アメリカの1年 No.1
One Year of the Life in America

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、 アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、 財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[1]、 『脊損ニュース』1987年4月号、 pp.10-15、 全国脊髄損傷者連合会、1987.4
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、 全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
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[写真説明]清家一雄:1984年3月、福岡

アメリカの1年
『アメリカにおける自律生活の実験と
 アテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』

福岡県脊髄損傷者連合会 頸損部長
清家一雄

第一回報告

一.初めに

 寒い冬が続いていますが、会の皆様は元気で頑張っていられることと思います。

 僕は全国脊髄損傷者連合会の会員で福岡県脊髄損傷者連合会の頸損部長をしている清家 一雄といいます。脊損ニュースの6月号で紹介していただいたように、1985年11月 から翌年の9月まで約10カ月間、潟~スタードーナツの奨学金を得て、(財)日本リハ ビリテーション協会の協力で、アメリカにアテンダント・サービスプログラム(介助サー ビス事業;Attendant Service Programs)の調査研究を主目的として、留学に行ってきま した。

 この度、伊藤会長、井沢事務局長、白石福脊連会長、松井(東京都神経科学総合研究所) 先生のご配慮で、脊損ニュースにアメリカの事を書くスペースをいただきました。

 アメリカへは多くの人が行きたくさんの事が語られていますが、僕のみたアメリカと言 うのは、、頸髄損傷者という立場からのもので、また違った姿を見せてくれたような気が します。僕自身の体験や留学成果が 会員皆様の考える素材、ヒントになればと思い、こ こにその一端を報告します。御意見、ご質問、御感想などを是非お聞かせ下さい。

 このようなプログラムに無償の援助を続けて下さっているミスター・ドーナツをはじめ とする全ての人々に厚く感謝いたします。どうもありがとうございます。



二.アメリカへ留学に行った理由と介助サービス制度の必要性

 1. なぜアメリカへ留学する必要があったのか、

 僕は、C−5頸髄損傷者という脊髄損傷者の中でも非常に重度の障害を持つものです。 日本における日常生活も大変ですが、アメリカでの留学生活においても多くの困難が予想 され、僕自身も非常な不安を感じていましたが、それにもかかわらず、アメリカに留学に 行った理由は、アメリカにはアテンダント・サービス・プログラム(介助者サービス事業) という、今のところ日本にはない、在宅介助サービス制度があり、それについて調査・研 究したかったからです。

 介助サービス ( attendant care ) とは、重度身体傷害者などの日常の動作を介助者 ( attendant )が補助する仕事で、必要とされれば、家事雑用も行うものですが、介助者は ボランティアと異なり、介助を受けるものは手当を払います。在宅介助サービス制度は、 障害者の自立生活運動を背景として、アメリカで生まれ、障害者の組織「自立生活センタ ー(CIL;Center for Independent Living )」が深く関与しています。

 そして、研究の具体的なテーマとしては、

@アメリカ、特にカリフォルニア州の、十分な資産や収入のない障害者がどういう根拠で どういうところから介助者を雇うお金を得ているのか?

A障害者の介助者に対する関係に於ける緊急事態管理 ( emergency management ) はどの 様にしているのか?

Bアメリカの社会で頑張って生きている重度身体障害者の実態(人生に敗者復活戦はある のか)?

というようなことを考えていましたが、僕自身がアメリカの介助サービスを実際に利用し てみて、重度身体障害者がどこまで自由に生きられるか、ということを実験してみる、と いうことも留学の大きな目的の一つでした。


[写真説明]清家一雄:スタンディングテーブル(起立台)




 2.なんの為に介助サービス制度が必要なのか、

   日本の頸髄損傷者の現状 − 僕自身を具体例として

 介助サービス制度が日常生活動作のできない重度身体障害者の自律生活を根底において支えるものだからです。重度身体障害者が自律するには経済的基盤と同時に身の回りの世話をしてくれる介助者が必要だ、と思います。そして在宅介助サービス制度を日本でも普及させる必要がある、と痛感しています。

 僕のこのような考えは、僕自身の日常生活の必要性から、あるいは危機感からといった方が良いかもしれませんが、生じてきたものです。そしてこの必要性、危機感は、すべての頸髄損傷者に共通しているものだと思います。

 また、質的、量的な違いはあるかもしれませんが、対麻痺者にも共通の問題だともいえます。20年ほど前までは、対麻痺者も、現在の頸髄損傷者のおかれているような、非常に厳しい、ある意味では絶望的な状況にあったのだろうと思います。尿路管理と褥瘡対策、車椅子と改造自動車、そして各種の所得保障が対麻痺者の生活を改善したのではないでしょうか。脊髄神経回復の課題は依然として残されてはいますが。

