにとって交通手段ほど不自 由しているものはない。私が佐賀市や博多へ行くときは、 だいたい身内のワンボックス車に抱え乗せてもらい、バ イパスや高速道路を利用する。昔とくらべればずいぶん 便利になったことを感謝せずにはおれないが、これだと どうしても身内の負担が重くなる。タクシーにはリフト 付きワンボックス車が少しずつ備えられ始めているが、 割引券を利用しても料金がかさむ。  公共の機関としては、社協にあるリフト車を借りてボ ランティアに運転してもらうこともあるが、運転手がな かなか見つかりにくい。最寄りのJR肥前鹿島駅からは 一度「かもめ」に乗ったことがある。最寄りといっても 自宅から14kmも離れているのだから、そこまで行く 交通手段にまた苦慮しなければならない。電動車いすで 鳥越峠をこえて片道だけ行ったことはあるが、バッテリ ーが干上がるのて往復はできない。  鹿島駅に着いてもエレベーターがないので、ホームま で狭くて急な階段を六人くらいの駅員さんに抱えてもら わねばならない。在来線の電車には入口に20cmほど の段差があるので、そこでも抱えてもらわねばならない。 もちろん駅員さんたちは皆親切で「前もって連絡して下 さればいつでも抱えます」と言って下さる。とはいえ、 ギックリ腰にでもなられたら申し訳ないと内心ヒヤヒヤ ものである。そんな大騒動をすることに気兼ねして、結 局出かけるのをあきらめてしまうことのほうが多い。  そのとき気づいた改善点をFAXにして、後日駅長さ んあてに送ったりしたが、果たしてどのくらい検討して いただけただろうか。折しもこの五日には、道路公団が 長崎新幹線ルートに嬉野温泉駅設置を公表してかすかな 期待を抱かせてくれたが、それとて完成までに何十年か かるかわからない。それまでの「つなぎ」が早急に求め られているのだ。  そのような中、大都市ではすでにリフト付きバスが走 り初めている。さらに最近では超低床(ノンステップ) バスが脚光を浴びている。昇降口の階段や段差を極力な くし、車い すのみならず最近めざましく増えてきた電動三輪や、松葉杖や乳母車や歩行器などに も利 用しやすくなっている。スロープのほうが操作が簡単だし安全なのである。これが地 方の 路線バスにもせめて一便なりと取り入れられたら、私なぞどんなに助かることだろ う。 もちろんこういう改装にはお金と手数がかかる。高度経済成長時代、非情な経済効 率の 世界をノンストップで生きてきた者たちにはまだるっこしく感じられるだろう。しか し、 かれらが社会的弱者にも公平に恩恵のゆき渡るような地道な社会作りを目指しておれ ば、 今日のような突出した経済発展もなく、社会が空洞化することもなく、外国から疎ま れる ようなこともなかっただろう。これからは時々立ち止まって、乗り物だけでなくノン ステ ップの仕様を活かしてゆくことが、奥ゆきのある社会作りに通じてゆくだろう。「ノ ンス トップからノンステップへ」。時代の合言葉としても語呂がいい。

★第五回 マイナスを聞いてプラスを知る?

「障害者と差別語」(生瀬克己著、明石書店)という本で、ポリオの語りべ牧口一 二が 面白いことを述べている。「肉体の名称を借りて表現を具体化している言葉は、なぜ か圧 倒的にマイナスイメージが多い」というのである。たとえば「腹が立つ、肩身が狭 い、お 手上げ、腰ぬけ、足手まとい、尻に敷く」などなど。 「圧倒的にマイナスイメージ」という指摘は思いがけぬことで、私は氏の挙げてい る数 十の用例だけでは得心できなくなり、自分でもその他の一覧表を作ってみた。参考に した 辞書は例の「新明解国語辞典」である。想像以上に用例が多く、六十ページにも及ぶ もの になってしまった。 それらを総計した結果、全五八例中、四七例がマイナスであった。案の定マイナス では 圧倒的に凌いでいる場合が多く、数少ないプラスでは僅少差で凌いでいる場合が多 かった 。とりわけ「頭部」に関しては一六例中「瞼」を除く一五例がマイナスである。最も 用例 の多かった「手」は辞典では一一五対一○五でプラスが凌いでいるが、その他の用例 を加 えた最終的な合計では一五四対一二七でやはりマイナスである。「血」「汗」「涙」 「唾 」「乳」のような液体類では、「乳」以外は僅少差でマイナスだった。例外として 「腕」 「心」のように圧倒的なプラスもわずかにある。「瞼」と「腕」については一考を要 する だろう。他のプラス例では「心」に次いで「魂」「肝」「霊」など抽象的な例が多い が、 これらはもともと「身体の部位」という前提からすると例外的だから除いてもよい。 そう なると五二例中四七例とさらにマイナスの比率は高くなる。 心臓に近い部位ほど重篤な表現が多いが、必ずしもプラスとはかぎらない。知的活 動に 関する部位はプラスと思われがちだが、案外半々である。身体の末端にゆくほどマイ ナス でぞんざいな用例が増える。「尻」など排泄に関する部位は当然のようにマイナス で、性 器に関するものも多いはずだが憚があり、地域によって方言が違うので定かではな い。ま た外国語の場合はどうなのか興味をそそられるがその暇がない。 氏は「これらには“標準 があり、それを“正常 とした上で、言葉が作られてい る。 例えば『頭でっかち、顔が広い、目にあまる、鼻が高い』などはその典型である。何 を尺 度にしての標準なのか定かではないが(おそらく常識・社会通念の類)、大きすぎて も、 小さすぎても、標準の枠からはずれると“異常 すなわちマイナス要素となるわけで ある 。差別語を云々する以前に、じつは日常会話そのものに、『標準形』を“善 とする 思想 が根深く存在している」と、差別の根にまで踏みこんで分析してみせている。 いずれにしても、人間は良いことよりも悪いことのほうに想像力が広がるものらし い。 人間はそれほど己の身体(欲望)をもて余しているのだろうか、とも感じさせられる が、 確かにマイナスは圧倒的に多くても同時にプラスもかなりの数に上る、という事実が 私た ちをかろうじて救ってくれる。なるほど「手練手管、二枚腰、首ったけ、厚顔、舌な めず り、怒髪天を衝く、腹芸、足癖、鉄腕、柳腰、膝詰め談判、中肉中背、桃尻娘、小股 の切 れ上がる、乳繰り合う、血潮」などという語彙に出会うと、何だかんだ言っても先人 たち はけっこう楽しんでいるようにみえるのだった。

