アメリカの1年 No.6
One Year of the Life in America

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、 アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、 財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[6]、 『脊損ニュース』1987年12月号、 pp.18-22、 全国脊髄損傷者連合会、1987.12
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、 全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
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[写真説明6] 6.火事、着のみ着のままアパートを逃げだしているところ。
カリフォルニア州オークランド、1996年1月

アメリカの1年

『アメリカにおける自律生活の実験と
 アテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』

            福岡県脊髄損傷者連合会 頸損部長
                          清家一雄

第六回報告


 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)で生活しているアメリカの障害を持 つ人達(後編)と僕自身の生活のうち緊急事態(火事)を中心に報告します。御意見・御 感想をお待ちしています。


エド・ロバーツ(続き)
(Edward V. Roberts)

 ★仕事、家族生活の両方において自律的に生活している重度の身体障害をもつ個人



[写真説明1]

[写真説明1]
1.ジュディ(Judy Heumann)、彼女の住居で。
カリフォルニア州バークレー、1996年8月


 ジュディ・ヒューマン
 (Judy Heumann)


 ジュディは既に日本でも有名なポリオの女性だ。電動車椅子を使い、緊急事態とバック アップのために二人の住み込み介助者がいる。

 ジュディは、
「介助者費用として月に自費で800ドル支出している。年収は2万5千ドルだ。介助者 に時給5ドル払っている」
 と言っていたので、彼女の介助量は、1カ月160時間、1日5時間強くらいだろう。

 介助者との関係は、
「第一に雇傭者で、第二に友人だ」
 と言う。

 ジュディはニューヨークで生まれたが、自立生活センターバークレーのスタッフとして 活躍した。現在、バークレーに住んでいるが、いつも世界を飛び回っている。自立生活セ ンターバークレーの理事長であり、エドのWIDのスタッフでもある。

 彼女は、
「日本の障害者は政府からの介助者費用のために闘い続ける必要がある。人々は自立生活 を達成するためにボランティアに依存すべきではない。人々は彼らの人生の上にコントロ ールを持たなければならない」
 と言った。

 彼女の家には、障害者問題ではなく、婦人問題のポスターが貼ってあった。




[写真説明2]

[写真説明2]
2.ドレーパー(Phil Draper)、同僚のデイビッド(David)、CILの受付で。
カリフォルニア州バークレー、1996年6月


 フィル・ドレーパー
 (Phil Draper)


 ドレーパーは白人の男性で、彼は自分の履歴を次のように話してくれた。

「1958年、17歳の時、自動車事故でC-5頸髄損傷者となった。嚼ヤん坊と同じほどの手助 けが要るだろう宸ニ言われた。

 4カ月半の入院の後、4カ月間、家庭復帰したが、両親、弟、妹にとって困難だった。 当時私は自分で何もしようとしなかった。

 郡の病院で22カ月半、生活した。私はそこへ送られた。なぜなら他には障害者が生活 する・住む場所はなかった。郡の病院では、生き延びる方法に関する私自身の方法を発達 させなければならなかった。

 父と一緒に関係者に手紙を書いた。そしてそれは私をリハビリテーション・システムに 戻すことになった。

 障害者の友人と共同生活をした。ビジネス管理の学校に行った。

 そして、1972年、自立生活センターバークレー設立に参加し、9人で非営利法人を 設立した。

 二代目CILバークレー所長となった。

 現在はCILの展開部門のスタッフとして、基金設立や寄付金を募る仕事をしている」。

 彼は電動車椅子を使用している。蓐瘡の悩みがあるが、ラバーフォーム・クッションと ウォーターベッドを利用していた。

 奥さんがいる。

「四肢マヒ者である個人に対するバリヤーとして、私自身の、家族の、行政機関の態度・ 意識が重要である」

 と言っていた。



[写真説明3]