 さらに付け加えていえば、健常者も障害を持つ可能性がありますし、長生きすれば老人になります。介助の必要性という問題は、可能性あるいは将来の安心感という観点からは、全ての人々にとっても共通の問題だといえるかもしれません。ただ、現在の緊急の問題としては、頸髄損傷者を初めとする四肢麻痺者にとっての最重要課題といえるでしょう。

 それではどのような過程を経て僕がこのような考えを持つようになったのか、僕の生活史をここで少し紹介することにします。ただし、ここで注意していただきたいのは、介助の必要性、危機感というものが共通のものであっても、それに対する解決案としての在宅介助サービスというものは、一つのサンプルであって、この他にも、フォーカス住宅、ナーシングホーム、家族内での専従介助者、国立療養所箱根病院西病棟、八王子自立ホーム、ホームヘルパー、ボランティア、あるいは施設や病院など、様々なタイプのものが考えられるということです。それゆえ、これから述べる僕自身の体験や考えは一つの具体例,サンプルに過ぎませんが、これが会員の皆様にとって刺激や情報となり、それぞれ抱えられている問題の解決案を考えるきっかけになればと思います。


[写真説明]清家一雄:1984年3月、大学卒業式


 この、日常生活動作ができない重度障害者の介助について、誰が負担を引き受けるのか、という問題について、
直接の介助者としては、
@家族、A施設、B病院、Cボランティア、Dホームヘルパー、E有料介助者などが考えられ、
最終的な費用負担者としては、
@障害者本人、A家族、B保険、C贈与者、D納税者、などが考えられますが、アメリカの介助サービス制度は、原型としては、直接の介助者としては有料介助者、費用負担者としては納税者の組合せから構成されているといえるでしょう。

 僕はこのアメリカの在宅介助サービス制度ないしはそれを支える考え方が日本の頸髄損傷者の自律生活にも必要だと思い、アメリカに留学に行ったわけです。



 3.ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣

 この事業は、(財)日本障害者リハビリテーション協会、(財)広げよう愛の輪運動基金、主催、(株)ダスキン、ミスタードーナツ、協賛によるもので、竹内嘉巳実行委員長によると、
「障害者の福祉を共に高める」
 ことを理念とするものです。また、愛の輪事務局長だった金山さんの話では、スポンサーの愛の輪基金は、ダスキンの「祈りの経営」に基づいて、
「障害者にチャンスを与える」
 事と
「ミスター・ドーナツが10年やってきた事への恩返し」
 ということで、この事業を始めたそうです。皆様がこのプログラムでアメリカへ勉強に行かれると良いな、と思っています。連絡先は、リハ協で、電話、03−204−0960です。



三.準備、出発、到着

 1.準備段階

 アメリカ留学が決まってからも、家族や友人がいないアメリカで、しかも日本語が通じない国で、生活しながら僕の目的意識にそった留学の成果を上げることができるかどうか、そして具体的には、健康、排泄管理、褥瘡対策、介助、英会話など不安はたくさんありました。何より介助者費用が余分にかかるので、ハッキリしたプランが立てられず、留学費用の一部である介助者費用を決定するために、アメリカでの介助時間などにつき、生きて行くために必要最小限の介助と快適な生活のための介助との線引きで悩みました。

 また、僕のような重度の者が行くのは初めての事らしく、派遣者のリハ協の方でも
「これだけ重度の人を送り出すの初めてです。駄目だと思ったらそのまま飛行機に乗って帰っておいで」
 というように心配していましたし、僕自身も自分でもよくやるなあとあきれていました。

 しかし、失敗の危険に挑戦することにこそ人間の尊厳があるのかもしれません。

 とにかく、不安が大きい分、できるだけの準備をして行こうと思い、僕も事前研修レポートなどを書きながら勉強もしましたが、たくさんの人達に協力して貰いました。

 自立生活センターバークレーなどの受け入れ先との事務手続きは、日本障害者リハビリテーション協会障害者リーダー米国留学研修派遣事業事務局の井窪さん、中島さん、飯村さんに、現地でのアパート探しなどは、自立生活センターバークレー所長夫人のアツコさんに、パスポートやビザ、航空券の取得は日本交通公社の草薙グループにお世話になりました。

 英文の健康診断書が必要でしたが、総合せき損センターの岩坪暎二泌尿器科部長に書いていただきました。これはアメリカで非常に役に立ちました。また、センターの赤津隆院長からは助言を、溝口博溝口外科整形外科病院院長からは薬などでお世話になりました。北島俊裕先生にはクレジットカードの必要性を教えてもらい、父の家族会員ということで、アメリカンエクスプレスを用意しました。

 英会話のヒアリングについてはリンガフォンを友達に借りて勉強しました。また、アメリカではアメリカ人の介助者ですので、英文の介助マニュアルを準備しましたが、これには、総合せき損センターの松尾清美さん、医用工学のスタッフ、九州リハビリテーション大学のアイリーン山口先生、山口ともね先生、東京神経科学総合研究所の松井和子先生、グリーンライフ研究会の向坊弘道さんに協力していただきました。

