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    1989年08月、第4回リハ工学カンファレンス北九州
    − 電動車いす、パソコンの普及で
    変貌しつつある重度身体障害を持つ人のイメージ −




    写真
    井手将文さん、
    清家、
    中島晋市郎君。
    講習会会場のロビー。
    井手将文(総合せき損センター医用工学研究室)。
    リハビリテーション・エンジニアには、明るい人が多い。
    酒も強い。

    『ワーキング・クォーズ』関係者各位

      1999年02月24日

       清家 一雄 
      重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表
       『ワーキング・クォーズ』編集部
       "WORKING QUADS" homepage 制作提供
      佐賀医科大学医学部講師
      〒810 福岡市中央区大手門
      +81-92-735- TEL
      +81-092-735- FAX
      kazuo_seike@msn.com
      seike@ma4.justnet.ne.jp
       http://www4.justnet.ne.jp/~seike/

    第4回リハ工学カンファレンス北九州
    − 電動車いす、パソコンの普及で
    変貌しつつある重度身体障害を持つ人のイメージ −


    電動車いす、パソコンの普及で

    変貌しつつある重度身体障害を持つ人のイメージ

     第4回リハ工学カンファレンスが、1989年8月2
    日(水)〜5日(土)の4日間にわたって、北九州市小
    倉北区にある九州厚生年金会館(クラブ棟2階)を会場
    として、日本リハビリテーション工学協会の主催により、
    開催された。

     ぼくも、このカンファレンスに4日間参加した。初日
    の2日には、特別講演「頚髄損傷者と生産活動」を行な
    う機会を得た。

     エンジニアや、ほかの多くのリハビリテーション工学
    関係者の人々とも知り合うことができた。また、カンフ
    ァレンスでの報告や、ナイトセッションなどで、多くの
    刺激を受けた。エンジニアの人たちは、明るい人が多い。

     ”リハビリテーション工学”という語は、耳慣れない
    言葉かもしれないが、障害をもつ個人のリハビリテーシ
    ョンにおいて、工学、技術の面から、問題解決のために
    取り組んでいるのが、リハビリテーション工学だ。

     リハビリテーション・エンジニアたちは、1986年
    に、日本リハビリテーション工学協会を設立し、毎年1
    回、リハ工学カンファレンスを開催してきた。

     第4回リハ(ビリテーション)工学カンファレンスを、
    重度身体障害者の生活の質とリハビリテーション工学の
    関係という視点から、3回にわたりリポートする。

     8月2日の朝は、台風が居座り、外は雨が降っていた。

     ぼくは、電動車リクライニングいすに乗って、福岡県
    脊髄損傷者連合会のハンディキャブ(リフト付ワンボッ
    クスカー)、新幹線、北九州市出夢出夢虫の会のハンデ
    ィキャブを乗り継いで、会場まで出かけて行った。

     厚生年金会館の2階の日本海の間で、講習会受付・カ
    ンファレンスの参加受付を済ませた。第4回リハ工学カ
    ンファレンスの事務局は、福岡県飯塚市に所在する、総
    合せき損センター医用工学が担当していた。

     リハ工学カンファレンス(研究発表大会)は、毎年1
    回程度、日本各地で、研究発表および情報交換の”場”
    として、開催されている。

     第1回リハ工学カンファレンスは、1986年、神戸
    で開催された。第2回、87年の湯河原、第3回、88
    年、富山と続いてきている。来年の、第5回リハ工学カ
    ンファレンスは、90年8月に、東京で開催される予定
    だ。

     日本リハビリテーション工学協会の事務局は、兵庫県
    リハビリテーションセンター・義肢装具開発課内(〒67
    3 神戸市西区曙町1070/TEL 078-927-2727 内線 29
    9 FAX 078-928-7590 )に設置されている。

     第4回リハ工学カンファレンス実行委員長で、総合せ
    き損センター医用工学研究室の御手洗謙二さんは、リハ
    ビリテーション工学協会の設立趣旨でもあるが、

    「リハ工学カンファレンスは、リハ工学の研究従事者、
    障害者および家族、そしてリハビリテーションの現場や
    障害児・者教育の現場スタッフ等、リハビリテーション
    に関わっている種々の立場の人々が、互いに協力・情報
    交換のできる具体的な場です。スイッチボタンのちょっ
    とした工夫から先端技術を応用したシステムまで、現場
    で役立つ工学・技術に関連した問題を検討しあい協力す
    ることで、障害者のリハビリテーションの前進を目指し
    ています」
     と説明する。

    重度の障害を持つ参加者からみた
    リハ工学カンファレンス


     リハビリテーション工学における最大の問題は、「研
    究・開発の結果がどれだけリハビリテーションの現場に
    反映しうるか」という点に尽きる、と言われている
    (「日本リハビリテーション工学協会設立の趣旨」より)。

     高位頚髄損傷者(脊髄損傷者)にとっても、リハビリ
    テーション工学の成果に関する情報は重要だ。

     リハ工学カンファレンスには、障害をもつ個人たちの
    参加が多かった。

     熊本から来ていたケーシー永本さんは、カーボーイハ
    ットをかぶり、サングラスをかけ、派手なズボン、ブー
    ツで、バンパーの付いた電動車いすに乗っていた。