[写真説明3]
3.CIL職員を希望して就職申し込み中だった
頸髄損傷者・ウェイン(Wayne A. Roberts)、
僕のアパートで。
カリフォルニア州オークランド、1996年8月




[写真説明4]

[写真説明4]
4.地下鉄の駅の駐車場で毎週末に開かれるフリーマーケット。
忍者ハットリ君のおもちゃまで売っていた。
この時、ぼくが買ったのは、デスクワーク用の机として使うための板。
カリフォルニア州アッシュビー、1995年12月




[写真説明5]

[写真説明5]
5.火事、消防車。ぼくの住んでいたアパートの2階から火が出た。
火が出た部屋は、ぼくの部屋の真上だった。
アパートの2階の窓はなくなっている。
カリフォルニア州オークランド、1996年1月




[写真説明6]

[写真説明6]
6.火事、着のみ着のままアパートを逃げだしているところ。
カリフォルニア州オークランド、1996年1月


 [1] 火事

 僕も頸髄を損傷しほとんどのものを失ったと思っていたがいくつかのものは残っていた。その中でもっとも基本的なものは時間だと思う。しかもそれは有限の時間だった。



 1986年1月6日、留学生活を始めて2カ月近く経った頃、住んでいたアパートで火事に会った。

 午前9時30分、騒がしいので目が醒めた。サイレンの音が聞こえる。すぐそばだ。電気をつけたが2階が騒がしくなったと思ったら電気が消えた。介助者は寝ていた。

「ハイ、何が起きたんだ?」
 介助者を起こして尋ねた。介助者はまだ寝ぼけていた。

 玄関を開けてみると消防士がいた。アパートの2階が燃えていた。

「車椅子の者が下にいる。我々はどうしたらいいか」
 と怒鳴って尋ねた。

「リラックスしろ。そして車椅子に乗れ」
 と消防士に言われた。

 小便が出そうな感じがあったが、非常事態だと言うことで、電動車椅子の上に電気毛布を敷いて収尿器を着けずにそれに乗った。毛布を掛け、玄関の前でいつでも逃げ出せる準備をした。パスポート、航空券などの入っているバッグと財布の入っているダウンジャケットを取ってきて膝の上に載せた。あとワープロで作った記録とワープロ自身も気にかかったが緊急事態だから仕方がない。

 凄いサイレンの音とガラスの割れる音がしていた。たくさんの消防士達が動き回っていた。酸素マスクを着けているのもたくさんいた。大きな消防車が何台も来ていた。

 二階で放水している水が落ちてくる。緊迫したムードだった。

 すべての消防士が会うたびに、
「具合いはどうだ? How are you doing? 」
 と声をかけてくれた。でかい図体をした消防士を見ていると少し安心する。

 アパートの二階の僕の真上の部屋のベッドのマットレスがタバコの火で燃えた、と言っている。

 介助者や消防士達もいるし電動車椅子にも乗っているので、まさか死ぬことはないとは思っていたが、荷物を持ち過ぎた、もっと整理しておかなければならない、そして記録の保管と一応の覚悟は常に必要だろう。しかしまあ人に後ろ指をさされるようなことはしてきてない、一応ベストは尽くしてきたと言うことが救いか、などと考えていた。

 天井からの汚水は激しくなったが峠は越えたらしい。だいぶ下火になったみたいだ。写真をとった。消防士が来て床に敷くキャンバスを貸してくれた。

 消防士に
「どんな具合いだ? How are you doing? 」
 と聞かれたので、
「どうも有難う Thank you. 」
 と答えたら、彼らは
「楽にしろ Take it easy. 」
 と言って帰って行った。





[写真説明7]

[写真説明7]
7.火事、消防士達。
カリフォルニア州オークランド、1996年1月




[写真説明8]

[写真説明8]
8.火事の後、僕の部屋のペンキ塗替えのため居間で生活していた時。
カリフォルニア州オークランド、1996年4月





 次回は緊急事態(入院)、複数のパートタイム介助者体制への移行を中心に報告する予定です。




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