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光を見よう
(イザヤ書9.1)
ぼやぼやしているうちに今年も12月です。先月は1980年代のバブル経済のツケが次々と目の前に表れ、変わりように声を失った人がメディアに登場することが多かった1ヶ月でした。
大学4年だった10年前、最盛期だったのは銀行・証券といった業界でした。知人たちがこぞって金融関係を志望し、内定をもらったのをうらやましく思ってました。「金融関係に就職するのも悪くないな」と考えていたのを諌めたのが、銀行に勤めている父親を持った知人でした。「どうしても就職したければ父親に話をしてみるけれども、俺は勧めない」ときっぱり言ったのを覚えてます。そして、彼の見通しが当たったのです。
12月。闇の中で光が輝きを増します。その光は誰に向けて、何を語ろうとしているのでしょうか。
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全能の主、治めたまわん
(イザヤ書9.2)
洗礼を受けた翌年のイースター(復活祭)で、ある一家が教会を離れることになりました。離れるという事実が頭ではわかっていたのですが、現実として受け止めるには動揺を隠し切れなかったのがつい昨日のことのようです。「それでもイースターはおめでたいことなのよ」という声に耳を貸せなかった時代もありました。
そのような1人1人にも「深い喜びと大きな楽しみ」が与えられている、と聖書はいいます。ある一家との付き合いは、主人が徳島→所沢へ移っても続いています。その人は牧師として仕え、子どもたちも礼拝に忠実な信徒であると聞かされるたびに、主の恵みに感謝するものです。まだ見ぬおひとりおひとりに、神さまの豊かな祝福がありますように。
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引っ掛かりを折る
(イザヤ書9.3)
聖書を読む時に、必ず引っ掛かりが出てくるところがあります。そう、3日前の説教で牧師は言いました。きょうの個所で引っかかるのは「ミディアンの日」が何を指すのかということでした。
新共同訳の後ろの「用語解説」を見ると、記述がありません。「百万人の福音」の解説部分でも触れられてません。飛ばそうか?と考えた時に気づいたのは、そう。新改訳聖書には1節ごとに手引きが付いていたということでした(この後5分ぐらい聖書と格闘します)。
付け焼き刃でわかったのは、
>イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを7年間、ミディアン人の手に渡された(士師記6.1)
というように、神を礼拝しなかったイスラエル人が近隣の民に屈服されます。苦難に遭ったその時、彼らは神への不誠実を悔い、神に立ち帰って、助けを願うのです。神は呼びかけにこたえ、救い主を遣わすということでした(この部分、新共同訳聖書の「旧約聖書」についての説明を参考にしてます)。
私の負う軛(くびき=自由を奪うものという意味も)、私の肩を打つ杖、私を虐げるものの鞭(むち)を折るのは神です。かの松任谷由実も
「バブリーなクリスマスは終わった。今年は教会に行きたい」
と言ってます(TOKYO-FMディア・フレンズ12/2)。クリスマス、最後に帰るのは神のふところです。
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「神にはみ栄え、地に平和」と
(イザヤ書9.4)
平和記念館のような施設を建てようとする時、一部勢力は「過去の暗部を公開することは、日本の恥さらしになる」といって強硬に反対します。人によっては歴史的事実まで「なかった」と強弁します。それは、過去を直視することが直接自分の利害に関わってくるからに他なりません。それはキリスト者ですら免れることができません。
戦争を起こすとどうなるか。簡潔にまとめているのがこのイザヤ書です。今度日本が戦争に巻き込まれた時は、日本が滅びる時です。われわれはそうならないよう、どれだけ努めているでしょうか。
「ああベツレヘムよ」(讃美歌21・267番、讃美歌・115番)の
>「神にはみ栄え、地に平和」と。
の部分を歌うたびに、「平和が来ますように」という思いを強くするものです。
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驚くべき指導者
(イザヤ書9.5)
