悪魔の揺りかご

特別編



同人誌で販売中の「悪魔の揺りかご2」および「3」とはまた別の話です。
レオン・カイ・ディアが旅の途中で泊まった邸の
周辺では謎の殺人事件が起こっていて……。

同人誌「悪魔の揺りかご4─蛇─」の一部です。お楽しみください。

[1]


 湖岸は凍てつき、冬の冷たい光を反射していた。
 二頭の馬の影が緩やかに進んで行く。
 「ディアちゃん?」
 馬上の少年が手綱をさばく手を止めて言った。
 先を行く馬との距離がわずかに開く。
「ディアちゃん……大丈夫?」
「カイ……あたし……眠い」
 少年の腕の間に横乗りをしていた少女が気怠い声で言う。
 男物の外套を掛けられて寒さをしのいでいるが、かいま見える首筋や手は雪の白さだ。
「だめだよ、こんな所で眠っちゃ」
 少年の声に、少女が不機嫌に答える。
「だって──嫌な感じがするもの。蛇がいる」
「ええ? 何?」
「……蛇だってば……あたし、帰る」
「えっ、ちょっ……待ってよ、ディアちゃん」
 少女の体がぐらりと傾いた。
 驚いて少年は彼女の体を支える。
 前を進んでいた馬も止まった。
 栗毛の馬を操っていた騎士が、苛立ちを露わにしながら振り向いた。
 長い髪がさらりと風に流れる。
 淡い琥珀の虹彩が冷たく背後を睨む。
「何をしている。カイ?」
 騎士の問いかけに、少年はやや声高に伝えた。
「すみません、レオン様。──ディアちゃんが……」
 顔をめぐらして待つ美しい青年騎士の所へと、少年は馬を急がせた。
 片腕にはしっかりと少女を抱えて。
「拗ねているんだろう、いちいちかまうな」
 青年のほうは関心も寄せない様子で馬の首を少年に向け、追いついてくるのを待った。
 彼の従者になって間もない少年は、黒髪の少女を抱きかかえて片手で馬を繰っている。
 艶やかな黒髪が少年の腕にかかり、完全に力をなくして身を委ねる少女の顔が見える。
 二人とも十四か五、というところで、心許なさばかりが目立つ。
「ディアちゃん、起きなよ。風邪をひくよ、眠ってしまうと」
 少年が小声で少女に呼びかけた。軽く彼女の体を揺さぶるが答えはない。
「レオン様。ちょっとおかしいんです」
 少年が困った顔で言った。少女の白い肌がわずかに上気している。
「蛇がどうとか言って……揺りかごに戻ってしまったんです」
「蛇?」
「そう……確かにそう言って」
「ばかが。こんな冬に蛇がいるものか」
「ですよねー……。でも体調が悪そうです」
「どこも悪いようには見えないが。顔色も悪くないだろう。……手間をかけさせるな。さっさと娘の体に戻れ! 悪魔め」
 騎士レオンは途中までは少年に話しかけていたが、後のほうは馬の背の鞍に向けて言った。
 鞍に取りつけてある荷駄に命令するように。
「レオン様……! ディアちゃん、熱があります」
 少年が叫んだ。

