児玉良介さん「アメリカ留学体験」講演会
1998年6月27日(土)、in博多グリーンホテル


"WORKING QUADS" homepage

写真説明:児玉良介さん、マックス&コリーン・スタークロフさん
アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスのパラクォード(自立生活センター)で


児玉良介さん「アメリカ留学体験」講演会
1998年6月27日(土)、in博多グリーンホテル


『ワーキング・クォーズ』関係者各位

  1998年5月19日

  清家 一雄 
  重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表
  『ワーキング・クォーズ』編集部
  "WORKING QUADS" homepage
  〒810 福岡市中央区大手門
  092- TEL
  092- FAX
  Kazuo_Seike@msn.com
  seike@ma4.justnet.ne.jp
  QZE07711@niftyserve.or.jp
  http://www4.justnet.ne.jp/~seike/
  http://www.asahi-net.or.jp/~YS2K-SIK/(ミラーサーバー)

前略

1998年6月27日(土)、午後1時〜3時、博多グリーンホテルの会議室で
児玉良介さん(ダスキン障害者リーダー育成海外留学派遣事業16期生)の
「アメリカ留学体験」講演会を行う予定です。

博多グリーンホテルは、福岡市のJR博多駅隣です。
092-451-4111 TEL

児玉良介さんは、C6頚髄損傷者で、福岡県北九州市在住です。
1997年3月〜1998年3月、アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスで、
自立生活センター・パラクォード(PARAQUAD)を中心に留学研修してこられました。
現在、北九州自立生活推進センターで働いています。

テーマは、
「アメリカでの留学生活、パラクォードでの仕事」(仮題)など
です。

児玉良介さんから、アメリカ障害者関係の最新の話を聞けると思います。
興味のある方はご連絡、あるいはご自由にご参加ください。

下記は、児玉良介さんの米国留学レポートの"WORKING QUADS" homepageからの転載です。
"WORKING QUADS" homepageには、児玉良介さんのミズーリ州セントルイスでの写真が
掲載されています。

インターネット上の"WORKING QUADS" homepageも、お時間があるときにでも、
見ていただけると幸いです。

敬具


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児玉 良介 さん・"Working Quads"ゲスト
Mr.Ryosuke Kodama, "WORKING QUADS" guests

児玉良介さんのプロフィール
−自己紹介とアメリカ留学に行く理由−


こだま りょうすけ
児玉 良介
ダスキン障害者リーダー育成海外留学派遣事業16期生
セントルイス・PARAQUAD留学研修予定
北九州自立生活推進センター

 1989年8月、当時高知大の2年だった私は、プールに飛び込んだ拍子に首を骨
折した。けがをした当初は、体はわずかに右手首が動くだけで、夢からさめればまた
普段の自分に戻っているはずだと、天井を見ながらいつもそう思っていた。しかし、
それはやがて絶望へと変っていった。

 3か月ほど後、私は出身地の病院へと移ったが、そこでは付き添い婦が私の介助を
した。しかし、私は常に彼女の顔色をうかがっていなければならず、多くのことを我
慢しなければならなかった。そのことは私の未来に対する感情をいっそう悲観的なも
のにし、絶望的にさせた。

 転院後1年が過ぎ、退院が近づいてきた頃、ソーシャルワーカーから復学の勧めが
あった。その頃の私といえば、いかにして死ぬかということしか考えていなかった。
しかし、死のうとすること、その行為は実際に自分が死んでしまうことより、はるか
に苦しいものだった。死のうとすることも地獄、ただ生きているだけというのも地獄、
ならば自分はこの人生を戦って生きよう。苦悩の末に辿り着いた結論がそれだった。

 私は大学復学を決意した。そのことは私の第一の転機だったといえる。91年春に
私は母といっしょに高知へ戻り、そこで3年間を過ごした。キャンパスへはひとりで
行き、教室の移動やその他の細々としたことは、友人や周囲の人にやってもらった。
学生、教授など、すべての人達が親切にしてくれ、その優しさに接することで、私は
本来の自分を取り戻していった。

 94年の春に私はそこを卒業した。そしてその年の秋、私は第2の転機を迎えるこ
とになった。私は岩井菜穂美という人物に出逢ったのだが、彼女の生き方は私にとっ
て衝撃であり、彼女の自立生活センターの仲間は、私が持っていた障害者のイメージ
を完全に打ち壊した。私はそこに通うようになったが、それはそこへ行けば、勇気と
希望といったものが得られたからだ。

