川上広司さんがつくったALSの本、『ALS、私の足跡』
April 9, 2003


九州大学医学部附属病院で、本田スタッフと。



川上広司さんがつくったALSの本、『ALS、私の足跡』April 9, 2003

清家です。

『WORKING QUADS』編集者の
川上広司さんが本を作られました。

『ALS、私の足跡』

写真もたくさん入っています。

500円。

4月10日、
この本と川上広司さんの写真を、
川上さんの依頼で、
福岡市役所の
障害保健福祉課の椋野清彦課長、
介護保険課の古家英明課長に
持っていきました。

川上広司さんの主張の入っている
あと書きをお見せして、
直接手渡しました。

ポイントは、
ALS患者に、
介護保険1日4時間に、
全身性障害者介護人派遣事業、
支援費制度を併用して、
1日15時間のヘルパーさん派遣の実現を
願っていると言うことでした。

椋野清彦障害保健福祉課長の話では、
全身性障害者介護人派遣事業は
福岡市で、今年度の中ごろ開始され、
川上さんが対象になるか、
検討される、
ということでした。

清家一雄
http://www.asahi-net.or.jp/~YS2K-SIK/
YS2K-SIK@asahi-net.or.jp


川上広司さんがつくったALSの本、『ALS、私の足跡』
April 9, 2003





本の中身です。「私の足跡」


2010年4月25日 15:27


目 次

序                         ・・・・・ 1

ALS、私の場合(H11.1)           ・・・・・ 2

ALS、私の雑感(H11.8)           ・・・・・ 6

北欧旅行(H11.8)               ・・・・・10

第4回 JALSA講習会・交流会(H11.9)    ・・・・・14

自立生活を目指して(H11.11)         ・・・・・17

東北旅行(H11.11)              ・・・・・18

最近思う事(H12.9)              ・・・・・21

カナダ旅行(H12.9)              ・・・・・22

第5回 JALSA講習会・交流会(H12.10)   ・・・・・25

神戸ルミナリエ(H12.12)           ・・・・・26

ハワイ旅行(H13.5)              ・・・・・27

北海道旅行(H13.7)              ・・・・・29

発病からの経過(H13.11)           ・・・・・31

旅行について(H13.11)            ・・・・・34

障害の受容について(H13.12)         ・・・・・37

在宅療養(H13.12)              ・・・・・42

在宅サービス(H13.12)            ・・・・・46

ホールドハンズ(H13.12)           ・・・・・50

ホールドハンズ新聞記事               ・・・・・54

人工呼吸器について(H14.11)         ・・・・・55

 コミュニケーションについて(H14.11)     ・・・・・57

今年の旅行は・・・(H14.12)          ・・・・・59

 今後について(H15.1.27)          ・・・・・61









ALSは、英語名(Amyotrophic Lateral Sclerosis)の頭文字をとった略称で、日本語名は筋萎縮性側索硬化症といい、運動神経が冒されて筋肉が萎縮していく進行性の神経難病です。アメリカでは、メジャーリーグ野球選手のルー・ゲーリックが罹患したことからゲーリック病とも呼ばれています。また、イギリスの有名な宇宙物理学者ホーキング博士も30年来の患者です。

病気が進むにしたがって、手や足をはじめ体の自由がきかなくなり、次第に話すことも食べることも、呼吸することさえも困難になってきますが、感覚、自律神経と頭脳はなんら冒されることがありません。進行は個人差がありますが、発病して3〜5年で寝たきりになり、人工呼吸器を装着しなければ呼吸することができなくなります。残念ながら、原因も治療法もわかっていません。一般に40〜60歳で発病し、患者は全国で4500人ほどと言われています。(日本ALS協会ホームページより)



私は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹患して今年(平成15年)で8年目になります。

発病してから今までの事を、福岡県支部の支部だよりの寄稿文などを中心にこの小冊子にまとめてみました。最初の頃はこの病気のことが理解できずに必ず治るものだと思っていました。しかし、ALSについての知識を深めるにつれて「悪くなることがあっても、良くなることはない。」と主治医から言われたことがしみじみと理解できました。発病から3年間は仕事に打ち込んできましたが、体の自由がきかなくなり休職を決意し、1年後には会社を退職しました。その後は在宅療養にはいり、訪問看護のお世話になりながら日々を過ごしています。また、介護保険が始まってからはヘルパーさんのお世話になる毎日となっています。

この進行性の病気は、私にとって体が不自由になるたびに「生きる」ことを考えさせられ、最初の頃はつらい思いをしたものでした。しかしながら、外出してこの病気の先輩の方々と触れ合ううちにこの病気とともに「生きる」ことを教えてもらいました。その後、この病気の交流会などに出席しながら将来のことについて考えるようになりました。それからはこの小冊子にも書いていますけども、国内外の旅行や同じ難病の方が交流する会を発足させ、福祉情報の勉強会やレクリエーションなどの活動をしています。

この小冊子を通じて在宅支援のネットワークを構築していきたいと思っています。そのためにも福祉・医療関係・ボランティアの方々のご支援を宜しくお願いしたいと思います。

平成15年1月22日   川上 広司





ALS、私の場合



今までの経過



平成7年、単身赴任中の長崎県大村市で、7月頃から階段の上り下りの時に足に力が入らなくなる事があり、「疲れかな」と一人思っていました。しかし、月日が経つにつれて、今度は足の痙攣が起きました。特に夜中の睡眠中に数回痙攣が起こる様になってきました。堪えられなくなり、大村市にある国立長崎中央病院で11月に診察を受けました。神経内科の先生より、ダントリウム、メチコバール、アリナミン等の薬を処方してもらいました。しかし、症状は変わらず、今度は歩行中によくつまずく事が多くなりました。

平成8年2月に会議のため福岡に帰り会社の本部に行くが、博多駅から今までは普通に歩いて15分の所を3〜4回つまずき倒れながら40分かかった。「これは足の機能が完全におかしい」と思い、3月に九州大学医学部附属病院(以下 九大病院)へ行くと、4月16日から1ヶ月の検査入院となりました。結果は、原因不明の変性疾患と説明され、特定疾患の手続きを申請する様に云われた。この時、初めて『筋萎縮性側索硬化症』と云う病名を知りました。

退院してから、大村に戻って業務に復帰するが、毎日の食事・風呂・トイレ等のADLは歩けるものの、低下していきました。この頃は万歩計を付けていて、1日に3000〜5000歩の状態。1年前には18000〜20000歩でしたので、1/4以下まで低下してしまいました。何かに捉まらないと危なくて、遂に国立長崎中央病院で杖を買って使い始めました。しかし、夏も終わり9月頃になると、500mを歩くのが精一杯となり、業務にも支障が目立ち始めました。

遂にギブアップ。人事部に相談した結果、単身赴任の解除と「暫く休養しなさい」と云う事で、10月から6ヶ月間の休職となりました。休職期間中は毎日歩く事にしましたが、冬を迎えるにつれて、歩く歩数が1000歩から800歩になり、遂に12月には100歩以下まで下がってしまいました。

この頃は、これから先どうなるのかと不安で精神的にも一番動揺した時期であった。しかし、九大病院の主治医からALSやケアブックの事を教えてもらい、動揺が少し和らぎました。早速、ALS協会への入会とケアブックを注文しました。ケアブックはリハビリの方法が書いてあると聞いていたのでびっくりして、「・・・・」の状態が暫く続きました。主治医は「川上さんは重い状態ではないし、あまり他のページは気にしないで下さい」と云ってくれましたので、素直に「そうですか」とその言葉を受け取りました。こんな事もあり、精神的に落ち込む感じより、逆に「もっと知りたい」という気持ちが強かったです。

また、ADL(日常生活動作)で不自由な事がありましたので、『日常生活用具』の給付を受ける為、『身体障害者手帳』の申請をしました。後日、福岡市東区役所に手帳を受け取りに行きました。障害名『脊髄性進行性筋萎縮症』による両上下肢機能障害2級という事でした。早速、風呂場に手すりを付けてもらいました。また、歩行が辛くなってきた時期でもありましたので、車椅子も申請しました。

平成9年4月からの仕事復帰に向けての在宅療養生活でしたが、身体機能が確実に低下してきており、車椅子での仕事復帰が確実になりました。少しでも進行を止めたいと考え、リハビリをしてくれる所を探しました。結果、平成9年3月から福岡市中央区長浜にある福岡市立心身障害福祉センターにリハビリの為、週1回通う事にしました。

4月、いよいよ仕事復帰です。業務は座って勤務出来る経理部となりました。この頃は自家用車(ワゴンタイプ)の後ろに車椅子を積んで通勤し、駐車場で杖をついて降りて、車伝いに後ろへ行き、ドアを開けて一旦腰掛けて車椅子を下ろしてから、車椅子に乗り込んでいました。仕事に復帰してからの数ヶ月間は進行が止まったかの様に思えました。平成8年11月から九大病院の主治医より勧められて実施している治験(インスリン様栄養因子)が効いているのかなと思います。

しかし、平成9年8月終わり頃からは、月1回の検査でも進行してきています。日常動作でも、立って歩けなくなってきました。車椅子も遂に運転席側から後部座席への出し入れとなりました。この頃、以前から時々ではあるが泳いでいたので水泳をしようと思い、福岡市南区の福岡市立障害者スポーツセンターへ通い始めました。週1〜2回のペースで1時間半位、500mをゆっくりと泳いで帰っていました。

平成10年1月に東区の障害者福祉協会正月懇親会に参加しました。車椅子の方が私を含めて3名と少なかったのですが、懇親会終了後に車椅子の3名でカラオケに行きました。そこで、「上肢の訓練にもなる」とアーチェリーを勧められました。私も弓に興味があったので参加する事にしました。練習場所は水泳と同じ障害者スポーツセンターで、週1回から始めて、4月からは週2回の練習でした。水泳の練習はだんだん少なくなっていきました。しかし、この頃はまだクロール・平泳ぎ・背泳ぎも出来ていて、25m位は楽に泳いでいました。着替えも更衣室の壁に寄りかかりながら1人で出来ていました。

唯、歩く事は壁に寄りかかりながらでも出来ません。5月に入り、お手洗いに行っても今まで便器の縁に手を掛けて何とか用を足していたのが、手のつっぱりが効かずに途中で車椅子にドスンという事が続く様になってきましたので、必ず車椅子用トイレを利用する事にしました。

6月には、長崎市の平和公園近くの陸上競技場で九州障害者アーチェリー大会があり、土日の1泊2日で参加しました。土曜日は平和公園や原爆記念館等を見て廻り、夕方にはホテルへ。日曜日は朝早くから会場に行き、弓矢の検査を受け、初心者男子の部に出場しました。結果は、「初めての試合にしては上出来」とクラブの部長からお世辞込みで云われた記憶が残っています。九州各県から120名位の参加者があり、大きな大会でした。

その後、11月に神奈川県で行われる障害者国体の福岡市選手団の派遣選考会にクラブの部長が推薦してくれました。選考結果は、九州大会の成績を参考にし、また難病にも関わらずチャレンジしているという事で選考され、アーチェリーと水泳の出場が決まりました。この時期に遅れ馳せながら身体障害者手帳の更新をし、1級に決まりました。

7月には、私のコーチ兼介助として福岡アーチェリー協会から1人派遣され、国体までの期間中コーチしてもらえる事になりました。しかし、この頃から腹筋力と背筋力が低下してきて、坐位バランスをとるのが難しくなってきました。弓を引く時の姿勢が保てなくなって、的と水平に弓を持って狙いを定める事が厳しい状況になってきました。それでも7月と8月の試合(春日市、大野城市で開催)に出場しましたが、成績は下がる一方でした。9月には福岡市選手団のユニフォーム授与式もあり、「かながわ・ゆめ国体」へ出場する実感が湧いてくる中、筋力低下による不安を感じ始めました。しかし、周りの方々から「精一杯やって、楽しんできたらいいよ」と励まされ、少しは楽になりました。

10月には、福岡市主催の「市民総合スポーツ大会」があり、アーチェリー初心者の部で2位になり、トロフィーと賞状を頂きました。水泳の方は暫く練習していなかったので、水泳コーチに記録をとってもらいました。この時点で、腕が上がらなくなっていて、クロールは断念しました。背泳ぎでは何とか腕も上がって泳げるので、手と腕の力のみで練習を重ねました。また、更衣室での着替えは、車椅子からのトランスファーも出来なくなり、介助が必要となりました。

11月に入ると出発準備で忙しくなり、会社にも1週間の休暇届を提出して、11月5日に出発しました。7日はいよいよ開会式です。7万人収容の横浜国際総合競技場に、選手・役員を含む4万5000人の観客で埋まりました。皇太子・妃両殿下の出席の中で開会式が行われました。この日は曇で午後は雨50%の天気予報で肌寒く、車椅子に毛布をかけての入場行進となりました。

午後は、保土ヶ谷公園のアーチェリー会場へ 移動し試合を行いました。途中で皇太子・妃両 殿下が来られて、試合が中断となり、選手の激 励タイムとなりました。私も60cmの至近距 離から両殿下に激励のお言葉を頂き、緊張して しまいました。その後、試合再開となり、カイ ロで手を、毛布で足を温めながら、試合終了と なりました。結果は7位でしたが、貴重な経験 をしました。

8日は、横浜国際プールで25m自由形最終組に出場し、背泳ぎで1位になり、金メダルを獲得しました。表彰式で金メダルを頭から掛けてもらった時は嬉しかったです。プールでは、車椅子からプールに入る時と、泳ぎ終わってプールの端に行くまでと、車椅子に乗るまでの全てを介助してもらいました。

午後からは閉会式が横浜国際総合競技場でありました。夜は食べ放題・飲み放題の後夜祭がパシフィコ横浜でありました。9日には貴重な体験と良い思い出をインプットして福岡へ帰って来ました。

その後も障害者スポーツセンターで、腕が上がりにくい面もありますが、アーチェリーの練習に行っています。12月には博多っ子杯の試合があり、頑張っております。最近は握力が0近くになってきており、また、腕も肩から上に上がらなくなってきていますが、弓を1本でも引ける内は続けていきたいと思っています。





これからの事



現在の状態は、両下肢が動かず、腹筋・背筋の力がなく、坐位バランスが悪いです。したがって、何かに捉まるか、寄りかかるかしないと倒れてしまいます。両上肢の握力がほぼ0に近く、腕の力も肩から上には上がりにくい状態です。

また、ADLの低下が著しい今日この頃です。会社に行っても、車から車椅子を出す時、また車椅子に乗り移る時は、その時の体調によっては介助をお願いしています。車椅子を走らせるにも、以前の様な軽快さはなく、やっと走らせている状態です。仕事上は、パソコン業務が主で、まだ続けられますが、筆記は名前や住所ぐらいは書けますが、それ以上は字が流れてしまいます。電話も肘をつかないと取れません。業務が終わって帰る時は、必ず1人付いて来てくれます。車に乗るときのトランスファーの手伝いと、車椅子を後部座席に乗せてもらう為です。車の運転はまだまだ大丈夫だと思っていますが、かなり慎重な運転になってきています。「車の運転ができなくなったら・・・」と近い将来の生活設計を模索中です。

ここ1ヶ月位の間に、初期の症状に見られた筋肉のピクつき以前からもありましたが、手と腕にも顕著に出てくる様になり、痙攣が時と場所を選ばずに起こります。足の時と同じ様に痙攣が治まってくる時には、もう自らの意思で動かせない状態になると思っています。しかし、今はまだ動きます。「まだまだ動かせる」という『思い』をALSにぶつけています。

人間の遺伝子の膨大な情報は全て使われている訳ではなく、全情報の5%から多い人で10%しか使っていないと言われています。「まだまだ動かせる」という『思い』で潜在能力を引き出していきたいと思っています。日常生活が充実していれば、QOL(生活の質)が高ければ、機能障害があっても、この『思い』は実現すると思います。

ALSと二人三脚で生きていかなければなりませんが、この病気に常に挑戦しながら、自分の『思い』を主張していきたいと思っています。

先日、TVでALSの治療薬「リルテック」が年内に認可されるとの報道があり、私も早速、処方してもらいたいと思いました。又、県庁では「難病患者とその家族の生活向上」をテーマにシンポジウムがあり、出席してきました。福岡重症神経難病ネットワークが発足し、相談窓口があるのは、これから先の事を考えると助かります。

冬に向かって、手足の硬直と戦いながら、『今出来る事』・『まだ出来る事』、それはスポーツであれ、文学的な事であれ「挑戦」していきたいと思っています。



JALSA 福岡県支部だよりNo.5(平成11年1月30日)掲載





ALS、私の雑感



『人生に意義を与える道は、人を愛すること、自分の周囲の社会のために尽くすこと、自分に目的と意味を与えてくれるものを創り出すこと』

ミッチ・アルボム著「モリー先生との火曜日」。この本は、福岡市民福祉プラザの福祉図書館で見つけて、すぐに借りました。私と同じALSに罹患した大学時代の恩師がテレビに出ているのを見て、その姿に感動して訪問する所から始まる。モリー先生の個人授業は第14火曜日まで続き、卒業して終わる。

モリー先生が語った中の1つを冒頭に引用しましたが、この前に『多くの人が無意味な人生を抱えて歩き回っている。自分では大事な事と思って、あれこれ忙しげに立ち働いているけれども、実は半分は寝ているようなものだ。間違ったものを追いかけているから、そうなる』という文章から続く。

今、私は50年を生きてきて、理解出来るものがありますが、36歳の時に胃潰瘍で2ヶ月入院した時などにこの文章を読んでも、消化不良を起こしていたと思います。何故なら入院中も仕事の事が頭から離れず、回復したら入院期間の空白をどうやって埋めようかという事ばかり考えていました。そして、45歳の時にこのALS罹患した時も、これ程の難病とは理解しておらず、しばらく療養すれば元に戻り、仕事に復帰出来ると思っていました。

しかし、半年間の療養の後に、仕事に復帰した時は、下肢は動かず車椅子での業務となってしまいました。上肢は多少の不自由さはあるものの、普通とは変わらず業務をこなせていました。「仕事はまだ出来る」と云う気持ちが強く、療養期間の空白をバネに、新ポジションでの業務に早く慣れて、足を引っ張らないようにと焦った気持ちで会社に行っていました。

復帰して2年目に、所属する経理部に新しいセクションとして会計センターが稼働しており、そこでの責任者である『会計センター長』としての辞令をもらい、勤務することになった。復帰後はただの社員であり、私は特に肩書きにこだわっていた訳ではありませんでした。しかし、経理部長が「責任ある業務をしてもらう」と云う事で、車椅子での管理者となり、18名の部下を抱える事になりました。以前は店舗での主任・課長・店長を経験しましたが、店での業務とは違い、戸惑う事も多くありました。

この頃から病気の進行が上肢にも影響を与えだしており、月度毎に確認出来る程になりました。会社での業務上の動作でも、パソコンへの入力スピードや、電話の受話器を取る動作、移動時の車椅子を駆動する速さ、車への乗り降りなど。家庭でも排泄・入浴・食事などのADL動作の低下が著しく、会社の同僚や身内の介護なしには、仕事も生活も出来なくなっていく自分が情けなくて、歯がゆく思いました。

「これから先の事をどう考え、行動し、生きていけばいいのか」と思いました。一人の人間として、この世・この社会に存在する理由を知りたいと考えました。

この世の中、つまりこの世界の中で「私」と云う存在は、仏教で云う過去・現在・未来という時代の現在に位置し、東西南北・上下の空間に存在しています。宇宙から見れば、150億年前にビックバンと呼ばれる大爆発によって宇宙が誕生し、47億年前に銀河系の中で太陽系が生まれ、45億年前に地球や月が誕生したと云われています。人類は300万年位前の猿人から始まり、原人・ネアンデルタール・クロマニヨンと進化し、日本人は北方モンゴロイド系と云われています。

古代からの長い歴史の中で、遺伝子が受け継がれて「私」の存在があり、直接には親から遺伝子を受け継いで、この世に誕生した存在であります。私の遺伝子は子から子へと未来へ受け継がれていきます。遺伝子がどういうプロセスで生成されたかは分かりませんが、遺伝子にコントロールされている感じがします。更に、宇宙の中で地球は生きており、何か偉大なものに包まれて、その力で動かされている感じがします。そう考えると、「私」はちっぽけな生き物であるし、生き物である以上、「死」は避けられない存在であります。避けられない存在と云っても、私は思考力のある一人の人間ですし、「生」を受けた以上、「生」を全うしたいと思います。