★第6回 「二人のネパール」

このところネパールが偲ばれる。友人の向坊弘道さんと岸本康弘さんのせいだ。と もに 畏怖すべき障害者たちである。向坊さんは五九歳で頸髄損傷。東大生のとき交通事故 で受 傷してからもう四十年になる。北九州市で貸しビルや駐車場を経営するかたわら、頸 髄損 傷者のための情報交換誌「はがき通信」を発行している。何より篤い浄土真宗門徒と して 仏教の研究所を掲げ、ブラジルやヨーロッパにまで布教の講演に出かけてゆく。フィ リピ ンのルセナに日本人障害者のための滞在所「GLIP」を運営している。そうしてイ ンド 仏蹟巡拝の際に仰いだヒマラヤの威容と人々の素朴さに感動して、ネパールのポカラ 市の ペワ湖付近に、一九八八年頃から仏教研究所(民宿)を建設している。費用は門徒な どか らの寄付と自著の「甦る仏教」(北九州市八幡西区黒崎三,八,二二。グリーンライ フ研 究所発行)の売り上げで賄っている。 ほとんど全身的な麻痺のため旅は難渋をきわめ、途中で何度も死にそうになってい る。 ひそかに客死を望んでいるようにさえ見える。雇いの介護者太田女史とは弥次喜多道 中の ような名コンビである。うちにもひょいと訪ねてきてくれるので、私もGLIPを通 じて 現地の頸髄損傷者に中古車いすを寄贈させてもらったりしている。 一方、岸本さんは六一歳の脳性マヒ。宝塚市で印刷業を営むかたわら詩を書いてい る。 「ふるさと紀行」という季刊誌で同じ連載仲間として、彼が「人間やめんとこ」「手 をと めて、冬」などの詩集を出すたびに頒けてもらっている。三年前には関西文学賞(詩 部門 )も受けている。今年九番めの詩集「傷が咲く」を出したばかりだ。小中学校へ行け ず、 「父さんが死んだら。お前も首をつって死ね」と言い残されたのを見返すため、通信 教育 などで独学をしてきた。苦しい経営のあいまに杖をついて世界中を放浪してまわる。 そうやって一九九四年に訪れたネパールで、少女が時計の針が読めないのにショッ クを 受け、せめて母国の言葉で読み書きができるようにと学舎の寄贈を思い立つ。奇遇に も向 坊さんと同じポカラ市に建設の運びとなる。授業料は無料で、教師の給料などは彼の 貯金 と友人のボランティア基金でまかなっている。宇部の畑山静枝さんら有志の賛同を得 て、 今度は学舎の隣の空き地を運動場として買い上げようとしている。私もわずかばかり の加 勢をしているが、まだまだ目標額に満たないので有志の方々のカンパを募っている (連絡 先:宝塚市安倉南4.34.4)。彼は阪神大震災に遭ってから障害が進んで大きな 手術 を受け、現在ほとんど身体が利かなくなっている。残った生命の灯をかき立てようと して いるかのようだ。私のような根っから出無精の障害者の代わり、二人は業を煮やした よう に世界中を飛び回っているのかもしれない。 もちろん慈善と偽善は紙一重だし、彼らの行為が現地の人たちにどう受け止められ てい るのか私にははわからないが、どうか根づいてほしいと願わずにはいられない。重い 障害 を抱える二人だが互いの面識はないようだ。しかし漂白のすえともにネパールの地に たど り着き、研究所や学舎を建設しているという奇遇を、私はただ事実通りに伝えること しか できない。北欧やバークレイも素晴らしいが、ネパールの何が彼らを呼び寄せるのだ ろう 。私もいつか訪ねてみたいと思っている。

★第7回 「水戸事件その後」

たとえば「花巻」と聞いて宮沢賢治を思い浮かべる人は多いだろう。その文学によ るの は幸いな場合である。ある地名が人々に記憶されるのは、作為を超えている場合が多 い。 では「水戸」と聞いて思い浮かべられるのは何だろう。 NHKの大河ドラマ「徳川慶喜」では、慶喜の出身地である水戸藩が舞台になるこ とが 多い。しかしそういう歴史に興味の薄い者にとって、「水戸」といえば「黄門様」か 「納 豆」が思い浮かべられるくらいであろう。私もその例にもれなかった。ところが、一 昨年 頃から「水戸事件」という騒動が刻々と明らかになるにつれて、水戸の名は皮肉にも 私( たち)に焼き込まれてしまった。こういう記憶のとどめ方をされるのは、水戸の善良 な市 民たちにとってじくじたる思いがあろう。 「水戸事件」というのは、ご存じの方も多いだろうが、水戸市でダンボール加工を 行っ ている「アカス紙器」(現在は水戸パッケージと改名)の前社長であった赤須正夫 (四九 歳)とその仲間たちが、住み込みで働く知的障害をもつ従業員約三十名に対して、に わか には信じられぬほど残虐な暴行や性的いたずら、給料のピンハネや障害者雇用助成金 の着 服を長年にわたってくり返していた、のみならず周辺の対応にも不審が残る。という 事件 である。その証言録などを読むとあまりにも酷い。案の定昨年の三月には水戸地裁で 赤須 被告に「懲役三年、執行猶予四年」という判決が言い渡された。しかし甘すぎる判決 に怒 った支援者たちともみ合いになり逮捕者が出たりもした。詳細は「水戸事件のたたか いを 支える会・全国事務局」(東京都港区新橋四,八,九地球塾気付)発行の資料集「絶 対許 さねえってば」を参照願いたい。 事件への対応が無責任だと追求されている福祉事務所や警察署は、これをもって落 着し たと見なしたがっているようだが、事件はまだまだ尾を引いてゆきそうだ。判決は赤 須の 認めた暴行や助成金着服についてのものであり、最も解明の難しいレイプについては よう やく関係者の証言が出揃いはじめ、次なる訴訟が控えている。そういう微妙なプライ バシ ーについては、関係者の一部に「もう触れられたくない」という空気もある。 さらに問題を複雑にしているのは、アカス紙器が実は事件前には「障害者雇用に理 解あ る優良企業」だと見られていたこと、障害者たちの親に「アカスをやめさせられたら 他に 行くところがない」という負い目があったこと、知的障害者の人権への見くびり、市 民た ちの無関心、そして被害者の中には自分の受けた虐待の意味がわからず、またそれを 正確 に表現できない者もいたことである。それを親や役所がなかなか本腰を入れられな かった 言い訳にしている。赤須らはその免罪符を最大限に悪用しつづけたのである。 できれば触れずにすませたい事件だが、これはあくまで氷山の一角にすぎず、各地 から 似たような被害が明かされてきている。佐賀でも他山の石とすべきだろう。いずれに して も、人間だから罪を犯すのは仕方ない。肝心なのは露見した後の態度であろう。いつ でも 黄門様が胸のすくような裁きをつけてくれるとはかぎらない。

