アメリカの1年 No.11
One Year of the Life in America

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、 アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、 財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[11]、 『脊損ニュース』1988年06月号、 pp.21-27、 全国脊髄損傷者連合会、1988.06
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、 全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
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[写真説明4]セントルイスの植物園でのランチ。
コリーン、リンダ、ボブ。ミズーリ州セントルイス、1986年6月

アメリカの1年

『アメリカにおける自律生活の実験と
 アテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』

            福岡県脊髄損傷者連合会 頸損部長
                          清家一雄

第11回報告


 今回は米国内長距離移動とアメリカの自立生活運動を中心に報告します。



 ★米国内での長距離移動

 米国での調査活動の一環として、ベイエリアでのCILバークレーを中心とした調査活動の 他、ベイエリア以外での調査活動のため、僕は米国内長距離移動を二回行なった。第一回 は、ワシントンDCでの自立生活全国会議(The '86 National Conference on Independent Living)参加(1986年6月18日〜7月1日)で、第二回はセントルイスでのパラ クォッド(paraquad)訪問(8月2日〜11日)だった。そして、その際、次のような調査活 動を実施した。

 @自立生活全国会議に参加し、米国の自立生活運動に関する調査

 AボストンCILとボストンのトランジーショナル・ハウスを訪問し、それぞれで頸髄損傷 者の聞き取り調査(第九回報告)

 Bリハビリテーション&リサーチ研究所(TIRR)(ヒューストン)の見学と医師を対象と した聞き取り調査(第二回報告)

 CヒューストンCILの訪問調査

 Dパラクォッドの訪問調査とその所長宅で訪問調査

 Eセントルイスの頸髄損傷者の聞き取り調査

その他である。

 ワシントンDCへの出発の具体的なきっかけは、CILバークレー所長が、
「自立生活センター全国評議会(The National Council of Independent Living Centers) (NCIL)(代表者は高位頸損者のマックス、パラクォッド・セントルイス自立生活センター 所長)が主催する自立生活全国会議に行く気があるか、介助者を自分で確保できたら、行 き方を教えてやる」
 と示唆してくれたことだった。

 パートタイム介助者の一人と旅行期間中、1日35ドルの賃金と介助者の交通費、宿泊 費を僕が負担するという契約条件がまとまった。並行して日本障害者リハビリテーション 協会と交渉しトップの竹内実行委員長がサンフランシスコに来られた時に許可をもらった。 郵便で会議参加の登録とホテルの予約申込をした。ボストンCILに見学希望の手紙を書き、 ヒューストンの高校時代の友達に連絡した。

 飛行機、ホテル、レンタカーの予約を旅行代理店に頼んだ。米国の航空料金は30日以上 前に予約したら驚くほど安く買える。旅行代理店はJTB(サンフランシスコの日本交通公社) にした 。

「JTBは少し高いが、旅行に行けば必ずトラブルが起きると考えた方が良い。
日本語の通じるスタッフがいるのは便利だ」
 とヒューストンの友達から助言を受けた。

 ワシントンDCでの会議参加の後、ボストン、ニューヨーク、ヒューストンをまわって 7月1日、アパートに帰った。この2週間の睡眠時間の削り込みかたは、僕にとっては大変 なものだった。

 全部の領収書を一応ザっと計算して、スクラップに整理した。少なく見積って2週間で 5,000ドルぐらい使っていた。日本の両親に国際電話し、
「カードでたくさんお金を使ったので、そのうち請求書が行くだろうから、障害基礎年金 等を口座に入れておいて」
 と言った。


 セントルイス訪問は、パラクォッド所長夫妻と、渡米前から東京で会っていて、彼らの 好意で公式に招待してもらった。




[写真説明1]

[写真説明1]
[1] ヒューストン空港。
 アメリカン・エアラインのチケット・カウンターの搭乗手続で、
「バッテリーの液を抜け」
 と言われた。
テキサス州ヒューストン、1996年6月