 *   *   *

「ディアちゃん、出て来ておくれよ、ね」
 カイがささやく。ベッドに横たわる少女は、陶器のように静かに眠っていて動かない。
「大丈夫ですの?」
 突然背後から声をかけられて、カイがびくりとした。
 振り向くと、この城館で彼らを出迎えた女が立って、ベッドをのぞきこんでいた。
 ミリアム、って言ったっけ。
 金褐色の髪を結い上げているので大人びて見えるが、表情や物腰から、年の頃は、十七、八といったところだろう。華美すぎない青い絹の衣を上品に着こなしている。まあ、生粋の貴族なんだろうな。その後ろには召使いらしい女が瓶を持って控えている。
 ミリアムは気遣うようにディアをじっと見つめ、そして言った。
「……息もしていないように見えますわ」
「あ、あのー、大丈夫です。このコ、いつも疲れると正体なく眠ってしまうんで」
 カイがあたふたと言い訳した。
「触れてもよろしいですかしら」
 ミリアムがそっと、ベッドの上のディアの頬に手をのばした。
 カイは内心穏やかでない。ディアは普通の人間と違って代謝が少ないのだ。
 ディアボルスに魂を喰われ、器として使われている。
──まっずいなー……、ディアちゃんが普通じゃないってバレてしまう。
 だが、触れてはいけないと言うのも失礼だ。
 ミリアムは小さく驚きの声をあげて、手を引っ込めた。
「大変! ひどく熱いですわね……!」
「そ、そうなんです。ボク、気をつけていたんだけど、ディアちゃんに風邪を引かせてしまったみたいで──」
 カイは物憂い顔で答えた。
 本当に気をつけていたのに。
 衣を何枚重ねても寒そうだから、自分の外套も使って彼女が冷えないようにと思ったのに。
 この長い旅が、ディアの器にはひどく辛いものなのだろう。
 ミリアムは背後の召使いから瓶を受け取ってカイに差し出した。
「お薬を持ってきましたの。葡萄酒もあります。あ、もちろんすぐにお医者様を呼びに行かせます。……それまで、このお薬で少しでも熱が下がったらいいのですけれど」
 ミリアムは主君の留守を預かっている奥方のようにてきぱきと動いた。
「あなた方のお食事もすぐに用意します。……ほかに必要なものがありましたら、何でもおっしゃってくださいね! 叔父様は留守ですけれど、とても優しい方で、旅の途中で困っている方には迷わず手をお貸しすると思うんです。……わたし、そのお嬢さんがとても心配ですわ」
 ミリアムは召使いを伴って客室を出ていった。
 静かになった部屋で、カイが吐息した。
 親切な住人でよかったなー……、と思う反面、ディアの正体が知れたら厄介だと思う。
「どうした、まだ起きないのか」
 入れ違いにレオンがやって来た。
「はい。きっと器の体が病気で、居心地が悪いんだと思います、ディアちゃん」
「卑怯なやつだ。殴ってやる」
 忌々しげにレオンが言った。
「殴るってですねー、レオン様。どっちをですか」
「本体のほうに決まっている」
「揺りかごを開けてですか、喰われてしまいますよ、もう。そんなことより、医者を呼びにやらせるって……ミリアム嬢が言ってましたけど」
「医者?」
「ええ、まずいですよねー。どうしましょうか」
 レオンは琥珀の瞳をディアに向けて、しばらく考えている様子を見せた。
 切れ長の目には冷たい光しか見えない。いつもこんなふうだ。
「かまわないだろう。ディアがこもっている間なら」
「そ、そうですね……。これ、さっきミリアム嬢が届けてくれた薬です」
 レオンが瓶に顔を近づけ、中身を確かめた。匂いでわかるのだろう。
「飲ませてもいいですか、レオン様?」
「ああ……。熱さましだろうから」
「わかりました。……ディアちゃん、そういうことだから、早く出て来てくれない?」
 カイは体を低くして、ディアの眠るベッドの下に向けて呼びかけた。
 そこには木箱が隠されているのだ。
 正しくは「悪魔の揺りかご」で、幼い悪魔の住処である。
「おまえが飲ませてやればいい」
 静かな客室に、澄んだ声音が響いた。
「……えっ?」
「どうせあいつが起きてきたって言うことを聞いて薬を飲むとは思えないからな」
「えーと、あのう……飲ませるって」
 カイが尋ねると、レオンは黙って瓶の取っ手を持ち、かぶせてあった杯に薬液を注いだ。
 濃い緑色の液体が小さな陶器の杯に満たされた。レオンはカイの口もとへそれを近づけた。
「苦いぞ、多分」
「は?」
「口に含め」
 カイは目をくるくると動かしながら、薬液とレオンの顔を交互に見た。
 レオンの涼しげな虹彩にはからかいの色もない。カイは従順に、レオンの差し出す杯を取る。そして薬液を口に含んで顔をしかめた。
──苦い……。っつーか、渋いというか……緑臭いし。
 確かに熱も病気も吹っ飛ぶわ、これ飲んだら。などと考えながらレオンを見る。
 レオンはカイの背を押した。
 ベッドで昏々と眠る少女に向けて──。
──い、……いいのかなー? ディアちゃん。
 どぎまぎしながらカイがベッドに体を傾けた。
 レオン様って案外良い人だなー。おっと、案外、なんて言ったら叱られるな。
 お、落ち着け……、静まれ、心臓。
 カイはゆっくりとディアに自分の顔を近づける。
 触れちゃいけないと思わせるほど、はかなげな少女。
 小さなキズひとつつけちゃいけない。守って、守り抜きたい。
 でも中身は悪魔なんだな、これが。
 とびきりわがままで、赤ん坊な悪魔。
 今は、病んだ器に入るのを嫌がって木箱の揺りかごから出てこようとしない。
 苦い薬なんて我慢して飲むはずもない。それくらい勝手気ままな──悪魔。
 カイは、ディアの頭の下に手を入れて支えた。
 役得。
 長い睫毛がぴくりと震えた。
 突然まぶたが開いて、黒く輝く瞳が露わになる。
──ディアちゃん……!
 カイは驚いたはずみでいきおい薬液を飲んだ。むせて咳き込む。
 鼻がつんとして、のどが痛くなった。
 ベッドの足もとにうずくまってひとしきり咳いた後、肩を揺らしながら顔を上げる。
「……何やってるの、カイ?」