★第8回 生き残りの知恵

このあいだ、鳥越峠を越えていたら、谷底にチラッ、チラッと白すぎる筋が見え る。違 和感を覚えて覗きこんでみると、溝を三面コンクリートに改修しているところだっ た。そ ういえば年度末であった。私は打ちひしがれてしまった。 今や日本中どんな山奥や路地へ入っても、この三面コンクリ水路に出会う。経済効 率第 一主義の落とし子である。同時に周辺の農道なども整備されるから、電動車いすでも そん な山の上まで登れるわけだ。田んぼの畦ぬりや草払いなどの手間も軽減される。父祖 たち の長い労苦を知っているから、そういう時代の趨勢も無理からぬと思う。厳密にいえ ば峠 越えの舗装路だってエコロジストなどから見れば暴挙だったはずだが、今では必要最 低限 の要路とみなされている。文明のどこまで逆上って批判できるのか難しいところであ る。 それにしてもだ、あんな谷底まで固めてしまうのはやり過ぎではないだろうか。い くら 年度末だからって別の予算の使い道がありそうなものだ。しかし身内にゼネコン関係 者が いればこんな批判はできなくなる。ゼネコン関係者は国民の五人に一人だとも言われ るの だから、私たちは一つまた一つと口を噤んでゆかねばならなくなる。 にもかかわらずもうそんなことを言っている段階ではないような気がする。三面コ ンク リで固めてしまうと、上流の雨水が一気に河川へ流れこみ、その河川もブロックで固 めら れているから一気に海へ流れこむ。固められた岸や底からは水棲の生き物が締め出さ れ、 土や草や虫たちによって分解されない家庭排水は、どんより淀んだまま無言で駆け 下って ゆく。そして海が淀み、そこで採られた海産物が私たちの口に戻ってくる。 それより懸念されるのは、三面コンクリを見るときの私たちの胸の内の「すさみ」 であ る。電動車いすから覗きこむようになって、ひときわ敏感に感じさせられる。もし転 落し たら骨折くらいでは済まないだろうなと、肘や膝がひりひりしてくる。幼児や動物が 落ち たらつかまり処もない。白すぎる照り返しが目を射ってくる。子どもたちは水辺に付 かず 離れず道草を食ってゆくのが好きだが、それが延々あんな眺めでは我しらず「ムカ ツ」い たり「切れ」たりしたくもなるだろう。 一体どうすればよいのだろう。何とか床面だけでも剥がしてほしいが、あれだけの コン クリを速やかに剥がせるわけもない。剥がしたとしても代わりの工法がみあたらな い。昔 の土手に戻せる流域の余地もない。石垣を積み直せればばよいが、浸水や水害が心配 され る。せめてもの救いは風雪とともに両岸に土砂が堆積して二次的な土手が形造られ、 特に 川の蛇行する内側には自然と堆積するから、そのあたりから剥がせないものだろう か。 あるいは、床や壁に直径10cmぐらいの穴を開けたらどうだろう。すればそこか ら水 草が生え、水流のクッションになる。生き物が住みつき排水を分解してくれる。落ち ても 這い上がるつかまり所になる。新規のブロックにはあらかじめ穴を開ければ原料の節 約に もなる。それほど費用もかからず短期間でできるのではないか。それによって多少の 泥詰 まりや浸水は起こるだろうが、それも養分を含んでいる。何もしないよりはマシだ。 これからのゼネコンは巨大な建造物を誇るよりも、そういう修復のノウハウを身に つけ てゆくことが、生き残りの知恵になってゆくような気がする。

★第9回 ネーミング小考

今どきロマンのある話にはなかなか出会えないとお嘆きの向きに、とっておきの話 があ る。それは「障害者」に代わる呼び名を見つけ出すことだ。 なにしろ「障」(さわる)「害」(がいする)という語感はいただけない。もう少 しす んなりした言葉はないものだろうか。障害者問題にかかわる人なら誰でもそれに代わ る呼 び名を探そうと知恵をしぼってきた。PC(ポリティカリー・コレクト。政治的に正 しい 表現をめざそう)運動などの流れもあり、方々から新たな案が掲げられてくる。今ま でに 私が見聞きしただけでもこんなにある。 障碍者、健障者、障尊塾、共生者、共働者、協働者、個性人、個性派人間、クセモ ノ、 生涯者、笑外者、障外者、身招者、身渉者、身尚者、身照者、身昭者、身将者、介化 人、 笑介者、手帽者、トライニー、傷おい人、ハンディスト、昴宿人、統る人、新生者、 こっ ち、啓発人、療友、charengedなどなど。 実をいえば、私も「精神薄弱者」を「知的ゆっくり(のんびり)」などと提案した こと がある。障害の意味性にこだわらないなら、団体や機関誌名として「ありのまま」 「そよ 風」「たんぽぽ」「飛璃夢」「はぴねす」「夢旅人」などがある。 これだけの候補にもかかわらず、いまだに決定打が放たれているようには見えな い。何 十年にもわたって知恵を出しあってきたというのに、どうして定着しないのだろう。 どこ かしら不毛な感じさえする。最初に「障害者」という語を作った人が恨めしくもな る。 やはり「障害」をめぐる人々の意識そのものが変わらないかぎり、言葉だけ言い替 えて もリアリティは伴わないということだろう。新興政党の党名や公約などに見られる美 辞麗 句のそらぞらしさを思い浮かべればよい。あるいはインターネットなどによる情報の 共有 化から、現代人の思考力の飽和状態が感じられる。一つ目新しいものが発表されても たち まち知識の書き割りに組み込まれて色褪せてしまう。案外と、障害を描いた一篇のす ぐれ た文学作品の中の用語などから、巷へ流布したりするものなのかもしれない。 それに比べると、方言による呼び名は相変わらず生々しい。津波が入江の奥深くへ 達す るほど高さを増してゆくように、土俗的な差別感を濃くしてゆく。そのリアリティを 何と か取り込めないものだろうかとも思う。そういうとき思いおこすのは、瀬戸内の漁師 たち による風の呼び名である。「あをぎた」「あぶらまぜ」「しらはえ」「ほしのいりご ち」 など。あるいは我が家の近辺の田畑の通り名である。「いのつ」「なっごら」「かっ き」 「じゅうま」「きしょうで」「ほいき」などなど。このシュールな語感はどうだろ う。 ともあれ「熟年」という造語が定着しているような例もあるから、全く希望がない わけ ではない。これぞという呼び名を思いついたら、癌の特効薬や原子力に代わるエネル ギー の発見とまではいかなくとも、歴史の一ページに名を刻めるかもしれない(?)。 「ざぶ ん」や「どぶん」という隠語に腐心するより、少なくとも前向きであろう。