この記事はイエス・キリストが誕生する以前からずっと読み継がれている「旧約聖書」の物語です。つまり2000年以上前から、イスラエル民族は「救い主の到来」を待ち望んでいたことになります。「新約聖書」を読んだことがあれば、ここの「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」がイエス・キリストだと気づく個所です。
日本聖書協会に聖書の引用をお願いした時厳しく言われたのは、「聖書に記されている文字を正確に引用してほしい」ということでした。つまり、聖書のことばを私が恣意的に変えてしまっては、受け取る意味合いが全然違ってくる、ということなのです。
旧約聖書では、「イスラエル民族のための救い主到来」にとどまっていた記述が、新約聖書を読むことで「全世界のための救い主到来」というようにトーンが変わります。変わってきたのは、イエスの誕生以後。「わたしたちのために生まれた」と賛美する者が、世界中にいる。その一点だけでも、イエスは「驚くべき指導者」だと言えるのです。
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ダビデの子の意味
(イザヤ書9.6)
きょうの引っ掛かりは「ダビデ」です。旧約聖書のサムエル記下7.12−13で、ダビデ王に幻が告げられます。
>あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。
>この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。
つまり、イスラエル民族が待ち望んでいた「救い主」はダビデの子孫から出るという信仰は、旧約聖書から来るものだったのです。
サムエル記によれば、サウル王とダビデ王がいかに中央集権を作り上げていったかということが記されてます。国を統治した王への信頼は絶大なものがあり、当然その子孫にも期待が高まるのは当然のことでしょう。
>こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへの移住まで14代、バビロンへ移されてからキリストまでが14代である。
(マタイ1.17)とあるように、イエス・キリストはダビデの子孫であることは間違いないのです。
問題は、42代の間に生臭いやりとりが数え切れないほどあったことと、イエスの誕生に際してもただならぬことが存在したことです(マタイの1章を読むとはっきりしますし、イエスの生まれた場所も「馬小屋」といったところでした)。それでもイエスが救い主たりえたのは、ひとえに「万軍の主の熱意」なのです。
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エッサイの地位
(イザヤ書11.1−9)
エッサイの株、というのはダビデ王のことです。「マタイによる福音書」にある系図を読み直すと
>エッサイはダビデ王をもうけた。(マタイ1.6)
と記されてあります。つまり、エッサイ−ダビデ−(28代)−キリストという系図を預言していることになります。それではなぜ王であった
))ダビデからひとつの芽が萌えいで
と聖書は記さなかったのでしょうか。
エッサイは羊飼いでした。またエッサイの祖母はイスラエルの民から蔑視されていたモアブ人のルツだったと記されてます。また、ダビデが王から追われていた時、最初に仲間になった人々は社会から阻害されていた人々、痛みを共感できる人の集まりだったともいいます(サムエル記上22.1−2)。
後半部分。神が求めている平和は、たとえ全体として繁栄の度合いが小さくなるとしても、抑圧や差別によって傷つけられる人を出さないことを最優先させる、そんな社会構造である、そういってます。
日本の繁栄の度合いが小さくなりつつあります。その時に、なお抑圧や差別を続ける道を選ぶのか、「共に宿り、共に伏す」ことを選ぶのか、岐路に差し掛かっているように私には思えるのです。(解説部分で本田哲郎著『イザヤ書を読む』筑摩書房発行、を参考にさせてもらいました)
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荒れ野を整えよ
(イザヤ書40.1−5)
宮古から県庁所在地の盛岡から2時間ほどかかります。私たちが家族で盛岡まで礼拝に向かう場合、前の日のうちに準備を整えても、当日につまずき(子どもの発熱)があると出発できないことがあります。そして片道2時間ほどの道中も、整備されたとはいえカーブが続き、冬場は凍結した路面を走るのですから、すべてが整えられないと礼拝ができないのが現状です。もちろん、先人たちの苦難に比べればいうほどのものではないのですが、「礼拝を守ることができるのは、信者のエリートなのですよ」ということばを聞くたびに、礼拝のありがたさを感じるものです。
