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2016年、佐賀大学で講義
15年目の有限会社ワーキング・クォーズ
社長という職業
脳と身体
科目名:障がい者就労支援V(障がい特性と就労支援実践)
内容:障害を持つ当事者である経営者の視点から

the USMC, Invacare TDX in 2012
from "WORKING QUADS" Inc.The Helper Stationon and care taxi


写真は2016年10月27日、佐賀大学講義。井手將文准教授。有限会社ワーキング・クォーズセンター長。
Saga university lecture in October 27, 2016



写真は2016年10月27日、佐賀大学講義。井手將文准教授。有限会社ワーキング・クォーズセンター長。
Saga university lecture in October 27, 2016



写真は2016年10月27日、佐賀大学講義。井手將文准教授。有限会社ワーキング・クォーズセンター長。
Saga university lecture in October 27, 2016



写真は2016年10月27日、佐賀大学講義。井手將文准教授。有限会社ワーキング・クォーズセンター長。
Saga university lecture in October 27, 2016



写真は2016年10月27日、佐賀大学講義。井手將文准教授。有限会社ワーキング・クォーズセンター長。
Saga university lecture in October 27, 2016



写真は2016年10月06日。新型アメリカ製電動車いす、インバケアTDX。
the USMC, Invacare TDX in 2012



写真は 2016年06月03日、佐賀県どんぐり村で
2016 Saga Donguri-mura


2016年、佐賀大学で講義
15年目の有限会社ワーキング・クォーズ
社長という職業
脳と身体
科目名:障がい者就労支援V(障がい特性と就労支援実践)
内容:障害を持つ当事者である経営者の視点から

the USMC, Invacare TDX in 2012
from "WORKING QUADS" Inc.The Helper Stationon and care taxi

やれるやつからやっていけばいいんだよ
医療と障害をもつ人
延命技術
根治療法
代替治療



from "WORKING QUADS" Inc.
The Helper and Visiting Nurse Stationon,
the Care Plan Center


清家 一雄、取締役社長

頸髄損傷

介助と仕事

米国留学

重度四肢まひ者の就労問題研究会

孤立を避ける。

情報ネットワーク

ワーキング・クォーズ
働く四肢まひ者
WORKING QUADS

介護保険制度

支援費制度

有限会社ワーキング・クォーズ
重度障害者の自立生活支援





有限会社ワーキング・クォーズ(働く四肢まひ者)











「ハングリーであれ。愚か者であれ」 ジョブズ氏スピーチ全訳

米スタンフォード大卒業式(2005年6月)にて (1/6ページ) 2011/10/9 12:00



 亡くなったスティーブ・ジョブズ氏は多くの印象的な言葉を残した。中でも2005年に米スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチは、自らの生い立ちや闘病生活を織り交ぜながら、人生観を余すところなく語り、広く感動を集めた。「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」。今も語り継がれるスピーチの全文を、日本語訳と英語原文で紹介する。



◇  世界でもっとも優秀な大学の卒業式に同席できて光栄です。私は大学を卒業したことがありません。実のところ、きょうが人生でもっとも大学卒業に近づいた日です。本日は自分が生きてきた経験から、3つの話をさせてください。たいしたことではない。たった3つです。



 まずは、点と点をつなげる、ということです。



 私はリード大学をたった半年で退学したのですが、本当に学校を去るまでの1年半は大学に居座り続けたのです。ではなぜ、学校をやめたのでしょうか。

 私が生まれる前、生みの母は未婚の大学院生でした。母は決心し、私を養子に出すことにしたのです。母は私を産んだらぜひとも、だれかきちんと大学院を出た人に引き取ってほしいと考え、ある弁護士夫婦との養子縁組が決まったのです。ところが、この夫婦は間際になって女の子をほしいと言いだした。こうして育ての親となった私の両親のところに深夜、電話がかかってきたのです。「思いがけず、養子にできる男の子が生まれたのですが、引き取る気はありますか」と。両親は「もちろん」と答えた。生みの母は、後々、養子縁組の書類にサインするのを拒否したそうです。私の母は大卒ではないし、父に至っては高校も出ていないからです。実の母は、両親が僕を必ず大学に行かせると約束したため、数カ月後にようやくサインに応じたのです。

 そして17年後、私は本当に大学に通うことになった。ところが、スタンフォード並みに学費が高い大学に入ってしまったばっかりに、労働者階級の両親は蓄えのすべてを学費に注ぎ込むことになってしまいました。そして半年後、僕はそこまで犠牲を払って大学に通う価値が見いだせなくなってしまったのです。当時は人生で何をしたらいいのか分からなかったし、大学に通ってもやりたいことが見つかるとはとても思えなかった。私は、両親が一生かけて蓄えたお金をひたすら浪費しているだけでした。私は退学を決めました。何とかなると思ったのです。多少は迷いましたが、今振り返ると、自分が人生で下したもっとも正しい判断だったと思います。退学を決めたことで、興味もない授業を受ける必要がなくなった。そして、おもしろそうな授業に潜り込んだのです。

 とはいえ、いい話ばかりではなかったです。私は寮の部屋もなく、友達の部屋の床の上で寝起きしました。食べ物を買うために、コカ・コーラの瓶を店に返し、5セントをかき集めたりもしました。温かい食べ物にありつこうと、毎週日曜日は7マイル先にあるクリシュナ寺院に徒歩で通ったものです。

 それでも本当に楽しい日々でした。自分の興味の赴くままに潜り込んだ講義で得た知識は、のちにかけがえがないものになりました。たとえば、リード大では当時、全米でおそらくもっとも優れたカリグラフの講義を受けることができました。キャンパス中に貼られているポスターや棚のラベルは手書きの美しいカリグラフで彩られていたのです。退学を決めて必須の授業を受ける必要がなくなったので、カリグラフの講義で学ぼうと思えたのです。ひげ飾り文字を学び、文字を組み合わせた場合のスペースのあけ方も勉強しました。何がカリグラフを美しく見せる秘訣なのか会得しました。科学ではとらえきれない伝統的で芸術的な文字の世界のとりこになったのです。

 もちろん当時は、これがいずれ何かの役に立つとは考えもしなかった。ところが10年後、最初のマッキントッシュを設計していたとき、カリグラフの知識が急によみがえってきたのです。そして、その知識をすべて、マックに注ぎ込みました。美しいフォントを持つ最初のコンピューターの誕生です。もし大学であの講義がなかったら、マックには多様なフォントや字間調整機能も入っていなかったでしょう。ウィンドウズはマックをコピーしただけなので、パソコンにこうした機能が盛り込まれることもなかったでしょう。もし私が退学を決心していなかったら、あのカリグラフの講義に潜り込むことはなかったし、パソコンが現在のようなすばらしいフォントを備えることもなかった。もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。

 繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。運命、カルマ…、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います。





 2つ目の話は愛と敗北です。



 私は若い頃に大好きなことに出合えて幸運でした。共同創業者のウォズニアックとともに私の両親の家のガレージでアップルを創業したのは二十歳のときでした。それから一生懸命に働き、10年後には売上高20億ドル、社員数4000人を超える会社に成長したのです。そして我々の最良の商品、マッキントッシュを発売したちょうど1年後、30歳になったときに、私は会社から解雇されたのです。自分で立ち上げた会社から、クビを言い渡されるなんて。

 実は会社が成長するのにあわせ、一緒に経営できる有能な人材を外部から招いたのです。最初の1年はうまくいっていたのですが、やがてお互いの将来展望に食い違いがでてきたのです。そして最後には決定的な亀裂が生まれてしまった。そのとき、取締役会は彼に味方したのです。それで30歳のとき、私は追い出されたのです。それは周知の事実となりました。私の人生をかけて築いたものが、突然、手中から消えてしまったのです。これは本当にしんどい出来事でした。

 1カ月くらいはぼうぜんとしていました。私にバトンを託した先輩の起業家たちを失望させてしまったと落ち込みました。デビッド・パッカードやボブ・ノイスに会い、台無しにしてしまったことをわびました。公然たる大失敗だったので、このまま逃げ出してしまおうかとさえ思いました。しかし、ゆっくりと何か希望がわいてきたのです。自分が打ち込んできたことが、やはり大好きだったのです。アップルでのつらい出来事があっても、この一点だけは変わらなかった。会社を追われはしましたが、もう一度挑戦しようと思えるようになったのです。

 そのときは気づきませんでしたが、アップルから追い出されたことは、人生でもっとも幸運な出来事だったのです。将来に対する確証は持てなくなりましたが、会社を発展させるという重圧は、もう一度挑戦者になるという身軽さにとってかわりました。アップルを離れたことで、私は人生でもっとも創造的な時期を迎えることができたのです。

 その後の5年間に、NeXTという会社を起業し、ピクサーも立ち上げました。そして妻になるすばらしい女性と巡り合えたのです。ピクサーは世界初のコンピューターを使ったアニメーション映画「トイ・ストーリー」を製作することになり、今では世界でもっとも成功したアニメ製作会社になりました。そして、思いがけないことに、アップルがNeXTを買収し、私はアップルに舞い戻ることになりました。いまや、NeXTで開発した技術はアップルで進むルネサンスの中核となっています。そして、ロレーンとともに最高の家族も築けたのです。