★第10回 「夢のみをつくし」

参院選も終わったが、私はいつも郵便投票をしているので一度も棄権したことはな い。 これは数少ない自慢の一つだが、調子に乗って言えばもう一つある。障害者関係の団 体や 研究所や医療機関やメーカーから送られてくるアンケートに、回答しなかったことは 一度 もないということだ。投票と同じく律義に答え続けて何が変わるというのだろう、そ んな 徒労感に苛まれないわけではないが、作成した人の苦労を思えば放ったらかすわけに もい かず、何事も始まりの一歩だと思い直して回答するようにしてきた。 話は変わるが、昨年の評論「障害者の文学」(明石書店)で、私は「夢」に関する 一章 をもうけ、古今東西の障害者たちが夢を題材にして描いた文学作品を取りあげ、その 魅力 と可能性について論じた。そしてその後も資料集めだけは続けている。たとえば「夢 の覚 え書き」などもその一つである。想像力の奥ゆきを探ることが、障害者の文学の生き のび る道だと思われるからである。 電動車いすに乗るようになってから、夢の中の自分は当初ほとんど立って歩いてい たが 、いつからか少しずつ車いすが登場するようになった。夢の中ではまだ自由に闊歩で きる という楽しみが費えてしまうのだろうかと思っていたら、二十年め前後から揺り戻し のよ うに歩いている姿が増え、それを過ぎると立っているのでもなく車いすに座っている ので もない、中途半端な姿が登場するようになった。車いすやベッドの影はどこにも見え ない のだが、私の意識ははっきり足腰の萎えたものなのである。 こういう観察によって、その人の障害の受容度合いが測られるかもしれない。その 後さ らに何人かの体験を聞くうち、ある年配の頸髄損傷者から「車いすに乗っている夢は 一度 も見たことがない」と聞いてびっくりしてしまった。車いす乗りなら誰でもいつしか 車い すに乗っている夢を見るようになるものであり、その比率に個人差があるだけだろう と思 いこんでいたので、これはもう少し事例を集めてみるべきだと思い知らされた。 そこで、私は全国の車いす乗りたちにアンケートすることを思いついた。今までは 回答 するばかりだったから、まさか自分が送り手になろうとは、ちょっとこそばゆかっ た。 「障害者の夢に関するアンケート」と題して、「あなたの夢に車いすが登場したこ とは ありますか」「登場したのは受傷後何年めですか」「夢の中での歩行と車いすの比率 は現 在およそ何対何ですか」「その比率は年数とともにどう変わってきましたか」「夢の 中で 車いすに乗っている自分をどう感じますか」「今までにみた印象的な夢をご紹介くだ さい 」などという設問を、ワープロで印刷し公民館でコピーしてもらい封書で数十通発送 した 。同封した葉書(青い鳥葉書など利用)に無記名で番号だけ記してもらう。性的な質 問も 折りまぜたかったが、さすがにいきなりははばかられた。 現在二十通ほど回答をいただいていて、興味深いものも混じっている。ちょっとし た心 遣いにも感じ入らせられる。主旨に賛同してくれた東京や福岡の方からは、機関誌や パソ コンネットに転載して全国に呼びかけてやろうという申し出もいただいている。年末 頃そ れらを集計するのが楽しみだ。これを読んで興味を持たれた障害者の方が回答をお寄 せ下 さるのももちろん大歓迎です。

★第11回 「新郷土」の新編集長候補!

八月○日の当紙に、「新郷土」の復刊を促す横尾文子さんの提唱が載った。「将来 を鑑 み教育的見地に立った総合雑誌は、やっぱり、公の機関で刊行してもらうしかない」 「伝 統ある雑誌の長いブランクは取り返しのつかない大きな損失となって、後代に崇って くる 」などなど。確かに県内の書き手たちの貴重な発表の場が奪われ、それ以上に“批評 の場 が奪われたことの意味は大きい。八月は日本人にとって追悼の月であるが、同時に 佐賀 人にとっては「新郷土」への複雑な郷愁を誘う月でもあるらしい。その編集にいくら かで も協力してきた者として、内心じくじたる思いだ。 私は平成七年十月二二日の当紙「論論ワイド」(新郷土復刊問題特集)で、河村健 太郎 さん、大塚巌さんとともに寄稿させていただき、「最大のネックとなっている“狭義 の芸 術文化にしぼった編集を という声には差別感がまとわっている」「今は普通の生活 のレ ベルで文化をとらえ高めてゆく時代」「市民意識という『パンドラの匣』を開けてし まっ た以上もう後戻りはできない」「愛読者層が六十代以降の男性と三十代以降の主婦に 大別 されて、その両勢力を結ぶ架け橋が見つからない」「行政には“金は出すが口は出さ ない という大人の度量を確約してもらわないと」「県外からの賛辞では『行政の懐の深 さを 感じる』という声が特徴的だったのだから」というようなことを述べた。 一方、河村さんは理想とする新雑誌の夢想を述べられ、実際に翌年六月「佐賀文 化」を 創刊され、氏なりの筋を通された。私は嬉野の図書館で三冊ほど読ませていただいた だけ だが、国際的な現実への視野の必要性や、地域の歴史の研究発表の重要さには夢にも 異論 などない。しかし部分的にはかなり無謀な論理も見受けられた。河村さんの個人誌と いう 色合いが濃く、開かれた県民の総合雑誌となる日は遠いように思われた。その河村さ んも 志半ばで早逝されてしまい、今はご冥福を祈るしかない。 論争を受けての私なりの実践は、その後の評論「障害者の文学」などを通して表明 して きたつもりである。しかし肝心の「新郷土」が休刊のままではなにぶん申し訳が立た ない 。だからといって復刊をせっつくだけでは能がない。官民にこだわらず実際に後の編 集長 を引き受けていただきたい候補者として、文芸批評家の池田賢士郎さんや、佐賀女子 短大 の田口香津子さんや、童話作家の白武留康さんなど私なりの願望はあったが、それぞ れに ご都合もおありのことだろう。 そんな折、神崎の詩人吉岡誠二さんが今年になって教職を辞され、息子さんとパソ コン を駆使した編集工房を旗上げ、「水脈」という総合詩誌を創刊したり、「佐賀の詩」 とい うアンソロジーを刊行したりと、矢継ぎ早の動きを見せ始められた。胸に期するとこ ろが おありのようだ。そこで唐突だが、氏のような精力的な方に業務を引き受けてもらっ たら どうだろう。工房でパソコン編集してもらえば省力化が望めるし、若い通信者も増え るか もしれない。これはあくまで私の勝手な思いつきで、吉岡さんご迷惑なら許してくだ さい 。しかし文化課から三顧の礼を尽くしてもらえば、万に一つぐらいその気になっても らえ るかもしれない。 (おまけ: 佐賀の男が骨無しかどうか。はからずも「枯れ野をゆく旅人の厚いマ ント を脱がせるのは、北風よりも太陽ですよ」と言われた方もある。あとは「文化立県」 を掲 げる知事さんの度量しだいであろう)