 今、私は北九州自立生活推進センターのスタッフの一員として働いている。一人で
も多くの仲間が、生きることへの希望、喜びといったものを見出せるよう手助けして
いくことが、これからの私の役目だと思うし、また私のやりたいことでもある。まだ
まだ先は長いが、一歩一歩進んでいきたいと思う。

(1997/4/12)

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"WORKING QUADS"ゲスト
児玉 良介 さん Mr.Ryosuke Kodama, "WORKING QUADS" guests

米国留学記1

 セントルイスは華氏90度(約32度)を越す暑い日が続いています。最も暑い日とい
うのは100度(約38度)近くもあり、それはもう朝からジリジリと刺すような陽射し
です。しかし、北九州市のように湿度が高くないので、日陰に入っていればさほど暑さを
感じなかったりします。

 さて、早いもので、こちらにきて五か月がたとうとしています。日本を発つ前、アメリ
カでの生活はきっと自分をたくましくさせるだろうと思っていましたが、実際そうさせる
多くのことが次から次へと起こってきました。この五か月は私にとって、肉体的に、また
精神的にとても苦しい期間でした。今ようやく生活が安定してきて、これまでのことを振
り返る余裕も出てきました。ずいぶんと遅くなってしまいましたが、こちらでの生活のこ
とを少し書きたいと思います。

 スーパーバイザーのコリーン・スタークロッフの家から、パラクォード(研修先)のス
タッフ、スチュワート・フォークのアパートメントに移ったのは四月一日で、介助者とし
てついて来た兄がセントルイスを発つほんの二日前でした。電動ベッド、机、椅子、その
他、洗剤やビニール袋など、最低限の必需品はとりあえずそろえたものの、まだまだ足り
ないものばかりという状況でした。介助者は、四十才の黒人ジェームス、六十二才の黒人
ミルトン、二十二才の白人ロバートの三人を雇うことになりました。まずは彼らに、着脱
衣、排便、入浴などの介助方法を教えたわけですが、それは日本にいるときから、写真な
どで介助マニュアルを作っていたため、さほど苦労はしませんでした。一番の問題は、ア
メリカにきて以来、ずっと排尿排便の調子が悪いということでした。そんな中でまず起こ
ってきたのは、尾てい骨のすぐ隣にできた1センチ半ほどのひっかき傷でした。介助者の
ジェームスが、便器かシャワーチェアーに私を移動させるときに、どこかにぶつけたらし
く(私は鎖骨から下の感覚がありません)、次の日病院に行きました。実のところ、この
傷のせいで研修は大幅に遅れることになりました。

 ジェームスの介助というのには他にも不満な点が多くありました。私は四月の半ば、最
初の給料日に彼を解雇したのですが、それを決断した最大の理由は、彼が私の財布からお
金を抜き取っているということでした。見たわけではなく、物理的状況や彼の態度からそ
う判断したのですが、おそらく間違いはないと思います。

 排尿の不調による不快感、時間どおりにできない排便、ストレスの多いジェームスの介
助、長時間座っていたための傷の悪化… その他にも一時間半以上もかかる電車とバスで
の通勤やエアコンの影響による睡眠不足などがあり、私の最初のアメリカ生活はとてもし
んどいものとなりました。

 ジェームスを解雇した後、彼の介助の穴はミルトンがカバーしてくれました。ミルトン
は親切で、よく気のつくとてもよい介助者で、排便が予定よりも早くなってしまったとき
なども、君は友達だからといって嫌な顔一つせず処理してくれました。また、彼は朝鮮戦
争の頃、日本に十か月ほどいたとかで、「ダイジョーブ」だとか、「イチバン」だとか、
よく片言の日本語を喋ります。彼がいたからこそ、なんとかこれまでやってこれたといえ
ます。

 お尻の傷のため、午後からはベッドで過ごすことになり、新たに昼間一時間だけの介助
者を探すことになりました。ビルの入り口に介助者募集のビラを貼ったところ、運よくキ
ャンディスという二十二才の中国系アメリカ人を介助者に雇うことができました。毎日三
時くらいまで車椅子で過ごし、その後はベッドで横になるという日がしばらく続きました。
その頃、午前中はパラクォードではなく、英語学校に通っていました。スーパーバイザー
のコリーンが、まずは他のスタッフと十分にコミュニケーションがとれることが重要だと
考えたためでした。

 「早くパラクォードでの研修を始めたい」 研修費用を出資してくれている愛の和運動
基金には、日常生活記録というのを送ることになっているのですが、英語学校や体のこと
などしか報告できない自分がなさけなく、ベッドで横になりながら研修再開のことばかり
を考えていました。そして三週間ほどたった頃、傷の具合はかなりよくなってきているよ
うに思えました。そこで月水金だけ一日車椅子に座ることに決め、それらの曜日の午後は
パラクォードへ行くようにしました。しかし、それは傷を悪化させ、結果的にパラクォー
ドへの完全復帰をさらに遅らせることになりました。