さて礼拝を守るにせよ、聖書を開くにせよ、わたしたちの心にある「荒れ野」に主の道を備え、すさんでいる心に主を受け入れる道を通さないと、主の栄光は現れないのです。主の方を向いていなければ顔を上げ、主を省みずにおごり高ぶっているのなら頭を下げる。もし整えることで主が働いて下さるのであれば、主のことばに耳を傾けようではありませんか。昨日でもない、明日でもない。今がその時なのです。きょうも御手の中で1日を過ごすことが許されますように。
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いと小さきエフラタのベツレヘム
(ミカ書5.1−9)
クリスマスが近づくにつれ、引用個所も長くなってきます。きょうで旧約聖書をひとまず終え、明日からはイエスの誕生部分(新約聖書)の記事に入ります。
エフラタのベツレヘムよ。エフラタとは
>今日のベツレヘムへ向かう道(創世記35.19)
にあって小さい村だったといいます。ところが神は、その小さい村を選んで数々の業を起こしました。
・ヤコブの妻ラケルを葬ったところ(創世記)
・ルツがボアズと結ばれた地(ルツ記)
・ダビデが羊飼いをしながら、油注がれた場所(サムエル記)
そして、
・イエスキリストの誕生(各福音書)
という出来事が起こります。
神は整えられた場所を選んだわけでなく、豊かな血筋を選んだわけでもありません。むしろ出来事が起こったのは整えられてない、
「どうしてここが、この人が?」
という場所です。しかしその意味を考えた時、なぜイエスがこの世に来たのかが、現実的な色合いを帯びてくるように思います。
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神の前に沈黙する
(ルカによる福音書1.5−25)
ルカが記した福音書の始まりは、祭司ザカリアが沈黙する場面から入ります。
読みつづけている聖書でスポットが当てられているのは、どちらかというと今まで注目されていなかった地味な人たちにです。
>主の聖所に入って香をたくことになった
というのは、祭司たちでも一生に一度あるかないかのことだったそうです。彼はおつとめを無難に果たそうとしますが、その最中に手間取ります。天使が彼に神の業を伝えるのですが、
>幻を見た
と先に悟ったのは、おつとめに集まった群衆の方でした。
ザカリア・エリサベト夫婦は神の前に正しい人でした。しかし、子供がないまま年をとってしまっていたことで、いろいろな噂も立てられていたに違いありません。不妊は
>わたしの恥
とエリサベトは告白してました。しかし、神は夫の晴れ舞台で業を現します。妊娠がわかった時、エリサベトはどれだけ喜んだか!
喜びの前に、神の前に黙して祈る必然性がある、と聖書は教えています。祭司であるザカリアが黙さなければならなかった期間がしばらく続きます。われわれは、黙する時を持ちえているか。そして、そのことに感謝を表しているでしょうか。
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ザカリア、聖霊に満たされる
(ルカによる福音書1.57−80)
ザカリアが沈黙を強いられてから時が経過し、妻エリサベトが男の子を産みます。エリサベトは不妊のまま年を取っていましたが、妊娠→出産という出来事に、近所の人々・親類も喜びます。
さて出産1週間後。ユダヤ人男子は割礼(=男子性器の包皮を切り取ること)をすることで、イスラエル共同体の一員であることを示す儀式をします。お祝いということで、人も集まります。その時、回りは祭司であった父親の名ザカリアを取ろうとするのですが、天使はザカリアに
>その子をヨハネと名付けなさい。
と言われてました。ヨハネ。まったく新しい響きの名前を、一族郎党がいる前で宣言したことで、ザカリアは神から許され、口が開きます。
67節から、ザカリアは確信に満ちて預言(=神の言葉をつたえること)します。神を疑ったことを悔い改め、救い主の到来を預言します。望みなきものには望みが、暗闇の中にあるものには光が。あと2週間で、われわれはその時を見ます。
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マリア、聖霊に満たされる
(ルカによる福音書1.26−38)
エリサベトの妊娠・出産にも驚かされました。しかし、もっと衝撃的な出来事が起こります。