★第12回 「待望のサービス」

以前「ノンストップからノンステップへ」という題で、(電動)車いす使用者の交 通手 段について窮状を述べ、筒石賢彰さんなどから共感をいただいたが、その後日譚。 私はこの春から「ふくし生協佐賀」(佐賀市駅前中央三.八.一六、 ○九五二. 三三 .七一○八)の会員になった。これは五年ほど前に発足した準備会で、佐賀における 民間 介護サービスの草分けである。障害児(者)の託児や軽介護サービスを中心に活動し てお り、障害児(者)を抱えて疲れ気味のお母さんたちから喜ばれていたのだが、この春 に低 床スロープ式の軽ワゴン車が日本財団から寄贈されたのを機に、(電動)車いすの移 送サ ービスも始められたのである。(念のため「コープ佐賀」や「ふくし佐賀づくり」と は直 接関係はない)。 私はそれを意外にも(商売仇とも言える)佐賀市社協から教えてもらった。官民の 立場 の違いはあるにしても、不備な現況の隙間を埋めてもらえるので、社協としても内心 は頼 りにしているようなのだった。佐賀でもようやく民間の介護サービスが本格化してき たの である。利用する側にしてみれば、制度はどうであれ官・民補いあってより密度の濃 い介 護が整えられればそれに越したことはない。 この車は後部ドアの下半分を展開してスロープにし、電動車いすでも楽に乗り降り でき るので、リフト車より簡便で安全である。ただし軽のため窮屈でリクライニングの電 動車 いすなどは入れない。費用は一時間当り平日八百円、土日千円、ガソリン代が五キロ 百円 。リフト付きタクシーなどに比べるとはるかに割安である。利用するにはまず会員に なら なければならず、入会金四千円と年会費二千円ほどが必要。高いと感じる方もいるか もし れないが、その人の生活スタイルによって評価は変わってくるだろう。私などは大変 重宝 している。何でもお金で割り切ってしまう風潮は味気ない、と憂慮されないわけでは ない が、家族やボランティアへの気兼ねがいらない点はお金には替えがたい。 わが意を得たりとばかり、私はさっそく県立美術館の「沢田痴陶人展」や「副島種 臣展 」、大村湾、川上峡での「ハビトゥス」誌食事会、若松の向坊弘道氏宅「アジア歴訪 写真 展」とバーベキュー大会、伊万里の九州詩人祭佐賀大会などへホイホイ出かけてき た。そ れぞれに印象深い。こんな格好のサービスをどうして今まで誰も教えてくれなかった のか と内心腹が立ったが、今春から始まったのだから無理もない。これがもし利用者が少 なく て潰れてしまうようなことがあれば、私たちは再びかつての不自由を忍ばなければな らな くなるのだから、友人や近くの療護施設などにも紹介している。県内にかぎらず近隣 なら 他県の方でも会員になれる。目下のところは私が一番のお得意様だと言われている。 この移送部門はまだ赤字だそうだが、往復の空車の料金などが重荷なのでもう少し 割引 してもらえたら助かる。タクシーチケットなどを転用できるよう行政の補助を仰ぎた いと ころだが、それはふくし生協だけでなく当事者からの働きかけも必要、と代表の西田 さん から暗にハッパをかけられているところだ。

★第13回 「永井隆と山田かん」

「障害者の文学」を連載させてもらった「脊損ニュース」に、その引用文献を一冊 ずつ 詳しく紹介する「BOOK ENDLESS」(ブックエンドのもじり)という書評 欄を 、昨年末から連載させてもらっている。二番煎じだと思われるかもしれないが、先の 連載 中には誌面の都合から割愛せざるをえなかった部分や、新たに気づかされた視点など を補 っておいたほうがよさそうに思われたからである。 これまでに、脳性マヒ箙田鶴子の自伝「神への告発」、脊椎カリエス酒谷愛郷の川 柳句 集「遠野」、傷痍軍人山崎方代の歌文集「青じその花」、伊賀の頸髄損傷北村保の句 集「 伊賀の奥」などなど、忘れがたい本を取りあげてきた。 その五月号には、被爆者であった永井隆の「長崎の鐘」を取りあげさせてもらっ た。小 学校の頃から長崎市方面へ旅行にいくと、ガイド嬢からよく聞かされたものだが、実 際に 読んだのはつい最近である。永井は奇しくも原子物理学の研究者であったため、被爆 した 直後に次のようなことを書いている。 「原子物理学の学理の結晶たる原子爆弾の被害者となって防空壕の中に倒れておる とい うこと、身をもってその実験台上に乗せられて親しくその状態を観測し得たというこ と( 中略)は、まことに稀有のことでなければならぬ。私たちはやられたという悲嘆、憤 慨、 無念の胸の底から、新たなる真理探求の本能が胎動を始めたのを覚えた。勃烈として 新鮮 なる興味が荒涼たる原子野に湧きあがる」 このくだりを読んで私は腹の底から震えあがるようだった。驚くべき科学者魂と言 おう か、日本人離れした楽天性と言おうか。あの混乱のさなかにこういう日本人(障害 者)も いたのだということを、誰かに伝えずには相すまない気持ちになったのである。 ところが続編の「この子を残して」を読み重ねるうち、もともとカトリック教徒 だった 彼の「原子爆弾は決して天罰ではなく、何か深いもくろみを持つご摂理のあらわれに 違い ないと思った」とか「原爆に見舞われて、私たちは幸いであった」とか「カトリック 信仰 のみが絶対の真理把握の道である」などという異様なまでの告白にすっかり面くらっ てし まった。これは公平を期しておいたほうがよかろうと、同じ長崎の被爆者で詩人であ る山 田かん氏の、某紙に載った永井批判をも併せて記しておいた次第である。 その経緯から氏にも掲載誌をお送りしたところ、丁寧な感想と更なる資料を送って もら った。そのうち「潮」誌への寄稿によると、永井の宗教的エゴイズムと科学者として の予 見の甘さと民主々義への悪意を鋭く暴いてあり、私は二重の衝撃を受けた。先の二冊 しか 読んでいなかった段階での私の怪訝は大きく外れていなかったことを証明してもらっ た格 好ではあるが、まさかそこまでとは思わなかった。山田氏はその一文によって宗教団 体の 機関誌から糾弾を受け、孤立無援に陥った苦い記憶をも明かしてくれた。 そこで私はさらに「ロザリオの鎖」「いとし子よ」「乙女峠」などを読みついでみ ると 、やがて遺児となるはずの二子への語り遺しなどは相変わらず涙なしに読めないのだ が、 なるほど山田氏の指摘するような悪魔的な二面性には、うーむと深く考えこんでしま うの だった。一冊の本を紹介するとはつくづく恐ろしいことだと思い知らされた。