 ルームメイトのスチュワートの具合がおかしくなったのは、パラクォードに復帰するこ
とを決めた五月半ば頃でした。彼は四月の下旬にパラクォードをやめており、それ以来、
昼夜を問わずよく出かけていました。その日英語学校から私が帰ったとき、彼はめずらし
くまだベッドの上で、熱っぽく体調が悪いといい、その日は一日ベッドに横になっていま
した。次の日の昼英語学校から帰ったとき、彼は眠っており、起こしては悪いと思い、そ
のままそっとしておきました。しかし、夜私の介助者がアパートを去った後、私は嫌な予
感がしだし、同じビルの昼間の介助者、キャンディスに電話をしました。彼女が管理事務
所に電話をかけ、人を呼んで私のアパートのドアを開け、スチュワートの容態を見たとき、
彼はひどく荒い呼吸で意識がありませんでした。すぐに救急車を呼び、彼は病院に運ばれ
ましたが、昏睡状態でとても危険な状態にありました。尿路感染が原因ということでした。
しかしその後は回復に向かい、一か月半ほど後に病院も退院し、今では元気に暮らしてい
ます。最初の二週間ほどは、私はほとんど毎日彼のもとに見舞いに行っていました。私の
お尻の傷の悪化は、そういったことも原因の一つだったかもしれません。

 傷の悪化のため、六月の半ばごろから七月の初めごろまで、私は毎日一日中ベッドで過
ごしました。自分の体をコントロールすることには、それなりの自信はあったのですが、
わずかづつしか良くなっていかない傷には、ほとほと手を焼きました。しかし、実のとこ
ろ自分を苦しめていた最大のものは、傷そのものではなかったように思えます。私は仮に
も他の障害者をサポートする側の人間として、アメリカにきました。しかし、実際のここ
での自分はというと、自分の体をコントロールできず、回りに心配や迷惑をかける人間に
なっていました。コリーンや愛の和運動基金に、自分が無能であるなどと思われることを、
極度に恐れていました。回りの評価にとらわれ、自分のほんとうになすべきことを見失っ
ていたように思います。

 思えば私は周囲の人達に、「ほめられること」「よく思われること」ばかりに気をとら
れ過ぎていたように思えます。そしてそれはしばしば誤った判断を招いてきた。傷の回復
が長引いてしまったのは、そのせいだと思います。回りの評価にとらわれず、自分らしく、
自分のペースで、自分に自信を持って進んでいくことが大切でした。しかし、これはもう
ずっと以前からわかっていることで、また同じ事をくり返してしまったわけです。自分を
変えるというのはとても難しいです。

 パラクォードへは、傷の調子を見て、七月の初めごろから少しずつ通うようになりまし
た。英語学校は授業が文法中心で、会話のスキルを必要としている私には向かないように
思え、コリーンには無理をいってやめました。英語は研修を受ける中で少しずつ上達して
いくでしょうし、自分なりに楽しんで勉強をしたほうが身につくように思います。今では
排尿、排便のコントロールもなんとかうまくいっていますし、夜もよく眠れています。パ
ラクォードへの送迎は、コール・ア・ライド(Call-A-Ride :一週間前から電話予約がで
きる州営のバン。片道2ドル)というリフト付きバンを毎日利用しており、約二十分でパ
ラクォードに着きます。

 この五か月間、研修らしい研修はできませんでした。最近ようやく生活にリズムを取り
戻しつつはありますが、この先またどんなハプニングがあるのかわかりません。残された
研修期間を有効に使いたいとは思いますが、もう無理に優等生でいようとするのはやめよ
うと思っています。しょせん自分は自分でしかないのですから。ともあれ、これ.までの
苦い経験はいつかきっと何かの役に立つと確信しています。

  平成九年八月十七日

(1997/9/9、エアメール)
(1997/12/8)

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"WORKING QUADS"ゲスト
児玉 良介 さん
Mr.Ryosuke Kodama, "WORKING QUADS" guests

米国留学記2

 お元気でしょうか。研修先のパラクォードは昨日のクリスマスイプから休暇に入り
、仕事始めは来年の一月二日からです。今日クリスマスはさすがにどこもかしこも閉
まっています。私はというとテレビをちょこちょこ見ながら、こうして手紙を書いて
います。数か月前の手紙では、それまでのトラブル続きの私の生活ぶりをご報告しま
したが、今回は私のアデンダント、ルームメイト、パラクォードでの研修、そこのス
タッフ、そしてセントルイスのことなどを書きたいと思います。