 アップルを追われなかったら、今の私は無かったでしょう。非常に苦い薬でしたが、私にはそういうつらい経験が必要だったのでしょう。最悪のできごとに見舞われても、信念を失わないこと。自分の仕事を愛してやまなかったからこそ、前進し続けられたのです。皆さんも大好きなことを見つけてください。仕事でも恋愛でも同じです。仕事は人生の一大事です。やりがいを感じることができるただ一つの方法は、すばらしい仕事だと心底思えることをやることです。そして偉大なことをやり抜くただ一つの道は、仕事を愛することでしょう。好きなことがまだ見つからないなら、探し続けてください。決して立ち止まってはいけない。本当にやりたいことが見つかった時には、不思議と自分でもすぐに分かるはずです。すばらしい恋愛と同じように、時間がたつごとによくなっていくものです。だから、探し続けてください。絶対に、立ち尽くしてはいけません。





 3つ目の話は死についてです。



 私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。

 自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。

 1年前、私はがんと診断されました。朝7時半に診断装置にかけられ、膵臓(すいぞう)に明白な腫瘍が見つかったのです。私は膵臓が何なのかさえ知らなかった。医者はほとんど治癒の見込みがないがんで、もっても半年だろうと告げたのです。医者からは自宅に戻り身辺整理をするように言われました。つまり、死に備えろという意味です。これは子どもたちに今後10年かけて伝えようとしていたことを、たった数カ月で語らなければならないということです。家族が安心して暮らせるように、すべてのことをきちんと片付けなければならない。別れを告げなさい、と言われたのです。

 一日中診断結果のことを考えました。その日の午後に生検を受けました。のどから入れられた内視鏡が、胃を通って腸に達しました。膵臓に針を刺し、腫瘍細胞を採取しました。鎮痛剤を飲んでいたので分からなかったのですが、細胞を顕微鏡で調べた医師たちが騒ぎ出したと妻がいうのです。手術で治療可能なきわめてまれな膵臓がんだと分かったからでした。

 人生で死にもっとも近づいたひとときでした。今後の何十年かはこうしたことが起こらないことを願っています。このような経験をしたからこそ、死というものがあなた方にとっても便利で大切な概念だと自信をもっていえます。

 誰も死にたくない。天国に行きたいと思っている人間でさえ、死んでそこにたどり着きたいとは思わないでしょう。死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それは、あるべき姿なのです。死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。深刻な話で申し訳ないですが、真実です。

 あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。

 私が若いころ、全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)というすばらしい本に巡り合いました。私の世代の聖書のような本でした。スチュワート・ブランドというメンロパークに住む男性の作品で、詩的なタッチで躍動感がありました。パソコンやデスクトップ出版が普及する前の1960年代の作品で、すべてタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラで作られていた。言ってみれば、グーグルのペーパーバック版です。グーグルの登場より35年も前に書かれたのです。理想主義的で、すばらしい考えで満ちあふれていました。

 スチュワートと彼の仲間は全地球カタログを何度か発行し、一通りやり尽くしたあとに最終版を出しました。70年代半ばで、私はちょうどあなた方と同じ年頃でした。背表紙には早朝の田舎道の写真が。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクをする時に目にするような風景です。その写真の下には「ハングリーなままであれ。愚かなままであれ」と書いてありました。筆者の別れの挨拶でした。ハングリーであれ。愚か者であれ。私自身、いつもそうありたいと思っています。そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。



ハングリーであれ。愚か者であれ。



ありがとうございました。





※スティーブ・ジョブズ氏が2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチ原稿の翻訳。







(以下原文、同大リリースより)







This is a prepared text of the Commencement address delivered by Steve Jobs, CEO of Apple Computer and of Pixar Animation Studios, on June 12, 2005.





I am honored to be with you today at your commencement from one of the finest universities in the world. I never graduated from college. Truth be told, this is the closest I've ever gotten to a college graduation. Today I want to tell you three stories from my life. That's it. No big deal. Just three stories.





The first story is about connecting the dots.



I dropped out of Reed College after the first 6 months, but then stayed around as a drop-in for another 18 months or so before I really quit. So why did I drop out?

It started before I was born. My biological mother was a young, unwed college graduate student, and she decided to put me up for adoption. She felt very strongly that I should be adopted by college graduates, so everything was all set for me to be adopted at birth by a lawyer and his wife. Except that when I popped out they decided at the last minute that they really wanted a girl. So my parents, who were on a waiting list, got a call in the middle of the night asking: "We have an unexpected baby boy; do you want him?" They said: "Of course." My biological mother later found out that my mother had never graduated from college and that my father had never graduated from high school. She refused to sign the final adoption papers. She only relented a few months later when my parents promised that I would someday go to college.

And 17 years later I did go to college. But I naively chose a college that was almost as expensive as Stanford, and all of my working-class parents' savings were being spent on my college tuition. After six months, I couldn't see the value in it. I had no idea what I wanted to do with my life and no idea how college was going to help me figure it out. And here I was spending all of the money my parents had saved their entire life. So I decided to drop out and trust that it would all work out OK. It was pretty scary at the time, but looking back it was one of the best decisions I ever made. The minute I dropped out I could stop taking the required classes that didn't interest me, and begin dropping in on the ones that looked interesting.

It wasn't all romantic. I didn't have a dorm room, so I slept on the floor in friends' rooms, I returned coke bottles for the 5 ― deposits to buy food with, and I would walk the 7 miles across town every Sunday night to get one good meal a week at the Hare Krishna temple. I loved it. And much of what I stumbled into by following my curiosity and intuition turned out to be priceless later on. Let me give you one example:

Reed College at that time offered perhaps the best calligraphy instruction in the country. Throughout the campus every poster, every label on every drawer, was beautifully hand calligraphed. Because I had dropped out and didn't have to take the normal classes, I decided to take a calligraphy class to learn how to do this. I learned about serif and san serif typefaces, about varying the amount of space between different letter combinations, about what makes great typography great. It was beautiful, historical, artistically subtle in a way that science can't capture, and I found it fascinating.

None of this had even a hope of any practical application in my life. But ten years later, when we were designing the first Macintosh computer, it all came back to me. And we designed it all into the Mac. It was the first computer with beautiful typography. If I had never dropped in on that single course in college, the Mac would have never had multiple typefaces or proportionally spaced fonts. And since Windows just copied the Mac, it's likely that no personal computer would have them. If I had never dropped out, I would have never dropped in on this calligraphy class, and personal computers might not have the wonderful typography that they do. Of course it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college. But it was very, very clear looking backwards ten years later.

Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something ― your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.





My second story is about love and loss.



I was lucky I found what I loved to do early in life. Woz and I started Apple in my parents garage when I was 20. We worked hard, and in 10 years Apple had grown from just the two of us in a garage into a $2 billion company with over 4000 employees. We had just released our finest creation ―the Macintosh― a year earlier, and I had just turned 30. And then I got fired. How can you get fired from a company you started? Well, as Apple grew we hired someone who I thought was very talented to run the company with me, and for the first year or so things went well. But then our visions of the future began to diverge and eventually we had a falling out. When we did, our Board of Directors sided with him. So at 30 I was out. And very publicly out. What had been the focus of my entire adult life was gone, and it was devastating.

I really didn't know what to do for a few months. I felt that I had let the previous generation of entrepreneurs down - that I had dropped the baton as it was being passed to me. I met with David Packard and Bob Noyce and tried to apologize for screwing up so badly. I was a very public failure, and I even thought about running away from the valley. But something slowly began to dawn on me I still loved what I did. The turn of events at Apple had not changed that one bit. I had been rejected, but I was still in love. And so I decided to start over.

I didn't see it then, but it turned out that getting fired from Apple was the best thing that could have ever happened to me. The heaviness of being successful was replaced by the lightness of being a beginner again, less sure about everything. It freed me to enter one of the most creative periods of my life.

During the next five years, I started a company named NeXT, another company named Pixar, and fell in love with an amazing woman who would become my wife. Pixar went on to create the worlds first computer animated feature film, Toy Story, and is now the most successful animation studio in the world. In a remarkable turn of events, Apple bought NeXT, I returned to Apple, and the technology we developed at NeXT is at the heart of Apple's current renaissance. And Laurene and I have a wonderful family together.

I'm pretty sure none of this would have happened if I hadn't been fired from Apple. It was awful tasting medicine, but I guess the patient needed it. Sometimes life hits you in the head with a brick. Don't lose faith. I'm convinced that the only thing that kept me going was that I loved what I did. You've got to find what you love. And that is as true for your work as it is for your lovers. Your work is going to fill a large part of your life, and the only way to be truly satisfied is to do what you believe is great work. And the only way to do great work is to love what you do. If you haven't found it yet, keep looking. Don't settle. As with all matters of the heart, you'll know when you find it. And, like any great relationship, it just gets better and better as the years roll on. So keep looking until you find it. Don't settle.





My third story is about death.



When I was 17, I read a quote that went something like: "If you live each day as if it was your last, someday you'll most certainly be right." It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" And whenever the answer has been "No" for too many days in a row, I know I need to change something.

Remembering that I'll be dead soon is the most important tool I've ever encountered to help me make the big choices in life. Because almost everything ― all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure - these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose. You are already naked. There is no reason not to follow your heart.

About a year ago I was diagnosed with cancer. I had a scan at 7:30 in the morning, and it clearly showed a tumor on my pancreas. I didn't even know what a pancreas was. The doctors told me this was almost certainly a type of cancer that is incurable, and that I should expect to live no longer than three to six months. My doctor advised me to go home and get my affairs in order, which is doctor's code for prepare to die. It means to try to tell your kids everything you thought you'd have the next 10 years to tell them in just a few months. It means to make sure everything is buttoned up so that it will be as easy as possible for your family. It means to say your goodbyes.