私は生きている地球に生かされていると云いましたが、ある本に宇宙飛行士であるラッセル・L・シュワイカートさんの話が載っていました。『宇宙空間から地球を見ていると、地球はただ美しいだけではなく、まさに生きていると感じられる。その時、自分は地球の生命と繋がっていると感じた。地球のお陰で生かされていると思った。それは言葉では言い尽くせない感動的な一瞬だった』と話されています。

「生・老・病・死」と云う言葉がありますが、人はこの4つを全うしたら、この世に存在しません。私はこの中の「生・病」を経験しました。ただ「死」だけは経験する事が出来ませんので、「生・老・病・苦」と云う言葉もあります。そうなると「生・病・苦」を経験している事になります。

人は一般的には加齢と共に経験する事ですが、「病」が重くなればなる程、「苦」も増幅されていきます。又、「病」でも私の胃潰瘍のように入院して回復する病気や、事故などの後遺症の為に障害者となる人など、それぞれ辛いものがあると思います。唯、ALSや癌などのように「死」を前提にした病は「苦」を強烈に感じます。勿論、原因究明や治療は続けられますが、私を含めた当事者の「苦」の内は、身内と云えども全ては理解出来ないと思います。

私は、身内や主治医や周りの人に「苦」を全て取り除いてもらいたいとは思っていません。社会で普通に生きていく中で、不自由な部分は手助けしてもらいたいし、機器を利用してモリー先生のように自分の周りの社会の為に尽くす活動をしていきたいです。

「苦」の中のメンタルな部分は自分が受容して、解決していくしか方法はないと考えます。地球と云う生き物の中で生かされているのであれば、科学の力を借りなければならない部分もありますが、自然の中であるがままの自然なかたちで「生」を全うしたいと思います。

結果的には上肢の麻痺が進行し、車の運転も出来なくなり、平成11年4月から自宅療養の身となりました。車椅子になって3年目になり、今はどこに行こうにも介護が必要となり、自宅に居る事が必然的に多くなります。まだ車の運転が出来て車椅子を一人で積み下ろし出来ていた頃は、このまま進行が止まってくれたらと強く思いました。アーチェリーや水泳などのスポーツも楽しめたし、仕事も多少の不自由さはあるにしても、足を引っ張る事もなかった。しかし、今となっては、全ての事に一人では出来ずに手助けが必要となり、私にとっては不自由極まりない状態です。これがこれから先も続き、更に進行して不自由さが増していくのは間違いないと思います。

進行するのは避けられないとすれば、今出来る事は何かを探す事だと思います。モリー先生の云う、自分に目的と意味を創り出す事でもあると考えます。では今の私にとって、それは何か。それが問題なんです。

罹患して3年目に、進行は緩やかであると主治医に云われ、4年目に入ると検査のグラフも右片上がりで目立ってきました。私の病状では、自分では3年目で仕事が難しくなり、5年目で四肢麻痺となり、7年目で人工呼吸器装着と思っていました。現在、4年目で仕事が難しくなり自宅療養となりましたので、1年だけ延びた事になります。また、スポーツでは3年目にアーチェリーと水泳を始め、翌年はどうなるか分からないと云う気持ちで練習に取り組んで、試合にも出場して楽しんだのですが、これは予想通り4年目には出来なくなりました。

5年目にかけては、とにかく外に出て社会参加をし、上肢が動いて坐位が出来る内に旅行を楽しみたいと思います。社会活動は、旅行の会・ALS福岡県支部・異業種交流会・身体障害者福祉協会・リハビリセンターの懇談会などへの参加を通じて、ALSへの理解と支援体制を求めていきたいです。又、旅行は懐具合もありますので、許す限りの範囲で今の自分の足跡を残して行きたいと思っています。

第2の人生が定年後だとすると、私は『悪くなる事はあっても、良くなる事はない』病気の為に、最初の人生を途中で降りて、人より10年早く第2の人生を送らなければならないようになりました。本来であれば、今の時期に定年後の事を考えながら仕事をしている筈です。それも今までの価値観の延長線上にベクトルを合わせて、悠々自適の生活の人生を描いていたと思います。

しかし、モリー先生の云う『間違ったものを追いかけている』とは何だろうと私なりに考えます。正しいものとは、人間本来の生き方に近づく事かな。例えば昔、良寛和尚のように質素な『足るを知る』生活を送るのもいい。または世の中に役に立つ活動をするのもいい。唯、障害がある身で生活・社会活動をするとなれば、私にとって今までの価値観を否定しないと先へ進めない。地球に生かされている私であれば、科学の発達による快適な生活、ハイテクを駆使した社会活動も必要でありますが、次から次に発売される新製品に惑わされる事なく必要最小限に利用し、今云われている地球にやさしい生き方をしなければと考えます。又、『人を愛すること』と云うのは周りの人に感謝する事だと思います。そして、地球にやさしいと云うのは自然を愛する事だと思います。

地球を生命体と考えて人間に置き換えてみると、資源枯渇・エネルギー不足・環境破壊などの悪性腫瘍が拡大し、人間と云う細胞が各地で対立して身体の節々で膨れ上がり膿を出しています。世界各地の事まで分かりませんが、日本の中の1つの細胞の周りから健康な身体作りをしていかなければならないと考えると、今はボーダレスですから地球に良い事は身体の中を駆け巡っていきます。20世紀は物の文化であって、21世紀は心の文化と云われます。資本主義経済の競争原理で高度に発達した今の社会で、30年弱しか働いていませんが、車椅子にして3年目にして「物の見方」が少しずつ変わってきました。

車椅子生活者にとっては10年前と比べると随分生 活しやすくなっていますが、経済成長に比べれば、ま だまだ住み良い社会ではありません。特に重度障害者 にとっては、本人の意思とは別に同情の眼で見られま すし、そんな身体で外に出なくてもと云った意識も多 く見受けられます。身体障害者と云っても健康な人と 何ら変わりはありません。重度であればあるほど不自 由さが目立ちますので、行政支援・民間の介護援助が 必要になります。

私は電動車椅子ですが、最初から電動車椅子ではあ りません。歩行困難期から杖歩行になり、車椅子、電 動車椅子と不自由さが増して、次はストレチャーかな と思っています。そうなっても、支援の手があれば社会活動は十分出来る筈です。ALS(難病)患者のグループ療養ホームが出来ないか、知的生産活動が出来ないか等の情報を知りたいと同時に支援の輪を構築していかなければと思っています。

自宅療養になって4ヶ月目。色々模索する中で「モリー先生との火曜日」を読み、こんなことをベッドの中で考えました。後は、自分で具体的な行動やメッセージを発する事だと思っています。それには、自分なりにこの眼で確認し、経験するしかないなと考えています。

最後に不思議に思う事があります。それは、夢の中で手足の不自由な私が1回も出てこないと云う事です。羅患して4年目になっても、健常者としての自分しか現れない。例えば、温泉旅行など好きで以前から友人と行っていて、車椅子になっても続いていますが、そんな温泉旅行の夢を見た時などは、頭の回路がどうなっているのか分かりませんが、車椅子の自分は現れない。夢の中では以前と変わらない自分しかいません。何故なのか、どなたか教えて下さい。



JALSA 福岡県支部だよりNo.6(平成11年8月30日)掲載





北欧旅行(H11.8.21〜28)



今年は「海外旅行に行きたい」と思っていました。と云うのも昨年は9月にアメリカ西海岸ツアーが募集定員不足で実現出来ませんでしたが、国内の旅行は、長崎県小浜温泉や近場の久山温泉等、また身体障害者スポーツ大会(身障国体)で福岡市の選手団として横浜へ行きました。仕事もありましたので、身障国体で横浜に行った時は一週間の休みをもらいましたが、温泉旅行は1泊2日のとんぼ帰りでした。

冬から春にかけて上肢の麻痺が進み4月から自宅療養を決意しました。これからの事を模索する中で最初に思ったのは、まだ上肢が少しでも動く内に海外旅行に行きたいと云う事でした。そんな事を思いながら、4月25日に東区の身体障害者福祉協会の総会に出席しました。定例総会も終わり、食事会で談話している内に、Mさん夫妻から「夏に海外旅行を予定しているので一緒にどうですか」とのお誘いを受け、私は「いいですね。」と言って、その場の話は終わりました。後日、北欧旅行の案内パンフレットが届きまして、8月下旬にデンマーク・スウェーデン・フィンランドの3ヶ国8日間の日程で、身体の不自由な方を対象に全行程リフトバスを使用し、移動にゆとりのある内容でした。福祉の先進国と云う事で行ってみたい国でしたので、Mさんに電話でお礼を言い、旅行会社に申し込みました。

8月初旬に説明会があったので行って見ると、高齢の方が多く、介護を含むペアでの参加がほとんどで、リピーターの参加者中心で初参加は2〜3組でした。私を含め電動車椅子が2台、車椅子が5台と歩行可能な方が2組と云う参加で、総勢21名のツアー人員でした。電動車椅子のニッケル水素電池を充電する為の電圧変換コンバーターの手配等を済ませました。また、座席はトイレの近くにお願いしてその日は帰りました。

8月21日(土)は早朝4時に起きて準備をし、福岡空港の集合時間6時30分に間に合う様に自宅を息子の運転で妻と出発しました。全日空受付カウンターで手荷物を預けましたが、私の電動車椅子はドライバッテリーなので機内に搭乗する直前まで乗っていきました。手続き上は専用車椅子に乗りかえなければいけないのですが、ドライバッテリーなのでお願いしてそのまま旅行期間中移動出来るようにしてもらいました。そして国内線で関西国際空港へ、出国手続きを終え10時55分発で空路、日本海・シベリア上空経由ヘルシンキへ約9時間30分(7,500キロ)の機上移動となりました。機内で困ったのはトイレで、大きい方はなんとか我慢出来たものの小さい方は我慢出来ません。トイレは狭いので仕方なく毛布で見えない様にしてポリ容器のコップで済ませ、妻に処理してもらいました。また、長時間の座位は私にとって臀部の筋肉が少ない分苦痛でしたが、少し左右に動かしてもらったり、抱え上げてもらったりして苦痛を和らげました。そんな事以外は食事やアルコールで気分を紛らわせながら過ごし、現地時間の15時20分にヘルシンキ国際空港に着きました。それから乗り継ぎ、コペンハーゲンへ着いたのは18時30分でした。専用リフトバスでチボリ公園に近いスキャンディックホテルヘ着いたのが19時30分頃でしたが、まだ日射しはあり、日没は20時過ぎ頃との事でした。

ホテルレストランで夕食を済ませ部屋 へ入りシャワールームの壁に備え付けの シャワーチェアで妻に介助してもらい、 サッパリしたところで疲れがどっと押し 寄せてきたのでベッドで横になりました。

22日は、デンマーク・シュラン島北 部の田舎の田園風景や、国立歴史博物館 でもある「フレーデリスクボー城」を巡 り、美しい海岸線では対岸のスウェーデンを眺め、またコペンハーゲン市内へ戻り、人魚姫の像やロココ様式の「アマリエンボー宮殿」等を見学しました。この宮殿前広場は石畳で移動するのに私も含め車椅子の人には大変でした。そして、中の受付は狭い階段を降りないと行けません。しかし、よく見ると車椅子用のリフトが折りたたんであり、係の方が広げて準備してくれました。私たちが降りるのを他の外国の旅行客は「お先にどうぞ」と云うゼスチャーで先に行かせてくれました。そんな事もあり、気持ち良く見学し、ホテルへ18時頃戻ると、今日の夕食は市内のレストランでした。私は前日からの疲れもあり部屋で一人仮眠することにした。

20時30分頃に妻が戻って来て、今から何人かで 近くのチボリ公園まで散歩すると言うので、お腹も減 ってきた事だし一緒に行くことにしました。もう一人 の電動車椅子のRさん達も一緒に15分ほどで着き、 入り口で入場料を払って中にはいると日曜日も重なっ てか人が多く、中央の大きなステージでは催し物の真 っ最中でした。私は早速レストランのテラスで軽食を 妻に注文してもらい、ステージを見るとゾウのパフォ ーマンスが始まり、それも5〜6頭はいる。びっくり しながらビールを喉に流し込みました。途中のお土産 屋でAPSのフイルムを買い、ほろ酔い気分でホテル へ帰りました。市内は段差が少なく介助がなくても移 動が出来ました。

23日は、午前中に郊外の補助器具センターを訪問し、そこの責任者である理学療法士・ボランティアガイドに歓迎され、部屋で説明を受けながら展示場を案内してもらいました。センターでは医師の診断等の手続きをすれば補助具の交付を無料でしているとの事でした。車椅子コーナーでは斬新なものが多く、日本のいかにも車椅子とは違います。電動車椅子もシートの上下・無段階リクライニング・方向指示器・ライト・後方ミラー等が装備されていて、試乗すると座り心地・操作等の快適さが全く違います。ただ、大きさは倍になりますが、私は欲しくなりました。

また現地ガイドさんを通じての質疑応答で「日本では土・日・祝日は介護人派遣が休みですがデンマークではどうですか?」と質問した所、「患者さんには関係ありません。土・日・祝日でも訪問しています。」との返答でした。帰りにトイレを利用したのですが、広いのには驚きました。日本での6畳より少し大きい感じで、ハンディキャップ用シャワー・手すり付き便器・大きな化粧台等が備え付けられて、まるでシャワールームの様でした。

そこから市内のレストランへ移動し昼食タイムとなり、その後免税店でショッピングし、空港へ直行しました。リフトバスの運転手アルバートさんにお世話になったお礼として、日本から持ってきたマイルドセブンのたばこを片言の英語で1個差し出すと、日本語で「ど・う・も・あ・り・が・と・う」と言って喜んでくれました。

そして16時35分発の航空機でストックホルムへ1時間程で着き、また専用リフトバスで住宅街の中にあるファーストホテルアマランタンへ移動しました。部屋に入りシャワールームを覗くとシャワーチェアがないので、すぐ添乗員のUさんに連絡するとホテルの従業員がハンディキャップ用のシャワーチェアを持って来てくれました。

24日は、ストックホルムの市内観光で、メーラレン湖に面し、106mの塔がある赤レンガの市庁舎や、王宮・中世の面影が残る旧市街等を見学しました。市庁舎では、市の議会室や金箔のモザイクで出来た壁がある「ノーベル賞授賞の間」等を見学しました。外国人観光客と混じって車椅子連隊が動き回る様子を見ていると違和感がなく、私も含めてこれが普通の観光客なんだと思いました。

旧市街のショッピングストリートでは、免税店等を 見て回りましたが、石畳の坂道あり、狭い歩道との段 差は大きく、仕方なく石畳を通る車椅子には介助の人 も含めて大変な思いをしました。 しかし、展望台から市内を見渡すと中世の建物や島 々が美しく、見飽きない眺めでした。また、市内を走 る2両編成の路面電車は懐かしい想いで見てしまいま した。

25日は、スウェーデン王宮の居城で、世界遺産の「ドロットニングホルム宮殿」ヘ行きました。駐車場も広く、ハンディキャップ用も数台ですが確保されてます。周辺の環境も美しく、期待して小さい砂利の上を進み、王宮の入り口まで行くと、数十段の階段になっていて車椅子のまま抱え上げてもらわないと見学が出来ませんでした。さらに世界遺産と云うことで王宮内もスロープ設備がないとの事でした。しかたなく、私も含め何人かの車椅子の人は手入れの行き届いた庭園を見に行きました。すると、庭園は一部工事中でがっかりしました。そんな事もあり不満を残しつつ、また市内観光へ戻りました。

夕方には船でヘルシンキへ移動の為、港につくと豪華 客船シリアラインが停泊していました。船底から船上の 甲板まで12階の豪華ホテルのような船です。フロア毎 に船室・ショッピング街・レストラン・カジノ街等とス ケールの大きさにビックリしました。早速、何人かと船 上の甲板に出て周りの小さな島々と夕日を見ながらビー ルを飲み、美しい景色を堪能しました。

夕食はバイキングで飲み物も飲み放題との事で、ビー ル・ワインと少し飲みすぎました。夕食後は同じフロアあ のスーパーマーケットで片言の英語を使いお土産を買い ました。船の揺れもほとんど感じなく、車椅子での移動 には支障がなく快適でしたが、部屋(一応ハンディキャップ用)でのコンパクトなベッド・普通のシャワーチェアには不満が残りました。

26・27日は、ヘルシンキ市内観光で岩の中央を堀り、天井は総ガラス張りの「テンペリアウキオ教会」、「シベリウス公園」、ロシアの名残が残る「元老院広場」等を見学しました。ここヘルシンキも道路の舗装はされていますが一部「元老院広場」付近等は、ストックホルムと比べると荒々しい石畳の道路で車椅子の人にとっては横断するのに四苦八苦の連続でした。更に私は、路面電車が接近しているのも気が付かずクラクションを鳴らされました。

そんな事もあり26日の宿泊先であるシーサイドホテルに着いた頃は疲れがピークに達したので、早速部屋に行き、そのまま仮眠しました。妻も含めて何人かは夕方の自由行動で市民の市場マーケット広場等へショッピングを兼ねて散策してきた様です。

このホテルでもシャワーチェアがなく、ハンディキャップ用を頼みましたが用意していないとの事で、また不満が募りました。更に、ここで一大事、電動車椅子の充電器が作動しなくなり、充電出来なくなりました。電動車椅子を押してもらうしかありませんので、介助の回数が増えました。なんとか27日の市内観光も介助してもらいながら無事に終わり、夕方にはヘルシンキ国際空港から17時35分発で関西国際空港へ、そこから乗り継いで福岡空港着は28日14時15分でした。妻の介助も大変だったと思いますが、私の様な四肢麻痺で電動車椅子使用者にも十分楽しめた旅行でした。



JALSA 福岡県支部だよりNo.7(平成12年2月29日)掲載





第4回 JALSA講習会・交流会(H11.9.22〜23)



  昨年は県支部の山口副支部長が参加され、有意義な2日間の支部機関紙の記事を読み、「今年は私も行きたいなあ」と思っていると、8月の九大付属病院の受診で主治医から「将来的に呼吸が苦しくなったらどうしますか。」と人工呼吸器装着の説明と同意がありました。私は装着するつもりですが、頭の片隅には不安が残りました。そんな事もあり、全国の患者さんとの交流で不安を取っ払いたいと思い、妻と2人で参加を決めました。

参加の手続きは、県支部を通じて日本ALS協会へ申し込みをお願いしました。後日、ALS講習会・交流会ご案内の封書が届き、確認すると仙台空港から仙台ロイヤルパークホテルまでの道順の記載がなく、直接ホテルへ電話しました。するとタクシーで片道1万5千円位かかるとの事、困ったと思い日本ALS協会へ電話し、移動手段を確保できないかお願いしました。後日、FAXで仙台の移動サービスの福祉リフトカーを紹介してもらい、早速22・23日の往復の予約をしました。

9月22日の福岡空港8時25分発で仙台空港まで1時間半の移動でした。仙台空港に着いてどこに行けばいいのか迷っていると「川上さんですか」と声を掛けられ、リフトカーへ案内してもらいました。ここは車椅子専用の停車スペースがタクシー待ちの隣にありました。12時前に着き、ロビーに入るとヨーロッパ感覚のクラシック調の家具が置いてあり、落ち着いた雰囲気のホテルです。

講習会は14時からなので最上階のレストランで昼食タイムをと思い中に入ると、同じ車椅子の患者さんも何名か食事されていました。それから会場へ移動し受付を済ませました。大きな会場の手前には小ホールがあって、福祉機器やカタログの展示がしてありましたので、動き回っていると宮崎県支部の総会でお会いした千葉県支部の川上事務局長とまたお会いして、しばらく談笑し、協会の熊本事務局長にもご挨拶しながら始まるのを待っていました。14時の開始前にトイレに行って用を済ませてと思い、身障者用トイレに行きましたが先客ありで待っていると、後ろから患者さんが介助の方と来られたので、「どちらから来られたのですか。」と声を掛けると介助の方が「ALS協会の松本会長さんです。」と言われました。「これは失礼しました。」と言って簡単な自己紹介をしました。松本会長は介助の透明文字板で「遠い所をご苦労さまです。」と返事をされました。そこで今年は講師としても来られている福岡県支部の山口さんの娘さんともお会いして、前日の飛行機内で呼吸器トラブルの話を聞き、万が一の時の予備も必要であると思いました。それから元気な様子の山口さんとお会いし安心しました。