 ベッドに横たわっていた少女が寝ぼけた声で言った。
「お……起きてたの、ディアちゃん……?」
「ううん。今、起きたの。カイが呼んだじゃない。だから」
 目覚めるなら、もっと後か、薬を口に含む前にしてほしかったと思うカイだった。
「カイ、あんた病気なの?」
 ディアが真面目な顔で問いかけた。
「……え?」
「今、咳してた。具合が悪い?」
「ち、違うでしょ。病気なのはディアちゃんなの。お薬を飲みなよ」
「えっ? 病気、この器が?」
 ディアにその自覚はないらしい。
 カイはようやく呼吸を整えると、ディアの元へ戻って言った。
「そうだよ。熱があるんだ。それで、できればしばらくの間、揺りかごに戻らないで体を治してくれると嬉しいんだけど──できる?」
 ディアは黒い瞳でカイを見上げる。当の本人は相手を魅了しようなどとは思っていないのだが、熱に潤んで痛々しい眼差しがカイにはたまらない。
 だが、ディアは冷たく言った。
「やだ。……こいつ、すぐ壊れたりするよね。もういいかげん取り替えたいよ、器の体!」
「ディアちゃん」
「そりゃあ、あたしがこの体に入ってないと、どんどん弱るっていうけど……あたしだって、具合の悪い器に入るのは楽じゃないんだからね」
「うん。わかってるけど──でもディアちゃん」
 カイはたいていのディアのわがままは受け入れているが、これだけは苦痛だ。
 悪魔のディアが、今の器の体を嫌って見殺しにしてしまうことが──。
「でも今のを大事にしないと……。次の器だって気に入るかどうかわからないでしょ」
「つべこべ言わずに黙って薬を飲め、ディア」
 不意にレオンが言った。
「言うことを聞かないと、もう一方の鉤爪もぶったぎってやる」
「レ、レオン様……」とカイがとりなす。
 だが時既に遅し。
 ディアは熱で上気した頬をこわばらせて、美しい青年騎士を睨んだ。
「カイ、そいつをぶっ殺してくれたら、薬、飲んでもいいよ」
「やめてくださいよー。あなた方、一応飼い主と悪魔、でしたっけね。ですから、そんな物騒なこと言わずに、仲良くしてくださいよ」
「カイ、おまえは甘やかし過ぎだ。機嫌を取ってまで器に引き止めなくたっていい。揺りかごに戻ってもかまわん。その間に治せばいいんだ」
 そ、そんな強引な。
「ふん、あたしが入ってないと、こんな器、すぐに死んじゃうんだから。そしたら、次こそは強い男の器を手に入れて、レオンなんかぼこぼこにしてやる」
「できるものならやってみろ」
「クソ男、死んじゃえ」
 カイは目眩をこらえた。美少女の口から出たとは思えない罵倒に疲れがどっとおしよせる。
 ディアはベッドに上半身を起こしたが、立ち上がるほどの元気はなく、レオンをなじっただけでもう息を荒げていた。
「ああ……この辺ががんがんする」
 彼女は両手で頭を抱えた。
「ディアちゃん、暴れないで。……はい、薬」
「なに、それ」
「熱が下がるよ。がまんして飲んでくれる?」
「どうしてそんなもの飲むの? いつものように治して」
「えっ……」
「ぎゅうって、抱いて治してよ」
「ああああの、それはね……」
 勘違いなんだってば。
「はじめて会った時、カイがそうしたら治った」
「ディアちゃん……あの時は体が冷えてたから、暖かくして治っただけ。何でもああすれば治るわけじゃないんだよ」
「ばかか」
 後ろで冷め切った声。
 レオンがディアに軽蔑の眼差しをなげて言ったのだった。
 ディアはぴくりと顔を上げ、一瞬動きを止めた。
──あ……、怒りが器にも浸透してる。
 カイまで頭痛がする心地だ。
 ディアはぜいぜいとあえいでいるのに、そのとびきり大きな瞳はきらきらしている。
「もー頭にきたっ」
 彼女はベッドから体を滑らせて床に下り、戸口にいたレオンに向かって突進した。
「ディアちゃん!」
 病気なのに。熱があるのに。カイは慌てて薬の瓶を脇の机に置き、ディアを追う。
 悪魔のディアちゃんの激しい怒りに、その華奢な器の体はついていけないのに。
 ディアの素足が、長い裾にとられた。
「あっ」
 ディアの体が傾いた。勢いはそのまま──。
 顔面から床に突撃してしまうかと思われた。
 カイが目を閉じ、痛々しい表情で再び目を開けると、ディアはレオンの腕の中にすっぽりとおさまっていた。
──そうだった。
 レオン様は、悪魔の心を憎んでいても、乗っ取られた器を憎んでいるわけではない。
 ディアは熱っぽい顔にまだ恨みがましい表情を浮かべている。
 レオンは少女の体を痛めないように受け止め、抱き上げていた。
 そして驚いたようにディアの顔を見つめた。
 息をのむほど美しい二人。
 知らない人が見たら、激甘な恋人に見えるだろう。
 それも極上の──。
 緩やかに波打ち、背で束ねられた長い髪が乱れてレオンの肩にかかる。
 ディアの黒い瞳が──それは唯一、悪魔の本体の面影を残しているのだが──熱に潤んでレオンを見上げる。意地悪い言葉の応酬に身構えているように。
 レオンはやや荒い仕草で彼女の額に手のひらを当てた。
「……さ、触んな、バカ」
 ディアが抗ってその手をはねのけようとしたが、力が入らない。
 レオンは今は罵倒もせず、そっとディアの額から手を離した。
 彼が思ったよりもディアの熱が高かったのだろう。
 ディアを抱いたまま、レオンは無言でカイを見た。
「レオン様……」
 レオンは長身の体を少し屈めて、ディアをカイに引き渡す。
 待ちかねたようにディアがカイの首にしがみついてきた。
 熱くて、悲しくなる。
「あ、あの……レオン様?」
「……どういうやり方でもいいから、治してやれ」
 レオンはぽつりとそう言って客室を出て行った。
 カイは少女を抱いて、主人の後ろ姿を見送る。
──なんかちょっと寂し気だな……、レオン様。
「さ、ベッドに戻ろうね」
「や! ……あいつ、なんとかしてくれなきゃ、薬も飲まない。何も食べない」
「ディアちゃん、そんなんでいいの? 居心地が悪くなるよ」
「早く死んでほしい、こんな体! ……苦しいよ……カイ」