マリアはヨセフのいいなずけでした。しかし
>わたしは男の人を知りません
と告白します。神がした「処女降誕」を信じることができなかったのは、誰よりもマリアだったはずです。ここまで聖書を読んで、登場人物に共通するのは、神からのことばを聞く時、必ず彼らは戸惑い、考え込んだことです。その経緯について、聖書はむしろあっさりと書いてますが、当人たちは悩み沈黙することを余儀なくされてます。しかし、ここからも共通するして
>恐れることはない。
と続きます。ことばを聞いた当人たちに、当然葛藤が起こったはずなのですが、最後は神のことばを受け入れているのです。
もしマリアが処女降誕を拒絶したら、われわれがイエス降誕を知ることも喜ぶことも、そしてあちこちのイルミネーションの存在すらもなかったでしょう。12月25日に向けて、あちこちでお祝いが行われるのは、マリアが聖霊に満たされたから。
>お言葉どおり、この身に成りますように。
と祈ったからです。
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胎内の子が踊った
(ルカによる福音書1.26−38)
マリアはエリサベトおばさんのところに向かいます。おばさんは年老いてからの妊娠、マリアは男を知らないままの妊娠。マリアは「おばさんのところに行けば何か教えてくれるに違いない」と感じたものがあったことでしょう。
「おばさま。私、神様からの子を宿したみたいなんです」
と言った時、おばさんの胎にいた子が踊ります。
子どもが踊る。妻が妊娠していたころ、私から何度か子どもに向かって話しかけたことがあります。子どもは外界からの声を聞き、ある程度認識できるのだそう。だから、話しかけて踊り出すことは当然あります。こんなこともありました。「第九」を2日続けて聴きに行った時、1日目はまるで胎児の反応がなかったのですが、2日目の第4楽章でボコボコと踊り出したということを妻は楽しそうに話します。
胎児が踊る。自分の子が喜んでいることであり、それは母親を通してみな喜ぶことです。エリサベトが喜んだことは胎児が踊ったことにとどまらず、神の子を宿すマリアがあいさつをしに来たことへの喜びでもあります。そして、その喜びはわれわれのところへも伝わろうとしてます。
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厳しさを実感する時
(ルカによる福音書1.46−56)
このページを初めて訪れてくださった方へ。ここは12月24日まで、イエス・キリストの降誕について、聖書に沿って読んでいます。そのような試みのページは女子パウロ会を始めいくつかありますが、著作権保護のため、聖書そのものの引用をしてないのです。このページは、日本聖書協会に出向いて「250節までの引用」ということで了解を取ってますので、またお越しください。
年賀状の受付が明日から始まります。「今年を振り返」る試みがあちこちで始まってますが、今年ほど
>権力ある者をその座から引き降ろし、
>富める者を空腹のまま追い返されます。
ということが実感できる年はなかったように思います。東西ドイツの統一があった時に、ドイツの人がその個所を実感したように、今度はわれわれがこの個所を実感する番だと思えます。
「10年前、金融業界に入った面々が厳しい憂き目にあっている。われわれの同期だ」
とパソコン通信に書いたところ
「まだ、若いじゃない。やり直しが利く」
というコメントがつけられてました。そう、高いところにいればいるほど、思い上がりから立ち直るのは遅くなるのですが、われわれ世代はまだ若かった。そういう憐れみもあったのだと気づかされます。憐れみは主を恐れる者に及ぶ。今起こっている出来事を「主の計画の中の出来事」と感じ、そのことを受け止められる時、イエスの誕生が「自分のためのこと」だとして実感できるのだと思います。
きょうの礼拝は4本ある赤いロウソクのうち3本に火が灯ります。来週もう1本加わり、イブ礼拝には真ん中の白いロウソクに火が灯ります。
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それは一方的な働きかけ
(マタイによる福音書1.18−25)
イエスの母マリアの惑いについては以前にも述べました。きょうは父ヨセフが登場します。
処女降誕の前に、すでに2人は婚約してました。順番でいうと婚約→結婚→妊娠→出産となるわけですが、この2人は婚約→妊娠とたどってしまいます。正しい人ヨセフは身に覚えがない。すわ、よその男の子を身ごもったのか?当然、事態が明らかになるとヨセフは世間から糾弾されたでしょうから、縁を切ることを考えるのは当然のことだろうと思います。マリアが妊娠について驚愕したように、ヨセフもまた動揺します。