会場に戻り席に着くと14時を少し回りましたが、200名近い参加者があり、その内ALS患者29名(人工呼吸器装着者16名含)で1日目の第一部講習会の始まりです。宮城県支部の伊藤事務局長の司会で、松本会長の開会の挨拶があり最初の講演に移りました。 特別講演「介護保険でどう変わるALSの療養」と題して、東北大学大学院教授・濃沼信夫先生が講演されました。介護保険と医療との関わりなど私も当事者として聞き入りました。

講演が終わり30分の休憩後15時30分より第2部「医療・福祉機器の進歩とQOLの向上」と題して、医療・機器会社の4社からそれぞれ機器の説明がありました。



1.(株)日立製作所の「伝の心」



機能のバージョンアップの説明で、@本や雑誌を読む為にリモコンでページめくり機の操作が出来る。Aエアコン・家庭用ゲーム機・テレビ・ビデオ・ラジカセ操作が出来る。Bまわりの風景を観る為のリモコンビデオカメラの操作やポケベルへの送信が出来る。C言いたいことや気持ちを伝えるコミュニケーション機能等をわかりやすく話してくれました。意思伝達の基本的な機能をサポートする機能が充実したのが良くわかりました。



2.(株)テクノスジャパンの「マクトス」



身体が動かなくても、話せなくても機器の操作が出来、意志伝達をサポートします。これは額に取り付けたディテクタで頭部の生体信号を検出し、この信号で各種の機器を操作するシステムです。既存のスィッチやセンサーが使えない人には、大変有効であるとの説明でした。本日参加されている宮城県支部の和川さんが使用されているそうです。



3.フジ・アールシー(株)「LTV900」



これは軽量でコンパクトな人工呼吸器です。重量が5.7kgでサイズも26.5(W),7.5(D),30.5(H)と持ち運びに便利で、A/C内部バッテリー(90分)・外部バッテリー・シガレットライターの3電源が使えるとの説明でした。車椅子での外出にはコンパクトで荷物にならなくて、重宝な機器だと思いました。後で、宮城県支部の鎌田支部長が実際に試用されていました。



4.アイ・エム・アイ(株)「LP」



IMIの人工呼吸器を使用して在宅療法されている方へ、2000年1月1日の準備の説明です。不測の事態に、会社としての24時間連絡体制等の準備や安心して2000年を迎えるために、アンビューバック・足踏み式吸引機・国産バッテリーセット等の手配も全国の営業所に連絡して下さいとのことでした。



以上で、医療・機器会社からの説明・質疑応答も済み、1日目の講習会は17時30分前に終わりました。次の交流会は18時30分からです。

交流会は同じ大ホールで時間通り開催されました。私は、鎌田支部長や近畿ブロックの熊谷会長のテーブルに同席させてもらいました。宮城県支部の佐々木さんの司会で、橋本副会長の挨拶、鎌田支部長の乾杯で和やかな会食タイムとなりました。私は、鎌田支部長が人工呼吸器を付けて話されているので尋ねると、車椅子テーブルの上にある小型のコンプレッサーで空気を送り発声していて、患者さんの症状にもよるとの事でした。しかも、食べたり・飲んだりもされていましたので驚きました。

そんな中で、壇上ではミニコンサートが、ピアノの庄司さん・ソプラノの佐藤さんの歌声で始まり、美しい演奏ときれいな声に聞き入りました。

しばらくして、「全国から参加されている患者さんに自己紹介をしてもらいましょう」と言う司会者の声で全員の所へマイクが回りました。各患者さんの発言を聞いていると、それぞれの地域で力強く過ごされて、いろんな活動もされているのだと思い、元気をもらったようで頭の片隅の不安も小さくなりました。



2日目は、9時20分から「ALS・神経難病患者のQOLを求めて」と題して、宮城 県支部の伊東事務局長の司会でシンポジウムの始まりです。最初は仙台往診クリニック院 長の川島孝一郎先生で「ALS等神経難病患者の在宅医療」について、往診専門での立場 から在宅医療のお話をされました。福岡市にも川島先生のような方がおられたらと思いま した。次は、東北厚生年金病院リハビリテーション部技師長の安藤等先生で「ALS等神経難病患者の在宅リハビリテーション」について、ALS患者の具体的障害事例から日常生活を援助する機器や工夫等や具体的リハビリテーションを理学・言語療法の観点からお話をされました。最後は、福岡県支部の山口進一副支部長で「パソコンを使いこなそう!」について、福岡県支部の資料を参考に特殊マウスの使い方等、不自由な手でパソコンを使いこなし、活用事例を紹介しながらお話をされました。

シンポジウムの質疑応答も終わり、最後に山梨・山形県支部の「ケアハウス」の話があって、叶内副会長の閉会挨拶で2日間の講習会が終わりましたが記念撮影等で和やかな雰囲気が続きました。そして「来年もまたお会いしましょう」と言いながら帰途につきました。

私は九州上陸を狙っている台風が心配で、飛行機は運行するかなと思いながら、空港へ着くとどうやら大丈夫だったので安心しました。帰りは、山口さん家族と福岡空港まで一緒でした。翌日は台風が九州を横断し、交通機関が乱れ大変でした。



JALSA 福岡県支部だよりNo.7(平成12年2月29日)掲載





自立生活を目指して



 私の自己紹介を簡単にさせて頂きます。私はALS(筋萎縮性側索硬化症)と言う神経難病を発病して4年目になります。この病気は全身の運動神経細胞のみが侵され、それに伴って、この神経に支配される筋肉が萎縮します。意識や感覚は正常で手足が徐々に動かせなくなり、話すことや食べることも困難になります。最後には呼吸麻痺となり人工呼吸器を装着しなければ3〜5年で死に至ると云われています。

現在、私は四肢麻痺で自宅療養しています。自立生活は、私にとって人の介助がないと日常動作・移動が出来ませんので、リハビリをして日常生活が自力で出来る様になる「自立」の捉え方とは違ってきます。人の介助を通じてしか日常動作・移動が出来ない重度障害の場合は、同じ動作でも過程がまったく違ってきます。さらに進行性であるが故に、人工呼吸器装着ともなれば24時間看護になり、外出する事になれば2〜3人の介護人が必要になってきます。

そんな状況の中で「自立とは何だろう」と考えます。障害がある身で「何が出来るのか」と自問自答していくと選択肢は限られますが、普通に「何をしたいのか」を思い、実行していく事が自らの選択による「自立」になります。自分の生活は自分で決定する。意志決定権は自分にあると考えます。重度障害であっても「旅行に行きたい」「プロ野球を見に行きたい」等を思う訳です。何も障害がなければひとりで行けますが、私はひとりでは行けません。どうしても介護してくれる人が必要であり、ここに行政・民間の支援、あるいはボランティアの支援が必要になってきます。もちろん日常生活や移動はなおさらです。

現在、私は訪問看護を毎日受けています。通常は週に3日ですが、特定疾患の為、毎日受ける事が出来ます。やはり気になるのは、同じ疾患の方がどんな状況であるのかという情報を知りたいと思います。マクロ的な情報は検索出来ますが地域における情報はなかなか手に入りにくく、こまめに集めるしかない状況です。私の収集不足もありますが、様々な介護サービスの横のネットワークがあれば収集しやすいと思います。と云うのも重度障害になればなるほど活動範囲は限られてきますので、様々な情報ベースを確保したいと思っています。

また、自立した生活をして行く中で、身内の介護だけでは進行性であるが故に限界があると思います。将来的には訪問看護を1日2回、ヘルパーさん、夜間巡回の介護等が必要になってきます。そうなると1日の介護を身内も含めてスケジュール化し、さらには保健婦さんの指導、専門医、かかりつけ医、短期療養先等と、1週間あるいは1ヶ月のスケジュールが必要になります。そう考えると来年の4月から施行される介護保険も絡んできます。保健・医療・福祉のサービスを介護支援専門の方がコーディネイトしてくれると聞いていますので助かります。これは介護保険適用の場合ですから、適用外の場合は今まで通りとなりますので自分でしなければならない事になる。

「自立」を考える時、身体の障害がある分だけさまざまなサービスを受け、普通の生活をし、自分のしたい事が出来る環境・社会であればいいと考えます。ノーマライゼーションの考え方もそうではないかと思う訳です。



平成11年11月12日 「地域リハビリテーション交流セミナー」にて発言





東北旅行(H11.11.24〜27)



 10月8日から福岡マリンメッセでアジア・太平洋旅行博覧会に、身体障害者の旅行を推進し、実施している「希望の翼の会」が主催のコーナーに、私も会員なので応援に行きました。そこで車椅子で行く東北旅行の募集をしており、旅行会社のFさんと話すうちに「温泉にも入りましょう」と言われました。私が温泉好きなのを知っているのかと思いましたが、「介助者がいないと無理だ」と言うと「私も手伝うし、旅行の介助で2名同行するので大丈夫です」と言われ、妻と2人で参加する事にしました。結果、ストレッチャーで移動の方を含む車椅子9台で22名のツアーとなりました。

11月24日は、福岡空港へ午前中の集合時間に間に合う様にタクシーで行き、荷物などの手続きを済ませ、11時00分発で青森空港へ2時間の機上移動でした。ストレッチャーの方は機内に準備されている専用のベッドに移り、私たちも機内の手前で車椅子から専用車椅子に乗り換えて座席に移りました。機内で持ち込んだ弁当を食べ、13時前には青森空港に着きましたので、宮城交通のリフトバスに乗り込み、最初の観光地、ねぶたの里へ直行しました。

天気も良く、少し肌寒い位でしたが、 ねぶたの里の駐車場から展示場までの 移動は気になりませんでした。しかし、 坂道と展示場内のスロープは車椅子の 人にとってやっかいでした。ねぶたの 優秀作品を鑑賞し、つぎの酸ヶ湯温泉 へ八甲田山を車窓から眺めながら移動 し、休憩タイムです。さすがに山間は 寒く、皆さんも身が引き締まる思いで お土産の店に入り、ショッピングや名 物のソバを食べたりしていると、16 時過ぎなのに外が暗くなってきていました。ガイドさんに聞くと、こちらは九州より日没が1時間位早まるそうです。そんな訳で、日没の中を宿泊地である奥入瀬渓流グランドホテルヘ移動しました。

山間の立派な洋風ホテルでしたが玄関の横には薪が山のように積んでありました。夕食時間等を確認し、部屋に入りしばらくすると添乗員のFさんから電話があり、妻が電話を取ると「夕食まで時間があるので温泉に入りましょう」とのお誘いでした。早速、隣部屋の車椅子の方とFさんも一緒に大浴場へ行き、段差の所は他のお客さんにも手伝ってもらい、脱衣所まで進みました。Fさんに服を脱がせてもらい浴場へ抱え上げてもらおうと思いましたが、滑りやすいので近くにいた従業員の方にFさんが介助をお願いした所、すぐ来てくれて2人で浴場まで抱えて行ってくれました。もう一人の車椅子の方は、上肢が普通なので一人で服を脱ぎ、浴場まで車椅子で行き温泉に入られました。

Fさんに支えられながら温泉に浸かり、いい気持ちでした。今度は身体を洗ってもらわなければいけません。また、従業員の方に介助をお願いし、2人で洗い場へ抱えて行ってもらい、Fさんに洗ってもらおうと思っていると、何と従業員の方が頭から足先まで手慣れた手つきで洗ってくれました。後で聞いた所、身内の介護で慣れているが、ここでは初めてとの返事でした。そして「明日も宿泊するなら私を呼んでくれ。」と言われ、有り難く思いました。あと2人の介助の方は女性ですので男湯の片隅で服を着させてもらいました。混浴だったら手伝えたかも。そんないい事があり、夕食の郷土料理も美味しく頂きました。

25日は、9時30分出発で奥入瀬 渓流散策でした。渓流の休憩所で降り 紅葉の時期は終わりましたが道路脇を 車椅子9台連ねて、ブナなどの林や、 岩・倒木に生えている苔の自然そのま まの風景を楽しみ、小さな滝の音を聞 くと冷たい空気も心地よい感じがしま した。バスに戻り、車窓からの渓流を 眺めながら上流へ行くと十和田湖が見 えてきました。

お昼はキリタンポ料理を食べ、遊覧船の発着場で記念撮影を撮り終えた所で小雨になったので、すぐ遊覧船に乗り込みました。船内の車椅子での移動はもちろん出来ますが、上の階へは抱え上げてもらわないと行けないので、1階の船窓から乙女の像などを見ていました。雨も上がり、甲板に出ると湖上に虹がかかり、わずかに残った紅葉とマッチして美しい景色となっていました。今日は曇りで少し霧もかかってきたので発荷峠の方まで行かず、昨日と同じホテルへ早めに戻りました。さっそく温泉タイムと思い、また昨日と同じようにしてもらい2日連続でいい温泉気分を味わいました。

26日は、一転して雪模様となり、田沢湖まで雪景色を楽しみながらの移動となりました。途中、りんご園で休憩しましたが、雪は降り止まず積もっていきました。元気な車椅子の方は雪の中を走りまわっていましたので、私も電動車椅子で参加しましたが寒くて途中で止めました。バスは東北縦貫道を移動し、今日の観光地である田沢湖に着く頃は小降りになりましたが、山間の乳頭温泉「鶴の湯」に着いた時は20pの積雪でした。ここは段差だらけで、皆さんの車椅子を、従業員の手助けで雪の中抱え上げてもらい、遅い昼食となりました。また乳頭温泉の露天風呂へは、雪も積もり続けているので希望者だけで行きましょうと云う事で私も含めて半数の方でバスに乗り、更に山を登って行きました。

バスが白い雪の駐車場に着き、露天風呂へ 電動車椅子の後ろをFさんに押してもらいな がら進もうとしますがなかなか動かず時間が かかりました。 やっと乳白色の温泉の所まで来ましたが時 間もなかったので私は目で入浴し、何人かの 方は先に入浴されていました。それから残っ た人達と合流しバスは雪道を下り、花巻市の 志戸平温泉のホテル志戸平に向かいました。

大きなホテルに着くと玄関で有料記念写真を撮ってからホテルに入り、部屋のキーと夕食時間を確認して部屋に行きました。

部屋に入るとツインなのに狭く、コンパクトなベッドでビジネスホテルかなと思いました。夕食は花巻の名物会席料理で美味しく堪能しました。また、係りの人が近くで気配りしてくれたのが車椅子の私にとってうれしかったです。食事後は、温泉タイムで混浴大浴場に妻と行きました。他の車椅子の方も一緒で、大浴場に着くとFさんが2人の男性従業員と待っていてくれて、すべて介助してくれましたので満足な気分で混浴風呂を楽しみました。しかし、お客さんは男性のみでしたので、妻は別の風呂へ行きました。

27日は、9時30分頃ホテルを出発して、宮沢賢治記念館へ行き、文学的気分を味わいました。ここは段差がなく、車椅子でも介助なしで動き回れました。そしてツアーも4日目になるとリフトバスの乗り降りも早くなり、運転手の方も手慣れた様子でした。お昼は花巻名物の「わんこそば」を食べ、ショッピングタイムでした。ここの店もスロープがあり、スムーズな移動が出来ました。帰りは、すぐ近くの花巻空港から13時50分発で福岡空港へ移動し、「またお会いしましょう。」と言いながら帰途につきました。帰りの車の中で介助の手があればまだ何処へでも行けると思いました。



JALSA 福岡県支部だよりNo.7(平成12年2月29日)掲載





ALS、最近思う事



春から夏にかけて、冬場に進行した腕や手の麻痺が元に戻らないかと思いリハビリ等に励みましたが、一度進行した症状はカムバック出来ません。ALSの知識としては、主治医や本や先輩方からの情報で理解はしているつもりでも、症状が進行する度に、自分自身を納得させるプロセスを経なければいけないと云う事は辛いものがあります。

 しかし、生活はしていかなければいけませんので、不自由な部分は介助してもらい、パワーが必要な部分は福祉用具を利用して生活していく事が多くなってきます。介護では今年の4月からの介護保険を利用して、夜間の体位交換、昼間の身体介護ヘルパーや訪問看護にお世話になっていますが、外出となるとなかなか思うように出来ない部分があります

。  必然的に身内の負担が多くなりますので、移動手段の確保、ガイドヘルパー・ボランティア等の支援により、一人で外出する事が出来ないかを試行錯誤している状況です。そんな中で、4月に大阪の造幣局の花見に一人で参加しました。

 不安を感じながらの1泊2日でしたが、介助スタッフにお願いして、移動・食事・排泄・清拭・歯磨き・夜の体位交換等をしてもらいましたので、不安もどこかに吹き飛びました。また、週1回の通所リハビリもヘルパーさんにお願いして、天神の福岡市立心身障害福祉センターまで一人で行く様にしました。

 将来的な介護を考える時、様々な生活シーンにおいての身近な支援ネットワークが必要となってきますので、地域の医療・保健・福祉の情報を把握しておかねばと思います。

 その為にも、近くの患者さん宅へ訪問して交流を深めたいと思っていた所、自宅から車で5分の住宅地に在宅療養されている方がおられましたので、4月下旬に訪問しました。奥さんが罹患されていて、1年前に肺炎から呼吸困難になり人工呼吸器を装着されたそうです。御主人が付きっきりで介護されていて、外出はリフト付きワゴンで行かれています。 奥さんはまだ踏ん張る力が残っていて、支えがあれば立つ事が出来るそうです。

今回は、九州大学医学部附属病院の神経難病ネットワーク相談員である岩木さんと一緒に行きました。私は在宅療養のネットワークの事など教えてもらいました。

訪問看護はホスピス病棟がある亀山栄光病院からベテランの看護婦さんが来られているとの事でした。お風呂にはバスマンを導入されていて、快適に入浴を楽しまれています。私も早速カタログを見せてもらい、頭にインプットしました。

福岡市には37人(平成9年度)のALS患者さんがおられて、東区には10人の患者さんがおられます。わたしはまだ3〜4人の患者さんしか知りませんので、神経難病ネットワーク・九大神経内科の先生方等の支援を仰ぎ、福岡市での交流会を開催し、病院・在宅での療養の問題等、情報交換していきたいと思うこの頃です。そして、現実に動き出しています。又、この事はALS協会福岡県支部全体の情報交換にもなり、ALS患者さんの「生活の質の向上」にも繋がっていくと思います。



JALSA 福岡県支部だよりNo.8(平成12年9月30日)掲載





カナダ旅行(H12.9.3〜10)



今年も海外旅行に行きたいと思いながらも、ALSの進行が昨年と比べるとさらに両上肢全体にまで来ており、腕は上がらないし、手も動き辛くなってきました。また、座位バランスと臀部の筋肉が少なくなってきている分痛みがひどくなり、現在使用している電動車椅子(NEO P−1)では長い時間乗っていると苦痛になってきました。我慢すればいいのですが、それもつらいものがあります。その度に抱え上げてもらったり、クッションを変えたりして臀部の痛みを緩和しているのですが、なかなか思うようにいきませんので、4月に電動リクライニング車椅子の申請手続きしました。1年前に分割可能な電動車椅子を給付してもらったばかりでしたので、押し問答もありましたが進行性疾患と云うことで6月には給付してもらいました。リクライニング機能があると、前屈みの姿勢が背もたれを倒すことで矯正されて楽になり、臀部の「圧」も分散されて、長時間の座位が保てますので、旅行も楽ではないかと思いました。

9月3日〜10日までカナダへ旅行してきました。「あったか旅倶楽部」企画で旅行会社はJR九州ジョイロードです。参加者は、添乗員、介助スタッフ(看護婦含む)を含めて10名とミニツアーです。障害者は脳性麻痺(1人は全介助)の方2名と私(ALS)で3名と家族を含め7名に、添乗員・介助スタッフの3名と云う参加人員構成です。車椅子は、脳性麻痺の方の手押し車椅子と私の電動リクライニング車椅子の2台です。

3日の福岡空港13:00発日本エアシス テム522便で関西空港へ、そしてエア・カ ナダ航空894便でトロントまで12時間の 空の旅でした。私の電動リクライニング車椅 子は、福岡空港JASカウンターでバッテリ ー2個を外し、本体と別々に2重に梱包され てトロントまで手荷物として運ばれました。 昨年、北欧に行った時はドライバッテリーで したので、機内搭乗直前まで乗っていきまし た。