 現在私はパラクォードヘは月曜から金曜まで行っています。一日の生活は決まって
朝六時にアテンーダントのミルトンが、「オハヨーゴザイマス」といいながら部屋の
ドアを開けることから始まり、着替え、朝食、弁当作りなどをします。大体八時すぎ
にコール・ア・ライド(リフト付きバン、片道二ドル)が迎えにきてパラクォードへ
向かい、帰りもやはりそれを利用します。パラクォードを出るのは大体五時ごろで、
アパートに着くのは五時半くらいです。六時半にはミルトンがやってきて入浴か排便
をすることになっており、彼が帰るのは毎日九時で、「オヤスミナサイ」と必ず言っ
てドアを出て行きます。
ミルトンは身長は約百七十五センチ、年齢は六十二才、白髪で、太ってもやせてもな
く、性格は几帳面で、よく気がつき、陽気で、親切で、ほんとにアテンダントとして
申し分のない人です。彼は私のことをメイン・マン(親友)と言ってくれます。私も
彼のことが大好きで、とても信頼しています。夜の介助はロバートとという二十二才
の白人も雇っていたのですが、OT(オキュペイショナル・セラピスト)として仕事を
始めるため、一週間ほど前に辞めました。新しいアテンダントが見つかるまで、ミル
トンが毎朝毎晩くることになっています。

 さてパラクオードではなにをやっているかというと以前までは資料を読んだり、パ
ラクオードのサービスを利用している障害者に会って話を間いたり、会議に参加した
りすることでした。最近初めて貴任ある仕事といいわたされ、今はそれで忙しくして
います。パラクォードは介助者派遺サービスを行っているのですが、それを利用して
いる障書者は五十八人だけで、利用の順番待ちをしている人は二百人近くいます。そ
れは州からそのサービスに降りる予算の関係によるものですが、パラクォードは予算
増加のために、ロビー(政策立案者に対して議案通過・阻止、予算の増加などを要求
する活勤のこど)を予定しており、政策立案者に会った際に、サービスの順番待ちを
している障害者の写真と、現在置かれている状況を書いた「ストーリー」を彼らに見
せることを計画しています。つまり、順番待ちをしている障害者が、いかにひどい状
況で生活しているかということを具体的に彼らに示し、予算増加の必然を訴えること
が狙いなわけです。私の任務というのは、その「ストーリー」と写真を集めることで
す。養護施設で暮らしながらサービスの順番待ちをしている障害者を訪れ、彼らの話
、例えば「施投では十分な介助が得られず、体にはじょくそう(床ずれ)ができてい
る」とか、「サービスを利用できないため、幼い子供たちと離れ離れに暮らさなくて
はいけない」などの話を間き、一人ずつ文章にまとめるわけです。今のところは、三
十人ほどの「ストーり−」を集めることになっています。英語は相変わらず苦手なの
で、テープレコーダーを持っていき、会話を録音し、理解できなかったところはくり
かえし聞いています。まあ、それほどたいした任務ではないのですが、今までパラク
ォードのサービスやプログラムを見たり聞いたりするだけで、手伝うというのではな
かったので、私としてはそれなりに責任を感じているわけです。