★第14回 宮沢賢治への旅

平成元年の秋、東北新幹線「やまびこ」から薄暮の新花巻駅に降り立ったとき、私 は胸 にこみあげてくるものを禁じえなかった。「サムサノ夏」とまではいかないが、九州 を出 た朝にはまくっていた長袖を思わず引き下ろしたほどだった。 そもそも所属する障害者団体の総会に出席するために訪れたのだが、電動車いすを 言い 訳にして出無精をかこち、まして形式ごとの総会にはほとんど参加しない私が、どう して 初めての飛行機と新幹線を乗りつぎ(とかくの東京を素通りして)はるばる花巻くん だり まで出かけてきたのかというと、ひとえに持ち回りがかねて敬愛する宮沢賢治の生誕 地で あったからである。好きなもののためには人は走らされる。 申しわけないことだが気もそぞろで総会をすごしたあくる日、市内観光ではもちろ ん文 学散歩コースを選び、あちこち堪能させてもらったことは言うまでもない。これも会 員で あったればこそである。岩手の皆さん、その節はいろいろお世話になりました。あれ から 毎年秋になると、賢治記念館で目のあたりにした黒革の手帳や、セロや、生原稿や、 かし わ林のたたずまいが胸に明滅してくる。賢治にはとかくの批判もあるが、「それでも 賢治 は面白い」という再発見から絶えず呼びもどされてきた。 その賢治がどうして「障害者の文学」に関連してくるのかと、研究者などからはお 叱り を受けるかもしれないが、死病となった肺病について三浦綾子の「道ありき」などと とも に「療養者の文学」という範疇でくくることができないわけではない。しかしそれを 言う なら昭和二八年には栄養不良から国民の五七%が結核に感染していたともいうのだか ら、 その対象者は際限もないことになってしまう。 そうではなくて、賢治作品の特異な表現を、奔放な想像力によるとみるだけでな く、何 かもう少し病理的な要因からきているのではないか、という怪訝が湧くのである。実 際精 神病理学の福島章氏は「中毒性ないしてんかん性のもの」「躁うつ病性のファーゼに おけ るもの」などと推察している。ドストエフスキーだっててんかん持ちだった。これが 証明 されたなら賢治もまた「障害者の文学」を突き詰めた一人だということになる。 医学的なことはともかくとして、賢治は私たちとは違った世界を見ていたのかもし れな い。たとえばそれを父親の政次郎は「前世に永い間、諸国をたった一人で巡礼して歩 いた 宿習があって、小さいときから大人になるまでどうしてもその癖がとれなかった」と 回想 している。巡礼の径庭は、法華経の信徒であった賢治にとって十万億土でもあったろ う。 私見をいえば賢治は本質的に「森の民」であったから、数千年の歴史しかもたぬ農業 とは 相いれなかっただろう。そういう賢治の孤独な旅に最もまざまざと寄り添ってゆける のは 、同じ障害を持つ私たちなのかもしれない。 賢治の追いもとめた「現実世界の幸福」はついに得られぬままだったが、かわりに あれ ら膨大な詩や童話が残され、時代と国境をこえて多くの人々を掬いあげている。のみ なら ず花巻の街を歩けば、土産ものの暖簾やまんじゅうや観光名所となって郷里の経済を も潤 しつづけているのだから、皮肉といえば皮肉な話である。

★第15回 見えないハードルA

昨年五月、県立美術館の「沢田痴陶人展」を観にいった。痴陶人といえば、私がよ く嬉 野の街まで往復する道すじに、彼の晩年住んでいた農家が残っている。今では珍しい 藁葺 きの母家に土壁の小屋が似つかわしい。没後は空き家になっているので、朽ち果てた 感じ がさらに趣をかもしだしている。しかし展覧会のほうは対照的にビビッドなもので、 焼き 物にうとい私にも絵皿から紋様がピョンピョン跳びはねてくるようだった。 その帰り、迎えのふくし生協車が来るまで間があったので、私は余韻を冷ますよう に西 堀端の遊歩道をめぐり、佐大のほうまで電動車いすの足を伸ばした。かつてそこの学 生で あったころ、材木町と本庄町に二年半ほど間借りしていたので、ことのほか馴染み深 い界 隈だった。講義をさぼったパチンコのあとなど、大楠の陰の石のベンチに腰掛けなが ら、 「このままで済むはずがない」と予感したりした。案の定三年のとき頸髄損傷の障害 を負 ってしまい、それから一度も大学へ舞い戻ってきたことはなかった。佐賀市へは何度 も来 ていたのだが、用事にかこつけて何となく寄りつけないでいた。そこにもやはり例の 「バ リアー」が張りめぐらされているようだった。 だからその界隈に踏み入ったのは実に二十四年ぶりだった。雨が降ればすぐに冠水 して いた野中商店前の四辻では、日曜で学生の姿は少なかったが、外国人留学生の姿をち らほ ら見かけたのが何となく誇らしかった。正門脇からキャンパスに入ると、メタセコイ アの 並木がぎょっとするほど背丈を増していて、メインストリートは小暗いほどだった。 確か に歳月が過ぎていた。少しずつ記憶の糸をたぐりながら、経済学部の校舎や大講義室 や学 生食堂やテニスコートをめぐり、とうとう忌まわしい体育館の前まできた。 そのフロアーのマットから二十四年前の夕べ、私は急救車で担ぎ出され市内の整形 外科 へ運びこまれたのである。救急車の中で「ああ、こうやって死んでゆくのか」とわり あい 呑気に考えていた。担ぎ出されたときは学生たちに大勢見守られていたが、今度は電 動車 いすに乗ってたった一人で戻ってきたのだった。そのあいだ実にたくさんの人たちに 助け られてきたものだ。ついでに部室棟のほうにも回ってみると、さすがに屋根や壁の痛 みが 覆いがたかった。私の額が広くなるのも無理はなかった。 それから農学部とレンコン堀の脇道をたどり、本庄町のアパート街へ出た。Bラン チば かり食べて胃を悪くした学生飯店の通りを横切り、細く入り組んだ路地へ入ると、さ すが に覚つかなくなった。うろ覚えに進むと、右手に見覚えのあるクリークが匂ってき た。や っぱりそうだ、この路地だった。私は胸騒ぎを鎮めながらさらに奥へたどっていっ た。 そこにアパートはまだ営まれていた。当時は新築だったがさすがに風雪で薄汚れて いた 。私の部屋に今はどんな学生が住んでいるのだろう。何もかもあの日々のままだっ た。こ こで徹夜マージャンをしたりラジオを聴いたり女友達と語りあったり小説を読んだり したのだ。大家さんにも迷惑をかけた。これが幻ではない証拠として、私は写真を 撮って帰ってきた。もう恐くはなかった。痴陶人のおかげで、また一つ見えないハー ドルを越えられたような気がした。