飛行時間が長く、機内での対策として、「はがき通信」の件で向坊さんからお電話をいただいた時に座席を確保して横になる事と助言をもらいました。行きはたまたま空席の近くで、帰りは乗客の方に席を変更してもらい空席を確保し横になったりして過ごしました。

参加者は、添乗員、介助スタッフ(看護婦含む)を含めて10名とミニツアーです。

障害者は脳性麻痺(1人は全介助)の方2名と私(ALS)で3名と家族を含め7名に、添乗員・介助スタッフの3名と云う参加人員構成です。車いすは、脳性麻痺の方の手押し車いすと私の電動リクライニング車いすの2台です。

トロントには3日の現地時間16:30に着き、大型リフトバスでナイアガラへ2時間の移動で、宿泊先のヒルトンホテルに着きました。ここのホテルでビックリしたのは、1階の受付ロビーの奥がガラス張りでその先は25m位のプールになっており、利用者の方が楽しまれていました。こんなホテル、他にないよ。屋上のレストランでナイアガラの滝を見ながら夕食タイム。寝る前に電動リクライニング車いすの充電を、持ってきた電圧変換コンバーターを使ってコンセントに差し込み充電しました。

4日は圧倒的な迫力のナイアガラの滝を「霧 の乙女号」でまじかに見て、ナイアガラ・パー クのレストランでランチタイム。ナイアガラの 滝の周辺は、段差もなくすべてスロープ対応で 移動はスムーズでした。展望台から「霧の乙女 号」の乗船場までは、乗船券を販売している入 り口からいきなりらせん状の下りスロープでカ ーブの連続かと思いきや一回りするとエレベー ターが3基見えほっとする。一番手前のエレベ ーターに電動車椅子で優先的に乗せてもらう。下に着くとトンネルの緩やかなスロープを抜けて、テント小屋でぺらぺらのビニールカッパを受け取る。私は2枚支給してもらい、頭と足から着させてもらいました。そこからすぐ下の乗船場へ行きましたが、ここまでは段差もなく何のバリアを感じる事もなく来れました。

「霧の乙女号」に乗船するには、中継の渡し場から急勾配の渡し板を通るようになって いました。この時が後ろに倒れないかと不安を感じましたが、係員に見守られながらゆっ くりと乗船し、甲板の眺めのいい場所に陣取り、アメリカ滝とカナダ滝を見渡す。ただ、 カナダ滝に近づいて行くと飛沫で眼鏡は水滴だらけとなり見えなくなってしまいます。垣 間見る大瀑布の迫力を肌で感じた後、改めて帰りの乙女号から見るカナダ滝の景観に眼を見張った次第です。帰りは逆コースで、エレベーターで上がって行きましたが、出口の所は数段の階段になっている。よく見ると左側が狭いスロープがあり、上ると出口はギフトショップではありませんか。しっかりしてるよ、私は見ただけで外に出ました。

そんな訳でナイアガラ・パークやオン・ザ・レイクの街並みも含めてバリアの無い旅でした。ナイアガラの滝からトロントまでは、46人乗りで車椅子が後部に2台乗れるリフトバスでした。それに車椅子2台を含む10人での利用でした。暇で空いていたのかなあ。

5日はトロントから国内線でプリンスエド ドワード島のシャーロットタウンへ移動。 7日までデルタプリンスホテルに3泊して 「赤毛のアン」の家のモデルになったグリー ンゲイブルズ・ハウスやモンゴメリーの生家 等を観光しました。移動はミニツアーにピッ タリのミニリフトバスでした。ここの田園風 景は絵に描いたように美しかった。ガイドさ んの説明によると、この島は愛知県位の面積で人口がわずか13万人だそうです。プリンスエドワード島では、日本で言うリフトワゴンと違って、向こうでよく家族旅行する時使うキャンピングカーを改造したようなリフト付きマイクロバスです。車椅子の台数に合わせてシートの脱着可能です。私達のときは、車椅子2台を含め10人とガイド1人と荷物スペースでピッタリコンでした。

8日はフェリーを利用してハリファックスへ移動して、タイタニック号にまつわる資料館や郊外では白い灯台で有名なペギーズ・コープ等を観光しました。宿泊先はウエスティンホテルでした。ハリファクスは95年、元村山総理の時サミットが開催されたところです。最後にハリファクスの空港まで乗った大型リフトバスは、中央部が車椅子専用になっていました。前席が2人用4シート、車椅子が6台乗れ、後部座席は10シート位だったと思います。今までのリフトバスでは初めてでした。

9日は国内線でトロントへ行き、国際線の895便10:45発で関西空港まで 14時間30分の空の旅でした。この時が一番バテ気味でした。10日の14:30に着いて、関西空港から日本エアシステム525便18:35発で福岡空港へ楽しい思い出と共に帰ってきましたが疲れた。

旅行期間中の介助は妻の他に添乗員・介助スタッフの方で、入浴・着替え・ベッド への移動・清拭・体位交換・朝のケア・排泄介助等をしてもらいました。この添 乗員・介助スタッフがいなければ妻はダウンしていたと思います。

昨年の北欧旅行の時と比べて、座位時間に不安がありましたが電動リクライニング車椅子で所構わず背もたれを倒すことが出来たので臀部の「圧」を分散出来たのが良かったです。また、ナイアガラの滝を見学している時は、肌寒さで手が麻痺し何回か電動車椅子のレバーコントロール不能になり手をさすってもらいました。現時点での私の症状の限界を再認識した次第です。

天候は、3日のナイアガラの滝を見学した時だけが曇りときどき小雨でしたが、他の日は晴天に恵まれました。気温は、朝夕が12度位と肌寒さを感じましたが、昼間は20度位と日本での猛暑から逃れて快適でした。

アクシデントが2件、JASで旅行ケースを預けた後取っ手が破損した事と電動車椅子をシャーロットタウンの空港で受け取った時に、右側のコントロールBOXから肘掛けの支柱にかけてキズがあった事で、それぞれ補償してもらう事にしました。

電動リクライニング車椅子で動き回るだけの私でも介助があって、楽しい旅行が出来ました。車椅子ツアーのメニューの中から選べる時代になってきたと思います。



JALSA 福岡県支部だよりNo.9(平成13年5月30日)掲載





第5回 JALSA講習会・交流会(H12.10.14〜15)



10月14・15日と別府市で全国のALS講習会・交流会が開催されましたので、妻の運転で行ってきました。昨年の仙台まで行ったのと比べると、車で高速道路を利用して2時間位走ると会場である杉乃井ホテルに着きましたので、負担は少なかったです。大坂や東京方面から呼吸器を装着されて来られた方は大変だったと思います。

13時からの受け付けを済まして本館7階の講習会大会場に入ると、ボランティアの看護学校の学生、看護婦、ヘルパーさんが個々人に付き添ってくれて助かりました。1年振りに再会した方々と談笑しながら、14時からの始まりまでを過ごしました。患者さんは私も含めて35名でその内17名の方が人工呼吸器を装着されていて、全体で200名を超える参加がありました。

講習会では、「こころのケアを考える」と題してALSと向き合って生きる体験発表や記念講演があり、17時からは温泉入浴タイムでした。4〜5人の介助スタッフに手伝ってもらい1年振りの温泉に「いい湯だなあ」と別府湾の夜景を垣間見て大満足の気分でした。19時からは会食を挟んで、各地の患者さんから近況報告がありました。私も今年退職してからのことや旅行に行った体験談などを話しましたが、呼吸器を装着された方の話(代読)を聞くと、これから先の生活や生き方に力強いエネルギーの充電を感じました。

15日は、9時から「ケアの工夫を考える」と題して、パソコン操作のスプリングバランサー・コミュニケーション・外出・食事などの工夫の発表がありました。医療・福祉の現場からは、病院での呼吸器のトラブルで亡くなられる方が年に3〜4件も発生している事例の報告と呼吸器トラブルの改善策の話がありました。

記念講演は「障害者の社会参加」と題して、大分では人工呼吸器装着の方が8名も投票に行かれた事などの話がありました。ALS以外の四肢麻痺や人工呼吸器装着の方の日常生活での工夫など、共通するものが多くあります。ただ、進行性の疾患の場合、長期的には難しいものがあります。その都度の症状に合った工夫は参考になります。

難病中の難病と言われますが毎日の日常生活は送らねばならず、自分で納得のいく自己管理を進行の症状に合わせて確立しないと地域社会への適応力や自尊心などのメンタルな部分で生き方の危機的状況が生じてきます。現在、症状が進行して行く現実は認める自己認識観を持ち、残された機能で「まだ、出来ること」の可能性へチャレンジする方向性を持てば、自分の疾患に対する受容能力が出来てこのALSと立ち向かう事が出来ると思います。

勿論、治療方法の切望や介護保険など医療・福祉・保健での日常的なケアを確保しつつも隙間領域での理解と支援のネットワークがあればとこの2日間で思った次第です。



JALSA 福岡県支部だよりNo.9(平成13年5月30日)掲載





神戸ルミナリエ(12.12.7〜8)



 12月12日からの神戸ルミナリエ点灯前に、7日の障害者優先試験点灯「ハートフルデー」に車椅子7台を含む総勢25名で行ってきました。

 博多駅までは、車を買った販売店まで点検の目的で乗って行き、販売員の方に駅まで送ってもらい、そのまま車を預けました。次の日の夜に、また駅まで来てくれましたので助かりました。

博多駅から「ひかりレールスター」で新神戸まで2時間30分の移動です。ホテルまでの移動等2日間は、NPOの被災地障害者センターのリフト車2台で手伝ってくれました。

ホテルから、メインのルミナリエ会場がある東遊園地までは天気も良く車椅子で行きました。歩道も広く私の電動リクライニング車椅子を含む車椅子の方々もスムーズに歩いて行けました。

 メイン会場の広場では、直径100m弱の円形状に、王宮を思わせるような模様の鉄柱に電球が纏わり付くように伸びてそびえ立っています。そこから南京町の中華街までの1キロ弱の通りには、40〜50m位の間隔で同じような模様のアーチが作られています。そこを見ながら中華街へ行き、夕食をとりました。

19時からの点灯に間に合うようにメイン会場に戻り、待っていると障害者の方々が、ぞくぞくと来場されてきました。車椅子の方も多く、こんな状況が街中で普通に見られるのであれば、取り巻く社会もすぐ変わるのになぁと思います。本当に圧倒されますね。私はと云うと背もたれを倒して、ひとり夜空を眺めてたりしていましたが、人工呼吸器を付けた方も何人か見かけました。

暗い中で19時を迎えた瞬間、一斉に点灯され、大 きな歓声の中色とりどりのイルミネーションに囲まれ、 光の回廊の中にいる自分に目を見張りました。感動的 な光景です。12日から25日まで2週間の開催で、 昨年は500万人の来場があったそうです。

 あちこちでフラッシュが点滅して記念写真合戦でし た。報道関係者も多く、翌日の神戸新聞によると、こ の夜の東遊園地会場だけで4500人の人出で、障害 者は600人だったそうです。車椅子の人は200人 位いたかなと思います。

 翌日はハーバーランドで昼食をとり、震災から復興した港神戸の街を見て回り、異人館等を観光して夕方には「ひかりレールスター」で博多へ帰ってきました。



JALSA 福岡県支部だよりNo.9(平成13年5月30日)掲載





ハワイ旅行(H13.5.16〜21)



常夏のハワイへ5月16日〜21日まで旅行して来ました。

NPOの「りんごの夢」と「希望の翼の会」の共同企画ツアーで、旅行会社は前回同様JR九州ジョイロードで行きました。添乗員、介助スタッフとストレッチャー、私の電動リクライニング車椅子、車椅子3台の5台と家族、ストレッチャーの方の専属スタッフで総勢12名のツアーでした。今回は障害者6名で、家族同伴3組と単独参加が3名と云う構成でした。

16日、福岡空港国際線ターミナルまでは、自家用リフト付きワゴンで空港近くのトヨタモデリスタ福岡へ行き、国際線ターミナルまで送ってもらって車を預けました。

 普通は受付カウンターで電動リクライニング車椅子から専用車椅子に乗り換えて行くのですが、日本航空の係員の配慮でゲートまで行き、そこで乗り換えて搭乗しました。他の方はそのまま車椅子で搭乗口まで行きました。

16日、JAL 058便の19:10発でホノルルへ約8時間の所要時間でもあり、座位に不安を感じましたが、今回も往復で空席があって横になることが出来ましたので助かりました。呼吸器使用のストレッチャーの方はエコノミークラスに特設したベッドを利用されました。

ハワイのホノルルへは、16日の現地時間8時10分頃に到着して入国手続き後、専用大型リフトバスでホノルル市内観光へ行きました。専用バスは中央部にリフトがあり、車椅子利用の方を6台も乗せるスペースが確保されていました。

広大な景色を堪能できるヌアヌ・パリ展望台、緑が美しい太平洋記念墓地があるパンチボール、また車窓からはキング・カメハメハの像、イオラニ宮殿などを見て回りました。

早めに、ビーチ沿いのシェラトン・ワイキキホテルへ到着して、案内されたハンディキャップルームで休息しました。今回は、ここで4泊しましたが、ベランダからの眺めがワイキキビーチ側でなかったのが残念でした。

夕方、近くのロイヤル・ハワイアンショッピングセンターのレストランに入り夕食タイム。日本語のメニューや会話が通じるのがうれしいですね。日系人が20%も占め、旅行客も日本人がほとんどです。リピーターが多いのもうなずけます。

17日も専用リフトバスで、郊外のサン デービーチを車窓から眺めながらシーライ フパークの水族館やイルカショーを楽しみ 午後はマジックアイランド、ハワイ最大の アラモアナショッピングセンターへ行き、 買物を兼ねて見学しました。

夕食はハワイアンナイトディナーショー で楽しみました。

18日と19日は自由行動で、免税店でのショッピングやワイキキビーチを散歩しました。ワイキキビーチからダイヤモンドヘッドを見渡す景観は、見飽きない眺めで背もたれを倒して休息タイム。

現地の電動車椅子の方もビーチの芝生で 日光浴を楽しんでいましたし、車椅子での 旅行客も多く見受けられました。特に、電 動車椅子の方は気軽に「アロハ」と挨拶さ れますので私も「アロハ」と返しましたが 電動リクライニング車椅子をあまり見かけ ないのか興味深そうでした。

 また、交差点では必ず車道と歩道がフラットになっているスペースが確保されていて、ベビーカーの方もスムーズな横断が出来ていました。そんな中、ホノルルのホテル玄関では正装した挙式カップルがダックスフンドカーに乗り込む光景をよく見かけました。こちらの教会では日本人カップルの挙式予約でいっぱいだそうです。

19日の夕方にはホテルの30階のレストランでワイキキビーチの夕日を眺めながらのディナーでした。

20日、JAL 057便の現地時間10:10発で福岡へ約9時間の所要時間です。福岡空港国際線ターミナルには21日の14:30着で無事に帰国しました。

旅行期間中は、妻の他に介助スタッフの方にトイレ、入浴、歯磨き、着替え、ベッドへの移動、夜間の寝返りなどで今回も介助してもらいました。特に、20日の帰りはホテル、空港、機内で、お腹の調子が悪く排泄介助でお世話になりました。機内ではスチュワーデスの方が迅速に専用車椅子を2回も組み立ててもらい、介助スタッフに連れて行ってもらいましたので良かったです。

滞在期間中の天候は、晴れに恵まれて、気温も29度で朝夕が21度と安定した気候が続いていましたので、ビーチでは日の出から日没までサーファーや日光浴の方が絶えませんでした。そんな中、ちびっ子サーファーのうまさには目を見張りました。

小さなアクシデントがひとつ、私の電動リクライニング車椅子を空港で荷物として預ける時、液体バッテリーのソケットが外れなくて積んだままコンテナで空輸してくれました。

それから、これはうれしかった事で、電動車椅子は手荷物渡し場所で乗り換えるのですが、ホノルル空港ではゲート、福岡空港では機内を出た所まで持ってきてくれて乗り換えることが出来ましたので助かりました。

帰国してからも4〜5日はお腹が時差ボケを起こしていましたが、どうにか元に戻って きました。また、今回もミニツアーで、まとまりがよく楽しい旅でした。



JALSA 福岡県支部だよりNo.10(平成13年11月30日)掲載





北海道旅行(H13.7.15〜19)



 平成13年7月15日〜19日まで北海道へ行って来ました。

NPOの「りんごの夢」企画ツアーで、旅行会社は前回のハワイ旅行同様ジョイロードで行きました。添乗員、介助スタッフと私の電動リクライニング車椅子、車椅子3台、歩行器の5台で総勢15名のツアーでした。今回も障害者6名で、家族同伴3組と単独参加が3名と云う構成でした。今回、私は単独参加組で、看護婦・ヘルパーさんに介助をお願いしました。

福岡空港ターミナルまでは、妻に自家用リフト付きワゴンで空港まで送ってもらいました。全日空の受付カウンターで、電動リクライニング車椅子から専用車椅子に乗り換えました。しかし、バランスが悪くて持参のベルトで、足と胸を固定して移動介助してもらいました。他の方はそのまま車椅子で搭乗口まで行きました。

15日、ANA273便の08:55発で新千歳空港へ2時間の所要時間です。

旅行期間中は専用大型リフトバスで途中ランチタイムをとり、富良野へ行きました。専用バスは中央部にリフトがありましたが、車内は私の電動車椅子を乗せるスペースしか確保されていませんので、他の車椅子利用の方は座席に移動してもらいました。富良野ではファーム富田のラベンダーをメインにカラフルな花畑を鑑賞しましたが、雨模様の天気で丘の上まで行けなくて残念でした。

この日は旭川のホテルに泊まりました。身障者用トイレは完備されているホテルなのに玄関が階段になっており、ホテル裏側の搬入口から入りました。

16日は大雪山「旭岳」へロープウェイで登りました。パノラマ展望を期待しましたがこの日も雨で視界が悪く、休憩室で高原植物・景観をビデオで鑑賞しました。「旭岳」から美瑛・富良野の広大なパッチワーク畑を巡り層雲峡の渓谷を車窓から眺め、「銀河・流星の滝」で休憩タイム。この頃には雨も上り、荘厳な2つの滝に目を見張りました。この日は層雲峡のホテルで久しぶりの温泉タイム。

17日はキタキツネ村で休憩し、網走でオホ ーツク海を眺めながらカニづくしのランチタイ ム。みなさん、黙々と食べる食べる。私も殻を とって食べさせてもらい、満足気分でした。そ こからウトロへ移動し、知床半島を観光船で遊 覧しました。タラップからデッキまで乗船する のが大変でしたが。その後、近くの知床ホテル でリラックス。

18日は知床峠から羅臼岳を眺め、下界には雲海も見られて感動しました。また、開陽台では360゜のパノラマを楽しみ、霧の摩周湖へ。途中、バリアフリーのプチホテル「ピュア・フィールド風曜日」に訪問し、ランチタイム。

この日は晴天で、摩周湖の湖面まで展望できて、みなさん記念写真に「はい、チーズ」。明日、カヌーボート体験の逹古武湖で休憩して、釧路の全日空ホテルへ到着。

19日は釧路湿原の逹古武湖で、みなさんカヌーボート体験でしたが、私は湿原の遊歩道散策を楽しみました。お昼は釧路和商市場で新鮮な刺身を堪能し、カニ・イクラのお土産を抱えて釧路空港へ移動し、14:30発 ANA470便にて猛暑の福岡へ帰ってきました。

旅行期間中は、介助スタッフの方にトイレ、入浴、歯磨き、着替え、ベッドへの移動、夜間の寝返りなどを今回は単独参加でもあり全介助してもらいました。

 滞在期間中の天候は、前半雨模様・後半は晴れに恵まれて、気温も20〜25度位で福岡と比べると湿気も少なく快適でした。しかし、ガイドさんに冬場のマイナス30〜40度での生活を聞くとブルブルです。



JALSA 福岡県支部だよりNo.10(平成13年11月30日)掲載





発病からの経過について



 この病気(ALS)になって、今年で6年目です。ですので、1番最初が、平成7年。私が46歳の時。単身赴任で長崎の大村という所に行って来て、その時に足がおかしくなって、ちょっと人と一緒に歩いていけないという症状が出てきました。それでも、その頃は忙しかったから、疲れのせいかなぁと思って過ごしていましたが、『あぁ、これはやっぱり診察してもらったほうがいいな』と思いました。