     彼は、
    「地下鉄の駅に連絡するデパートのシャッターが閉まっ
    ていたとき、ガードマンを呼んで、開けて使った」
     と言う。

     彼の名刺にあった肩書きは、音楽評論家だった。

     中島晋市郎君は下関から来ていた。彼は、東亜大学経
    営学部の学生で、3年生だ。大学へは電動車いすで通学
    している。

     彼は、3台の9801を使っている。最新のものは、
    CPU80386、メモリ4.6メガバイト、40メガ
    バイトハードディスク内臓型だ。モデムは1200bp
    sで、パソコン通信ネットワークのIDを4つ持ってい
    る。ワープロソフトは、一太郎Ver.4.2。

     羅世玲さんは、台北出身で、九州大学教育学部博士課
    程で、教育心理学を専攻する、中国人留学生だ。

     彼女は、ポリオであるが、やはり四肢麻痺者で、スズ
    キの電動車いすを使用している。9801を使っている。
    ワープロソフトは一太郎。会場へは、福岡から、新幹線
    で来ていた。

     京都から来ていた堀川優さんは、京都で、地下鉄を中
    心とする街づくりに取り組んでいる。彼は、改造自動車
    も運転するが、カンファレンスには新幹線を使い、電動
    車いすで来ていた。

     岐阜から来ていた上村数洋さんは、C-4頚髄損傷者であ
    るが、パソコンと特殊なマウススティックを駆使し、コ
    ンピュータ・グラフィックなどで、広く活躍している。
    彼は、一般のセッションで、「1日を1人で過ごす工夫」
    を講演した。(次回報告予定)

     カンファレンス参加者は、約400人だった。中心は、
    リハビリテーション・エンジニアとリハビリテーション
    工学研究者達だが、医師、理学療法士PT、作業療法士
    OT、養護学校教員、福祉機関職員、機器のメーカー、
    車いすなどを作る工房、そして障害をもつ個人(その家
    族)自身など、多岐にわたっていた。

     参加者の職種(立場)はエンジニア等工学関係者が約
    1/3、医師やセラピスト等の医療関係者が1/3、残
    り1/3が教師、指導員、障害者を持った人や福祉関係
    者だった。

     リハビリテーションを対象とする事情もあるが、こう
    いう学術的なカンファレンスにしては、一緒に参加した
    障害者の数が異常に多く、そして、質問、意見、希望も
    言えるということは、特筆されるべきだろう。また、障
    害者/利用者の立場からの講演、発表、報告も行なわれ
    た。

     ぼくも、電動車いす利用者として参加していて、非常
    に楽しいカンファレンスだった。

     次回は、リハ工学カンファレンスの内容、講習会、一
    般のセッション、特別講演、ナイトセッションなどに関
    して、報告する予定です。

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    萩本欽一(12) お姉さんの餞別 地方巡業で度胸付ける ネックレス寝る前握りしめ 2014/12/12 3:30情報元日本経済新聞 朝刊[有料会員限定]共有  僕の師匠役だった池信一さんがテレビに行ってしまった。舞台ではぼけ役の達人。僕を鍛え、守ってくれた恩人だった。テレビでは味のある脇役で活躍した。年配の人は大川橋蔵さんの「銭形平次」の岡っ引き役を覚えているかもしれない。 東八郎さんから武者修行を命じられた  池さんのあとに僕の師匠役になったのは東八郎さん。浅草フランス座生え抜きのコメディアンで、ぼけもつっこみも自在にこなすオールラウンドプレーヤー。芸には厳しいけれど、あったかい人だ。  東さんに「欽坊、ドサ回り(地方巡業)に行ってこいよ」と言われた。東洋劇場に来て2年。踊り子さんを3、4人連れてコメディアンは僕ひとり。何とか一人前と認められて武者修行を許された。  「坊や、送別会なしだってね。みんな冷たいねえ」と声をかけてくれたのが時折、話しかけてくれる踊り子のお姉さんだった。  コメディアンには踊り子さんは雲の上の人。第一、身分が違う。劇場にとっては彼女たちが財産なのだ。ギャラだって何倍も多い。コメディアンの方から口をきくのはご法度。彼女はトップダンサーのひとり。話しかけられると、いつもコチコチになった。  「壮行会やってあげる。友達も誘いなさいよ」と言われて、仲間をひとり連れて出かけた。お姉さんも後輩と一緒で4人でごちそうを食べた。別れ際にお姉さんが「お金に困ったら、これ売りなさいよ」と言いながら、ネックレスをぴっと外すと僕にぽんと投げて歩き去った。  巡業は静岡から始まって、愛知、岐阜などを回って、小さな町の劇場で興行する。お客さんのお目当ては踊り子さん。僕が舞台に出ると「男は引っ込め!」「金返せ!」と罵声が飛び交い、ビール瓶やミカンや食べかけのまんじゅうなんかが飛んでくる。  20歳の僕の格好は映画の寅さんみたいなダボシャツに腹巻き、雪駄(せった)履きで無精ヒゲ。浅草の露店で100円で買ったペンダントをして、ビール瓶をかいくぐって声を張り上げる。  「田舎の客は貧乏だねえ、浅草なら中身が入ったビール瓶が飛んでくるけどな」。笑いは来ない。だけど煎餅の袋が1枚飛んできた。素早く拾うと「ドロボー」の声。「母ちゃんの土産」って言うと、今度は干しイモが飛んできて、やっと笑いが起きる。  野次(やじ)を退治するコツが分かってきた。最前列に陣取る親分さんや怖いお兄さんを「よいしょ」する。野次が収まらないと、彼らが「おい、みんな、兄ちゃんの話聞いてやれや」とドスの利いた声で助けてくれる。  安宿に戻ると、世話になったお兄さんたちが「おねえちゃん貸してくれよ」とやって来る。心臓はばくばくしてるけど、「兄さん、きょうは勘弁してくれよ」とべらんめいな調子で断る。「踊り子さんはみんな箱入り娘なんだぜ、頼むよ兄さん」  しつこい相手には殺し文句がある。「浅草に来たら寄ってくれ。歓待するぜ」。「じゃあ寄らしてもらうよ」と渋々引き揚げる。浅草に戻ってから、ほんとに来たらどうしようとドキドキしたけれど、誰も来なかった。  へとへとになって寝る前に、お守りにしているお姉さんのネックレスをぎゅっと握る。乾いた心がじんわり温まった。 (コメディアン)