 カイは彼女をベッドに下ろさず、抱いたままベッドの脇の長椅子に座った。
「ちょっと待って」
 そう言って腕をのばし、ベッドの上掛けの毛布を引っぱってディアの体をおおった。
「こうしてるほうが良いんだろ? 安心するのかな。レオン様もそうしろって言ってくれたし。……熱いね。かわいそうに」
 カイの言葉を聞いているのかいないのか、ディアは目を閉じて大人しくしている。
 悪魔の揺りかごの中は快適なのだが、カイの腕の中にいる時もそれに近いらしい。
 ディアが飽いてもういいと言うまで、抱きしめていてあげよう。
 それにしても、なんて華奢なんだろう。
「どうしてこんなに……あちこち痛いの?」
「熱があるから。……でも、ディアちゃん。こんなふうに熱が出たり痛かったりするのは、器が生きたいって言っているからだと思うな」
「器が?」
「うん。初めて会った時はさ、本当にこう……陶器みたいに冷たくて、息も浅くて、このまま静かに消えてしまうんじゃないかなって思った」
 ディアはカイの胸に頬をあずけて、従順に抱かれている。
「でも今はそうじゃなくて──辛い時には辛いって表してるよね。だからボクは、ちゃんと治してあげたいと思うよ」
 そうして、カイは腕に軽く力を込める。
 魂を奪われた少女への憐れみと愛しさが切ない。
 力がないと疎んじられて死を待つだけなんて──。
 そんなのあまりにひどいよ、ディアちゃん。
 熱を出すのにも体力が要ると聞いたことがある。
 器の少女は、何を訴えようとしているのか。
 ディアの支配の及ばない所で、ひそかに少女の魂が息づいているのだろうか。
「どう? まだ頭、痛いかな?」
「ううん。少し治ってきた……それって、きっとさ」とディアがつぶやいた。
「器が、カイを気に入ったんだ。カイもあたしの器が好きでしょ」
「そそそ、それは……、でも器だけじゃないよ、多分」
「本当?」
「ディアちゃんが揺りかごに籠もって出て来ないと、なんだか寂しいからね。それよりさ、さっきディアちゃん、変なこと言ったね」
「なに?」
「蛇がどうとかって──」
「ええと……あっ、そう。蛇がいた」
「どこに」
「わかんないけど、近くに気配がした」
「嘘でしょー」
「いたよ」
「見たの? ディアちゃん」
「見ない! 大っ嫌いだから、見ないように揺りかごに戻ったの」
「蛇が嫌いなの? ……知らなかったな。でもね、この時期には蛇なんていないんだよ」
「いない? どうして?」
「だって土の中で眠っているんだから」
「ええ、そうなの?」
「うん。だから……何を勘違いしたのかなあって」
「知らない。絶対に蛇だった」
 頑として言い張る少女の背を、カイはぽんぽんと叩いた。
 まあいいや。彼女がそう思うなら、そういうことにしておこう。
「わかった。ごめんよ……あのね、ディアちゃん。さっきも言ったけど」
 カイは神妙な顔で言った。腕に伝わる少女の体温は、まだ熱くて──ディアは少しよくなったと言っているが──それこそディアの気のせいだろう。
「薬、飲んでほしいんだ」
「──薬……ねえ」
「うん。ちゃんと飲んでくれたら、ずっとこうしていてあげるから」
「ずっと?」
「うん。ディアちゃんがもういいと言うまで」
「レオンのヤツがだめって言っても?」
「うん。……たぶんそんなこと言わないけど」
「……わかった……」
 ディアがつぶやくように言った。
 カイが杯に薬液を注ぐ。ディアには薬が苦いという先入観はないらしいので、濃い緑の液体を見ても動じたり後込みをしたりする様子はない。カイは無知な子どもをだましているようで気がとがめたが、やさしく杯をさし出した。
「じゃ、飲んでごらん、ディアちゃん」
 思わず息をこらして見守るカイ。
 ディアの紅い唇に杯が触れる。彼女はこくり、と飲み込んだ。
 かすかに眉をひそめ、ディアは一つ息をした。
「飲んだよ」
 相当苦くて飲みにくいはずなのに、ディアは平気みたいだ。
 激怒してだだをこねるだろうという予想に反して──。
 カイは、もう一度薬を杯に注いだ。
「もう少し、がんばって、ディアちゃん」
「うん」
 あまりの素直さにカイは驚きつつも、残りの薬をすすめた。
 ディアはまた、薬液を飲んだ。嫌な顔もしない。
「どう?」とカイはつい聞いてしまった。
「どうって何が」
「おいしい、とかまずいとか」
「なんで? 人間の食べ物にもまずいとか、そういうのあるの?」
 カイは愕然とした。確かにディアの本体は人間と随分価値観が違うものだが。
「じゃあさ、この間食べたオレンジは? あれはおいしくなかった? ディアちゃん」
「オレンジ? ……んー、これとは違う味だったけど、別に……どっちも好きじゃない」
「そうなのか。オレンジっていうのはすっっっごーく高価な果物なんだよ」
 とくにこのあたりでは手に入らず、交易によって異邦から運ばれた珍しい果実で、よほどの金持ちにしか味わえない物だ。 
「へえ、で、カイにはおいしいの? あれが」
「そりゃあ、もう」
「じゃ、この薬は? おいしい?」
 逆にディアに聞き返されてカイは答えに困った。
 苦くて渋くてむせるほどまずいとどうして言えよう。
「そ、……そうだね、いや……。あんまりおいしい物ではないと思うよ」
「ふーん、そう。よくわからないなあ、違いが」
「じゃあ、ディアちゃんは何がおいしいの」
「人間の食べ物なんてみんなおいしくない。あたしがおいしいと思うのは──」
「あっ、わかった。もういいよ。誰かが聞いているといけないからね」
 カイは言わずもがなの答えを導き出しそうになって慌てた。
 そうだ。ディアが好んで食べるのは人間の魂であって、それも邪心のない、崇高な魂ほど美味と感じるらしい。
「ね、薬ちゃんと飲んだよ。……もう治る?」
 ディアがそう問いかけながら、カイの胸にもぐりこむように寄りかかった。
 猫が体を丸めて眠ろうとしているかのように。
 カイは約束通りに、ディアを抱きしめた。
「少し時間がかかると思うけどね。……偉かったね、ディアちゃん」