I lived with that diagnosis all day. Later that evening I had a biopsy, where they stuck an endoscope down my throat, through my stomach and into my intestines, put a needle into my pancreas and got a few cells from the tumor. I was sedated, but my wife, who was there, told me that when they viewed the cells under a microscope the doctors started crying because it turned out to be a very rare form of pancreatic cancer that is curable with surgery. I had the surgery and I'm fine now.

This was the closest I've been to facing death, and I hope it's the closest I get for a few more decades. Having lived through it, I can now say this to you with a bit more certainty than when death was a useful but purely intellectual concept:

No one wants to die. Even people who want to go to heaven don't want to die to get there. And yet death is the destination we all share. No one has ever escaped it. And that is as it should be, because Death is very likely the single best invention of Life. It is Life's change agent. It clears out the old to make way for the new. Right now the new is you, but someday not too long from now, you will gradually become the old and be cleared away. Sorry to be so dramatic, but it is quite true.

Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma ―which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.

When I was young, there was an amazing publication called The Whole Earth Catalog, which was one of the bibles of my generation. It was created by a fellow named Stewart Brand not far from here in Menlo Park, and he brought it to life with his poetic touch. This was in the late 1960's, before personal computers and desktop publishing, so it was all made with typewriters, scissors, and polaroid cameras. It was sort of like Google in paperback form, 35 years before Google came along: it was idealistic, and overflowing with neat tools and great notions.

Stewart and his team put out several issues of The Whole Earth Catalog, and then when it had run its course, they put out a final issue. It was the mid-1970s, and I was your age. On the back cover of their final issue was a photograph of an early morning country road, the kind you might find yourself hitchhiking on if you were so adventurous. Beneath it were the words: "Stay Hungry. Stay Foolish." It was their farewell message as they signed off. Stay Hungry. Stay Foolish. And I have always wished that for myself. And now, as you graduate to begin anew, I wish that for you.



Stay Hungry. Stay Foolish.



Thank you all very much.





プライムインタビューフォロー解除 グローバル化に透明性を  展望2015
パリ経済学校教授 トマ・ピケティ氏 2014/12/22付





 ――所得格差拡大に批判的ですが、経済成長には一定の格差は避けられない面もあります。



 「確かに成長の持続にはインセンティブが必要で格差も生まれる。過去200年の成長と富の歴史を見ると、資本の収益は一国の成長率を上回る。労働収入より資産からの収入が伸びる状況だ。数年なら許容できるが、数十年続くと格差の拡大が社会基盤を揺るがす」

 「日本に顕著だが(成長力の落ちた先進国では)若者の賃金の伸びが低い。第2次大戦後のベビーブーム世代と比べ資産を蓄積するのが非常に難しい。こうした歴史的状況において、中間層の労働収入への課税を少し減らし、高所得者に対する資産課税を拡大するのは合理的な考えだと思う。左翼か右翼かという問題ではなく、歴史の進展に対応した税制のあり方の問題だ」





 ――グローバル化と格差の関係をどう見ていますか。



 「グローバル化そのものはいいことだ。経済が開放され、一段の成長をもたらした。格差拡大を放置する最大のリスクは、多くの人々がグローバル化が自身のためにならないと感じ、極端な国家主義(ナショナリズム)に向かってしまうことだ。欧州では極右勢力などが支持を伸ばしている。外国人労働者を排斥しようとし欧州連合(EU)執行部やドイツなどを非難する」





 ――資産への課税強化で国際協調すべきだと提案していますが、非現実的との指摘もあります。



 「5年前にスイスの銀行の秘密主義が崩れると考えた人はどれほどいただろうか。しかし米政府がスイスの銀行に迫った結果、従来の慣習は打破され透明性が高まった。これは第一歩だ」

 「たとえば、自由貿易協定を進めると同時に、国境を越えたお金のやりとりに関する情報も自動的に交換するような仕組みがつくれるのではないか。タックスヘイブン(租税回避地)に対しても対応がいる。国際協調が難しいことを何もしない言い訳にすべきではないと思う」

 「新興国にとっても2つの意味がある。新興国は(金融の流れが不透明な現状のまま)資本流出が起きれば失うものの方が大きい。中国はロシアのような一部の特権階級にだけ富が集中するような国にならないよう細心の注意が必要だ。中国国内で得た(不正な)利益でロンドンやパリの不動産を買う動きもお金の流れが透明になれば防げる。グローバル化の拡大は歓迎するが透明性を高めるべきだ」





 ――先進国内で格差拡大を嘆く声が出る一方、新興国が成長力を高め世界全体では富が増え格差も縮小しているのでは。



 「アジアやアフリカでは高成長は当面続くだろうが永続しない。歴史的に高成長は他の国に追いつこうとしているときか、日本や欧州のように戦後の再建時にしか起きない。1700年以降、世界の成長率は年平均1.6%で、人口は0.8%だ。成長率が低く見えるかもしれないが、生活水準を向上させるには十分だった」





 ――日本の現状をどう見ますか。



 「財政面で歴史の教訓を言えば、1945年の仏独はGDP比200%の公的債務を抱えていたが、50年には大幅に減った。もちろん債務を返済したわけではなく、物価上昇が要因だ。安倍政権と日銀が物価上昇を起こそうという姿勢は正しい。物価上昇なしに公的債務を減らすのは難しい。2〜4%程度の物価上昇を恐れるべきではない。4月の消費増税はいい決断とはいえず、景気後退につながった」





(聞き手はパリ支局 竹内康雄)





 パリ経済学校と仏社会科学高等研究院の教授。「21世紀の資本」(邦訳・みすず書房)が世界的なベストセラーに。43歳。









Forbes



日本、国別ブランドランキングで世界トップに (1/3ページ) 2014/11/27 7:00 記事保存





 ここ1年、日本は景気回復にもがいているが、世界中の人々のあいだで日本のブランド評価は着実に高まっている。

 国際的なブランドコンサルティング会社のフューチャーブランドが毎年発表している国別ブランド指標※で、日本は同調査で初めて、世界で最もブランド力の高い国に選ばれた。この国別ブランド指標は、さまざまな消費財のブランド評価に用いられるのと同様の基準に基づいて、世界各国のブランド認知を数値化したものだ。

ソフトバンクのヒト型ロボット「ペッパー」。日本の持つ強みの一つにロボット技術がある(写真は本文と関係ありません)=ロイター  今年の国別ブランドランキングには、過去のランキングと比べ、少し変化が見られる。その最大の理由は、フューチャーブランドが、評価対象となった75カ国のどの国にもブランドとしての資格があるわけではないと判断し、同社が定めた「国別ブランド」の評価基準を満たす国を22カ国に絞ったためである。この評価基準には、ある国が、高品質の製品をつくっているか、生活したり留学したりしたいと思わせるような場所か、質の高いインフラが整っているかなどの認知が盛り込まれている。