 ◆飛行機と電動車椅子

 僕は、ワシントンDC、ボストン、ニューヨーク、ヒューストン、セントルイス、ロサ ンジェルスなどを訪問したが、その長距離間の移動はすべて飛行機を利用した。

 僕が利用した空港はどこでも車椅子で移動可能であり、機内の座席まではガーニーとい う細長い、シートベルト付のキャスターの付いた椅子で、航空会社のスタッフによる介助 で移動した。短時間であるが、その椅子は背もたれが高く、乗り心地が良かった。

 飛行機にはだいたいいつも、日米を問わず、どこの空港でも、どこの航空会社でも、 「一番先に乗れ」と言われていた。そして出るのは一番最後だった。

 電動車椅子使用者が飛行機を利用する場合、問題となるのは電動車椅子のバッテリーの 取扱である。その扱いも航空会社、路線によって差があった。

 @載せないと言われたケース

 サンフランシスコ空港のUSAIR(米国航空会社)では、
「バッテリーはウェットかドライか」
 と聞かれ、
「ウェットで自動車用だ」
 と答えたら、電動車椅子のバッテリーの持込みを拒否された。

「会社の規則だ。飛行機を傷つけるから」
 と言われた。とにかくワシントンDCに行かなければならないので、車椅子から外した バッテリーを、USAIRのカウンターに預けて機内に入った。ワシントン空港から、サンフラ ンシスコのJTBに電話をかけて、バッテリーをアイスボックスに入れて、当日の夜の便で、 翌朝ワシントンDCの空港に届くように送って貰い急場をしのいだ。





 Aバッテリー液を抜けと言われたケース

 ワシントン空港のイースタン航空会社では、
「バッテリーの液を抜いて、(着陸地の)ボストンで水を入れるように」
 と言われた。最初、何のことか分からなかったが、バッテリー液を買う覚悟で、イース タンが用意した箱にバッテリー液を排出した。ボストン空港では、バッテリ−液なしでも 電動車椅子が動いた。ただしバッテリーの性能がかなり劣化していたので、蒸留水をバッ テリーに補充して充電した。


 Bそのまま運んだケース

 他方、ボストン空港のイースタンのエア・シャトルでは、何ら問題なく、電動車椅子で 飛行機のドアまで行き、そののまバッテリーを機内に持ち込むことができた。あんまり簡 単に行ったので、却ってバッテリーがひっくり返って飛行機に穴があいて落ちるんじゃな いかと不気味になった。約30分のフライトだったが、コーヒーのサービス等何もなく、 ただスチュワーデスがチケットを集めたり、乗客がクレジットカードや現金で航空運賃を 払ったりしているだけで、ほとんどバスみたいな感じだった。


 Cドライセル(ジェル)・バッテリー

 東海岸の旅行後、バッテリーの性能が極度に劣下していたし、米国の航空会社のウェッ ト・バッテリーに対する対応が分かったので、ベイエリアでジェル(乾式)・バッテリー を買った。以後は、電動車椅子を持って飛行機で移動しても、バッテリーに関しては、 「ノープロブレム」とか「スーパー!」と言われ、問題がなくなった。




[写真説明]
ワシントンD.C.のホテルで、電動車いす用のバッテリーと。
サンフランシスコ空港で持込みを拒否された電動車椅子のウェットバッテリーを、
アイスボックスに入れて、当日の夜の便で、
翌朝ワシントンDCの空港に届くように送ってもらい急場をしのぎ、
ホテルでほっとしている。
ワシントンD.C.、1996年6月


 ◆宿泊施設、ホテル

 宿泊はホテルを利用したが、ボストンだけは友人のアパートに泊めてもらった。旅行代 理店を通じて予約はいれていたが、ホテルはどこも電動車椅子で利用できた。

 旅行先では、ホテルの部屋のベットの枕を膝の上に載せて机兼テ−ブルとして使った。 この他にも、ゴミ箱を尿器として使ったり、工夫して、なるべく現地調達で通した。

 ◆長距離移動と介助者

 ★ワシントンDCの自立生活全国会議とアメリカの自立生活運動

 ◆街のプロフィール

 ◆自立生活全国会議

 ◆自立生活運動(Independent Living Movement)

 ◆自立生活運動の源流

 @市民権運動(The civil rights movement)

 A消費者運動(Consumerism)

 B自助運動(The self-help movement)