[2]




「ウェイファ、あの方はとても美しいわね」
 ミリアムが庭を見つめながらうっとりと言った。
 庭に誰かがいるというわけでもなく、その視線は宙を漂っている。
「病気の娘さんですか?」
 召使いの女が答えた。
「ええ。それと一緒にいた男の人よ。──あまりものを喋らないほうの──」
「髪の長い、背の高いほうのお方ですか」
「ええ。あんなに凛とした美しい人を見たことがないわ」
 ミリアムは胸に手を当てる。
 館の主人の不在時に突然現れた旅人──。
 怖いほどきれいな青年と、生命観の薄い人形のような少女、そして唯一人間らしさを感じる暖かみのある少年は従者だろうか。
 どういう人たちなのだろう。恋人同士と、その従者?
 レオンと名乗った青年は、感情を露わにしない質なのだろう。
 動かない表情なのにその眼差しは深く物憂げだ。
 見つめられると、痛いような視線。
 だがそれは恋とは少し違う。畏れに似た感情だ。
「殿方が美しいのは、ただ罪なだけですよ、ミリアムお嬢様」
 夢想から呼び覚ますような声でウェイファが言った。
「だいたい私はしょっぱなから反対でしたよ。素性のわからない殿方を邸にお泊めするなんて! それも旦那様のいらっしゃらない間にですよ。物騒な事件があったばかりなんですから、気をおつけになりませんと、お嬢様。それにですね──」
 一気にまくしたててから、息苦しくなって肩で呼吸し、彼女はまた続けた。
「それにです、殿方の容姿が光り輝いているからってとりたてて騒ぐのはよくありませんね。……男がきれいで世の中の役に立つことがありますか? ありゃしません、悪さをしようと思いつくのが関の山ですよ」
 ウェイファの熱弁に、ミリアムが思わず笑い声を立てた。
「それは、あなたの経験からの言葉?」
「ま、なんてことをおっしゃるんですか。お嬢様を心配して申し上げておりますのに」
「どこの人とも知れない美しい人に、私が恋に落ちてしまうという心配? そんな心配はいらないことよ。私だって分をわきまえるってことぐらいできるわよ。輝く太陽の陰で、自分がどれほど色あせてしまうか、なんてことはね。ちょっと興味がわいただけ。あの三人は、どういう関係だと思う? 兄妹? それとも夫婦と従者?」
「お嬢様……! そんなふうに思っておいでなんですか? お嬢様はお美しいですよ」
 ウェイファが力を込めて言った。

                    *   *   *

 レオンは羊皮紙を広げ、鵞ペンをインク壺に差し込んでは文字を書き連ねた。
 自分の家領、オタールの城代に宛てて。
 あとわずかで帰ることができるだろう、と。
 これが旅先からの最後の手紙だ。本来ならとうの昔に城に着いているはずだが、ディアという病がちな少女を伴ったために随分遅れてしまった。
──ジャノットは無事か。
 無事なわけはないと知りつつ、ついそう書いた。
 許嫁のジャノットは、数ヶ月前、レオンの城館で倒れた。
 どこが悪いということもわからず、突然屍のようになってしまったのだった。
 苦痛を訴えることもなく、むしろ微笑んだまま──。
 あの時は何が起こったのかわけがわからなかった。
 だが、今はわかる。
 悪魔に遭遇して、それを捕らえ、飼い慣らそうと腐心している今なら。
 悪魔に魂を喰われた人間をこれまで何度か見て来たが、みな、ジャノットのように微笑んで──それも至福の極みといった笑みを浮かべて──時が止まったようになるのだ。
 屍のように。
 そして食い残された体は、ただの器となり、日に日に衰弱していく。
 一月ほど前、指定した宿へ預けられた城代からの手紙では、やはり予想通りジャノットは衰弱の一途をたどっていたが、まだ死に至るほどではなかった。
 ディアと名乗る悪魔を飼い始めて、レオンにはわかりかけてきた。
 おそらくジャノットが快復することはないのではないか。
 ディアならそれを知っているかもしれない。
 だが、ディアに気づかれてはならない。
 悪魔なのだ、あいつは。
 決して手の内を見せてはならないのだ。
 
 垂れ幕で仕切っただけの隣の部屋で、ディアとカイの話し声が聞こえる。
 まるで子どもをあやしているようだとレオンは思う。
──暗くなってきた。
 レオンは明かりを求めて机の上の燭台に手をのばしたが、ふと動きを止めた。
 そして、思い出したように自分の腰の飾帯に手をやった。
 革袋に手を入れ、何やら取り出した。
 暗くなりかけた部屋の片隅、うつむいたレオンの顔がやや明るくなった。
 三日月のような形をした鉤爪をつまんで机の上にのせる。
 それははじめ鈍い光沢を見せていたが、やがて光量を増し、ほどなく蝋燭にも負けないほどの光を放つようになった。
──便利な物だな。
 レオンは口もとを微かにゆがめた。
 軽蔑とも感慨ともとれる、わずかな表情の揺らぎ。
 悪魔の本体から切り離した鉤爪だ。
 そうして悪魔の一部を奪うことで、悪魔は服従するという。
 決して懐くことはないが。
 悪魔を飼う。
 それは、自分自身も悪魔と同じ罪を背負うということだと気がついた時には、既に自分の手は罪にまみれていた。
 いつかこの手でケリをつけなくてはならない。
 だが、それは、ジャノットのことを解決してからの話。
 そのためにだけ、ディアは──ディアボルスに魂を喰われ、乗っ取られた少女は──弱った体で過酷な旅を続けさせられている。
──あの娘が死んでしまう前に……。
 館に戻らなければならない。
 それがかなったからと言って、婚約者のジャノットが助かるあてもない。
 だが何もしないよりはまし。
 レオンはそうして旅を続ける。
 器の体には手を尽くしてやり、悪魔本体には最低限の給餌をして。
──悪魔はおれか……。
 悪魔の爪から放たれる光を頼りに、レオンは手紙を書き終え、飾り文字でサインをした。
 明日の朝、飛脚に運ばせよう、と考えながら手紙を巻いてテーブルの上に置いた。
 その時、部屋の外で物音がした。
 ぱたぱたと走る足音。
 取り乱した女の声。
 また厄介事か、と物憂い表情を浮かべて、レオンは席を立った。
 レオンのいる部屋の前を慌ただしく誰かが通り過ぎた。
「お嬢様! お嬢様……!」
 召使いの女の声だ。
「なあに、ウェイファ? 騒々しいわね」
「た、た大変でございます! 使いの者が戻ってきて言いますにはね」
「お医者様を呼びに行ったのでしょう。どうしたの?」
「こちらへは来られないそうでございますよ」
「まあ! どうして?」
「そ、それが……!」
 立ち聞きをするのもはばかられて、レオンは廊下に姿を現した。
 召使いの女が彼に気づいて、びくりと顔をあげた。
 その顔が、怖いものでも見たようにひきつるのがわかった。
「ウェイファ、続きをお言いなさい」
 レオンに気づかないようで、ミリアムが怪訝な顔をして催促した。
「いいえ……、いいえ……! なんでもございません! お嬢様もお部屋にお戻りになられたほうがよろしゅうございます」
 ウェイファが早口で言う。
 そしてミリアムをせき立てて廊下の奥へと姿を消した。
 レオンの双眸が暗がりを見つめる。
 避けられた……。
 歓迎されていないのはわかるが、あからさまだ。
 早々にこの邸を出るべきだな、と考えた。
 客室へと戻って扉を閉めようとした時、ミリアムの叫ぶ声が聞こえた。
──なんですって? また人死にが……!