 そこで、国立長崎中央病院で診察してもらいました。最初は何の病気か分からなかったので、『多分これは整形外科か足か何かだろう』と思って、整形外科を受診しました。すると、「(左右)どっちが悪いのですか?」と聞かれ、「両方ともおかしんですよ」と言ったら、その先生が「あ、これは整形外科じゃなくて、神経内科で診てもらって下さい」と言われました。そして、神経内科を受診して、脳検査やレントゲン撮ったりして、「筋肉の異常か何かがあるから、薬の投与で様子をみましょうね」と言う事でした。

 それからしばらく通院する事で治療していましたが、平成8年になり、3ヶ月位過ぎてからも、だんだん歩くのがおかしくなってきました。『これはやっぱり、どこかおかしいわ』と思い、福岡に帰ってきた時に、九州大学医学部附属病院(以下 九大病院)に受診して、そこで検査入院という事で日時をとってもらいました。平成8年の4月中旬から5月の連休明けまで検査入院して、いろんな検査をやってもらいました。

 その中でも一番敏感に感じたのが、やはり筋電図です。足からと腕から。すると、それに異常がでて、最終的に退院する時は、その時の主治医から結果報告で説明されたのですが、正確な病名は言われない。要は「変性疾患っていうグループに入って、パーキンソンとか筋ジスの方もそうなのですが、そういった原因が不明な病気のグループ。だから今すぐどうこうという事じゃないけれども」って言う話になって、いろんな医療的な、専門的な理由はちょっと述べられましたけれども、「全部あてはまらない」と言われました。だから、原因が分からない。『じゃぁ病名はなんだろうか』と思いました。

 そして、先生の方から特定疾患の手続きが出来ますからと言う事で、申請の書類を全部書いて出しました。そうすれば医療費がタダになるから、申請だけはしておこうと思ったのですが、その通知が来た時の病名が『筋萎縮性側索硬化症』(以下 ALS)。

私はそんな病気聞いた事もないし、その時ALSも知らなかったし、だけどまだ杖ついて歩けるし、主治医の先生は「いや、川上さんはまだ、そんな重度と違うから、気にする事ないですよ」と言われました。

 それから一応安心して、どうもないだろうという事で会 社に復帰しました。平成8年の9月位まで仕事をしていた のですが、だんだん歩きが辛くなって、『あぁ、これはも うアカンなぁ』と思って、普通の売場で立つのも辛いから 人事部と話して、その時初めて半年間休職願いを出して、 しばらく様子をみましょうと言う事で福岡に帰って来まし た。それから自宅療養をずっとしていたのですが、自宅周 辺の庭、公園を散歩していても、日を追う毎に歩けなくな りました。

『あぁ、これはアカンなぁ』と思って、平成8年11月に保健所で車椅子の申請をしました。車椅子がきたのが平成9年の2月です。そして、車椅子の乗り方が初めてで全然分からない。それで、その年の4月から福岡市心身障害福祉センター(以下 心障害センター)を紹介してもらって、リハビリ兼ねてお世話になりました。そして、心障センターでリハビリ受けながら、会社の方も平成9年4月から復帰しまして、車椅子で会社に行きながら、リハビリという形で2年間、平成9〜10年は仕事続けました。

 その間、身障国体にアーチェリーで行きま したけど、平成11年3月には、もう腕が上 がらなくなり、勿論、弓も引けないし、仕事 も電話とれない。書類を書けない。パソコン には何とか入力出来ますけれども。だから、 『あぁ、これは車の運転がハンドルの上まで 手が上がらないから怖いなぁ』という事で、 結局、平成11年の3月で仕事の方も2度目 の休職をしました。『また復帰出来るかなぁ』 と思って、自宅療養していたのですが、1年 後には退職して現在に至っています。

 そういう流れできた中で、よく言われるのが、受容・自己受容の問題です。それから、日常、自宅でずっと療養していてもやる事ないですし、時間はいっぱいありますし、『どうしようかな』という事で、まぁ家に居ても仕方ないから、まだ多少腕が上がっていましたので、スポーツもしてきました。また、人よりもこの病気のために10年早く定年退職したようなものですから、元々考えていたことで、『60歳、定年したら旅行でも行きたいなぁ』というのを10年早くなったと思って、退職になってから旅行にあちこちと行き始めました。

 海外も含めて、一昨年から行き始めて、平成11〜13年と、海外も北欧やカナダなど、国内では北海道・東北など、『まだ動けるうちに』と思って周りました。今年(平成13年)もハワイなど行って来ました。

唯、今年になってから息が苦しくなってきて、あまり連続で泊まると体調も悪いから、『来年はどうかなぁ』と思いますが、また海外旅行に行きたいと思います。『じゃあ海外でも一番近い所で暖かい所どこかな。グアムがあるじゃないか』。そういう障害者を援助する旅行の会にも入っていますから、「何人かで行けんやろか」と言う話もしています。

もし、仮にそれが駄目になっても、他に出来る事ないかなぁと思いながら日々を過ごしています。唯、もう今年から来年にかけては介助する人がいないと嫁さんだけではとてもじゃないけど、外出が出来なくなりつつあるような状態です。

 ですので、この病気になって6年目、足かけ7年目ですけど、その間のいろんな考え方、自分なりの精神的な捉え方。やはり一番は、普通は病気になって治ると思うから、いくら騒いでもそれでいいのですが、治らないものは自分で納得させるしかないですね。だから、指が動かなく、足が動かなくなって、『じゃあそれでどうやっていこうかな』っていうのは、その時に自分で納得させないと、ずっと尾を引きます。

人にはよるでしょうけど、周囲の人に当たり散らしたりしても、治る病気であればそれでも一時的で、「あの時はこんなやったけど、今は動くよ」と言う事でしたらいいのですが、これは更に進行していくものですから。

だから前の九大病院の主治医の先生がはっきり言われました。 「この病気は悪くなる事はあっても良くなる事はない」と。それである程度私も再確認して、『じゃあ今出来る事は何があるかなぁと思ったら、やっておかないと後半年先、1年先は出来ない』と思いました。

 実際に会社を休職、更に退職して過ごして実感として分かりました。2年前に覚えた時のあの感動は、場所は違うけどなんか違う。あの時はまだ手が動いていて少しは出来たけど、今は手が動かなくて、旅行に行きましたけど、感動は心の内に秘めなければならないような捉え方しか出来ないような場面もあります。だから、今でもまだ首とか指先とか少し動くから、自分で移動出来る間は、外出したり、旅行したり、いろんな会に参加したりして、多くの方と話すのも一番楽しいかなと言う事で過ごしています。



平成13年11月21日録音





旅行について



 会社休職して、1年後に退職という形になりましたので、平成11年の3月に休職しました。それから平成12年の3月に正式に退職して、今現在、退職してから足かけ2年間になります。その間、いろんな事を思いながら、生活をしてきましたけれど、退職してからが、もう仕事は何もないし、手持ち無沙汰。時間は有り余るし、何しようかなと。

 仕事していた時は車椅子でも、水泳・アーチェリーやっていて、それなりに仕事と両立して、充実した生活を自分なりに送っていましたが、休職してみると、自宅療養になりますので、外出するにも全て誰かの手を借りないと出来ません。

休職した当初は、まだ妻の方は勤めていましたから、タクシーで車椅子を積んで、あちこちと出掛けていたのですが、それでも行動範囲は狭まって来ました。『どこか遠くにも行きたいなぁ』という気持ちがだんだん強くなってきて、『スポーツが出来なければ、旅行でもあちこち行きたいなぁ』という思いが、だんだん募って来ました。

 平成11年夏に、会社の時にも行かなかったですが、初めて海外旅行を予定していたところ、丁度そういう障害者のツアーがありました。8月末に8日間ほど、北欧の方を周って来ました。なんで北欧かと言うと、要は福祉先進国っていうのが頭にありました。それと、自分の体がこうなって、福祉先進国と言われているけど、どういった事情で先進国なのかなという事もあって、是非行ってみたい。福祉器具とか、リハビリの施設も見学出来て、またデンマークの方で、現地の人の話もセッティングしてあったので、『あぁ、是非行きたいなぁ』と思いました。

 福岡から関西空港行って、関空からシベリアの方を通って、フィンランドに入り、フィンランドからデンマーク。そこでホテルをとって、先ずデンマークから観光を始めました。

2日目にデンマークの郊外の、福祉器具、福祉器具の展示室を見学しました。郊外の広い土地の中にあるのですが、そこに行って多くの福祉器具を見学しました。勿論、車椅子から、ちょっとした枕の便利な物まで、見学しました。そこのPT・OTの方とも交流して、様々な話をしました。唯、その時の話で、興味深かったのが、日本ではその頃まだ、まだ3年前ですから、一部では行われていましたけど、「日本では土曜・日曜・祭日は、PT・OTあるいは看護婦さんの派遣とかヘルパーさんの派遣、一部はお休みですが、デンマークの事情はどうですか」という事を通訳通じて質問したのですが、向こうの答えは「それは、障害のある方、人間が生きていく上で、曜日は関係ないよ」と。「1年間毎日、そういったサービスはやらないと。祭日だからと言って、来なかったら、その人どうなるの?」って逆に聞かれまして、『あっ、考え方が全然違うのだな』というのを、そこで初めて感じました。

 だから、向こうの考え方は非常に利用者さん本位、本人さん本位です。その分、税金も納めていますから、国に貯金している感覚です。それで、自分が何かあったら、国に面倒見てもらう。日本の場合は、国は多少面倒見るけど、細かい所まで面倒見てくれない。そのかわり、デンマークは消費税が25%と、消費税の他に国に納める税金がかかるから、50%、大体半分はもっていかれますので、逆には、そういう意味では、大学とか学校までは全部国が面倒見て、金がかからない。日本では色んな教育費かかりますけど、そういう所が違うのかなと思いました。

 唯、問題としては、そういう色んな行政の、国の施策はあるのですが、街の中はどうかと言うと、バリアフリーと言いながら、『日本の方がまだ少しいいかな』と思いました。と言うのは、向こうは中世の街並ですから、石畳が多いのです。移動するのに、他の所は多少フラットですけど、歩道との段差も結構ある所あります。だから、移動するのが非常に考えながら、移動しやすい所を選んでいかないと、石畳の中世の街並みがやっぱり見たいから行こうと思ったら、石畳をガッタン、ゴットンしながら、坂など非常にあくせくしてから上っていかなければいけない。そういうハード面の、昔からの風情を残した中世の建物の所はバリアがありました。唯、新しい建物の所は流石にフラットでスムーズに行ける所が多かったです。

そういう事を経験しながら、次にスウェーデンに飛行機で行きました。今度はスウェーデンの市議会の公舎とか色んな所を周りました。スェーデンではあまり福祉関係の所は行きませんでしたが、スウェーデンはノーベル賞の授賞式の間も見学して、『あっ、有名なノーベル賞の授賞式はここでやるんだ』と思いながら、そこ以外の各部屋も見学しました。

そして、フィンランドに行く時は、シーラインという12階建ての船で行きました。ひとつの大きなホテルみたいな船ですが、それに夜乗って朝方着く位の距離でフィンランドに着きます。その中に、エレベーターからカジノからショッピングセンターから全部入っています。ちょっとしたコンビニまで。だから、そこでお土産など片言の英語で喋りながら買いました。日本じゃチューイングガムを「ガム、ガム」言うけど、「この、ガム下さい」と言っても向こうは分からないですね。ガムは英語じゃないから。だから、そこら辺の戸惑いながらも、なんとか通じて、お土産買い、フィンランド着きました。フィンランドでまた帝政ロシア時代の占領時期の色んな建物などを見ながら観光して、フィンランドの方から日本へ帰って来ました。

 その旅行の人数が、障害者含めて、殆ど障害者の方が中心ですが、20人位おられました。結構大きなツアーで行きました。その時に、心障センターにリハビリに来ている方が2組位おられてビックリしました。『いつ会えるのかな』と思って、その次の週に心障センターに来たら『あぁ。やっぱりおられた』と思いました。

後は、そこで初めて、電動車椅子の女性の方、台湾の方ですが、Rさんという方に初めて知り合いまして、向こうも私が電動に乗っているので、お互いにその辺で共通項がありまして、話が進みました。それで知り合って、それから3年。ずっと付き合い続いています。そうやって行動すれば、何らかの形で、また知り合いが増える。向こうの相談、こっちも相談をお互いに色々話しながら続けていけば、そこからまた輪が広がります。

 そういう事をしながら、11年度の夏の旅行は北欧まで行って帰って来まして、その頃は腕が何とか踏ん張れる状態だったので、ビールも自分の手でクイッ、クイッと飲んでいましたから、今から思えば、いい旅行だったかなと思います。

 それに勢いづいて、その年(平成11年)の11月に障害者のツアーで、今度は東北の方に4泊5日位で行って来ました。『寒い時に、雪の中のツアーはたまらんだろうなぁ』と思って行きましたが、まだ何とか自分の腕が上がっていましたので旅行が出来ました。初めて東北に行って、いい思い出ができたなと思います。八甲田山の上まで行ったし、宮沢賢治の記念館も最後まわって、花巻空港から最後帰って来ました。

年に海外と国内を含めて、何とか11年度は自分なりに、旅行も出来て充実したかなと思います。

 普通だったら定年退職して、60才以降に行きたかったのですが、私の場合はそういう事で、病気が10年早く発病したものですから、人よりも10年早く旅行楽しんで、何らかのひとつの生き甲斐って言いますか。いろんな意味で、外に向けて自分をさらけ出して、不自由な部分は皆さんに手伝ってもらいながら活動していけば、家の中にいるよりも充実した生活が送れるかなと私は思っています。

 それからまた、次の年も味をしめまして、平成12年度もまた行きました。夏に障害者のツアーでカナダに行って来ました。今度は、介助スタッフも含めて12人位の、こぢんまりとした旅行でした。ナイヤガラの滝から、ぐるっとトロントを周って、赤毛のアンのプリンス・エドワード島まで行って、そこで3泊位しました。そして、昔、村山首相の時にサミットが開かれたハリファックスに渡って、そこから飛行機でトロントまで戻って、そこから日本に帰って来ました。

 唯、カナダは丁度、日本の真裏になるので、行きが12時間。帰りが14時間半。ちょっとハードでした。たまたま席が空いていたから、そこで横になることが出来ましたけど、もし満席だったら『あぁ、ちょっと疲れるな』という旅行でした。

そして、平成12年は国内では、今度は神戸のイルミネーションのルミナリエが12月ありましたので、障害者開放デーに合わせて、そこに1泊で行って来ました。『12年度も、旅行が出来て充実したな』という形で終わりました。

 そこで、今年、13年度も、『もうそろそろ腕が上がらないからキツいかな』と思ったんですが、再チャレンジでハワイと北海道と行って来ました。特にハワイまでは嫁さんと一緒に行きましたが、北海道は私一人で参加して、もう全介助でスタッフの方にやって頂きました。非常に不安がありましたが、それでも行って帰って来て、『あっ、何とか行けたんだな』ということで、『手足が動かなくても介助の人があればゆっくり楽しんで帰って来れるのだな』というのが実感として湧いてきました。

 では来年、14年度はどこに行くか。もう息がだんだん苦しくなってきたから、『行けるかなぁ』と。希望とすれば、どこか国内の近い所と、近場のグアム辺りが暖かいですから、そちらの方だったら、何とかチャレンジ出来るのではという事で、今、旅行ツアーで参加者を募ってある様です。参加するかどうかは来年になってみないと判りませんが、『だけど行きたいなぁ』という気持ちはあります。



平成13年11月28日録音





障害受容ついて



 難病という障害を抱えながら、この病気の受容について、大袈裟ですが、発症してからの自分の気持ちについてお話しをしたいと思います。

 私の病気はまる7年過ぎようとしていますが、最初は普通の仕事をしていて、人よりも歩くのが遅くなったり、階段が上がりづらいという兆候が日々の生活の中で出てくるようになりました。その時は病気とも知らずに、『疲れからきてるんだなぁ』と自分では思い込んで、『何とか疲れをとって元に戻らなきゃいけないな』という気持ちが非常に強かったです。それがあまりにも1ヶ月、2ヶ月と続くものだから、『やっぱり薬飲んだ方が何か効くのかなぁ』と思って、長崎県大村市にいた時の国立長崎中央病院に通って、薬を処方してもらいました。

それから、1ヶ月、2ヶ月と過ぎたのですが、その間に『維持出来るかなぁ、良くなるかなぁ』と思っていたのですが、結果的にはどんどん悪くなっていきました。『これは、おかしいな』と思いました。薬を飲んでも治らない。その時の主治医に言っても、「今のところは原因が分かりませんけど、何か筋肉の部分に異常があるのではないか」と言われました。そこで一度福岡に戻って、九州大学医学部附属病院(以下 九大)の方で診てもらいました。

それからしばらく通院する事で治療していましたが、平成8年になり、3ヶ月位過ぎてからも、だんだん歩くのがつらくなってきました。『これはやっぱり、どこか異常があるなぁ』と言う事で、平成8年4月中旬から5月の連休明けまで九大で検査入院して、一通りのいろんな検査をやってもらいました。

 その中でも一番敏感に感じたのが筋電図です。足からと腕の方から異常がでて、最終的に退院する時は、主治医の先生から結果報告で説明されたのですが、正確な病名は言われませんでした。要は「変性疾患っていうグループに入って、パーキンソンとか筋ジスの方もそうですが、そういった原因が不明な病気のグループの一つになります。」という話になってきて、いろんな医療的な、専門的な理由はちょっと述べられましたけれども、「全部あてはまらない」と言われました。ですので、原因が分からない。『じゃぁ病名はなんだろうか』と思いました。

 そして、先生の方から「特定疾患の手続きが出来ますから」と言う事で、申請の書類を全部書いて出しました。そうすれば医療費が公費負担になるから、申請だけはしておこうと思いました。それから、その通知が来た時の病名が筋萎縮性側索硬化症(以下 ALS)。私はそんな病気を聞いた事もなく、その時はALSも知りませんでしたが、まだ杖ついて歩けるし、主治医の先生からは「川上さんはまだ、そんな重度と違うから、気にする事ないですよ」と言われました。

 例えば「あなたは癌ですよ」と言われたら、皆さん知識があるから、『うわぁ。これは余命いくばくもない』など大変な病気だという事で、告知の問題も含めて辛い問題がありますが、摺り合わせが出来ると思います。しかし、このALSという病気の場合は、確かに難病の中の難病と言われて厳しい病気ですが、摺り合わせ出来る知識が皆さんも少ないと思います。私もそうでしたけど、『何の病気かいな?』と。

私はその時、杖ついてまだ歩けていましたし、ひどくなったら寝たきりになって呼吸もなんとかと聞かされても、ピンとこないですね。『でも、実際はまだ杖ついて歩いているし、そうなるのかなぁ』という気持ちで、別にその先々の癌の告知みたいな、狼狽えるとか動揺するとか、そういうのは無かったです。唯、その時点で『治療すれば治るんだな』というのが頭にありましたから、私は足が悪くなっても余裕がありました。『この病気は自分としては絶対治るんだ』という気持ちがあったから、そんなに狼狽えたりしなかったです。今思えば、病気に対する理解不足からくる思い込みが、その時点ではありました。

 ですから、足が動かなくなって車椅子を選ぶ時も、『うわぁ、車椅子』っていう感覚ではなく、『足が動かんから車椅子でも仕方ないな』という軽い気持ちで車椅子を申請して、車椅子に乗り始めました。それで、会社の方にも復帰して2年間勤めました。

自分のこの病気に関しての受容というか再認識の過程というのは、2年間は車椅子で勤めましたので、その間に時間がある限り、仕事しながらでも、会社の同僚にも私の病気の事などを話しながら、再認識していました。唯、1年目は、気張って仕事をしていたせいか、病状が進みませんでした。

2年目になって、握力がおちてきて、手が上がりづらくなって、最終的には車の運転が不可能になって退職したのですが、その時に、そのいろんなお手伝いして下さる方の有り難さっていうのは、会社の同僚で感じました。例えば、机に坐って仕事しますが、もう最後の時期になったら電話がとれません。鉛筆を握っても、握力がないから書類が書けません。これが一番辛いです。様々な事が出来なくなってきました。最初の頃は上着を脱いで自分でハンガーにかけて吊っていました。それが出来なくなって、自分の机の所で上着だけ脱いで一番下の引き出しの中にしまい込むという形になってきました。