    萩本欽一(7)駒込高校 革靴買うため新聞配達 苦労の中に素敵な出会い 2014/12/7 3:30情報元日本経済新聞 朝刊[有料会員限定]共有  「買って」と言えなかったのは革靴だ。駒込高校は校則に「革靴で通学」とあった。僕は白いズック靴で通い始めた。校門で先生が生徒たちの靴をチェックする。「おい君、校則読んだのか。運動靴じゃあだめだよ」 アルバイトに明け暮れた高校時代  「すみません」と頭を下げるのだけれど、ないんだからしょうがない。1週間、毎朝同じ注意を受け続けた。とっても恥ずかしかった。でも「こうなったら卒業までズック靴で通ってやる」と半分意地になって心に決めた。  学校から家に手紙が来て意地は張り通せなかった。「欽一、なんで言わないの!」と叱りながら、おふくろが出してきたのは兄が履き古した黒い革靴。前がぱっかりと口を開け、かかとはすり減り、継ぎが当たっている。  翌朝、おふくろにはすまないけど、ズック靴のときよりみじめな気分で学校に向かった。校門で当番の先生が「おっ萩本、やっと革靴履いてきたな」と言って、僕の足元に目をやったまま表情が固まった。「萩本、運動靴でがんばれよ」と励ましてくれていた級友たちも靴のことは一切話題にしなかった。  その日の帰り道、「配達員募集」の貼り紙がある毎日新聞の販売店に飛び込んだ。次の日から毎朝、走って配達した。アルバイト料の3000円で安い革靴を買ったのは1カ月後。それからは全額おふくろに渡して、「はいこれ、月謝」と700円もらう。その方が気分が楽でいい。苦学生ぶるのはいやだった。おふくろも「欽一、ごめんね」なんて言わずに堂々と渡してくれた。  新聞配達のほかにも、封筒の宛名書きや鉄板磨き、レストランや甘納豆屋さんなどで働いた。甘納豆を自転車で配達する途中、「おい、なんてことするんだ!」と突然、怒鳴られた。白い車を運転している中年の男性だった。荷台の箱がひっかいた傷が新しい車の横に付いていた。僕は全然気づかなかった。  「どうしてくれるんだ」と男性はかんかん。でも、僕は名前もアルバイト先も言わなかった。「僕、母さんを助けるために時給370円でバイトしてるんです。高校を出たら、おじさんのところで働いて弁償しますから勘弁してください」と頭を下げた。  おじさんはすっと背筋を伸ばして「そうか、私もアルバイトから始めて洋服の会社をつくったんだ。初心を忘れてた。怒鳴って悪かった。すまなかったね」と言うと、名刺を差し出して「卒業したら、うちの会社に来なさい」と話すと、車を発進させた。僕は感動して体を震わせて泣いた。  この人が田中精一さん。その後、長いおつきあいをさせていただいた。「こういう素(す)敵(てき)な大人になりたいな」と思った。僕の恩人だ。  僕は楽しかったことは忘れてしまうのに、つらい記憶は生々しく心に刻まれている。つらさは糧になるし、その先に希望がある。だから忘れないぞ、と心に決めている。つらい経験をしている若者にこそ夢を追いかけるファイトが育つんだ。  僕は大宮デン助さんに弟子入りして、有名なコメディアンになってお金をいっぱい稼ぐんだという一心でがんばれた。ところが、思いがけない成り行きが待っていた。 (コメディアン)


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    清家一雄、代表者、重度四肢まひ者の就労問題研究会