[3]

「また人死にが?」 と言うミリアムの声が聞こえた。
シッ、と口止めするように音を立てたのはウェイファだろう。

──人死にとは穏やかじゃないな──とレオンが胸の内でつぶやいた。
ウェイファのあの態度も妙だった。
ただ避けられた、というのとは違う気がする。
レオンを見た時、彼女の顔に恐怖の色が浮かんだ。
疑われているのか。
とんだとばっちりだ、と思いつつも、レオンはそれだけでは流せないことに気づいた。
痛くもない腹を探られる前にこの館を出たいが、それではいっそう疑われる。
かといって潔白を証明できるか? 
ディアという悪魔を伴っている自分たちが潔白と言えるのか?
レオンは軽く唇をかみ、足早にディアの眠る部屋へ入った。
「おい……!」
垂れ幕を乱暴に開いてレオンはディアの休んでるベッドへと歩み寄った。
カイがまた甘やかしてディアの器の体に添い寝をしている。
「どうしました? レオン様、そんな怖い顔──」
カイが驚いて上半身を起こした。
「悪魔、起きろ。おまえ……俺のいないところで食事をしたのか?」
レオンはカイ越しに、まだ眠っているディアに話しかける。
「ん……、な、に……」
 ディアが不機嫌な声で言った。
 少し眉をひそめてまばたきを繰り返し、それからレオンの姿を見極めたのか、いっそう不機嫌な顔になった。
「レオン様? それはどういう……」とカイが問い返した。
どこで誰が聞いているかわからない。
だから悪魔が人間を殺したのか、とは言えない。
「言葉通りだ、その箱で操って、餌を狩ったのか?」
「は? ……何の、こと?」
 ディアはまだ夢うつつで、その意味も理解できていないようだ。
 しかし、カイの顔からいつものにこやかさが消えた。
「まさか……、ディアちゃんはずっとレオン様やボクと一緒だったじゃないですか。ボクたちの知らないところで、なんてそんな暇はなかったはずですよ」
確信を持って断言するカイに、レオンが少し安堵する。
「間違いないな、カイ」
「ええ……、でも、何故? 何かあったんですか」
「いや……俺の考えすぎだったようだ」
 そこは珍しく、レオンが引き下がった。
「近隣で人死にが出たらしい」
「え、……どういう人が死んだんでしょうか」とカイが訪ねるが、レオンもそこまでは知らない。
「わからない。俺は警戒されていて、詳しいことは何も」
「そうですか……でも、ディアちゃんは関係ないですよ」
「ばーか」
 意味が掴めないながらもディアが何か侮辱された気配を察してののしった。
「ディアちゃん!」
 カイがたしなめる。
 レオンはむっとした顔になったが、ふと思い出したようにディアに向き直り、腕を伸ばした。
 ディアがびくっと身をすくめた。
 レオンがその額に手を当てる。
 薬が効いたようだ。
 そう。器の体に罪はないのだ。
 この娘の心は既に死んでしまったのだろうが、体まで死なせてはならない。
 レオンは悪魔への怒りを向ける場所が、時々わからなくなって戸惑う。