 ひとつの動作をするのに、頼まれた仕事、自分が今やらなければいけない仕事が、2倍も3倍も時間がかかる様になってきました。いろんな書類が回ってきてハンコを押すタイミングも、前はパンパンパンパンと気持ちよく押していましたが、1枚1枚めくる動作も遅れてきて、パッタン、パッタンと承認印を押して、その動作もだいぶ緩慢になってきました。

 ここで、欲を言えば私専属の介助の方が付いていればいいのですが、会社ですからそういう訳もいきません。だからその時点で、ある程度自分で腹を決めて、この病気の場合は仕方ないという事で、会社の人事部と相談して、「こういう事で限界がきて、周りに迷惑かけられない」という話しをしました。体が動けば、会社はいつまでいても大丈夫という事で言ってくれましたが、こちらがそれに対応出来なくなってきました。特にトイレとか排泄の時が大変でした。会社には障害者用のトイレが無かったので、排尿・排泄するのも大変でした。

私が辞める3ヶ月前に、障害者用トイレが出来ました。「これでもう安心」と思いましたが、症状が進行してきていましたので、一応退職しました。会社は会社で暖かく見守ってくれましたので、私にとって非常に良い会社だったなと思います。勿論、会社には車椅子で仕事されているポリオの方もあと何人かおられました。そういった方も勤めておられましたので、職場に関しては、障害者を排除する形はありませんし、ずっと勤めてれば、給料も変わらないし、「もう、そのままでいいよ」という事でした。

 唯、ついていけない辛さっていうのはありました。これはもう自分で納得するしかないです。もうこの病気を恨みますけど、恨んで治ればいいけど、治らないですね。唯、そういった仕事する世界から外れた別の世界で、自分で生きていかないと、自分の生き甲斐は見つけられないと思います。そこは割り切って、私の場合は切り替えました。

だから、水泳やアーチェリーをしたりし て、国体にも出場しましたが、会社辞める 平成10年の時には、もう弓が引けなかっ たからアーチェリーも出来なくなりました。 だから、会社辞めるのと、スポーツやった 事も、全部そこはそこの想い出で、一応区 切りをつけて自宅療養に入ったという訳で す。

仕事をしていた間に、少しずつ足の指先が動いていたのが全く動かなくなり、手の握力もおちてきました。その頃から仕事をしながらこの病気の事について色々な事を勉強し始めました。すると、将来的には、嫌な事ですが、呼吸筋が冒されて、自発呼吸が出来なくなり、全身も動かなくなる。本によると3年から5年で自発呼吸が平均的には出来なくなって、選択を迫られる。その選択っていうのは、人工呼吸器をつけて生きるか、そのまま自分の人生を全うするかの、どちらかなんです。

そのまま人生を全うするとなると、近い将来、意識朦朧としてそのまま逝ってしまう。人工呼吸器をつければ、後1年〜3年、良ければ10年と生きられるという事です。ですから、その選択っていうのは、頭で判っていても、実際その場になったら、人間ですから狼狽えると思いますが、どちらかの選択はしなくてはいけないという現実を、色んな本を読んだり、この病気の先輩の方に会ったりして聞く訳です。先輩に会うのは、この病気の交流会とか支部がありますから、そこに顔出して、全国のこの病気の方々と交流しました。

そこで、実際自分の目で見て、同じ病気の方とお話しして、『あぁ、こうなるんだな。自分の病気は』というのを再認識しました。再認識と言うよりも、再認識を継続的にしながら、自分に言い聞かせて、この病気の事を理解していくという事を、今でも繰り返しています。

 だから、病気が進行して、足が動かない、手が動かなくなった。それは早い人は1年半位で全身動かなくなりますけど、私の場合は6年で手足が動かなく、首も少し動きにくくなってきました。ベッドに寝たら誰かの手を借りなければ寝たきりの状態になります。

でも、人の手を借りて移動すれば、車椅子に乗って移動が出来る。だからどこでも行けるし、だから私は今外に出て、色んな所にあちこちと顔を出しています。そうなる為には、自分との葛藤など、これが私も含めて、同じ病気の方や、進行性の神経難病の方は、その都度再認識しないと、もう頭がパニックになります。特に進行の早い方なんか、もう1週間、月単位で、今日腕が上がったのがもう上がらなくなりますから。私の場合は半年かその位の単位ですので、時間がある間に再認識して、自分の病気の事をしっかり理解してないと、「先々の不安」これが一番大きいです。

 じゃあ、その不安をどう取り除くかとなると、病気の事をよく理解して、この病気が治るのであればいいんですが、今の現代の医学では治しようがない病気であるならば、そうなった時に自分はどう対処して生きていくかを明確にしておかないと、なかなか先の不安というのは消えていかない。

そうする為には、よく障害者の自立と言いますけれど、要は一人で生活する自立ではないのです。自分の周りの方にお手伝いをしてもらいながら、自分がやりたい事、したい事を成し遂げていく。それが出来れば自立ではないかと私は思います。その為には、有償であれ無償であれ、介助・お手伝いして下さる方の手がないと何も出来ない。でも、そういう方がおられれば、時間はかかっても出来る筈ですから、それを私はやっていきたいなと思います。勿論、呼吸器をつけてもそれはやっていきたい。

 今現在、首から下、手足が不自由になり、自発呼吸も弱まってきましたので、もう主治医の先生からも呼吸器の問題、胃ろうの問題、そういったいろんな問題で、「どうしますか?」という事は聞かれていますので、「そうなったら、呼吸器を装着するし、胃ろう手術をして下さい」という事ははっきり言っています。唯、人間ですから、つける段階になったら、やっぱり怖いです。その為にも、つけた時の気持ちの切り替えとかいうのは、この病気の先輩や周りのご家族がされている介助の話を聞きながら、自分自身再認識して気持ちを納得させています。そうしないと、「土壇場で騒いだら、みっともないですし」って言っても、人間ですから騒ぐでしょうけど、騒ぎ方が少なくなると思います。治る病気であればいいのですが、この病気の場合はそうやって納得させながら生きていかないと仕方ありませんので、努めてそうする様に私の場合はしています。

 そうなって暫くまた落ち着いて、呼吸器つけて帰って 来ても、また介助して下さる方がおられなければ、前み たいにあちこち旅行は行けないかもしれませんが、近く の日帰りや、日々の季節の移り変わり位は楽しみたいな という気持ちがあります。最近は呼吸器をつけても、台 湾やアメリカなど海外に行かれる方が増えてきています ので、私がそうなった時でも『ひょっとしたら行けるん じゃないか』という希望を持ちながら、またそうなって も旅行は楽しみたいなと思っています。

ですから、そういう形で、私の場合の自立をして、逆 に周りのネットワークをどう構築していくか。それは自 分一人じゃ出来ませんので、医療機関、福祉関係の方々 と話し合いながら、将来的に私を支えて下さるネットワ ークを作っていきたいなと思っています。勿論、その中 には、看護婦さん、ヘルパーさん、ボランティアさん、医師の方々、近くの保健所、あるいは近くのかかりつけ医、歯医者さん、そういった在宅医療ケアをして下さる方々で、1週間・1ヶ月単位の在宅生活の支援ネットワークを作りながら、その合間を縫って、さっき言った様な旅行なり外出なりを楽しんでいきたいと思っています。

 近い将来にかけては、今はたばこも吸っていますけれど、多分吸えなくなる。吸えないといっても、頭では吸いたいのですが、体が受けつけて来ない。今、酒も頭では飲みたいですけども、体がなかなか受けつけてくれなくて、今どうしても飲みたいなぁと思っても、なかなか飲めないという拒否反応を体が示しています。飲めなかったら、それはそれで仕方ないと思っていますので、飲めるまでは自分の嗜好品は楽しんでいきたいと思います。

 進行性の病気の場合は、どこかで踏ん切りをつけて、大きく自分を切り替えていかないと、自己受容と大袈裟に言うのですが、再認識するのに時間がかかります。

唯、それは、失礼ですけど、癌などになられた方の、あと余命幾ばくもないと言われた方よりも、そういった意味では考える時間があります。癌の場合は、例えば余命3ヶ月などと言われて、本当にそこで苦しんで逝かれた場合の方を考えると、非常に苦しいものがありますが、それとまた違う形で、症状の進行がジワジワ、ジワジワと続いていくものですから、これもまた苦しいものがあります。

逆に、そうやって、「もう早く楽にしてくれ」と言われる方もおられますが、何とか息が出来て、体が動かなくても生きているなら、自分一人で出来ない事は周り方の力を借りて、自分のやりたい事やれれば、『まだまだ日々の生活を楽しめるんじゃないかな』という気は、だんだん最近してきて、大きくなってきています。

 唯、その為のネットワークをいかに作っていくかが、私のこれから先の大きな課題で、不安が広がっています。そこで、あちこちと顔を出しながら、会う方々にご支援や理解をお願いしたり、「どうにかなりませんか?」という形で色々交流を持ちながら、私を含めてネットワークを作っていきたいなというのが現在の心境です。



平成13年12月 5日録音

平成14年11月28日校正





在宅療養について



 平成11年度の春、4月から会社の方を休職して、在宅療養に入りました。それまでは毎日、毎日、会社に車椅子で、車に乗って行っていたのですが、4月からぴたっと何もする事がなくて、『どうしようかな』という日々が、2〜3ヶ月続きました。

その間も福岡市心身障害福祉センター(以下 心障センター)のリハビリは週1回ちゃんと通って、いろんな福祉情報、或いはリハビリに専念しました。ですが、それ以外にやる事と言えば、取り敢えずは何もなくて、この病気の、ALSの福岡県支部の活動を、色々模索しながらやっていました。

 そうしながらも、結局、うちの妻の方は11年度まで仕事していましたので、私ひとり。私の介助というのは、全て昼間は母親と子どもです。子どもも学校ですから昼間は居ない時が多い。母親も病院行ったりして、結局、昼間3〜4時間が居ないという事が多くあります。じゃあ、その間どうするかといえば、動けないものですから、唯、車椅子に乗せてもらって、母親が昼過ぎ帰って来て食事するまでは、ずっとひとりで過ごさなきゃいけない。そういった時には、トイレとかいうのが一番ひとりでは困る訳です。でも、あの頃はまだ手が少し動いていましたので、吸入器付きのトイレ(スカットクリーン)を利用しています。それはパラマウントベットから出ていますが、最近テレビでコマーシャルしています。それをおしっこする所にあてて吸入して、また筒はそこに戻すという形で、小さい方はなんとか1回、2回は大丈夫でした。唯、大きい方は、妻が仕事行く前に全部済ませますので、余程の事がない限りは大丈夫という生活を11年度は続けました。

 では、例えばリハビリなど心障センターまで来るのに、どうやって行けるかというと、誰か一人いないと、なかなか難しい部分があります。移動手段も車がない。妻が車を仕事に乗って行きますから。じゃあどうするかと言えば、結局はタクシーで天神まで行きます。その為の行政からのタクシーチケット券で1割引き。あと基本料金の免除です。それを利用して、天神まで来ます。そうすると大体、3割方は安くなります。公共交通機関使うよりは高くなりますが、それを週に1〜2回使って外出します。手が何とか動くので、近場の散歩は一人で行けるという生活をしていました。

 11年度も、結局、普通の車椅子から、手が動きづらくなって、折り畳みの電動車椅子を申請しまして、それを6月に支給してもらいまして、それを利用するようにしました。それから夏にかけて、もう手こぎじゃなくて、電動であちこちと移動するようにしました。その時に、前にも話しましたけど、北欧旅行に行きました。初めは『行けるかなぁ』と思いましたが、十分その電動車椅子でも行ける旅行でしたので良かったです。そういった中でいろんな心障センターの行事、或いはALS協会の福岡県支部の行事などに参加しながら、11年度は過ごしました。

 一番良かったのが、11年度の9月に宮城県の仙台に行った時です。勿論、その電動車椅子で行きましたけれども、この病気の全国の交流会がありました。その時に患者さんが全国から30人位集まりました。勿論、気管切開された方、瞼も動かない方、極度の重度の方もおられて。その時に一番印象的だったのが、サングラスをかけて参加された方です。『何でかなぁ』と思って、奥さんに訊いてみたら、「もう瞼も動かないんです」と言う事でした。平成13年度のNHKのドキュメンタリーで、取材があって、放送されていました。その放送の内容を見て、『あ、この方。仙台で会った方だなぁ』と思いました。

そういった交流会に行く事によって、全国の患者さんとも知り合い、顔見知りになって、メールの交換とかいうのも、「あぁ、あの時の方ですね」という事で、気軽にメール交換が出来るという事で、メールの方も活発にやり始めました。

 平成11年度の夏までは、子どもとか母親に頼って、お風呂とか昼間の世話とかをしてもらったのですが、もうそろそろ限界というか、車椅子から自分で降りられなくなる。お風呂も下のマットから自分で車椅子に乗れない。勿論、その時は必ず妻か子どもに手伝ってもらって、毎日の事をやってもらうのですが、妻は仕事しながらですから、疲れもきました。『じゃあ、どうしようか』という事で、11年度7月から医師会の訪問看護ステーションにお願いして、そちらから訪問看護を週に5回受けられる様になり、来てもらう様になりました。それから、お風呂は訪問看護の看護婦さんに入れてもらう様にして、夜のお風呂はそれから一切なしという形になりました。

 更に、12年度からは、手がもう上がらなくなってきましたので、妻も会社を辞めて、家事・介助に専念という形になりました。そうなると何が一番困るかと言うと生活費。

11年度はまだ休職中でしたので、会社からある程度の、6割か7割は給料が出ました。でも、12年度から正式に会社を辞めましたので、何もないです。そこであったのが、失業保険。失業保険を貰いながら、12年度は1年近く過ごしました。それも、おかしいもので、最初「病気で辞めたのだから、失業保険はおりません」と言われました。でも、私の場合、病気だけど、半分手足が動かないだけで、まだ仕事があれば十分出来るという話を、そちらの上司の方と20〜30分話しまして、「じゃあ、そういった仕事が見付かるまで」という事で、最長の11ヶ月間、失業保険を貰って何とか12年度は、生活費はクリア出来て過ごしました。

 そして13年度からとなったら、今度はもう失業保険もない。会社の給料の方も全く、11年終わりましたからない。じゃあどうするかと言えば、あと年金しかないです。こういった障害者の年金。最低限の障害者の年金で、13年度からは生活しております。それと、あと福岡の行政の特別障害者手当と、僅かですが年に1回の重度心身障害者の年末手当。そういうのを貰いながら、何とか最低限の生活は出来ています。

そこで、生活が出来ているのであれば、さまざまな外出の機会など、社会参加で色んな社会貢献活動がもっと何か出来るではという事で、あちこちと顔を出しながら過ごしている最中です。

 そういった中でも、症状が進行していくものですから、この病気との闘いというか、認識の仕方が、年毎に変わっています。唯、会社辞めた時は、まだ『手が動かない、足が動かない』位でした。ですけども、13年度からは身体の変化が少しずつ起きてきました。例えば、頭痛がするとか、お尻がすぐ痛くなるとか、体の節々の骨が座った時にあたるなどです。この病気によって発生するいろんな症状が出てきまして、だんだんそれが痛みとなってきた場合は、人間として耐えられない部分が多々あります。じゃあ、これをどうするかと言っても、治らないです。そのうちに、13年度、今年になってからですけど、息苦しさが度々増してきて。夜、寝る時。朝方、起きる時。午前中、暫くの間。息が結構苦しい時があります。そういう事もあって、主治医の先生からは鼻から呼吸器を付けて、バイパップといいますが、それを利用したら楽になりますよと。

私とすれば、将来的には呼吸器を付けなきゃいけませんが、『まだ今の所は、まだまだ大丈夫かな』という状態で過ごしております。唯、そうなってきた場合に、この病気の難しさ、辛さというか、そういうのをひしひしと感じまして、2〜3年前みたいにヒョイヒョイとタクシーとか車に乗って行ける状態が、3回の内に1回か2回は『ちょっと、しんどいな』という位に、今なってきておりますので、そこら辺の体調というのは、自分で調整しながら参加していきたいなという状況に少しずつ変わりつつあります。

 だから私、前によく言ったのですが、国家公務員の話で、特殊法人とか「半官半民」と言われますが、私なんかは「半障半患」。半分障害者で、半分患者であるというのを前によく言っていましたが、最近は、『障害者から少し病人になりつつあるかな』という気持ちがちょっと強まってきて、『あぁ、これじゃアカン』と言いながら、『また障害者に戻らないとアカン』という気持ちでいますが、痛みというのは、なかなか自分では耐えられなくなった場合は、どうしても、病院を頼らざるを得ない部分がありますので、そこら辺を交互に行き来しながら、今生活をしている状態です。

 ですから、そういった中で、本を読みたいが読めない。だから、読書のボランティアさん。単に本のページをめくってくれるだけですが、1時間か2時間でもつき合ってくれる方がいればお願いしたい。散歩、家の周り、1時間か2時間散歩するのに手伝ってもらえる方がおられたら、是非、例えば土日でも来て頂けたら有り難いなというのを、ずっと考えています。それも、単にボランティアセンターに頼めば、勿論、来て頂けます。ですけども、遠いです。私、東区です。ですけども、早良区とか南区から来てくれます。そんなに頻繁には頼めませんし、年代的にも60いくつかの高齢の方も来てくれますし。あまり、アップダウンの坂の団地を行ったら、高齢の方だとハァハァと息切れされます。30代か、40代前の方の、若い方の方が、そういったアップダウンの坂のある散歩は、良いかなと思います。ですから、東区の方で、近くの方であれば良いですが、なかなかボランティアセンターに頼んだ場合は、近くの方が来られない場合が多い。そしたら自分たちで、そういったボランティアの方を募集すれば一番簡単ですが、どうやって募集すればいいか分からない。

 そういった時は、いろんなボランティア講座に顔を出しながら、個人的に知り合えた方をお願いして、1つ1つ積み上げていくしかないです。それが東区の中の、私の住んでいる地域での、そういうボランティアの方がおられれば、1人2人とやってもらえれば有り難いです。私にとっては、3人なら3人ボランティアの方がおられて、そのボランティアの方が他の障害者・高齢者の方のボランティアされるのだったら、また他にも行ける筈ですから。そういった患者、或いは障害者のネットワーク、ボランティアのネットワークが点と点がつながれば、その地域で上手く稼働して、お互いのしてもらいたい事、やりたい事が、利害が一致しますから、非常に良い関係が出来るのではというのを、去年、一昨年あたりから強く感じていまして、出来るだけ色んな所に顔を出しながら、そういった関係が作られていけばいいなという事で、現在も社会参加しながら、そういった事を念頭に置きながら、活動しています。

 ボランティア活動を、私の社会参加活動の1つとして、これからも来年もやっていきたいという気持ちでいっぱいです。唯、来年にかけては、自分の体と相談しながら、体調と相談しながら、自分の出来る事、まだ出来る事というのを減り張りつけながら、やっていきたいなと思います。勿論、旅行もそうですが、そういった社会貢献活動に対しても、『体が悪いから、病気が進行しているから、じゃあそれなりに出来る事があるんじゃないのかな』という気持ちでいっぱいですので、そういった事を取り組みながら、来年にかけてもやっていきたいと。もし仮に、呼吸器付けても、動ける間はやっていきたいなと思っております。

 私の好きな言葉で、『徒然草』の中にこういったのがありました。『死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや』というのがあります。これが頭から、それを読んだ時に離れなくて。勿論、仕事もそうですが、私なんかは生きるのが、『自分がなんか仕事してるんだなぁ』という気持ちになっていますので、生きているのであれば存命の喜びというのは、日々に、日常生活の中で楽しみながら生きていかないと、なかなか心豊かに充実した生活というのは出来ないかなと最近は考える様になってきました。



平成13年12月12日録音





在宅でのサービスについて



 私が自宅療養に入ってから色んなサービスを受けた内容について、少しお話していきたいと思います。勿論、有償、或いは無償であれ、そこら辺の話を少ししたいと思います。

 実際に有償になりますけど、訪問看護を受けだしたのが平成11年の6月でした。そこで初めて、家族の疲れもありましたし、主治医の先生にお願いして、訪問看護の医師会のステーションを紹介して頂いて、そちらの方に申し込みをしたら、快く引き受けて下さって、それからずっと毎日来て頂いています。普段は週に3回が普通です。でも、特定疾患の場合は毎日でも受けられる。一昨年までは週に月曜から金曜まで看護してもらい、現在は土曜日まで看護サービスをやっていますから、週に6日という事で日曜日を除いて毎日です。