■実際に訪問、仕事をする可能性高まる



 「『国としてのブランド』になるには、その国の製品やサービスに対する人々の購買意欲が高く、生活したり留学したりしたいと思わせる国でなければならない」と同社のリポートは述べている。  また、回答者が特定の国のブランドを高く評価するとき、リストに挙がっているほかの国々より「その国を訪れ、人に薦め、その国と商取引をする」可能性を高める点も明らかにしている。 国別ブランド トップ10 1 日本 2 スイス 3 ドイツ 4 スウェーデン 5 カナダ 6 ノルウェー 7 米国 8 オーストラリア 9 デンマーク 10 オーストリア フューチャーブランド調べ  さらに同リポートは「“ステータス(名声)”と“実感”との関連で当社が定めた6つの基準に基づき、人々が(国のブランドについて)平均より強い認知を示したことを意味する。具体的に、文化や歴史、観光、物産の質の高さで認知するように、その国の生活の質や価値観、仕事のしやすさという要素を同等に強く認知している」と述べる。  各国のブランド評価にあたり、フューチャーブランドは世界17カ国(米国、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、メキシコ、英国、ドイツ、フランス、ロシア、トルコ、南アフリカ、アラブ首長国連邦、インド、中国、タイ、日本、オーストラリア)でひんぱんに海外旅行をしている2530人の回答者からデータを集めた。  「今年の調査結果を見ると、強いブランドを持つ国は、外国人の訪問回数や評価の高さ、海外からの投資金額、製品やサービスに対する消費者の支持など、数値化された競争力においても優位に立っていることが分かる」。フューチャーブランドの国際戦略部門を統括し、リポートの共著者でもあるトム・アダムズ氏はそう語る。「企業ブランドやコンシューマーブランド同様、国のアイデンティティーや評価も管理を怠らないことが重要であり続ける」 ※2012年の回で8回目を数えている。今回からは調査法が変更になった ■日本のテクノロジーを評価  日本は今年初めて、長年君臨してきたスイスをしのいで第1位の座に就いた。回答者は、日本と聞くと「ユニークさ」を評し、テクノロジーや医療、教育、歴史遺産や芸術、文化を連想した。  ある回答者は「日本は停滞することなく、常に向上し続けている。ロボット開発技術やロボットエンジニアリングで世界に勝っている」と述べた。 トヨタ自動車が12月15日に発売すると発表した燃料電池車「MIRAI(ミライ)」。自動車は日本が高い専門性を持つ分野とみられている(17日、カリフォルニア州)=ロイター  回答者は、テクノロジーや家電製品、自動車を日本が持つ「概して高度な専門性」と評価し、日本が最も力を発揮している分野として、テクノロジーとイノベーションを挙げている。  今年第2位となったスイスについて、回答者は、高い生活水準、治安のよさ、医療と教育を連想すると答えた。日本同様、スイスが他分野より力を発揮している領域としてテクノロジーとイノベーションを、また、概して高度な専門性を持つ分野として高級消費財を挙げており、「美しい」「清潔」「安全」「高価」といった言葉で形容している。  永世中立国で秘匿体質の金融機関で知られるスイスを、ある回答者は「きわめて効率のよい交通機関、ビジネスに対する先見性、銀行業、美しい風景、生活の質の高さ、もてなし上手な人々」といった言葉で評している。  ロレックスやネスレ、パテックフィリップ、タグ・ホイヤー、リンツ&シュプルングリーなど、スイスの代表的ブランドはいずれもチョコレートメーカーか時計メーカーだ。  国別ブランドの第3位はドイツだった。回答者は「ビール」「テクノロジー」「文化」「自動車」「治安のよさ」「驚異的」などの言葉で形容している。 オークションにかけられたパテックフィリップのハンドメード時計。20世紀初頭のもので約2400万米ドルという破格の値段で落札された(5日、ジュネーブ)=AP  ある回答者はドイツについて「欧州の経済圏、ひいては欧州全体を下支えしている」と述べ、「しかもドイツは第2次世界大戦の荒廃から立ち直り、わずかな年月のあいだに議論の余地がない、世界のリーダーの地位を築いた」と書いた。  回答者はおおむね、ドイツを生活水準の高さ、先進的なテクノロジー、整備の行き届いたインフラと関連づけた。ドイツが持つ「概して高度な専門性」は自動車分野にあると考えられており、これに次いでテクノロジー、交通機関が挙げられている。代表するブランドには、シーメンス、アディダス、バイエル、フォルクスワーゲン、ルフトハンザが含まれる。  昨年第8位だった米国はランクを1位上げて第7位に就いた。リポートには、回答者が今後最も影響力を持つと考える都市のリストが添えられており、ニューヨーク市が第1位になった。  重要なのは、ブランドランキングの上位を占めた国々が、政治や経済に最大の影響力を持つとみなされているわけではなく、テクノロジーやイノベーションなどの分野で強みがあるという点だ。  フューチャーブランドの会長、クリストファー・ヌルコ氏は「国別ブランド評価は、政治や経済での重要度と同じくらい、イノベーションやテクノロジー、環境分野で持つ力のことを指す。このことは、将来の国のブランド評価を形成する原動となる要素に変化が生じていることを示している」と語る。  このリストの作成に用いられた「ブランド」の基準に届かない国々について、アダムズ氏は「国別ブランド指標を見れば、訪問者の選択を左右する評価基準のうち、どのレバーを引けば国のブランド認知が向上するか、貴重な洞察が得られるはずだ」と述べた。





0 By Kathryn Dill, Forbes Staff (2014年11月12日 Forbes.com) (c) 2014 Forbes.com LLC All rights reserved.





Japan Tops 2014 Ranking Of The Strongest Country Brands Comment Now Follow Comments Following Comments Unfollow Comments The Top 20 Country Brands The Top 20 Country Brands 1 of 21 ≪ Previous Next ≫ The Top 10 Country Brands To determine each country's value as a brand, FutureBrand gathered data from 2,530 survey respondents who make frequent international trips from 17 countries: The U.S., Canada, Brazil, Argentina, Mexico, UK, Germany, France, Russia, Turkey, South Africa, the United Arab Emirates, India, China, Thailand, Japan, and Australia. ≪ Previous Next ≫ Japan may have struggling to boost its economy in the past year, but the country’s reputation among citizens around the globe has been steadily on the rise. For the first time in the ranking’s history, the land of the rising sun takes first place on global brand consultancy FutureBrand‘s annual Country Brand Index, which measures perceptions of countries around the world according to guidelines similar to the ones used to evaluate the strength of various consumer brands. This year’s results differ slightly from those of previous years, primarily because FutureBrand determined that in fact, not every country qualifies as a brand?of the 75 countries reviewed, just 22 met the criteria laid out for a “country brand.” These metrics include the perception that a country creates high-quality products, that people want to live or study in that country, and that the infrastructure there is quality. “ To qualify as a ‘country brand’,” states the report, “people need to want to consume your products and services and prefer you as a place to live and learn.” FutureBrand’s research also revealed that when respondents rank a country highly as a brand, it increases the likelihood that they will “visit, recommend and do business with it” than other countries on the list. “By this,” states the report, “we mean that people have stronger than average perceptions of the country across our six dimensions relating to ‘status’ and ‘experience’. In other words, they perceive it equally strongly in aspects relating to quality of life, values and business, as they do for its culture, history, tourism and ‘Made In’ expertise.” To determine each country’s value as a brand, FutureBrand gathered data from 2,530 survey respondents who make frequent international trips from 17 countries: The U.S., Canada, Brazil, Argentina, Mexico, UK, Germany, France, Russia, Turkey, South Africa, the United Arab Emirates, India, China, Thailand, Japan, and Australia. “This year’s research shows that having a strong country brand brings measurable competitive advantage in terms of visitation, advocacy, and investment, as well as consumer preference for products and services,” said Tom Adams, FutureBrand global head of strategy and co-author of the report. “It continues to be vital to manage country identity and reputation as you might a corporate or consumer brand.”