 *   *   *

失礼しますよ、と言ってミリアムが入って来た。
「お嬢さんの容態はどうですか?」
彼女は先刻と同じ色の薬を持って来た。
先刻と同じ青いドレス、結い上げた清楚な髪は水に濡れたような艶があった。
叔父の留守を預かっててきぱきと差配する姿は立派な女主人のように見える。
それでも、若い客が来るのは珍しいのか、ミリアムを覗き込む時は好奇心に満ちた少女らしい表情になる。
「ごめんなさい、急にお医者様が来られなくなってしまって、このお薬を差し上げるしかありませんの」
ミリアムの顔には、召使いのウェイファのような恐怖の色はない。
女主人として肝が据わっているのか、警戒心をにこやかな顔の下に隠しているのかはわからない。
「熱は下がりつつあるので、医者に診せるまでもないかと」
レオンの簡潔な物言いを補うように、カイが言い足した。
「本当にお陰様で助かりました。ほら、ディアちゃん、随分顔つきも楽そうになってきたんですよ、あのお薬苦いですけど効きますよね〜。少し体力が戻るまで、もうしばらく休ませてもらえれば……」
「もちろんですわ! うちはいつまでだってかまいませんのよ。きれいな若い方がいるとお屋敷が明るくなって心強いくらいです」
「あ〜そうですね、威勢だけはいいですからね、ディアちゃん。レオン様も頼もしいし」
「そしてあなたは優しいのね。どちらがこのお嬢さんの恋人?」
ミリアムが無邪気に瞳を輝かせて訊ねた。
「えっと、あのう……」
カイが返答に窮し、レオンに目をやる。
「どっちでもない」とレオンが言った。
冷えた声にミリアムがはっと目を上げる。
「あ、保護者はレオン様ですよ。ボクは世話係、っていうか」
ミリアムが不思議な物を見るように、レオンとカイを交互に見つめた。
二人の男を見て何をどう解釈したか、ミリアムは困ったような顔をして立ち上がった。
「変なことを訊いてごめんなさい。……他に何か必要なものがあれば仰ってくださいね」
ミリアムが客室を出て行く。気まずい空気が流れる。
カイがミリアムの後を追った。
「あのっ、すいません、ちょっとお話が」とカイが慌てて言う。
「はい?」
ミリアムが振り返る。
客室の外の通路では従者のウェイファが待っていた。
ミリアムを守るかのようにさっと立ちはだかり、カイを一睨みする。
「おっ、と……すみません。ボク、何か失礼なことしましたか?」
カイがウェイファにおずおずと訊ねた。
レオンの無愛想さに匹敵する冷たい視線を浴びた理由は何かと。
「ミリアムお嬢様に気安く声をお掛けにならないでくださいまし」
ぴしゃりとウェイファが言った。
カイが言葉に詰まる。
レオンが警戒されている、と言ったのはこのことか。
「だめよ、ウェイファ。失礼なのはあなたよ。席を外して頂戴」
とミリアムがきっぱりと言った。
「お嬢様……!」
ウェイファが不満げにそう言ったが、ミリアムは決然と見やる。
それ以上はもう何も言わせないという態度で。
ウェイファは仕方なく引き下がり、廊下を歩き去った。
「ごめんなさい。ウェイファが失礼な態度をして」
「いいえ……ボクの方こそ……。あの、お話というのはですね」
カイが一瞬躊躇した。
ミリアムが興味深げにカイの目を凝視する。
「つまり、この近隣で何か事件があったとか……」とカイが切り出した。
ミリアムの表情がとたんに曇った。
カイは急き立てることはなく、ただ黙って答えを待った。
ミリアムは少し悩ましい表情を見せた。
「実は、さっき呼びに遣ったお医者様は……その娘さんが急死したそうで、来られなくなりましたの」
「えっ」
「やはり、お医者様を捜した方がよろしいんですよね。他のお医者様を当たってみましょうか」とミリアムが苦しげに言った。
「や、ディアちゃんの熱は下がってきてますから、ご心配なく。ってか、それ、大事件じゃないですか!」
「どうか動揺なさらないで。私も怖いんです……今は所用で叔父もいませんし、……数日前にも若い女の人が殺されたんですの……」
「そ、それは心細いでしょうね。ボクたちの滞在が少しでもあなたを心強くできたらいいですけど」とカイは言いつつも、逆に不安がらせているのかもしれない、と思った。
ウェイファの態度を見ればわかる。
自分たちが疑われているとすれば、この館の人々にとって、カイたち一行は恐怖の的以外のなにものでもないだろう。
「あの〜、こういった状況であなたの気持ちを推し量ると、ボクたちの立場って微妙かと思うんですけど……、でも、ボクらは……その、もしかすると犯人と思われてる、みたいな」
「まさか! 疑ってなんかいませんよ。あんなか弱いお嬢さんを守っていらっしゃるのに」
ミリアムが毅然として言った。
「ミリアムさん、ってすごくいい人ですね〜。ボク、安心しました。っていうより感心しました」
「あら、どうしてですか」
「ボクが逆の立場だったらそんなふうに言えないですもん」
「私、人を見る目は持っているつもりですわ」
カイは探るようにミリアムを見つめる。
育ちが良いから疑うことを知らないのかもしれない。
それとも本当に人を見る目に自信があるのかもしれない。
いずれにしても、強さともろさが背中合わせになっているような、どこか危うい感じも否めない。
ウェイファが彼女を守ろうとするのも、この純粋な貴婦人を汚れさせたくない、という一心であろう。
ミリアムは本当に自分らを疑ってはなさそうだ。
「心から、そう思っています。そしてあのお嬢さんがうらやましいですわ」
「うらやましい、ですか」
「ええ、二人の男の方から愛されていますもの」
おや、そう理解したのか、とカイが驚く。
「いや、レオン様には恋人、いるみたいですし。ボクは確かにディアちゃんに惚れてますけど」
「じゃああなたが恋人?」
「いえ、そういうことでもなくて。……ですから、世話係っていうか」
「二人とも照れ屋さんなのかしら。いずれにしても、彼女を放っておく人はいないと思うわ」
「ま、かなり破天荒な子だから……ちょっと目が離せないんですけども。もう少し良くなったら、ディアちゃんと話してみたらわかりますよ。レオン様のディアちゃんへの冷たさっつったら尋常じゃないし。恋人への遠慮?みたいな。ボクたちがどっちも恋人じゃない、っていう感覚っていうか」
何をムキになって否定しているんだろう、とカイは自分でも妙だと思う。
ディアちゃんは普通の女の子じゃない。
魔性の女が男の心を弄んでいる、みたいに誤解されるのは悲しいのだ。
ま、悪魔だから魔性といえば魔性なんだけれども。
「わかりましたわ。ではまた後で、もう一回お薬を持ってきますね」
「いろいろ、ほんとにすみません、ミリアムさん」


「──ということでした、レオン様」
カイは聞き出した情報を報告した。
「年頃の娘が立て続けに、か」
そして今は再び眠っているディアの器を一瞥し、それからその枕元に置かれた木箱をぐっと睨む。
「悪魔の好みそうな魂だな」
「それを言っちゃダメですよ。レオン様」
「だが、関係ない。ここの館の者にどう思われようと俺には関係ない」
彼はひたすら旅をする。先を急いでいる。
ディアの熱が完全に下がったら明日にでも出発すると言い出しそうだ。
「犯人がちゃんと見つかるまで、ここに居た方がいいんじゃないですか?」
「そんな悠長なことはしていられない」
オタールのシャロワ家の当主になったばかりという彼が、城を空けるのがこれ以上長くなってはいけない、それは正しいが。
「むしろ疑っているなら、俺たちが早く出て行くことを願っているだろう。望み通りに去るまでだ」
「そんなっ……やってもないのに、疑われたまま去るなんて」
レオンの切れ長の目がカイを見つめた。
おまえがその口で言うのか、とでも言いたげに。
そうだった。
ついこの間まで、カイは暗殺団にいたのだ。
そのカイが、濡れ衣とか、潔白とか……そんなことを思う資格もない。
カイだけじゃない。
悪魔の最低限の給餌のために、人が喰われていくのを見逃す自分を、レオン自身が嫌悪しているのに違いないのだ。
悪魔を飼うとはそういうことだ。
ではやはり、レオンの言う通りに、ディアの熱が下がったらすぐこの館を出るべきかもしれない、とカイは納得した。