★第16回 働く四肢マヒ者たち


五年ほど前から、「重度四肢麻痺者就労問題研究会」(福岡市中央区大手門*. *.***、 清家一雄代表、 ○九二.***.****)というしかつめらしい会の一員 とな っている。これは福岡を中心に大分、広島、徳島、佐賀などの翻訳業、司法書士、九 大留 学生、水道局職員、詩人、学習塾経営など七人のスタッフからなり、そのうち六人ま でが 頸髄損傷やポリオの重度障害者である。 全国の四肢マヒ者たちの自立と就労に関する情報をデータベース化し、それを必要 とす る関係者にパソコンなどを通して提供することをめざしている。なにしろここ数年の 障害 者たちへのハイテク機器の浸透ぶりは目覚ましいものがあり、それらを駆使して新し い職 域が探られている。かつての四肢マヒ者たちには思いもよらなかったことだ。 その内容を二年に一度ほど「WORKING QUADS(働く四肢麻痺者た ち)」と いう雑誌にして発行している。今までに六十人以上の先端的な実例を紹介してきた。 最近 はこちらの誌名を会の通称として呼びあっている。「QUAD(クワッド)」とは 「四重 の」という意味で、頸髄損傷など四肢マヒの略称となっている。また年に一、二度は 電動 車いすで博多に集まって親睦を深めている。運営の費用はトヨタや丸紅の財団の基金 を受 けてまかなっているが、身銭を切って同人雑誌を発行している私などにはちょっと違 和感 のあるところだ。 それだけの活動なのだが、手足の動かない四肢マヒ者たち自身が情報を発信しあ い、不 備な交通機関を乗りついで遠路集まることそのものに希少な価値があると言えるだろ う。 ただ佐賀の西の端から一人だけ参加するのは頭越しの感じもぬぐえないので、県内か らも っと気軽にアクセスしてもらえればありがたい。 こう書いてくればえらそうに聞こえるが、私は名前があるだけで、実際の作業をほ とん ど一手に引き受けているのは代表の清家一雄である。彼の紹介は「障害者の文学」に 詳し いので省くが、昨年秋からは齊場教授の紹介により佐賀医科大学の非常勤講師もつと めて いる。彼の生き来しかたそのものが頸髄損傷たちのデータベースであり、良くも悪く も刺 激を投げ与えている。彼は自他ともに認めるパソコン狂で、昨年独力で会のホーム ページ を開設した(http://www4.justnet.no.jp/ seike /) 。私はもっぱらそこに記事をフロッピーで送っているだけである。インターネット・ カフ ェからも見られるので、よかったらご覧ください。それにしても、これらのデータに 身近 に接しながらも私の自立への歩みは遅遅としたものである。 もちろん、重度障害者が困難を排して定職につけば、それで手放しに称えられると いう わけではない。障害者内部には「障害者が健常者にまみれて働くのは、資本主義の経 済効 率一辺倒の悪弊の片棒を担ぐだけだ。たとえ働けなくともまわりの人に介護を通して 愛と やさしさの意識を呼び覚まさせることができる、そういう大切な仕事がある」と反発 を抱 く人もいる。あるいは「一部の成功例にすぎない」とも見られがちなので、そういう 声も 視野に入れてゆかねばならないだろう。

★第17回 「ペン人」の仲間たち

この連載もそろそろ終わりに近いので、その前にどうしても「ペン人(ぺんじ ん)」の ことに触れておかねばならないだろう。「ペン人」の前身は一九七九年に創刊された 「廢 夢」という同人詩誌で、代表の味志陽子をはじめとして河北徹、岩本美樹子、古賀一 子、 小松義弘、山岡まみち、貝原昭など十数名のメンバーからなっていた。ほとんどが二 十代 、三十代の若者たちであった。しかし私は二号が寄稿で、三号から同人となっている ので 、創刊メンバーたちの熱い息吹というものを実は知らない。 それまで佐賀には、池田賢士郎氏の主宰する「はんぎい」という総合詩誌が君臨し てい たのだが、六,七十年代の現代詩の熱気が薄れるにつれて廃刊となり、あとは吉岡誠 二氏 の「石胎」、西村信行氏の「葉序」、小野多津子氏の「ゆぎ」というような個人詩誌 がわ ずかに命脈を保っていた。 そういう中で次代の詩人たちの「ハイム(独語で「家」)」となるべく旗揚げされ たの である。当初は気負いから若書きも混じっていたことだろう。一部では新鮮に受け止 めら れたようだが、ネーミングに微苦笑されたり、老舗の同人誌作家からは「口語自由詩 など 軽蔑する」という声もあったり、「質量ともに佐賀県を代表すると言えそうな詩誌も なく 」などとひと括りにされたり、現在に至るまで正当に評価されているとは言いがた い。そ れはまあ現代詩そのものにも言えることなのだが。 そのころ、私は退院して自宅療養の生活に入り、これからどうやって生きてゆけば いい のか途方に暮れていた。漠然とした未来への投資として現代詩文庫を読み、習作を書 きち らし、佐賀新聞や西日本新聞の詩歌壇、その他の雑誌へ投稿をくり返していた。数年 後県 文学賞に入選して授賞式に出席したとき、初めて味志や河北と顔を合わせた。お互い に投 稿の常連であったから、はにかみながらも旧交を温めるような眼差しであったことだ ろう 。そこで河北から「ペン人」に誘われ、閉じこもりがちだった日常に「何かが拓けそ うだ 」という予感を覚えたのである。 以来「ペン人」では、味志の「彷徨(金色の樹の火の)」「電話」、河北の「エレ ベー ターちょうちょ」、佐藤友則の「菜の花」「とかげ」「未生ノ時ニ」、藤木法順の 「ノブ ゴロドの夏」、田口香津子の「かんじかんじて」、志田博の「お尋ねの品、ありがと う」 、武富徹郎の「街」などなど、胸に刻まれる作品を載せてくることができた。私も 「九百 九十九たす一羽鶴にまつわる神話」「へのもへ日誌」「ヨジノガリ五段活用」などを 載せ てもらってきた。これらは「ペン人」に入っていなければ書かなかったであろうよう な作 品群であり、そういう可能性を引き出してくれた同人たちには感謝している。 代表の味志は私とはずいぶん対照的だが、その後、継続的な市民運動に身を投じて ゆく ようになり、私に編集のお鉢が回ってきた。味志のたどった道は時代に誠実な選択の 一つ であったろう。一方、詩を書きつづけてゆくという営為もまた誠実な選択の一つであ る、 と言いきれるような作品に出会いたいものだ、という思いもますますつのる。しか し、同 人たちの壮年化から原稿が集まらず、この数年は開店休業状態がつづいている。春ご ろに は一冊出したいものだと願っているのだが。