 電動車椅子、自助具等の準備では、電動車椅子の整備、アメリカ用の充電器では九州スズキの財部さんに、ワープロの機能キーは井手さんに、カメラは、カメラの台にベルトを付け、そこに手の甲を差入れて固定し、シャッターは口でかんで押すというように藤家さんに、電動リクライニング車椅子のテーブルは山根さんに、飯塚の脊損センターの医用工学研究室で、食事道具などは有園制作所で、サックはヘルパーさん達に、その他、たくさんの人達の協力を得ました。


[写真説明]壮行会、福岡


 8月には、アメリカ人と顔つなぎを東京のサンシャインプリンスホテルで行い、バークレーやセントルイスの自立生活センターの所長のマイクルやマックスに会い、USA情報を聞きました。9月には、福脊連の壮行会がありました。また、この頃、たくさんの人に、お餞別を頂きました。ありがとうございました。



 2.日本出発 

 これからは日記風に書いてみます。

 いよいよ11月14日に福岡を出発した。前の晩、弟の秀幸が夜の介助の後、素朴に祝福してくれた。

 この最期の日の朝までヘルパーさんに来てもらった。紺のJプレスのスーツにレジメンタルタイ、ワイシャツは白を着た。ヘルパーさんと握手して別れた。祖母との長い別れ。

 父のクラウンで福岡空港へ行った。電動車椅子、手動車椅子、書字道具や食事道具などを入れたスーツケース2個、手提げ鞄二つ、クッション3個という荷物だった。荷物は赤帽で運んだ。

 福岡空港には福脊連やミスタードーナツの人達も見送りにきてくれた。

 サンフランシスコまで弟の幸治が付いてきてくれることになった。渡航中、褥瘡、トイレ、電話連絡、荷物の管理など様々な困難が予想されたからだ。リハ協の井窪さんの計らいだった。

 成田空港のエアポートレストハウスというホテルで1泊した。ホテルへの移動は日産キャラバンを使った。

 その夜レストハウスに高校の友達が二人訪ねてくれた。

 僕は、
「冗談が冗談の風に乗り、冗談の波の上で、サーフィンをやっている気がする。戦争で負けた国から電動車椅子で来てトイレの世話まで頼むのだから」
 と言った。

 ドン・キ・ホーテ。しかし見れる夢があるのは幸せなことかも知れない。狂気の夢でも夢から醒めさせられると人は頭にくる。それに重度身体障害者にとって夢と狂気と現実の区別をつけることは難しい。体が麻痺してしまったことだけは確かだが。とにかくアメリカン・ドリームを掴むことができるかどうか。スポンサーがついて大義名分があるからアメリカに長期間行けるが、その分受験勉強ができないしできなかった。これは賭だ。


[写真説明]1985年11月、成田国際空港


 15日に出国した。成田空港では、井窪さん、飯村さん、金山さん、草薙さんが見送りにきてくれ、リハ協から研修報告用紙と留学研修費用約4,000ドルを貰った。広い空港を二周ぐらいした。物凄い警備だった。

 日本航空に、
「長い時間座りっぱなしでは尻が危ないので隣の席を空けて下さい」
 と頼んだ。

 席はエグゼグティブだった。隣は幸治と空席。幸治の協力で、横になったり、リクライニングを倒したり上半身の体重を背中や横に逃がした。 映画は『目撃者』、食事は洋食だった。シャンパン、ワインを飲んで寝た。

 日付変更線を越えた。



 3.アメリカ到着

 サンフランシスコ空港に着いた。

 サンフランシスコ空港で少し待ったりしていて10時間以上飛行機に乗っていた。空港の中は凄く慌ただしい。サンフランシスコ経由でヒューストンに行く人を見て思わず声を掛けたくなった。ヒューストンでは高校の友達が働いている。

 入国手続きで弟と間違われた。ポーターに5ドルのチップ。


[写真説明]1985年11月、サンフランシスコで


 アツコさん、介助者のハワード、運転手のデニスが迎えにきてくれていた。

 サンフランシスコは晴れていた。アパートまで自立生活センターのバンで40分ぐらいかかった。バンにはリフトが付いていて電動車椅子のまま乗れる。


[写真説明]弟幸治と:1985年11月、バークレーで


 アパートはオークランド市にあった。用意されていたものは、ベッド、オーバーヘッドバー、シーツと毛布、それに電話。やかんもコップもない。

 ルームメイトのジャネットに会った。彼女も電動車椅子を使っていた。

 ベッドに上がった。尻は破れてない。感謝。

 ハワードとは今日は面接のみ。マクドナルドでビッグマックとコーヒーを買ってきて貰い食べた。アメリカのコインの学習。

 とにかく寝た。

 みんなが僕を暖かく迎え入れてくれた。異国の地で人の暖かさに触れた。

  以下次号に続く。







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