*   *   *

その深夜。
ディアの容態が安定したので、カイはつい気が緩んでしまったのだ。
彼女の眠るベッドに寄りかかって、居眠りをしてしまった。
レオンは垂れ幕を隔てた隣の部屋に眠っている。
だが、彼も抜け目のない人だから、その時には既に目覚めていたかもしれない。
暗殺団に狙われていたはずのシャロワ家で唯一生き残った後継者なのだから。

カイがディアのベッド脇でうたた寝をしていた時、
蝋燭の明かりがふと翳るのが瞼を閉じていてもわかって、目を開けた。
その視線の先に、白い手が伸びていた。
あ、と声を出しそうになった。
ミリアムだ。
夜の分の薬を届けてくれる約束だった。
カイが眠っていたので起こさないように、そっとやって来たのだろう。
目の前にミリアムの夜着だろう、黒い袖と白い華奢な腕が見えて、その手は何かを掴もうとしている。
悪魔の揺りかごだ。
ディアの木箱の上に、金色の欠片が浮かんでいる。
──ミリアムが望んでいるものだろうか。
目を懲らしてそれを見極める。
コインだ。
半分に切断された、コインの片割れのようだ。
なぜ、そんなものを求めるのか。
ミリアムは、カイが目覚めたことにも気づかない。
切実な表情で、コインの片割れを掴もうとしているが、それは決して人の手には触れない。
幻だからだ。
ミリアムは思いあまって、木箱に手を掛けた。
彼女はこれまでにディアが喰った盗賊たちとは違うのに。
悪魔の揺りかごを開けようとしている。
──だめだ……!
カイが止めようとした瞬間、別の細い手が伸びてミリアムを妨げた。
ひっ、とミリアムが驚きの声を上げた。
──ディアちゃん……。
黒い大きな瞳を開いて、ディアの器がミリアムを見ていた。
まだ完全に熱が下がっていないようで、目が潤んでいる。
ディアはミリアムの手を寝ぼけたように掴んでいた。
「……おくすり?」
と彼女は無邪気な声音で言った。
「おくすり、飲む。……ちょうだい」
ディアがミリアムに催促をした。
コインの幻はたちまち消え去る。
悪夢から覚めたように、ミリアムが我に返った。
「え……ええ、……あるわ、ここに」
サイドテーブルに杯が置かれていた。
「ごめんなさいね、起こしてしまって」
ミリアムの声が震えていた。

 ([4]につづく)続きを書いたらまたUPしますのでお待ち下さい)
 ※挿絵募集中です。JPGファイルでYQ5Y-YSD@asahi-net.or.jpまで送ってくださいませ。
Illustration:MILKCAT


ディアは不平も言わずに薬を飲み干した。
カイは、黙ってそれを眺めている。
耳を澄ませば、遠い遠い所にあるどこかの修道院の鐘の音が
かすかに聞こえる。
深夜の祈りの刻を表す鐘だ。
ディアは悪魔だと言うけれど、修道院の鐘の音にも驚かないし
教会にだって平気で入って行く。
屈強な男を煽るように挑んで行くし、か弱い女性には概ね優しい。
こんな悪魔がいるのかな、とカイはよく思うが、彼女が捕食する様は
何度見ても慣れることはない。
カイもあのように鮮やかに、ディアの向こうにある闇の国に
吸い込まれてしまったなら、と思うこともある。
自分の手は汚れていて、教会堂で何度懺悔したって
あがなえないくらいの罪を背負っているのだから。
お祖母様は天国に行ったかなあ、とふと思う。
そして本当の自分の姿を知ったら……。
いや、考えない、考えない。

「もう一回、眠ろうね、ディアちゃん」
カイがそう言って、ディアの背中を支えて臥所に寝かせてやる。
「どっちに言ってるの?」とディアが訊ねた。
器のディアか、悪魔のディアか、どっちに?
「どっちも。……きみは、器を休ませて、それから揺りかごに戻りなよ」
「じゃあ、器のことを心配してんじゃない」
ディアが口を尖らせた。
「どっちもぼくには同じくらい大切ですから。器に嫉妬してどうするの、ディアちゃん」
「なに、それ。意味わかんない」
「はいはい、自惚れました。ごめんね」
カイはディアの黒いきらきらした瞳を覗き込んで言った。
─さっき、ミリアムを止めたよな。
故意か偶然かわからないが、結果的に。
ミリアムは悪魔の揺りかごに手を伸ばしたのだ。
揺りかごの上に浮かんだのは半分に断ち切られたコインだった。
いったいあれに何の意味があるのか。
ミリアムは親切で善良な人だが、善良な人だからといって欲望がないわけじゃなく、
とても欲しい物があれば揺りかごの上にその幻を見るだろう。
善良な魂は美味だというから、ミリアムの魂はディアの好みだったかもしれないのに、
揺りかごを開けてしまうのをディアは止めたのだ。
─ディアちゃんは女性に弱いから。
女性には概ね優しい、というのがカイの印象なのだった。
美味しそうな魂だったのに我慢したのかな。
カイがぼんやりと考えているうちにディアのまぶたが重くなり、
静かな呼吸をしながら眠りについた。
器である少女の熱もほぼ下がった。もう少し休んだら、また旅を続けるだろう。
レオン様はディアちゃんを自分の館に連れていくつもりらしい。
何が目的か知らないが、旅は過酷だから、その方が少女の健康のためにも良いだろう。
目的地に着いたら、カイはどうするのだろう。
二人に別れを告げることになるのか……。
いや、考えるのはよそう。
ディアの穏やかな呼気を聞きながら、カイも少しだけ眠った。


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