 パラクォードのスタッフはみんなよい人たちばかりで、とても親切にしてくれます
。三十五人いるスタッフの半数は障害者で、頚損、脊損、脳性麻痔、ポリオ、筋ジス
、聾唖、弱視、小人症と、ほんとに様々な障害を持った人たちがいます。パラクォー
ドは最初の自立生活センターであるカリフォルニアのバークレーCILとはぼ同じくら
い古く、設立されて二十五年以上なります。設立者のマックスは現在約六十才ですが
、二十一才のどき交通事故で頸損の障害者になり、以後十年以上養護施設での生活を
余儀なくされました。pT(フィジカル・セラピスト)だったコリーンと結婚した後、
施設を出てアパート暮らしを始め、以後三人の養子、養女をもらい、今では三階建て
でエレベーター付きの大きな家に住んでいます。マックスがパラクォードを作った頃
というのは、重度の障害者が施設で暮らすのは当たり前で、建物の入り口や歩道は段
差だらけで、交通機関も車椅子ではどれもとても利用し辛かったにちがいなく、それ
に比べれば、障害者向けに改造された交通機関、住宅、介助者派遺サーピスなどが存
在する現在の障害者をとりまく環墳というのは、夢のようだといえるかもしれません
。コリーンという妻、三人の子供たち、車椅子で利用可能な家・車、そして障書者が
ずっと住みやすくなった現在のセントルイスどいうのは、マックスの一つの夢の形で
あったのではないかという気がします。それは人間が望むごく当たり前のもので、し
かし、それを手に入れるために、彼がどれほどの努力をしてきたかというのは、察し
て余りあるものがあります。研修先の所長であるからというのでなく、私は彼をほん
とうに立派だと思うのです。
さて、ルームメイトのスチュアートもパラクォードのスタッフだったのですが、五月
に辞めて、今は大学院で勉強をしています。彼は白人で、年は三十五才、ユダヤ教徒
で電動車椅子に乗っています。障害はマルティプル・スクラローシス(multiple
Sclerosis)といって日本名は何と言うのか知りませんが、脊髄を侵す進行性の病気
だとか言っていました。今のところ両手はなんとか動かすことができ、物を取ったり
することもできるのですが、手勤の車椅子をこぐことは無理という状態です。少しだ
らしないところもある人ですが、ユニークで楽しい人です。
私たちのアパートは、ダウンタウンに割りと近いところにあり、メトロリンクという
電車の駅(メトロリンクは電車の名前です)がすぐそばにあります。それに乗ればダ
ウンタウンのショッピングセンターや、野球のスタジアム、アーチ(セントルイスに
はアーチ状の巨大な建造物があります)などに行くことができます。メトロリンクは
整僧されてまだ二年足らずで、すべての駅にはエレベーターが完備されており、ホー
ムと車両の段差、隙間もほとんどといっていいほどなく、車椅子でも容易に利用でき
ます。
アパートの周りには、メトロリンクの駅の他に、インド系アメリカ人の経営するコン
ビニやピザ屋、小さなレストランが二店、ファーストフード店、それに郵便局、銀行
、薬局、散髪屋などがあります。また、フォレストパークというニューョークセント
ラルパークのように大きな公園がすぐそばにあり、その中には美術館、歴史博物館、
科学館、ゴルフコース、広大な池などがあります。広すぎて歩いて見て回るのはとて
も不可能です。公園の内部、周辺だけを走っているバス(車椅子のリフト付きです)
があり、それに乗れば、美術棺や勤物園の入り口まで行けます。

さて、アメリカでの生活の中で一番感じることは、この国の「国土の広さ」「資源の
豊かさ」といったものでしょうか。私のアパートも含め、建物の部屋や廊下は日本の
ものに比べてかなり広いです。歩道、車道なども広く、無料の駐車場も至るとろにあ
ります。また、食料品、衣類などの物価は安く、地価、賃貸費などもずっと安いよう
に思えます。「国士の広さ」「資源の豊かさ」などの良い面がある一方で、「犯罪の
多さ」という悪い面もあります。お金を盗んだことでアテンダントを解雇したという
のは、前回の手紙で書きましたが、スチュアートもまた同じ理由で九月にアテンダン
トを解雇しました。そのアテンダントは財布から現金を抜き取るだけでなく、小切手
を盗みスチュアートのサインをまねて換金までしていました。「道を歩いてても用心
しなくちやいけない。障害者だからバッグをひったくられないなんてことはない」友
達の一人はそう言っていました。

さて、残りのアメリカ生活も三か月足らずどなりました。ここに至って思うのですが
、やはりアメリカは障害者にとってとても住みやすいところです。電車、パス、コー
ル・ア・ライドなどの公共交通機関はどれも車椅子の障害者が利用できます。また、
スーパーマーケット、レストラン、書店、美術館、図書館などはほとんどと言ってい
いほど入り口の段差はありませんし、それが大きめの建物であれば、自勤ドア、身障
者向けトイレなども完備されています。さらに日本人の私からしてみれば、安い物価
という大きなメリットがあり、広いアパートとというのも、車椅子利用者の私にどっ
てはかなりのメリットです。言楽や習慣の違いを除いても、これらのメリットはかな
りのものだといわなければなりません。では、もし可能ならここにずっど住みたいか
というと、やはり「ノー」なのです。家族、友違がいることが一つの大きな理由です
が、一番の理由は、私のやりたいことがアメリカではなく日本にあるということです
。日々の生活の中でよく考えることというのは、日本に帰った後、北九州自立生活推
進センターのことを、また自分自身のことをどう変えていくかということです。二十
五年前、マックスの夢がセントルイスにあったように、私の夢は北九州にあります。
いつかマックスのように自分の夢をかなえるのだと、心の奥で強く思っていたりする
のです。

平成九年十二月二十五日

(1998/1/、エアメール)

(1998/4/20)

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  • エド・ロバーツさん (1997/2/3)

  • エド・ロバーツさんの死 (1997/2/3)


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