★18回 夢のみをつくしA

この欄で「障害者の夢に関するアンケート」を紹介したら、いろいろな人から関心 を寄 せてもらった。現在までに面談、郵便、電話、FAX、機関誌などを介して配布した 六二 通のうち、四三通が返ってきた。脊髄損傷、頸髄損傷、脳性マヒ、ポリオ、筋ジスト ロフ ィーなどもともと対象者が希少なうえ、雑誌類の読者カードなどに比べれば、驚異的 な回 収率と言えるだろう。皆さんありがとうございました。どうしても起ち上がりの遅い 重度 障害者たちのため、今月になって送り返してくる人もいる。パソコンネットからの取 りま とめなどもう少し待ってみるつもりだが、このあたりでひとまず中間報告を。 最も興味ある「夢に車いすが出てきたことはあるか」という問いには、「ある一八 人、 ない二一人、その他四人」という集計になった。ほぼ半々。それも受傷以来の年数と はあ まり関係ないようだった。障害者歴四七年にもなるのに「一度もない」という人もい たし 、ふだん活発に障害者運動をしているような人の中にも「ない」という人はいた。逆 に障 害者暦数年の人の中にも「ある」という人がいたりして、ほとんど特徴的な傾向とい うも のは読み取れなかった。しいて言えば筋ジスの女性六人すべてが「ない」と答えてい た点 くらいだろうか。また「夢の中で歩行と車いすの割合はどう変化してきたか」の問い には 「変わらない」が一四人で一番多かった。 統計総数が少ないせいもあるだろうが、夢とその人の障害の受容度とはあまり関係 なさ そうなのである。これにはちょっと拍子抜けだった。と同時に人智の計りがたさをあ らた めて思い知らされた。私の小賢しい予測など突っぱねられた感じであった。 ただ、末尾に多くの人が自らの夢を記述してくれたのは、大変参考になった。「大 蛇に 追いかけられる」「空を飛んでいる」「エレベーターでどこまでも上る」「走ってい る足 がぼやける」「殺される」「立ちションしている」「無免許運転で崖から落ちる」 「指先 がとける」「透明人間になっている」「目だけになっている」「あの世にいる」「自 分の 骨壷を見下ろしている」「複数の女性と交わるが途中まで」などなど。性的なものも 混じ っていて身につまされる。植物的人間のような日常を余儀なくされている彼らが、実 に豊 かな精神世界や性的世界を経験していることがわかる。(してみると、脳死者だって ひそ かに夢を見ているのかもしれない。だとしたらそこには紺碧の空がかいま見えていて ほし いとも思う)。ともあれ、これだけの資料をあだおろそかにはできない。詳しい分析 はこ れからの仕事になるだろう。 さて、この連載中には「ニュースレターのように読んでいる」と声をかけて下さる 方が 多く、そのお一人お一人のために書き継いできたようでもあった。もっとも私の近況 を知 り尽くした気になってかえって筆無精になると言われるのにはちょっと弱った。それ にし ても四人で一年半の回り持ちというシリーズのため、自分の不摂生から穴を空けたり はで きず、重度障害者にはなかなか受け持たせてもらえない社会的な責任感(大げさな) とい うものもちょっぴり味わわせてもらった。それでは皆さんごきげんよう。                                                ( 終わり)

★おまけ 「連載を終わって」 いよいよこの連載もおしまいになった。初めは一年間と思っていたのが、結局十八 回に も及んでちょっとばかりしんどかった。それにしても、四人で順ぐりというシリーズ のた め、私だけの事情で穴を空けるわけにもいかない。どうしても自分の体調を維持しな けれ ばならない、という障害者にとっては貴重な意識を覚えさせてもらった。普通の人に とっ ては大げさに聞こえる話かもしれないが、頸髄損傷にとってはいつなんどき膀胱から 熱発 するかもしれないし、無理をして褥創ができ車いすに座れなくなるかもしれない(つ まり ワープロに向かえなくなるかもしれない)から、この一年間はいやおやうなく自己管 理に 努めねばならなかった。 実はこういう経験は重度障害者にとってはめったに味わえない機会である。ふだん は自 分の身体の難儀一つに向き合って四苦八苦しておればいいから、他人のために生きる とか 社会の責任をまっとうするなどという意識を覚えることはまれだ。つまりそこが障害 者た ちの軽んじられやすいところなのである。つまり愛する家庭や仕事や社会的責任を抱 えて いる大人たちは、自分の身体であって自分だけのものではない、という意識に身も引 き締 まる思いに捉えられているにちがいない。あるいは恋人や愛児をもった者は今まで何 気な く見すごしていた路傍の草花にさえいとおしさを覚えるようになるともいう。そうい うこ とに気づかされる。 もし自分一人の不摂生や心得違いから病になったり事故を負ったり、社会的な不利 益を 被ったら、たちまち家族や職場に迷惑をかける。悪くすれば路頭に迷わせることにな る。 そんな目には遭わせられないから、苦しくとも何とか踏ん張ろうとするだろう。職場 で間 尺に合わない場面に出食わしても、家族のためにぐっと拳を飲み込むこともあるだろ う。 それがいいことか悪いことかはさて措くとしても。 それに比べて、家族も定職も社会的責任もない重度障害者たちは、どうしたって日 常の そういう場面場面でのほほんとした無責任に陥りやすいと見くびられるだろう。一種 のモ ラトリアム状態である。それを自他ともに言い訳にしがちだ。それはまあ無理もない こと だし、そこを責め始めれば自らの足も引っ張ることになるのだが、・・・・しかしい つま でもモラトリアムに甘んじていられるはずもない。それをこの連載が気づかせてくれ たこ とを、まずもって感謝しなければなるまい。 さて、連載中はいろんな人なつかしい人から「ニュースレターのようにして見てい る」 と声をかけてもらってありがたかった。いつも新聞で見ているからあたかも近況を知 り尽 くしているような気になって、かえって手紙を書かなくなったという人も多く、それ には ちょっと弱った。ともあれそういう人たちへ当てて書いていた気がする。どうか皆さ んお元気で。不一。