 C脱医療(demedicalization)、セルフケア運動

 D脱施設(deinstitutionalization )、ノーマライゼーション、本流化の運動

(Dejong、「自立生活:社会運動にはじまり分析規範となるまで」、囂瘧Q者の自立生活
寶瘧Q者自立生活セミナー実行委員会編、p.165以下)。

 ◆自立生活センター(CIL)の発生と展開

(Laurie、"SUMMARY OF INDEPENDENT LIVING" for P.A.C. Meeting on April 18-19, 1985)。

 ◆自立生活運動の法制度的背景

 1973年リハビリテーション法 (DeJong、前掲、163頁)。

 1978年修正法 (Laurie、前掲)。

 ◆自立生活サービス

 シュトダルト(Stoddard、1980)のカリフォルニアの10の自立生活センターがそのプロ グラムが現実に供給していたサービスのタイプを測定するための調査 (Rubin, Roessler;"FOUNDATION OF THE VOCATIONAL REHABILITATION PROCESS" Second Edition、p.210以下)。

 @情報とレフェラル(Information and referral)による、それがサービスするハンデ ィキャップのある消費者によってコントロールされる非居住型、コミュニティ・ベースの、 非営利のプログラム

 A居住型(Residential)の住み込みプログラム、

 B通過的(Transitional)な、比較的依存的生活の状況から比較的自立生活の状況への 重度障害をもつ人々の移行を容易にするために企画されたプログラム

 C以上の三つの組合せ

(Rubin, Roessler、前掲、p.210以下)。

 ◆運動と個人


[写真説明2]

[写真説明]
[2] TIRRのボランティア部長、ニタ(ポリオ)。
 彼女のオフィスは非常に使いやすいように配慮されていた。
TIRRはとにかく大きくて凄い。
そしてたくさんの超重度身体障害者をスタッフとして雇っている。
テキサス州ヒューストン、1996年6月



[写真説明3]

[写真説明3]
[3] ヒューストンCILで、所長のアランとビッキー。
 複数の障害者による介助者と家賃の分担(Share)という考え方が印象に残った。
テキサス州ヒューストン、1996年6月



[写真説明4]

[写真説明4]
[4] セントルイスの植物園でのランチ。
 コリーン、リンダ、ボブ。
ミズーリ州セントルイス、1986年6月



[写真説明5]

[写真説明5]
[5] リハビリテーション・ガゼット編集長、ジニー・ローリーと。
 セントルイスの彼女の自宅で。
「建物ではなく、援助のシステムとしてのサービスから始めるべきだ」
 と言った。
ミズーリ州セントルイス、1986年6月



[写真説明6]

[写真説明6]
[6] 障害者が数多く住んでいるパラクォッドのアパートのスロープ。
 正面玄関は厳重で、そこからさらに、僕にはその理由が
理解できない何回もターンするランプが続く。
ミズーリ州セントルイス、1986年8月



[写真説明7]

[写真説明7] [7] パラクォッドのアパートで。
 マイク(C-5・6頸損者。飛び込み事故。パラクォッド理事)とグーゲン。
 アパートの部屋には、緊急時コードが寝室とバスルームに
安全設備として設備されている。
ミズーリ州セントルイス、1986年8月



[写真説明8]

[写真説明8]
[8]  ルーシー(登山でC-5頸損者。ピア・コンサルタント)。
セントルイス訪問時の宿舎フォーリスト・パーク・ホテルの前で。
「家族と一緒に生活しているのは経済的な理由から。
父と一緒に生活しているので介助者費用の公的な援助はない。
いつまでお金が続くか、これは闘いだ。
私にとっての自立生活とは家族や介助者との関係」
 と言った。
ミズーリ州セントルイス、1986年8月





 次回の最終回で、
何故普通の頸髄損傷者が日本で一人暮しができないのか、
どの様な条件整備が行なわれれば可能になるのか、
日本での展望、
頸髄損傷者などからの感想特集などにつなぐつもりですが、
皆様のメッセージ(具体的提案)をいただければ幸いです。
ご意見、ご感想をお待ちしています。

(連絡先:〒 福岡市・・・ Tel.・・・/FAX・・・)



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