若田光一のダイレクトメッセージ 宇宙で通用する語学習得術 若田光一 JAXA宇宙飛行士 (1/2ページ) 2011/11/1 7:00

 宇宙飛行士にとって、語学は極めて重要です。宇宙飛行中、相手が話していることを正確に理解し、的確に自分の意思を相手に伝えることができないと、危険な状況に陥りかねない。では、どうやって語学を習得すればいいのでしょうか。 ■英語がわからず「訓練失敗」  私が宇宙飛行士の候補者として訓練を始めたのは1992年のことです。それまで海外旅行はしたことがありましたが、せいぜい1週間程度で、海外の駐在経験もありません。  リスニングについてはある程度はできるかなと思っていました。しかし訓練に入ってすぐ、だめだと思い知らされました。  それはスペースシャトルの打ち上げのシミュレーションをする訓練でのことです。操縦室に私を含む4人の訓練生が乗り込み、打ち上げの準備をしていました。事前にシステム操作の概要については予習していましたから、どのような手順で何をやればいいかはわかっています。それなのに、訓練開始後、スペースシャトルの各システムがいまどのような状態になっているのかという全体的な状況把握ができなくなったのです。  これは致命的です。宇宙飛行士に限らず、何かモノを動かすときに一番重要なのは「状況判断能力」です。いま何が起こっているのか。状況把握を失うことは宇宙では死を意味します。いかにシステムの勉強をしていても、英語が聞き取れないだけで最悪の事態となりうる。これは本当にまずいなと強い危機感を抱きました。  システムの勉強は一夜漬けでも何とかなりますが、英語はそうはいかない。地道にやるしかない。ただ専門用語を覚えればいいというのでもありません。会話には米国人特有のジョークも入ってくる。冗談なのか、必要な会話なのかも19年前の米国での訓練の最初のころは分かりませんでした。  そこで何をしたか。とにかく現場に入って、英語に慣れていくしかない。なるべく多くシミュレーターで訓練をする。ジェット練習機の操縦訓練の時もコックピットの中の会話を全部録音させてもらい、通勤のとき、車の中で何度も何度も聞く。米国人宇宙飛行士の仲間とたくさん話す。そうした地道な努力を重ねながら、英語を身につけていきました。 ■ロシア語も必修  スペースシャトルは英語で大丈夫ですが、国際宇宙ステーション(ISS)の長期滞在となると、もう一つの言語を使えないといけません。ロシア語です。 手前にあるのはISSの模型  英語で苦労した分、ロシア語は多少、楽に感じました。語学というのは、1つの言語を習得できれば、その手法を別の言語にも応用することで第1外国語よりは効率的に身につけることができるものです。もちろん、中学生から勉強してきた英語と、まったく白紙の状態から始めたロシア語では私にとって難易度が異なりますが、勉強すべき手順が分かっていたのは大いに役に立ちました。基本的な語彙と文型を習得し、聴解力を身につければ、ある程度の会話はこなせます。あとは語彙を増やし、文法をより正確に扱い、聴解力、会話力を高めていく。  人間は感情的な生き物です。その言葉が話せるかどうかで相手の印象も変わります。  例えばこんなことがありました。ISSへの飛行が決まる前、既にISS滞在経験がある米国人の同僚にISS飛行に向けた訓練について質問しました。すると彼は「システムの勉強は時間的に無理なくできるから、まずはロシア語をマスターした方がいい」と。ロシアの宇宙関係者の中には、「ロシア語を使いこなせる外国人宇宙飛行士はロシアの宇宙船システム操作についても習熟しているはずだから、母国の宇宙船の操作を安心して任せられる」と考えている人が多い、と話してくれました。それくらい、コミュニケーションツールである言語は重要なのです。 ■コミュニケーションは直球勝負で  ISSの船長は、異なる文化的背景を持つ宇宙飛行士をまとめていかなければいけません。しかし、文化や習慣の違いというのは、実はそれほど大きなものではないと思います。多くの国の方々と一緒に仕事をしていると、国籍の違いよりも、個人差の方が明らかに大きいと感じます。 別れの挨拶を交わすSTS-127クルーとISS長期滞在クルー。宇宙飛行士は高いコミュニケーション力が求められる(2009年7月撮影、NASA提供)  こんな例え方ができると思います。ある人間の思考・行動パターンの全体を卵だと仮定すると、国や文化、宗教、習慣の違いというのは、殻の部分にすぎない。卵の大部分は中身であり、この中身こそが、人柄の中核なのです。日本人であること、米国人であることによる違いよりも、Aさん、Bさんという個人の性格による違いの方が大きいということです。  しかし、殻を割って中に入っていくためには言語や文化の違いを理解することは効果的です。でもそれさえ割ってしまえば、あとは卵の中身であり、個人差の世界です。その差を乗り越えるためには、私はごまかしのない直球勝負しかないと考えています。  「私はあなたの国の文化について勉強したけれど、ずっと住んでいるわけではないから知ったかぶりかもしれない。でも自分はこう思う。何かおかしいと思うのなら教えてほしい」。こんな風にストレートで勝負すれば、向こうも直球で返してきます。明治維新のころなど、実際にそんなやりとりがあったのではないでしょうか。人類は知見や技術力では確実に向上していますが、精神的には昔とそれほど変わっていない、と思います。今、私たちが個人的なレベルで苦労しているようなことは、先人たちも経験してきた。人間、真っすぐに正直につきあうことが、何より重要なのではないでしょうか。 若田光一(わかた・こういち) 1963年、埼玉県生まれ。九州大学で航空工学を専攻。同大学院修士課程(応用力学)修了後、日本航空に入社。2004年博士号取得(航空宇宙工学)。92年4月、宇宙開発事業団(現・宇宙航空研究開発機構、JAXA)の宇宙飛行士候補に選ばれる。同年8月、米航空宇宙局(NASA)の宇宙飛行士訓練コースに参加する。  96年、日本人初のミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者、MS)としてスペースシャトルに搭乗。2000年には、日本人で初めて国際宇宙ステーション(ISS)の組み立て飛行に参加する。作業中にカメラが故障したにもかかわらず、精度を落とさずに組み立て作業を成功させ、NASAから「ロボットアーム操作の腕前は現役飛行士の中でも3本の指に入る」と絶賛された。  09年3月から7月にかけ日本人初のISS長期滞在を果たす。技術力と経験、周囲を魅了する人柄への評価は高く、10年3月にはNASAで宇宙飛行士を統括する宇宙飛行士室ISS運用ブランチ・チーフに就いた。  2013年から14年にかけての長期滞在では、後半のミッションで日本人初のISS船長(コマンダー)に就任する予定。3回の宇宙飛行での総滞在時間は159日10時間46分。現在JAXA宇宙飛行士グループ長。48歳 読者からのコメント 仙台虎 40代男性 奈良県  大変参考になるお話です。やはり学問というのか、語学に王道はなしだと思います。小生も何とか英語をモノにしようと努力していますが、日本で英語に接する時間が少なく、なかなか上達しません。洋画を見たりPodcastを聞いたりこれからも、英語に接する時間を増やして努力したいと思います。 かっちゃん 20代女性 海外  私は今カナダのトロントという所に住んでいます。若田さんのこのメッセージはとても励みになります。英語を勉強しようと思い立ち、会社を辞めトロントに留学しに来てまだ半年。まだまだネイティブの英語には慣れないし、何を言っているのか理解できない部分がたくさんあります。まず一番驚いたのが文化の違いです。 何もかもが日本と違いに驚きました。私達は英語が話せなくても『死』には至りませんが、コミュニケーションが取れないもどかしさや歯がゆさというのは一緒だと思います。 たとえ言葉が通じなくても、自分の言いたいこと伝えようとする大切さを今身をもって学んでいます。もっともっと色んな国の文化や人に出会い、心の豊かな人間になって日本へ帰ろうと思います。いつか若田さんとお話してみたいです、もちろん英語で!! 理想のリーダーとは 若田光一 JAXA宇宙飛行士 (1/2ページ) 2011/10/10 7:00 [有料会員限定] 共有 小サイズに変更javascript:void(0)中サイズに変更javascript:void(0)大サイズに変更javascript:void(0)印刷リプリント/async/async.do/?ae=P_CM_REPRINT&sv=NX共有javascript:void(0)  2013年から14年にかけて、国際宇宙ステーション(ISS)に約6カ月間、長期滞在することになりました。後半の約2カ月は日本人初の船長(コマンダー)を務める予定です。ISSは欧米やロシアなど15カ国が参加している国際プロジェクトで、宇宙という特別な環境を利用して様々な実験を行い、私たちの生活や産業に役立てることを目的としています。各国が最新技術を結集したこの壮大なプロジェクトに、日本も実験棟「きぼう」などで参加しています。  ISSに宇宙飛行士が滞在し始めてから11年がたちますが、これまで船長を務めたのは米国とロシア、ベルギーの3カ国だけです。2012年から13年にかけてのミッションで、カナダの飛行士が就任予定です。日本人として初めて船長に選ばれたことは、世界に日本人をアピールするいい機会だととらえています。 ■リーダーは仕事ができなければいけない  ISSには現在、交代時を除いて6人の宇宙飛行士が滞在しています。船長はクルーのとりまとめ役として、ISSの運用を安全に進めながら、実験などを効率的に行い、最大限の成果を出すことが求められています。  では船長に求められる資質とは何か。まず第一に、仕事がきちんとできること。どんな仕事でも同じだと思いますが、誰に対しても模範となるような業務遂行能力を持っていることが不可欠です。そうでなければ部下はついてきません。我々の仕事でいえば、宇宙船の操縦、船外活動、ロボットの操縦、実験の運用といった作業がきちんとできること。その上で、チームが最大限のアウトプットを出せるようなリーダーシップ、コミュニケーション能力、調整能力、自己管理能力などの資質が要求されます。  もう一つ、船長に要求される重要な資質があります。緊急事態への対処能力、危機管理能力です。例えば「宇宙のゴミ」がISSに当たってしまい、船内で急減圧が生じたときや火災時、あるいは冷媒用のアンモニアが熱交換器で漏れて船内に入り込んでしまったとき――。アンモニアは猛毒ですから、クルーの生存のためにはすばやい対応が必要となります。そうした緊急時に指揮を執るのが船長の役割です。  ISSはシステムが複雑なため、緊急時以外の通常時においては効率的な運用のために、地上管制局がかなりの部分のシステム運用を遠隔操作で行い、クルーの作業は軌道上のクルーしかできない手作業が中心になります。そこで重要となってくるのが、地上にある管制局との緊密な連携です。筑波、米ヒューストンとハンツビル、ロシアのモスクワ、ドイツのミュンヘンにある管制局と円滑に協調作業を行うための調整能力なども、船長には求められるのです。 ■優れた上司は「一緒に過ごすだけで仕事が向上」 日本実験棟「きぼう」で、ロボットアームを操作して船外装置の移設作業を行う若田(右)、マーク・ポランスキー両宇宙飛行士(2009年7月撮影、NASA提供)  私が今まで接してきた中で、リーダーとして尊敬している人物がいます。1回目、2回目のフライトのときにスペースシャトルの船長だった米国人のブライアン・ダフィーさんです。  ダフィーさんのどこがすごいか。普段の生活の中から自然に相手の考え方や行動パターンを読み取って、足りない部分を何気なく助言してくれるのです。例えばサンドイッチの昼食を食べながらリラックスして話していると、自分が気をつけるべきポイントを見つけてくれて、「次のシミュレーションではクルー全体として、ここをもっと重点的にやろうよ」などと間接的な表現ながらも目標をきちんと指摘してくれました。一緒に生活をしているだけで、いつの間にか仕事ができるようになる。そんなリーダーです。  ダフィーさんは個人の目標とチームの目標とを両立させるのもうまかった。それぞれの宇宙飛行士が何を目指しているのか、それをくみ取り、その目標に到達するためになすべきことをアドバイスする。その繰り返しによって、結果的にチーム全体の能力と士気が自然に高まっていく。見習いたいリーダーです。 ■必要なのは「ビジョン」 「きぼう」の窓から地球を眺める(2009年5月撮影、NASA提供)  先人たちの話も参考になります。私もそうですが、宇宙飛行士のリーダーシップを考えるときに好んで読むのは、極地などの未開の地を目指した探検家たちの話です。例えば英国の探検家で初の南極横断を目指したアーネスト・シャクルトンの自叙伝は面白い。明治維新の頃の話も興味深いです。勝海舟の談話をまとめた「氷川清話」は何度か読んでいます。  最近活躍されたリーダーのなかで印象に残っているのは、サッカー女子日本代表「なでしこジャパン」の監督、佐々木則夫さんや、プロ野球・楽天の監督、星野仙一さんです。直接お話ししたことはないので報道を通して聞いているだけですが、チームの中の選手の皆さんがリーダーとして評価しています。お二人ともユーモアがありますよね。