毎日、月曜から金曜まで来て頂いて、受けるサービス内容はリハビリとシャワー入浴が主です。後はストレッチとか体全体の揉みほぐし。後はケア。例えば歯磨きとかトイレとか、そこら辺も含んでやって頂いています。時間的には1時間半ですから、その中で出来るサービスを受けて、月曜から土曜まで来てもらっています。

 そうしている内に、その年の10月位には、平成12年度からの介護保険の開始に伴いまして、要介護認定が始まりました。私もALSという事で、介護保険対象年齢(65才)には及びませんが、特定疾病にあたりますので、私も要介護認定を受けました。医師会の認定の相談員が来られて、調査を受けましたが、10月始めに受けて、認定が来たのが平成11年12月の押し迫った時でした。『要介護5』という事で「もう川上さん、これ以上の重度認定ありません」と言われて、いきなり要介護5で認定されました。

それから、12年度の4月から、介護保険が始まりますが、それに伴いまして、私も介護保険のサービスを受ける様にしました。唯、私の場合は特定疾患の病気である為に、医療保険も介護保険も使えます。ですから訪問介護をうけながら、介護保険のヘルパーサービスも受けられます。それで、毎日の訪問看護は受けて、更にヘルパーの身体介護もお願いして、現在に至っています。

 訪問看護はさっき話した様な内容ですが、ヘルパーの方のサービス内容は、リハビリに通う為の付添であるとか、家での散歩・食事。或いはシャワー浴などもヘルパーさんにやってもらっています。毎日やってもらっているのが、夜間巡回で寝返りが出来ませんので、それを毎日ヘルパー利用の方にお願いして、夜間巡回に来てもらっています。夜間ですから30分ですけれども、そこで排尿とか寝返りなどです。ちょっと足が痛かったら揉んでもらうとか、30分内で終わるようなサービスを毎日受けています。

 それで今まできていますが、介護保険も1年過ぎて、今年、平成13年の3月いっぱいで1年になりました。でも、なかなか事業者自体がまだ確立されてなくて、夜間巡回から撤退する事業者もあります。たまたま私の所は、撤退する事業者だったものですから、他の所に切り替えるのが非常に大変でした。大変というのは、慣れないとなかなか身体介護の寝返りでも、「はい、わかりました。こっちからあっちですね」という訳にはいかないです。その人、その人のポジションというのがあって。唯、動かしただけでも、後のポジションがある程度細かく定まらないと、寝る時も気持ちが悪い。だから最初の方は、それに慣れるには、時間がかかりました。5〜6回か何回か来てもらわないと、なかなか慣れない。

これはどこでもそうですが。そういった事を繰り返しながら、1年経って、いきなり「夜間巡回のサービスを撤退します」と言われたら、こちらも『じゃあまた新しい所にまた1〜2ヶ月は慣れてもらわないといけない』と。そういったストレス、心労も溜まりますので、『何とか安定した介護を介護事業者さんの方で実施して頂きたいな』というのが1年経って思いました。

 それで、新しい所にまた夜間巡回を含めて実施してもらっていますが、今度、今年になって、また新しくお願いした方の事業者も撤退という事で、今、夜間巡回の方が結構事業者さんの方で撤退の風が吹いていまして、実施している事業所さんが少ない現状です。そういった中で何とか、こぢんまりとやっている所で、今、お願いしていますが、非常に厳しい。唯、介護して下さる方は非常に熱心で、気持ちよくやって下さいます。そういった所から見ると、介護保険のヘルパー事業の事業者さんも『まぁいろいろ、苦労されているのだな』というのが、色々分かります。そんなにしながらも、1週間に昼間は3回、夜間は毎日、それプラス、訪問介護を受けて、今なんとか生活をしております。

 そうして生活していますが、外出の時は散歩などで付いて来てもらいますけど、個人的に『あっち行きたい。こっち行きたい』という時は、知り合ったヘルパーさんの中でも、個人的に「時間の都合が合えばいいですよ」と言う方も現れました。例えば、今年は北九州に1泊旅行に行って来たのですが、1泊で付いて来て頂きました。車の運転もして頂いて、つき合ってもらいました。そういった方も1人、2人と出て来られて、ボランティアの形でやって頂くのも非常に有り難いです。また、自分の生活の、そういった有償で受けている隙間の時間帯、生活時間帯を埋めて下さる方がおられるっていうのは私にとっては心強いし、これから先も、色んな形で、また都合が良ければお願いしたいと思っています。

 また、旅行なんか行きますと、海外とか国内でもそうですが、私が旅行に行く場合は、私の妻か誰か介助者がいないと、私は旅行にいけませんので、去年までは妻と一緒に行っていたのですが、妻がだんだん疲れてきて、私ひとりで行く事も多々あります。それで、そういった時はどなたかに介助をお願いします。それは旅行ツアー企画の方で介助者をお願いして、たまたま資格が看護婦さんであったり、ヘルパーさんであったり、何もなくてもボランティアの方であったりと、その都度、違いますけれども、そういった方々が手伝ってくれますので、非常に安心して行けます。

 飛行機に乗る時から手伝って頂いて、座席のポジション、或いは一番困るのが飛行機の中でのおトイレです。こればかりは、どうしようもありませんので、いつもの通り、隠しながらするのですが、大きい方は運んでもらわないと出来ません。でも、運んでもらってもトイレが狭いです。2人に抱えてもらっても、3人が入る事は出来ない位に飛行機の中のトイレは狭いです。航空会社の従業員用の、飛行機最後尾の奥のトイレ。ちょっと広めですが、そこまで連れていってもらって、2人がかりで抱えてもらって、座らせてもらうという様な形をとりながら用を足します。

 それで、飛行機を降りて、普通の電動車椅子に乗り 移って、先ずはホテル等に行きます。ホテルに行って 観光先を周る時も、色んなお手伝いしてもらいながら ホテルに帰って来ると、食事時間なので夕食を済ませ たら、お風呂、また着替え、寝る為の準備と、全て介 護してもらわないといけないのです。この時お風呂が 一番困ります。普通の温泉場だったら、そのホテルの 従業員の方に1人か2人お願いして、その間ちょっと 抱えてもらうとか、お願い出来ますが、ホテルの場合 はハンディキャップルームに泊まったとしても、多少 中が広いから良いですが、結局は2人か3人は抱え上 げてもらって、拭いてもらわないと出来ないという事 になりますので、その時がちょっと大変です。

入る為の準備をしなければいけない。入っても、浴槽に座ったら、今度は拭けない。ですから、濡れてもいい様な椅子を持って来てもらって、風呂場の中に入れて、そこに座らせてもらって、支えてもらって、頭から洗ってもらうという形で、いつもやってもらっています。ですから、長く宿泊する時は、毎日は入れない時もあります。それで、後は寝間着か何かに着替えて、後は寝るだけですから、横にならせてもらいますね。

旅行のボランティアさんは、ツアーでお願いする時は有償です。こちらから連れて行く時はボランティアさんでも構いません。こちらから連れていく場合は、ボランティアさんの運賃などは、基本的に連れていく方がみるという形になりますね。また、専属で頼む場合は介護料金もかかります。でも、それまで払ってでも、行きたいという方もおられます。

1回、私もそれで行きましたけど、値段はあくまで旅行が主体ですから、普段の介護料並ではありません。約半額くらいです。例えば1時間で1000円介護料がかかるのであれば、24時間だったら2万4千円になりますが、そんなに費用はかかりません。その半額以下で1日24時間やってくれます。勿論、昼間なんか他の人も手伝ってくれるから、つきっきりじゃありませんので、そこら辺も加味して、そういった料金体制になっていると思います。

 最後に在宅サービスの話に戻りますが、要は24時間の生活時間がある訳ですけど、今現在、入ってもらうのが一番多い時間で、夜間も含めて1日に6時間位です。少ない時で、2時間、3時間位。日曜日はないですが。唯、介護保険の金額の中で、多少クッションがありますので、全部頼むとしても、こちらが要求、満足する様なサービスを提供して頂くまでの金額ではありませんので、それ以外で何とか出来ないかというのが、今その隙間をボランティアさんで埋めてもらう様に、ネットワークを作っていきたいです。

唯、行政指導で介護保険を全部使って、更に必要な方は、多少有償になりますけど、ヘルパーさんが使える制度も残されている様です。だから、そうなったら、そこまで使ってやっていきたいです。

 考えたら消費税の差はありますけど、北欧なんかだったら、24時間のうちの17時間か19時間は国がみています。残りの5〜6時間が自分の所でみている。日本は逆です。本当は北欧並になれば良いだろうけど、なかなかそういう訳にいきませんから、じゃあそれを何で埋めるかと言えばボランティアさん。毎日来てもらったら大変ですから、週に1回か、月1〜2回でも構いませんし、そしたら、どうしても、前にお話しました通り、ボランティアさんのネットワークで人数がいないと、それがなかなか実現しない。それも、公的なボランティアじゃなくて、私的なボランティアさんの介護チームとか介助チームが各地区であればお願いしやすいです。

 例えば、難病であるとか、ある程度の専門性を必要とするボランティアさんが育っていかないと、そういうのが出来ていかない。それを今、一生懸命あちこちでやって下さる様にお願いをしています。人づてに何かボランティアをしてもいいよ、という声が聞こえてきますので、そういう時は是非お願いしますという事で、私も行きますし、1回私の所に実習で来られてもいいですし、という話はしています。そうやって、ネットワークを作っていければ、私と同じ様な方はまたそこから派遣してもらえれば、ボランティアを受けられますし、無理のない形で生活の隙間の、そういった生活をやっていけるのではないかと。唯、あくまで基本を有償のサービスの方で押さえといて、隙間をボランティアさんで埋めていく。

実際それをやっていかれているのが、東京とか大都市の方では、そういった看護学校の学生さんなんかでお願いして、24時間のうち20時間位は埋まって、やっていかれている方もいます。『そうなったら、すごいな』と思うけど、福岡では、まだまだそこまでいかれている方、まだ聞いた事ないです。唯、どうしても生活保護とか色んな形でされている方は、ある程度、行政の方でみられているサービスもありますから、それはそれで利用されていいと思いますが、在宅で身内がいて家族で生活している場合は、色んな条件が厳しいです。

その事の中では、頼りになるのは、やっぱりボランティアさん。そういった意味では、ボランティア養成講座、あちこちでやられておりますけれども、より専門化されたボランティア講座があっても良いのではないかと思います。



平成13年12月19日録音





ホールドハンズについて



 私達が携わって、一緒にやっている「ホールドハンズ」という神経・筋難病の会についてお話しをしたいと思います。

ホールドハンズのそもそもの成り立ちは、丁度今から1年4ヶ月前の平成12年度の夏に、私と心障センターの紹介で筋ジスの方お二人と話しをしました。そこで、「折角、難病の方が集まったので、何か活動が出来ないか」という事で、平成12年度の8月から月に1〜2回位、打ち合わせをしながら、活動をしていました。

内容的には、神経難病、或いは筋疾患の難病の方を中心とした集まりの交流会を開き、その中で学習会やレクリェーション等が出来ないだろうかと。その為の講演会をやって発足式にあてようという話しがまとまりまして、平成12年度の11月終わりから12月にかけて、「じゃあ誰を講師にお願いしてやれば、皆さん集まって頂けるか」という話しになりまして、たまたま私が通院している九州大学医学部附属病院神経内科の先生にお願いしてはどうかなという事で、教授であられる先生にお話しをもっていきました。そうしましたところ、5〜6回メール交換してお願いしたのですが、快く引き受けて下さって、平成13年3月の第2土曜日に決定しました。

それまでは、そういった筋ジスの方と何人かで「ホールドハンズのチラシを作ってみてはどうか」という話しも出てきまして、13年度2月、丁度そういった講演会をやる前にチラシも出来上がりまして、「講演会に来た皆さんにチラシを見て頂こう」という形で、準備を整えていきました。具体的には3月の講演会の時に、交流会も含んで、先生の講演という形でやったのですが、進行性神経・筋疾患の集まりという事で、勿論、私のALS、筋ジスの方、脊髄小脳変性症の方、パーキンソン病の方もおられました。そういった神経・筋難病の方と一緒に講演会を開催して、関係者も含めて80名近くの方が参加して頂きました。

その講演会の中で、私の方はホールドハンズの交流会を何の為に立ち上げたのかという事の話をしました。基本的には神経・筋難病の方の、進行性ですから、今は症状が良くても、1年先、2年先は進行していけば、その都度、自分にとっての悩みや受け止め方も違ってくる訳ですから、他の障害が固定的な病気の方とちょっとニュアンスが違ってきます。そこら辺の共有する痛みを分け合い、或いは学習し、たまには憂さ晴らしでハイキングやバスハイクでもしましょうという事で気軽な交流会を1ヶ月1回やっていきましょうよという呼びかけをしまして、講演会に臨みました。

講演会が好評のうちに終わって、次の会合をいつにしようかという時に、3月だから4月にまた交流会をしましょうと、最初の発起人だけで役員を決めまして、来月・再来月のスケジュール、或いは大まかな年間のスケジュールをミーティングして、立てていきました。その中で、4月は「じゃあ最初に、初めて集まるのだから顔見せの懇親会でもしましょう」という事で4月は集まりました。一人、一人の自己紹介も兼ねて交流をやりました。

2回目が6月で、「懇親会の2回目で食事を挟んだ交流会やりましょう」という事で実施しました。3回目から7回目まで、だいたい月に1回ずつ位、やっていますけれど、学習会を開きました。どういった学習会かと言いますと、進行性の難病の方、更に重度の方、発症して間もない方もおられますので、「リハビリ関係のお話しを聞いて、色んなミニ相談会も良いのではないか」という学習会もしましたし、或いは「今から日常生活の中で困った事、例えば移動手段であるとか、駐車場の割引であるとか、駐車用のステッカーであるとか、要は福祉サービスについて、皆さんと学習しましょう」という様な学習会もしました。それ以外には、障害者の旅行についての交流会であるとか、九大のリハビリテーション部の先生をお呼びしてお話しを聞く交流会とか、市の障害保健福祉課の課長に来てもらって福祉サービスのお話しをして頂くとか、今年は色んな活動をやってきて、最後の12月は「12月ですから、食事会兼懇親会しましょう」という事で、13年の12月までの活動を終わりました。

それで、来年はどうしようかという事で、3月以降の活動予定を年間でアバウトな形でも決めておいて、それに沿ってまた活動もやっていきたいなと思っております。その為の役員会議も来年に入ったらすぐ開きまして、ある程度の方針を固めていきたいと思います。唯、1月・2月というのは寒いですから、皆さん出づらいところもありますので、交流会はお休みにして、内輪の役員会の打ち合わせだけにしておいて、3月から1ヶ月か2ヶ月に1回ずつ、来年・再来年にかけて交流会を開いていきたいなと思っております。

それが一応、ホールドハンズの活動内容で、振り返ってみますと学習会だけではなくて、海の中道の水族館にもバスハイクで行きましたし、8月は海の中道のプライベートビーチ、ヨットクラブの浜があるのですが、そちら の方でバーベキュー大会も開きました。

そこにも、全員ではないですけど、関係 者の方に来て頂いて、乗れる方は、ボート に乗ったり、ジェットスキーに乗ったりし て楽しんで頂いて、私も含めて満足して帰 りました。そういった野外活動も含めなが ら、また来年も学習会、或いは遊びに活動 を広げていきたいと思います。

特に夏は、「愛は地球を救う」のテレビとタイアップして、こちらから申し込んで、取材に来て頂こうかなという話も、今持ち上がっていますので、そこら辺も取り組みながら、色んな活動をやっていきたいなと思います。

 ホールドハンズの活動を通じて、色んな活動・学習会をやってきましたが、学習会・交流会などで集まってきて頂いた方。当事者の方と、家族、ボランティアの方で構成されています。平均すれば、大体、ボランティア・家族の方と半々位の割合でいつも参加されます。当事者もそうですが、先ず、ひとりで家に居るよりも、そういった会の集まりがあるのであれば、来て頂ければひとりじゃない。10人、20人の集まりの中で、情報交換が出来て、色んな事が自分に蓄積され、例えば福祉サービスなどの選択肢が増えてくる。そういった事を学びながらやっています。

後ひとつは、ボランティアの方が来て頂いて、お世話をしてくれます。特に福祉ボランティアの中で、難病ボランティアの方が来て頂けると一番有難いのですが、普通に難病ボランティアとか言ったら、「出来るかなぁ」という様な感じで受け止められがちなのですが、普通の障害者の方と同じで、車椅子を使用の方もおられるし、杖ついて歩ける方もおられるし、色んな方がおられます。特に難病がついたからと言って、特別な事をお手伝い・強要する訳でもありません。ですから、来て頂ければ、ちょっとしたお手伝いを気軽にして頂ければ、こちらも助かりますし、そういった呼びかけもしております。ですから、ボランティア或いはボランティアでも資格をもっておられる方もおられます。

例えば、ヘルパーの資格とか看護婦さんの資格とか、もっているに越した事はないのですが、日曜日・土曜日に空いている時間をお手伝いしてもらえれば、非常に有意義な一日が過ごせるのではないかなと思います。

それに伴いまして、お互いの利害が一致しないと出来ませんので、色んな形でボランティアの方の呼びかけをしております。当事者の私達ですが、手足が不自由で、どうしてもお手伝いが要るという方が殆どですから、そういった意味では、そのボランティアの方が頼りで必要としますので、是非、毎回の交流会には顔を出して頂きたいと思います。

ひとつ、先程も言いました様に、進行性の疾患の方が中心に活動している会ですから、半年前、1年前と症状が少しずつ違ってきます。ですから、ボランティアの方がスポット的に来られても、その時のお手伝いは勿論、有難いのですが、出来れば継続的なお手伝いをして頂きたいです。そうすれば、当事者の症状の把握も出来ますので、お手伝いがしやすいと思います。その為には、集中的に1ヶ月に4〜5回も来るというのではなくて、1ヶ月に1〜2回でもいいですし、勿論、来られる方はそれ以上来て頂いて良いのですが、そういったボランティアの手伝いを長い期間、継続してやって頂ける方がおられれば、私にとっても、他の方にとっても一番有難いのではないかと。事実、ボランティアでお手伝いに来て下さる方は、大体いつも同じメンバーが来られます。ですが、それに固定してしまうと、もう枠が無くなりますので、出来る限り何人かはお願いして、来て頂きたいなというのが私のモットーです。

そうする事によって、例えば月1〜2回の人が一人、月1回の人が一人、3〜4回来れる方がひとりという形で、私にとって月に5〜6人か7〜8人、ボランティアされる方がおられれば、週に1〜2回、それ以上は何らかの形でお手伝いをして頂けると。当の(お手伝い)する人は「月に1〜2回でいいですよ」という形で継続的なお手伝いをして頂き、それに伴う色々なホールドハンズの活動もしていきたいなと思っております。

ホールドハンズの来年以降の活動なので すが、月1回から2ヶ月に1回位、皆さん との交流をやっていくのですが、将来に向 けても大きな講演会、ちょっとした学習会 をやっていく中で、色んな方を紹介して頂 ければ、会員になって一緒に活動をしてい きたい。その為のチラシも何かある度に配 布していますし、問い合わせもあっていま す。

今、人数が30名前後なのですが、これが40名、50名と増えていけば、『私達の活動も理解されているのだな』というのが判ります。唯、あまりにも50名、60名になると、1回の交流会では、皆さん満足のいく意思疎通が出来ませんので、将来的には例えば福岡市内の各区毎のそういった交流会が出来れば、わざわざ遠い所から来て頂かなくても、西区の公民館か施設があれば百道浜の会場を借りて交流会をする事も出来るし、南区の方でも、東区の方でも各区に市民センターがありますから、登録すれば市民センターを借りてでも出来るし。そういった形で、各区毎に分散して、これから1年か2年先、交流会をやる事も可能になって来ます。そういった将来的な活動も含めて、今、福岡市内で30名位の団体でやっておりますので、更に増えれば分散した形でやっていければなと思います。

ホールドハンズに参加する方々、或いは神経・筋疾患の方で、例えば保健所で家族の集いとかいうのを、保健所主催でされている所もあります。そういった所にも、私達のチラシを持って行くと、「ホールドハンズの活動内容を紹介して頂けませんか」という問い合わせもあります。たまたま東区の方から話がありましたから、私とあと一人近い方が行って、説明して来ようかなと思っています。あと、問い合わせがあっているのが、早良区の保健所も心障センターを介してあっておりますので、何らかの繋がりが出来てくるのではないかなと思います。そういった形での広がりも、また一人、二人と増えていけば、楽しい交流会が出来るのではないかなと思います。あとは、講演会を通じて来られた方等。そういった形で春以降には、多分10名か15名位、増えるのではないかなという予想は立てていますので、そうなってくれば、出来れば区毎に分けて、2回ずつ位は交流会を開きたいです。