ユーモアは、人間のエネルギーを高める起爆剤だと思います。ユーモアを持ってチームのムードを作ることができるリーダーはすばらしいと思います。  政治家では、小泉純一郎さんにはリーダーシップを感じます。厳しい評価もありますが、ビジョンをしっかりと持ち、目的のためにみんなを率いていく力がありました。リーダーに必要なのは、ビジョンです。単なる理想ではなく、具体的な目標として物事をとらえてチームを引っ張ることができる。それこそが、尊敬できるリーダーだと思います。 若田光一(わかた・こういち) 1963年、埼玉県生まれ。九州大学で航空工学を専攻。同大学院修士課程(応用力学)修了後、日本航空に入社。2004年博士号取得(航空宇宙工学)。92年4月、宇宙開発事業団(現・宇宙航空研究開発機構、JAXA)の宇宙飛行士候補に選ばれる。同年8月、米航空宇宙局(NASA)の宇宙飛行士訓練コースに参加する。  96年、日本人初のミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者、MS)としてスペースシャトルに搭乗。2000年には、日本人で初めて国際宇宙ステーション(ISS)の組み立て飛行に参加する。作業中にカメラが故障したにもかかわらず、精度を落とさずに組み立て作業を成功させ、NASAから「ロボットアーム操作の腕前は現役飛行士の中でも3本の指に入る」と絶賛された。  09年3月から7月にかけ日本人初のISS長期滞在を果たす。技術力と経験、周囲を魅了する人柄への評価は高く、10年3月にはNASAで宇宙飛行士を統括する宇宙飛行士室ISS運用ブランチ・チーフに就いた。  2013年から14年にかけての長期滞在では、後半のミッションで日本人初のISS船長(コマンダー)に就任する予定。3回の宇宙飛行での総滞在時間は159日10時間46分。現在JAXA宇宙飛行士グループ長。48歳 読者からのコメント てんてん 20代女性 東京都  私は大学サークルの部長を務めています。部長になった時から目指しているリーダー像と現実の自分とのあまりに大きな違いに頭を悩ませてきました。音楽系のサークルなのですが、個人の技術とチームワークが本当に重要となる環境のなかで、どうやって目指すべきパフォーマンスができるようになるか考えています。しかし、自分のリーダーとしての軸がぶれている状態ではまだまだ皆に働きかけるのは難しそうです。若田さんの貴重なお話をヒントにして、考えていきたいと思います。宇宙での重要なお仕事、頑張ってください。応援しています! captainfuture 40代男性 神奈川県  今後の益々の活躍およびダイレクトメッセージを楽しみにしています。学生時代、同じ野球チームでプレーさせて頂きました。それを、家族に自慢しています。 危機発生時、リーダーはどう行動すべきか 若田光一 JAXA宇宙飛行士 (1/2ページ) 2011/10/18 7:00 [有料会員限定] 共有 小サイズに変更javascript:void(0)中サイズに変更javascript:void(0)大サイズに変更javascript:void(0)印刷リプリント/async/async.do/?ae=P_CM_REPRINT&sv=NX共有javascript:void(0)  トラブルが発生したとき、リーダーはどのように行動したらいいのか。実は、そう考えること自体が、間違いを含んでいます。 ■危機管理とは「起こる前に考えておくこと」  危機管理というのは、何かが起こってから考えるものではありません。日常的に備えがあるからこそ、危機の時にも対応できる。トラブルが起きてからでは遅いのです。  危機を乗り越えるに当たって、リーダーに必要なものは信頼関係です。部下との間に信頼関係があれば、いざというときにも部下が頑張ってくれる。普段からそういう関係を築いていくことが何よりも重要です。宇宙でも定常運用時の実験のときにできないことが、危機発生時にいきなりできるわけがないのです。  リーダーシップというとき、我々が特に気をつけていることがあります。それはリーダーシップの行使のあり方です。トップダウン型の命令と、合議に基づくまとめ方とを使い分けること。いつもいつも、トップダウン型がいいわけではありません。火災や急減圧発生時など、直ちに行動しなければならないときはトップダウンで命令する必要がある。そうしないとクルーが生き残れませんから。でもそうではない場面もあります。  例えばこんなケースがあります。  2回目のフライトでのことです。国際宇宙ステーション(ISS)に地上との通信機能などを担う「Z−1トラス」というモジュール(部品)を取り付ける作業を予定していたのですが、電力供給系の一部がショートしてしまいました。このトラブルで、ロボットアームを操作するときに位置を測定する装置やカメラが使えなくなったのです。このとき、船長はどんな行動をとったと思いますか。 日本実験棟「きぼう」で作業する若田飛行士(2009年3月撮影、JAXA提供)  まず、このシステムのことを一番分かっている人間から話を聞いていったのです。ロボットアームの主担当者は私だったので、まず意見を求められました。現場で運用を熟知している者の意見をしっかりと聞き、それを地上の管制官と擦り合わせていく。船長自身の主観的な意見を押しつけるようなことはありませんでした。  このケースでは、重要な前提があります。日ごろからの信頼関係です。日々の訓練の場で、仕事を任せても大丈夫、というレベルまで個々の宇宙飛行士の能力を高めておく。そこで培った信頼があるから、いざというときに頼りにできるのです。このときは結局、別系統の電源から電線をはわせてバックアップ装置に電力を供給する修復作業を短時間で行い、無事、ロボットアームによる組み立て作業を終えました。 ■コミュニケーションの基本は明解・簡潔・ポジティブ 「きぼう」のロボットアーム(2009年3月撮影、JAXA提供)  危機の時に限りませんが、コミュニケーションにおいて重要なのは、「明解で簡潔、そしてポジティブなこと」です。限られた時間の中で、いかに効率的にミッションを遂行するか。緊急事態においては、生き残るためにまず何をやるべきか。速やかに決めていかなければなりません。明解かつ簡潔なコミュニケーションを通して作業の優先度を常に明確にしながら、作業を適切に進めていく。  1回目のフライトで一緒に飛んだ、同僚のブレント・ジェットが言ったのですが、「Better sound good than feel good」という表現があります。「自分自身が心地よく感じるより、相手に自分の状態が良好であると感じてもらうことの方が大事」といった意味です。どんなに苦境に陥っても、常に相手を安心させるようなかじ取りをする――。もちろん、自分の状況について嘘をついてはいけませんが、パニックに陥ることなく、自己制御した上で、落ち着いた会話を心がける。パニックの連鎖は防がなければいけません。常に前向きなコミュニケーションを心がけるのも、重要な能力の1つです。 ■とことん問い続けろ、守りに入るな  また、「Question and do not defend」ということも大事です。「とことん問い続けろ、守りに入るな」といったところでしょうか。スペースシャトルは過去2回、重大な事故がありました。飛行機や鉄道、船舶、そして原子力発電所。いろんな大事故が起こっています。過去の教訓に学んでより安全にモノを動かしていくためには、疑問を感じたときにしっかり発言する必要があります。改良の余地は常にある、と問い続けることが大切です。  問われる側にとっては、安全が疑われること自体、自分の落ち度と受け取ってしまいがちです。でも、そこで守りに入らず、問われた質問の意味をより大きな視野に立ち戻って考えてみる。答えられない場合は、改善の余地があるのかもしれない。まずはチーム全体で「ここはおかしいんじゃないか」「こうすればより安全になる」と疑問を発することができる雰囲気づくりをすることが第一でしょう。 若田光一(わかた・こういち) 1963年、埼玉県生まれ。九州大学で航空工学を専攻。同大学院修士課程(応用力学)修了後、日本航空に入社。2004年博士号取得(航空宇宙工学)。92年4月、宇宙開発事業団(現・宇宙航空研究開発機構、JAXA)の宇宙飛行士候補に選ばれる。同年8月、米航空宇宙局(NASA)の宇宙飛行士訓練コースに参加する。  96年、日本人初のミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者、MS)としてスペースシャトルに搭乗。2000年には、日本人で初めて国際宇宙ステーション(ISS)の組み立て飛行に参加する。作業中にカメラが故障したにもかかわらず、精度を落とさずに組み立て作業を成功させ、NASAから「ロボットアーム操作の腕前は現役飛行士の中でも3本の指に入る」と絶賛された。  09年3月から7月にかけ日本人初のISS長期滞在を果たす。技術力と経験、周囲を魅了する人柄への評価は高く、10年3月にはNASAで宇宙飛行士を統括する宇宙飛行士室ISS運用ブランチ・チーフに就いた。  2013年から14年にかけての長期滞在では、後半のミッションで日本人初のISS船長(コマンダー)に就任する予定。3回の宇宙飛行での総滞在時間は159日10時間46分。現在JAXA宇宙飛行士グループ長。48歳 読者からのコメント red11x 50代男性 神奈川県  東電原発事故、頻発する命に関わる医療事故など危機に対して事前に真剣に備えをしていなかったしか思えない状況がまさに日本の最先端で、あたかもそれが日本文化の特性でもあるかのように発生しています。若田さんの危機管理についてのお話しは日本人がグローバルに活躍していくために欠かしてはならない大切なポイントの一つを示していただいていると思います。 佐藤昭 60代男性 埼玉県  宇宙飛行士としての訓練を通して欧米流のコンセプトを十分に体得された結果、頭脳と身体に浸み込んだから生まれる意識だと思います。私も現役時代、長い海外駐在経験を通して、日本社会の意識と異なる考え方を学びましたが、危機管理は欧米流のコンセプトがより機能的であると思います。日本には「備えあれば憂い無し」という言葉がありますが、この教えは日本流の危機意識には備わっていません。日本流は(予知とは人間の能力を超えたもの故、何かが起こったら原因を探り対処する)=(自己の責任にならぬように対処する)という意識です。日本人が本当にその意識を変えることができるのは、「責任回避のための危機意識」を社会全体が捨てることだと思います。 「NASA流」極限訓練で学んだこと 若田光一 JAXA宇宙飛行士 (1/2ページ) 2011/10/25 7:00 [有料会員限定] 共有 小サイズに変更javascript:void(0)中サイズに変更javascript:void(0)大サイズに変更javascript:void(0)保存javascript:void(0)印刷リプリント/async/async.do/?ae=P_CM_REPRINT&sv=NX共有javascript:void(0)  米航空宇宙局(NASA)の宇宙飛行室では、リーダーシップや集団行動を学ぶ特殊な訓練があります。そのなかには冬山や海底など過酷な環境で行う訓練があり、総じて「探検隊行動規範訓練」と呼んでいます。 ■過酷な環境でリーダーシップ学ぶ  宇宙は極限環境です。真空に近い状態で放射線が飛び交い、船外構造物の表面温度の昼夜の差は約250度もある。机上でシミュレーションするとき、臨場感が持てないこともあるほどです。人間というのは面白いもので、机上や普段の環境ではいくら冷静に考え、行動できていても、身体的・精神的に厳しい環境に置かれると本性が出てきて、行動がいつもと違ってくることがある。操作を間違えると死に至る可能性もあるほど厳しい環境にある宇宙ステーションの中でチームとして仕事をしていくためには、心理的かつ身体的なストレスの高い環境下でミッションを遂行するという訓練も重要です。それが探検隊行動規範訓練です。  登山では、突然天候が変わるなど思いがけないリスクがあります。場所によっては熊に襲われるかもしれません。そんな環境に身を置くことで、初めて本当のリーダーシップやチームワーク、自己管理が習得できるとNASAでは考えているのです。  チームは数人で構成します。例えば冬山の場合、10日間ほどの日程の中で、ある地点まで到達して帰ってくることをミッションとします。リーダーは毎日変わるのがルールです。あるときはリーダー、あるときはフォロワーとなることで、両方の立場のあり方を学ぶのです。実際の宇宙飛行中も、状況によって立場が変わります。例えば普段は部下である人も、その人が担当する実験ではリーダー的な役割が求められますから。 ■高熱の中、迫られた判断 「無重力環境訓練施設」のプールで訓練を行う若田さん(2010年12月、米ジョンソン宇宙センター、NASA提供)  何度か行った訓練の中で、特に思い出深いのは10年前の夏山登山です。2001年8月、私は米ワイオミング州で行われた訓練に参加しました。富士山より高い4000メートル級の山の頂上を目指すのです。日程は9日間。7人の宇宙飛行士でチームを組み、食料や燃料、テント、寝袋などが詰まった30キロのリュックを担いで終日歩きました。  訓練中、私は厳しい判断を迫られることになりました。登山開始直前に風邪を引き、40度近い熱を出してしまったのです。訓練ではチーム全員が一緒に行動するという前提があるので、1人だけ置いていくことはできません。一緒に登頂するか、引き返すかの2つに1つです。  私が頑張りすぎて倒れてしまったらその時点でミッションはおしまいです。自己管理能力がないと評価されてしまう。体温変化や心理状態、疲労度など自分の正確な状態をしっかり把握した上で、どこまで頑張れるか頑張れないかを判断しなければいけない。もちろん主観的な分析だけではなく、仲間やリーダーの意見を聞きながら判断していきます。  仲間たちは私の荷物の一部を持ってくれました。登山のペースや休憩にも配慮してくれて、睡眠も多めにとらせてもらいました。連日、朝晩体温と脈拍を測り、その都度メンバーと登山を継続すべきかどうかを相談する。水分補給を徹底して、何とか食事ものどを通り始めました。その結果、体温が40度を超えることはなく、全員での登頂に成功したのです。宇宙でも体調不良はあり得ます。自分の限界を知る意味でも、仲間それぞれの人柄を知る機会としても、この訓練で得たものは大きかったと思っています。 ■日本はリーダー教育の強化を  NASAに限らず、米国では学校や職場などでもリーダーシップを学ぶ機会が多いように感じます。日本ではどうでしょうか。私は高校まで野球をやっていましたが、スポーツでキャプテンを務めるのもリーダーとしての良い訓練になると思います。学級委員など多くの人をまとめる立場でも同じでしょう。そうした機会に加えて、積極的にリーダーを養成する教育カリキュラムがもっとあってもいいのかな、と思います。  今回の東日本大震災では、多くの方々がボランティア活動に参加しました。こうした活動はリーダー教育という観点でも意味があると思います。難しい状況下で目的を達成するためにチームをまとめていくことが求められますから、集団行動におけるリーダーシップを学ぶ格好の機会となるでしょう。できれば1つの組織だけではなく、複数の団体に参加して活動した方がいいでしょう。そうすることでさらに視野を広げることができると思います。チームはリーダーとフォロワーで構成されています。リーダーの下でどのように行動するかというフォロワーシップを学ぶ機会も必要なのです。みんながリーダーのような言動をしていては、チームは動きませんから。 若田光一(わかた・こういち) 1963年、埼玉県生まれ。九州大学で航空工学を専攻。同大学院修士課程(応用力学)修了後、日本航空に入社。2004年博士号取得(航空宇宙工学)。92年4月、宇宙開発事業団(現・宇宙航空研究開発機構、JAXA)の宇宙飛行士候補に選ばれる。同年8月、米航空宇宙局(NASA)の宇宙飛行士訓練コースに参加する。  96年、日本人初のミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者、MS)としてスペースシャトルに搭乗。2000年には、日本人で初めて国際宇宙ステーション(ISS)の組み立て飛行に参加する。作業中にカメラが故障したにもかかわらず、精度を落とさずに組み立て作業を成功させ、NASAから「ロボットアーム操作の腕前は現役飛行士の中でも3本の指に入る」と絶賛された。  09年3月から7月にかけ日本人初のISS長期滞在を果たす。技術力と経験、周囲を魅了する人柄への評価は高く、10年3月にはNASAで宇宙飛行士を統括する宇宙飛行士室ISS運用ブランチ・チーフに就いた。  2013年から14年にかけての長期滞在では、後半のミッションで日本人初のISS船長(コマンダー)に就任する予定。3回の宇宙飛行での総滞在時間は159日10時間46分。現在JAXA宇宙飛行士グループ長。48歳 宇宙飛行士の若田さん、5月14日に帰還 2014/4/25 22:45 共有 小サイズに変更javascript:void(0)中サイズに変更javascript:void(0)大サイズに変更javascript:void(0)保存javascript:void(0)印刷リプリント/async/async.do/?ae=P_CM_REPRINT&sv=NX共有javascript:void(0)  宇宙航空研究開発機構は25日、国際宇宙ステーション(ISS)に滞在中の若田光一宇宙飛行士が5月14日午前、地球に帰還する予定だと発表した。ほかの2人の宇宙飛行士とともにロシアのソユーズ宇宙船に乗り込み、カザフスタンの平原地帯に着陸する。  若田飛行士は昨年11月にISSへ到着した。今年3月には日本人として初めてISS船長に就いた。 若田さん、3月9日に船長就任 国際宇宙ステーション 2014/2/25 13:42 共有 小サイズに変更javascript:void(0)中サイズに変更javascript:void(0)大サイズに変更javascript:void(0)保存javascript:void(0)印刷リプリント/async/async.do/?ae=P_CM_REPRINT&sv=NX共有javascript:void(0)  宇宙航空研究開発機構は25日、国際宇宙ステーションに滞在している若田光一さん(50)が、日本時間3月9日にステーション船長に就任することが決まったと発表した。日本人の船長は初。  就任セレモニーが9日午後にステーション内で開かれ、現在船長を務めているロシアの宇宙飛行士から若田さんに指揮権が移譲される。5月中旬の地球帰還まで約2カ月間、船長を務める。  下村博文文部科学相は25日の記者会見で「日本人として大変誇りに思う。日本を元気にする大きな力を与えてくれるものだ」と話した。  若田さんは昨年11月にロシアのソユーズ宇宙船で出発し、長期滞在を始めた。宇宙飛行は4回目で、ステーションの長期滞在は2回目。〔共同〕 若田さん、日本人初の船長に 国際宇宙ステーション 2014/3/9 19:31 共有 小サイズに変更javascript:void(0)中サイズに変更javascript:void(0)大サイズに変更javascript:void(0)保存javascript:void(0)印刷リプリント/async/async.do/?ae=P_CM_REPRINT&sv=NX共有javascript:void(0)  国際宇宙ステーション(ISS)に滞在中の若田光一さん(50)が9日夕、日本人として初めての船長に就任した。これまではステーション計画を主導する米国とロシアから選ばれており、両国以外では欧州とカナダから1人ずつ選ばれただけ。若田さんは帰還する5月中旬まで約2カ月間、米ロの5人の飛行士を指揮する。 国際宇宙ステーションの船長に就任した若田光一さん(前列右)(9日)=NASAテレビから共同  ステーションは米ロ日欧など15カ国・地域の協力で運用され、地上から約400キロメートルの宇宙空間を周回している。  9日に日本の実験棟「きぼう」で引き継ぎ式が開かれ、前任のロシアのオレッグ・コトフ飛行士から、指揮権が若田さんに移った。コトフ氏が「私の友人である若田さんに船長を引き継げて光栄」と話すと、39代船長となった若田さんは「謙虚な気持ちでやりたい」と応じた。  若田さんは「大役を任され、日本人として誇りに思う」「日本人の心を表す言葉である和の心を大切にして、船長業務を全うしたい」と日本語で抱負を述べた。さらに「東日本大震災から3年がたとうとしているが、被災地の街の明かりが力強く輝くのが印象的で、復興の様子に励まされている」とも語った。  船長は作業状況や搭乗員の健康状態を把握し、実験や運用などの計画を地上と調整する。火災などの緊急時には乗員の安全を確保する責任を負い、地上からの指示を待たず自らの判断で対応する権限もある。マネジメントやコミュニケーション能力が必要とされる。  若田さんは1992年に旧宇宙開発事業団の宇宙飛行士候補に選ばれ、96年と2000年にスペースシャトルに搭乗した。ステーションでの長期滞在は2回目で、13年11月から5月までの予定だ。 ◇  安倍晋三首相は9日、ISSの船長に若田光一さんが就任したことについて「卓越した能力と周囲からの厚い信頼に加え、我が国のISS計画への貢献が高く評価されている表れだ。誇りに思う」とのコメントを発表した。 若田さん船長任務完了、14日帰還へ 国際宇宙ステーション 2014/5/13 11:43 共有 小サイズに変更javascript:void(0)中サイズに変更javascript:void(0)大サイズに変更javascript:void(0)保存javascript:void(0)印刷リプリント/async/async.do/?ae=P_CM_REPRINT&sv=NX共有javascript:void(0) 日本人初の国際宇宙ステーション船長、若田光一さんが任務を終え、14日午前に帰還する  国際宇宙ステーションで日本人初の船長を務めた若田光一さん(50)が日本時間の13日未明、ステーションを指揮する権限を後任の米国人飛行士に引き継ぎ、66日間の船長の任務を終えた。  若田さんは、米国とロシアの5人の飛行士を率いてステーションを安定的に運用し、アジア初でもある船長の大役を無事に果たした。14日にソユーズ宇宙船でステーションを離れ、地球に帰還する予定。  ステーションの日本実験棟きぼうで乗員6人全員が集まって引き継ぎ式が開かれ、若田さんは「船長を務めることができて光栄だった。私にとって信じられない経験だったが、仲間の助けとチームワークなしには全うすることはできなかった」とあいさつ。後任の米航空宇宙局(NASA)のスティーブン・スワンソン飛行士と固く握手して任務を引き継いだ。(モスクワ=共同) 帰還の若田さん、大役完遂 日本人初の宇宙ステーション船長 2014/5/14 13:42 共有 小サイズに変更javascript:void(0)中サイズに変更javascript:void(0)大サイズに変更javascript:void(0)保存javascript:void(0)印刷リプリント/async/async.do/?ae=P_CM_REPRINT&sv=NX共有javascript:void(0)  【ジェスカズガン(カザフスタン)=共同】日本人初の国際宇宙ステーション(ISS)船長を務めた若田光一さん(50)が14日午前10時58分、半年ぶりに地球に帰還した。宇宙船から出た若田さんは日本語とロシア語で「ありがとう」と笑顔で話した。船長を務めた約2カ月間、乗員をまとめてISSの運用や科学実験などの任務を着実にこなし、日本人飛行士への評価を高めた。  若田さんは同日午前4時25分ごろ、笑顔で手を振ってISSに別れを告げ、米国とロシアの飛行士と共に3人で宇宙船「ソユーズ」に搭乗した。宇宙船は同7時36分にISSを離脱し、大気圏に突入。パラシュートを開いて草原に着陸した。  宇宙船から抱え出された若田さんは手を振り元気な様子。草原に用意された椅子に座り、支援チーム員と談笑した。医学チェックの結果、健康状態に問題はないという。  若田さんは昨年11月、中央アジア・カザフスタンのバイコヌール宇宙基地を出発し、長期滞在を開始した。ことし3月9日に第39代船長に就任、5月13日まで66日間務めた。  滞在中には得意のロボットアーム操作で、故障修理のために船外活動した飛行士を支援。アイソン彗星(すいせい)の撮影や、超小型衛星の放出に取り組んだ。宇宙滞在は188日で1回の飛行としては日本人最長、通算の滞在日数も348日と日本人最長になった。  今後の日本人飛行士は2015年6月ごろに油井亀美也さん(44)が、16年6月ごろに大西卓哉さん(38)がそれぞれ初飛行し、ISSに長期滞在する予定。 日本人飛行士への評価高める 若田さん帰還 2014/5/14 11:11 共有 小サイズに変更javascript:void(0)中サイズに変更javascript:void(0)大サイズに変更javascript:void(0)保存javascript:void(0)印刷リプリント/async/async.do/?ae=P_CM_REPRINT&sv=NX共有javascript:void(0)  【ジェスカズガン(カザフスタン)=共同】日本人初の国際宇宙ステーション船長を務めた若田光一さん(50)が14日午前、半年ぶりに地球に帰還した。船長を務めた2カ月間、乗員をまとめてステーションの運用や科学実験などの任務を着実にこなし、日本人飛行士に対する評価を高めた。  若田さんは同日午前4時25分ごろ、笑顔で手を振ってステーションに別れを告げ、米国とロシアの飛行士と共に3人で宇宙船「ソユーズ」に搭乗した。宇宙船は同7時36分にステーションを離脱し、大気圏に突入。パラシュートを開いて、草原に着陸した。  若田さんは昨年11月、中央アジア・カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から出発し、長期滞在を開始した。ことし3月9日に第39代船長に就任。5月13日まで66日間務め、米航空宇宙局(NASA)のスティーブン・スワンソン飛行士に引き継いだ。  滞在中には得意のロボットアーム操作で、故障修理のために船外活動した飛行士を支援。アイソン彗星(すいせい)の撮影や、超小型衛星の放出に取り組んだ。今回の宇宙滞在は188日、通算の滞在日数は348日となった。  今後の日本人飛行士は2015年6月ごろに油井亀美也さん(44)が、16年6月ごろに大西卓哉さん(38)がそれぞれ初飛行し、ステーションに長期滞在する予定。