何か活動とか、色んなコミュニケーションとか図る時は、皆さんでチラシはまだ残っていますので、持って行って頂いて、色んな紹介をして頂ければ、もっと活動が広がるのではないかなと思います。



平成13年12月26日録音





人工呼吸器について



 私は現在、バイパップという鼻マスク式の人工呼吸器を装着しています。今年(平成14年)に入ってから装着し始めて練習しながら、5月からは1日中で3分の2以上は装着しています。今回は、その経過についてお話したいなと思います。

昨年は色々な旅行、ハワイや北海道、大阪のユニバーサルスタジオジャパンに行って、楽しみながら1年間過ごしました。唯、お盆過ぎ頃から呼吸が少し苦しくなってきて、平成13年9月に検査入院をしました。その結果、肺活量が900cc以下と云う事で、「そろそろ呼吸器が必要になってくるのではないでしょうか」と検査した病院の先生から提言もありまして、『どうしようかなぁ』と色々考えていました。そして、九大病院の主治医の方から「川上さん、そろそろバイパップという鼻マスク式の呼吸器がありますから、練習されたらどうですか」と云う話を検査に行く度に云われました。だから、私も『練習して経験するのもいいな』と思いまして、今年の1月の末に九大病院に、人工呼吸器の練習を含めた検査入院をする事にしました。

その頃は、呼吸器なんて付けなくても十分話せていましたし、夜眠る時も別に問題はなかったです。唯、日常人と話す時が、遠くの人にはなかなか声が通らなくて、『肺活量が少なくなっているのかなぁ』と云う感覚は常にありました。実際に九大病院で入院してバイパップの練習をしたのですが、一方的に機械から送られてくる空気を吸って、息をはく訳ですが、それに慣れるのに時間がかかりました。機械にコントロールされている感じです。それでも1週間目位には2〜3時間ですが、なんとか自分の呼吸が出来る様になりました。

そういう経験を積みながら退院したのですが、退院したから『もう呼吸器とはさよなら』と云う訳にはいかず、九大病院からの紹介で近くの開業医でバイパップをリースして、家に設置してもらいました。これが2月からです。少ない時で1日1時間、多い時で1日3時間練習をしながら過ごしましたけど、まだその頃は『人工呼吸器をつけなくても生活出来る』と云う自負がありましたので、あまり装着しませんでした。唯、この病気の事を考えると、進行性ですから、徐々に呼吸筋も弱まってきて、いざとなった時にはもう呼吸器を練習しても遅いと云う事も十分解っていますので、3月位から装着する時間も長くなりました。3月は1泊旅行もありましたし、熊本に行った時などはバイパップを持って行って、昼間も装着しながら水前寺公園など散策しました。そして、その旅行の後から外出する時には必ずバイパップを装着して行く様になりました。

4月位まではその状態を続けたのですが、その頃から呼吸が苦しくなる事がありまして、5月からは夜間の睡眠時から朝方まで装着し始めました。装着して眠ると以外と楽でした。それからずっと、現在11月1日まで、バイパップは離せません。春先までは1日15時間位つけていたのですが、現在では23〜24時間、丸1日装着しています。

装着し始めて1番に思ったのは、この病気の性質上、この様な医療機器や福祉機器を利用していかなければ、自分自身が生活出来ないと云う事です。それを拒否すれば身体上の異変が起こってきますし、生活も難しくなってきます。ですので、色々な医療機器や福祉機器を利用しながら、普通の生活を送っていきたい。

唯、手足や首が動かなくなってきていますので、その部分はお手伝いしてもらいながら、身内以外だったらヘルパーさんや訪問看護婦さん、或いはボランティアさんにお願いしながら生活しています。そういうネットワークを今から作っていかないと、症状がこれ以上進んで気管切開した場合は、声が出せなくなってきますので、非常にコミュニケーションが難しくなります。声が出ている内に、ある程度の信頼関係を築き、ボランティアさん達との交流を深めていきたいと思います。気管切開になった後でもお手伝いが出来る状態を作っていきたいと思っています。ですので、まだ話せる内は色々な方とお話ししながら、外出してそのような状況を訴えていきながら、1人でも2人でも多く、色々な方との繋がりを持っていきたと思っています。そして、将来の生活を考えながら今現在暮らしています。

また、今年も旅行に行きたいと思っていましたので、グアムやディズニーシーなどの予定はあったのですが、呼吸器装着の為に状況的に難しくなりました。例えばグアムでも、福岡から直行便があるのですが、コンチネンタル航空では呼吸器使用の方は搭乗拒否と云う様な返事をもらいましたので、『これは困ったなぁ』と。どうしても行こうと思えば関西空港経由で行かなければなりません。呼吸器装着となれば、そう様な色々な条件が付いてきますので、旅行もある程度制限されてきます。国内旅行の1泊や2泊でしたら行けると思うのですが、そういう所から楽しみながら過ごしていきたいなと思っています。



平成14年11月1日録音





コミュニケーションについて



平成14年1月から、人工呼吸器バイパップの装着を始めて、もう1年になろうとしています。5月を過ぎてからは、ほぼ24時間、装着をしています。

装着して1番困った事は、コミュニケーションが取り難い事です。私はきちんと喋っているつもりなのですが、相手はなかなか聞き取り難い様です。その為に、何回も聞き直してこられます。その時に言い回しを変えて話す様にして、お互いのコミュニケーションを図る様に努めております。

何で話す事が聞き取り難いかと云いますと、バイパップは機器が空気を送り込んできますので、鼻から空気を吸って、鼻から出します。喋る時は、鼻から空気を吸って、口から出します。口から出す時に言葉を発するのですが、鼻声混じりになってなかなか聞き取りづらい様です。例えば、あいうえお・かきくけこ位は良いのですが、なにぬねの・はひふへほ・わをんの言葉がなかなか伝わり難いです。だから、五十音の一文字、一文字が正確に発しないと、きちんとした言葉として相手に伝わっていかない様です。その辛さや、もどかしさというのを、今年は1番感じました。

勿論、脊髄小脳変性症の方の言語障害と症状は違いますけれども、なかなか言葉を発する事が出来ないという方々の気持ちがこの1年で身をもってよく理解出来る様になりました。

これから先、どうやってコミュニケーションをとっていくのかが、私の大きな課題でもあります。今の時点で症状の進行が止まれば良いのですが、自発呼吸がだんだん弱くなってきていますので、口から発する言葉も判りづらくなってきています。まだ暫くは大丈夫と思いますが、言葉を発する事が出来なくなってきた場合にどうするのかが非常に悩みます。それを解決する糸口を何とか見つけようと、今あせっていますし、思案中です。

一人で考えても仕方ありませんから、リハビリ先のPTの先生、訪問看護の人、或いは主治医の先生など色んな方々に相談しながら、何とかコミュニケーションを取れる方法を構築していきたいという風に思っております。

その方法として2つの手段があります。1つは、透明文字盤ですけれども、これは練習しないとすぐには使いこなせません。もう1つは、意思伝達装置。パソコンですが、これも時間と手間がかかりますが、コミュニケーションはゆっくり時間をかけて取れます。

この様な透明文字盤や意思伝達装置を利用しながら、これから先のコミュニケーションの取り方を構築していきたいと思っています。又、既に気管切開された諸先輩方がコミュニケーションを取っておられますので、その方々の事例を捉えながら、私なりのコミュニケーションの取り方を思案中です。

では、どの様にして私なりのコミュニケーションを構築していくか。それはリハビリの時だけで構築する訳ではなく、自分の生活環境の中で構築していかないと意味がありません。その為にも、家に来られている訪問看護の方、ヘルパーさん、ボランティアの方とコミュニケーションを取る為に、パソコンと透明文字盤、或いは顔の表情でYES・NOをはっきりと区別出来る方法を確立していきたいなと考えています。

そうしておかないと、急に痰がつまって呼吸が苦しくなり、気管切開になった場合に慌てますので、今から準備をしていきたいと考えています。と云うのは、今年10月に、私の知り合いで、佐賀に住んでおられるALS患者さんが、急遽呼吸不全を起こして、入院されました。入院した当初は管を挿管されて、次の日に気管切開をされました。本人が「気管切開をしたくない」と云う事で私にメールを送ってくれていましたが、その1週間後の出来事でした。

今、入院していて、2ヶ月位で退院してこられるとは思いますが、その後のコミュニケーションの取り方について、非常に悩んでおられる様です。その事は奥さんからきたメールでよく分かりました。奥さんのメールの中には、「主人の声が出なくなったら、どの様にして主人と話そうか」と云う事が切々と書かれていました。私は「退院されて、十分落ち着かれてから、またメールを下さい」と云う返事を出しておきました。

この病気の場合は、その様な状況が身近なところで度々起こってきます。ひどい時には呼吸器を付けても、合併症で亡くなられる方もおられます。私が知っている方では、癌で亡くなられた方もおられます。入院先で呼吸器がはずれて、それが原因で翌朝息を引き取られた方もいらっしゃいます。例を挙げるなら、他にもまだいらっしゃるのですが、その様な事例を知っていますので、自分としては万全の対策をとって、生活をしていきたいと思っています。

この様な暗い話しばかりですが、私の場合は呼吸器をつけて、まだ少しは喋れます。外出も出来ます。体調が良い時は、なるべく外出して、多くの方と会って、いろんな情報を吸収したいと思っています。



平成14年11月29日録音





「今年の旅行は・・・」                 平成14年12月



 昨年はハワイ・北海道・大阪USJ・近場の北九州へ旅行しました。症状の進行と共にそれなりに旅行を楽しみましたが、秋口から呼吸機能や手首の動きの低下が目立ち始めて、9月末に検査入院しました。胃潰瘍が2ヶ所も見つかりましたが、これは薬で治るようです。結果的には排気量の低下(900cc未満)位で、他に目立った異常はありませんでした。しかし手首の機能の低下は電動リクライニング車椅子の操作が難しくなり、狭いところの走行が困難になってきました。

 年末には、九大病院の主治医から、バイパップ(鼻マスク式人工呼吸器)の装着練習を兼ねて検査入院を勧められました。私はまだまだ早いと思っていましたが、体験するのもいいかな、と思い今年の1月に検査入院することにしました。その頃に糸島保健所から講演依頼があり、講演に行きましたが、まだピンマイクでお話をすることが出来ました。

 入院の結果はレントゲン・血液検査とも特に異常はなく、バイパップの在宅練習をすることになりました。バイパップは九大病院からの紹介で、近くのかかりつけ医院経由で設置して頂きました。

 在宅での人工呼吸器装着の練習は、まだ目に見えて苦しくなることもなく、一日2時間から5時間ぐらいの装着が続きました。3月に入ってヘルパー養成講座に呼ばれてピンマイクでお話をしましたが、バイパップを装着しなかった為、声がなかなか通らない時もありました。

また、手押しリクライニング車椅子にバッテリーを積んで、バイパップを装着して外出するようになりました。このとき初めて熊本まで一泊旅行を楽しみました。特に水前寺公園の散策はバイパップをつけたままで行きましたので、周りの方の注目の的になりました。もうこの頃は電動リクライニング車椅子の操作は出来なくなってすべて手押しリクライニング車椅子での移動になっていました。何とか一泊旅行が出来たので、夏ぐらいには海外旅行でも、と計画を立てていました。

5月に入ると夜間の呼吸が苦しくなり、バイパップを寝るときから朝方まで装着するようになり、一日の装着時間が15時間前後となってしまいました。それに加えて誤嚥によってむせることが度々有り、一度は治まらなくなって九大病院に緊急入院しました。この時は2日ほどの入院で元気になり、むせることもなくなり退院しましたが、食事をする時には特に注意をするように心がけるようにしました。

6月に入ると今度は主治医から胃ろうの手術を勧められましたが、『まだ口から食べれるし、まだまだ早い』とこの時も思っていましたが、あまりにも周りから勧められるので万が一の時を考え7月に胃ろうの手術を受けることにしました。手術は簡単に終わり、一週間で退院しました。しかし、誤嚥の再発があり退院して2日後に緊急入院し、この時も2日で退院しましたが肺活量が700cc未満まで落ちていました。この頃またヘルパー養成講座の講師依頼があり、この時はさすがにバイパップを装着してゆっくりとマイクを通してお話をしました。

この頃はバイパップも24時間装着する日が続きました。その後、8月の初めまでに誤嚥の再発でさらに2回の緊急入退院をしてしまいました。この時に言われたのが「そろそろ気管切開をされた方が楽になりますよ」と言うことでした。頭の片隅には常にあって覚悟はしているつもりですがまだ早いのではという気持ちが強く、すぐには決断できませんでした。しかし、肺から喉にかけてゴロゴロと、また喉には痰が溜まるし、むせてゲホゲホとなり、呼吸が苦しくなって意識がもうろうとする時もあり、「死」を強く意識し、「生きるには気管切開をしなければいけないのかな?」と頭の中がそのことでいっぱいになりました。こういう時に思うのは「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」(徒然草93段)という一節です。

7月のALS福岡県支部総会の時も前日から誤嚥によってむせて朝方まで眠れませんでしたが、少し落ち着いてきたので総会には出席させていただきました。しかし3時の休憩の時には、またむせてきて痰がつまり、肺から喉元にかけてもゴロゴロとした感覚があり痰の吸引を休憩室でしてもらいました。九大の主治医の先生が出席されていましたので診てもらったところ、肺もゴロゴロと鳴っていましたので、主治医の先生から九大の救急センターへ行くように指示を受けました。総会の途中でしたが失礼して病院に直行しました。

この時はICUに一泊と、病棟で2日治療をして何とか元気になり退院することが出来ました。この時もたびたび起こるようなことであれば「気管切開も考えなくてはいけませんよ」という話も出てきました。私はもうそろそろそういう時期にさしかかったのかなという思いが頭からしばらく離れませんでした。

8月の盆前までには近くのかかりつけ医院から毎日抗生剤の点滴を受けていました。その甲斐もあって盆過ぎたあたりから症状も落ち着き安定した毎日を送れるようになってきました。その要因としては胃ろうからの食事に切り替えたことで口からの食事による誤嚥がなくなったことです。でも果物のバナナとか桃、あるいはプリンとかは少しずつ食べるようにしています。落ち着いてから一ヶ月ほど経ちましたが誤嚥の再発もなく毎日を過ごしております。

ただ将来のことを考えると気管切開のことは頭の片隅にはいつもあります。その後の在宅での介護の方法なども検討しながら今から考えていきたいと思っております。

夏場までは前記のように体調不良が続き、旅行の計画が実現できなくなってしまいました。しかし気管切開された方やバイパップを付けられた方も実際旅行に行かれておられますので、私も体調が落ち着いてきたらチャレンジしていきたいと思っております。予定としてはディズニーシーやグアム旅行の案内が来ていますが、呼吸器を装着してから行ける条件の部分と体調を考えながら決めたいと思っています。

また、旅行でいつも私が思うのは「いずくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ」(徒然草15段)という一節です。体が不自由になっても旅行の楽しみは変わりません。

JALSA 福岡県支部だよりNo.12(平成14年11月30日)掲載





今後のことについて

現在、私はバイパップ(鼻マスク式人工呼吸器)を装着して1年になりました。今の身体の状態は上下肢機能障害・体幹機能障害・嚥下障害・呼吸障害に加えて球麻痺症状も出始めています。外観的には顔の表情はなんとか保たれていますが首の動きがままならず、首から下は全く動かすことが出来ません。

昨年の秋頃までは胃ろうからの食事とバナナとかプリンなどを食べていましたが、12月に入って水分や薬でも誤嚥するようになり胃ろうからの食事のみに切り替えました。しかし、水分だけはむせることの無いように気を付けて口から摂取しています。今年に入って痰が詰まるようになり痰切り剤を服用していますが、まだ痰が完全に無くなってはいない状態が続いている毎日です。

このような状態で毎日訪問看護師さん、ヘルパーさんの介護を受けながら体調を維持しています。体調がいい時は通所リハビリに行ったり、障害者生活指導員としての会合やホールドハンズの交流会などに顔を出しています。こういった活動はこれからも続けていきたいと思っています。また旅行についてもチャレンジしていきたいと思いますが、呼吸器を装着している以上制約が多すぎてクリアすべきことが多々あります。しかし、この病気の先輩諸氏は果敢にチャレンジして旅行をされていますので、私も万全の体制でチャレンジしていきたいと思っています。

近い将来的には現在のバイパップでは補助呼吸も限界が来ると思っていますので、その時の選択肢は気管切開するか、しないかしかありません。そういった状況になれば私は気管切開を選択します。ただ、その後の介護のことを考えると頭を痛めます。

なぜならば24時間介護になり、痰の吸引行為などが負担になってきます。そうなるとまず家族に介護の負担が大きくかぶさってきますので、その介護の負担の軽減策を今から模索しながら具体的な案をまとめていきたいと思っています。

今現在、私の介護の時間は1日平均4時間ぐらいの介護サービスを受けています。しかし将来的には全く介護サービスの時間が足りません。大都市では公的な介護保険に加えて、全身性障害者介護人派遣制度や今年から始まる支援費制度の併用が認められている地域があります。そういった地域では、呼吸器をつけた重度の方はほぼ24時間公的な介護サービスを受けられています。

福岡でも介護サービスを併用して利用できる制度になれば、私の介護時間も将来的には現在の4時間から15時間ぐらいの介護サービスを受けられると自立した生活を送ることが出来ると思っています。また家族の介護も軽減され通常の生活に戻れると思います。これはあくまでも私の考えですが、人工呼吸器装着の重度の方は福岡市でも上記の介護サービスが受けられるよう機会があれば行政に陳情して少しでも「私の考えに近づけていけたらなあ」と思います。

私は身体が全く動けなくなって、何もできないということにはなりたくはありません。日常生活や外出する日々の中で自立した生活をしていきたいと思っています。その為には、まず私自身の精神的自立が必要です。物理的自立は介護してくれる方を通じてしか何事も出来ませんが、意思伝達をスムーズに行なうことによって自分の思いを実現していきたい。その為に「今できること」、また「まだできること」を福祉機器や意思伝達装置を使いこなして自己表現していきたいと思います。この病気の先輩諸氏がそのことを実証してくれていますので、自分なりの表現の仕方で介護していただく方に伝えていき、「今できること」を実現していきたいと思います。

身体が不自由でなければ「今できること」を自分自身で実現できますので100%の満足感はあると思います。しかし、今の状態では平均70%〜80%を実現できれば満足です。そういった形で私の自立した生活を送っていきたい。あくまでも私の身体がALSという病気になったのであって、私自身が病気になったわけではありませんので、私のメンタルな部分はなんら変わることはありません。

この病気になってから4年目で家族以外の介護を受けることになりました。それは訪問看護ステーションからの看護師さんによる看護でした。その要因となったのは入浴時にひとりで湯船の中に入ろうとしたとき、頭から湯船に突っ込みましたので、腕の力で一時的に起き上がり、声を出しましたがすぐに湯船の中に頭が沈んでいきました。私にとっては長い時間湯船の中でもがいたような感じがして、気が遠くなり、感覚が薄れていくのが分かりました。我に帰った時には妻が抱え上げてくれていました。しばらく頭がぼーっとした感覚が残ってなかなか正常に戻れませんでした。

この件以来、ひとりで入浴することはなくなり、必ず家族の介助を必要としてきました。しかし、私の身体を抱え上げたり、車椅子に乗せたりの毎日で疲れがきて、上記に書いたように平成11年7月から訪問看護をお願いしました。それから平成12年4月からは介護保険によるヘルパーさんのお世話になっています。また福岡市のガイドヘルパー制度も外出時は利用しています。それに加えて不定期ですがボランティアの方々にもお世話になっています。

これからも引き続き公的介護やボランティアの方々の支援を受けながら、在宅ケア・在宅医療のネットワークを利用していきたい。今現在、近くのかかりつけ医や緊急の場合の連絡網など着々と進行しつつあります。そういった周りの支援を受けながら、これからの人生を生きていこうと思います。

平成15年1月27日   川上 広司







清家 一雄

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   清家 一雄 
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