私の履歴書
ジャンクロード・トリシェ(29)多忙なグランパ 予期せぬ激変に備えよ 欧州人の誇り
を胸に未来へ 2014/9/30付情報元日本経済新聞 朝刊



 「多忙なグランパ(おじいちゃん)」と妻に冷やかされる。ワシントンが本拠の有識者会議G30の議長、欧州の独立したシンクタンク、ブリューゲルの会長、三極委員会の欧州議長などの役職で忙しい。欧州エアバス・グループ取締役もしている。大学からの講演依頼もある。国際的な活動ができるのは光栄だ。 「忙しいおじいちゃん」の返上はお預け(パリで妻アリーヌと)  5人の孫に恵まれた。長男アレクシスの家族には13歳のエレオノール、10歳のディアナと6歳のマリーの3人娘、次男ニコラには6歳の娘アナと唯一の孫息子、1歳半のヴァディムがいる。みんなパリに住む。小さな子供もタブレット端末を上手に操るのに妻は目を細める。ボンパパとかパピーと普通に呼ばれるより好きな「ジャンクロード」と私を呼んでくれる。  小さな孫に哲学的な話は早すぎるが、好奇心を旺盛に、準備を周到に、大胆に構えようということは教えたい。  私自身の人生でも数多くの変化を経験した。21歳のころに古い機械式計算機を使った話を紹介した。スマートフォンは単なる空想科学小説の世界だった。1964年に物理学を修了した時、宇宙論は今と全く違っていた。宇宙でいわゆる物質と呼べるものは5%だけで、27%が暗黒物質、68%が暗黒エネルギーということは全く知らなかった。  仕事に就いた時、世界は先進国と発展途上国の「南北」、そして「市場経済と共産主義」という2つの尺度で4つの次元に分かれた。この状況は変わり、市場が富の創造にもっとも有効な手段であると広く認められた。4つの世界はいまひとつのグループになった。主要20カ国・地域(G20)の枠組みはそれを象徴する。  若者たちへの伝言が3つある。第1に、列挙したような驚くべき変化に備えよう。人生に全く予期しない転換が来る。特に地政学や科学、技術、社会構造などだ。  第2に、世界の格段に速い変化を予期することだ。情報技術や人工知能は急激に進化する。グローバル化で新興国の成長はさらに速まるだろう。世界の勢力図はそれゆえにもっと劇的に変わる。  第3に、3つの素養を磨いてほしい。逃れられないショックが起きた時の十分な復元力、さらに新たな仕事や社会の条件に対する柔軟性、さらに新しい変化を好機に変える創造性と素早さだ。  欧州の建設とユーロはその象徴だ。ローマ条約で57年に共通市場に署名したのは6カ国。マーストリヒト条約の署名は12カ国だった。欧州連合(EU)はいま、旧ソ連の国を含めて28カ国、ユーロ圏は来年19カ国になる。  私はブルターニュにルーツを持つ仏国民であることを誇りにしている。しかし欧州市民であることにも誇りを感じる。なんの矛盾もない。フランス人の欧州建設への貢献は明らかだ。ジャン・モネ、ロベール・シューマンの両氏。そしてドゴール、ジスカールデスタン、ミッテランの大統領が重要な役割を演じた。  ユーロは危機のストレステストを切り抜けた。外部の人は欧州を再び過小評価してはいけないが、欧州市民は変化の激しさをまだ意識していない。数多くの課題が残っている。 (前欧州中央銀行総裁) =おわり


清家一雄
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清家 一雄 
有限会社ワーキング・クォーズ(働く四肢まひ者)取締役社長
     重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表
   『ワーキング・クォーズ』編集部
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