今まで、この欄では「先達の信仰者は神からの導きを受け入れてきた」とあっさり書いてきたように思います。しかし、ある聖書サイトにこんな解説がありました。「平凡な営みに、こちらの都合も省みず、一方的に介入してくるのが神」とありました。この処女降誕について、誰よりも悩んだのは他ならぬマリアとヨセフでした。
「おれの知らないところで子どもを作りやがって」とかっかしているところに現れたのは、またしても主の天使でした。キーワードはインマヌエル・ダビデの子。ダビデの子孫から救い主は現れるということを、ヨセフもまた信じていました。救い主をマリアが宿している!それだけで、妻を迎え入れるのに十分だったのです。
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ひそやかなわざ
(ルカによる福音書2.1−7)
時のローマ皇帝が体制を強化し、徴税の便宜をも考え、住民に自分の本拠地へ帰って登録することを求めた、と解説書にはあります(加藤常昭著「聖書を読む3・ルカによる福音書」)。マリアとヨセフはそれに従って移動します。ところがマリアが産気づき、出産します。その場所は小さな町のベツレヘム。しかも、同じように登録のため移動している人々が宿屋に泊まっていて一杯ですから、どこの宿屋でも2人は断られます。それでも時が時ですから、2人は頼み込んで泊まるところを見つけます。それは馬小屋でした。さらにイエスが生まれた時のベビーベッドは馬のえさを入れる桶!
時に、神がなさるわざは目立たないところで行われます。今年マザーテレサが亡くなったのは、ダイアナが亡くなった直後でした。ダイアナの死はスキャンダラスなほどに大々的に伝えられましたが、マザーの死が伝えられたのは、それはひそやかなものでした。マザーは徹底的にイエスに似ようと思い、行動した人です。日本に来た時も、進んで弱者と関わり、周囲を驚かせました。同じように、イエスの誕生の出来事はひそやかなままに進められました。彼のまなざしが弱者に向いていたのは、当然このような出生と関わりがあったからに他なりません。
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恐れを取り除くもの
(ルカによる福音書2.8−14)
百万人の福音によれば、きょうから4日間ルカのこの個所を読むことになってます。4分割することも考えましたが、4日間同じところを読んで、違うことを書くのもよいだろうと思い直します。
さてイエスの降誕まで何ヶ所か聖書を見てきましたが、要所要所で天使が現れます。どちらかというとふだん目立たないような人たちに、前触れもなくです。そして受け入れる側に共通するのは「恐れた」ということです。
「恐れるな」
と天使は告げます。告げる内容は「民全体に与え」られ、「あなたがたのために救い主が生まれ」それが「メシア(=救い主)」だと。
われわれの日常は、むしろ平凡なことの繰り返しです。何かがきっかけで日常をじゃまするものがあると、負担に感じることがあります。それでも神は
「恐れるな」
と言います。われわれの恐れを取り除くために救い主が来たことであり、それがイエスの降誕なのです。できごとを確認するクリスマスイブ礼拝まで、あと1週間となりました。
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恐れを取り除くもの
(ルカによる福音書2.8−14)
昨晩は、テレビを消して子どもの歌のCDとラジオを聴いてました。何気なく聴いていた南米からの電波で、こんなことを言っていたように記憶してます。
>物というのは、いっぱいあればいいというものではなくて、むしろ少しばかり足りない方がいいように思う。(HCJBに遊びに来ていたゲストのことば)
何となく聞き流そうとしたところ、インタビューをしていた側も同意するものですから、考えさせられるものがありました。
光あふれる現代に生きているわれわれは、闇で過ごすことに慣れているでしょうか。ある男性タレントは「1人で過ごすのは気楽だ」と言っておきながら、実は回りに人がいると終始話しつづけます。一緒に過ごしていた家族は、あまりのしゃべりに恐れをなして別離します。独身になった現在、家に帰ったら、彼はひたすらビデオを見ます。それは1人でいる恐怖と戦わざるをえないから「気楽」だと虚勢を張っている。そういう見方もできるのです。
♪街角にはクリスマスツリー
恋人といなければクリスマスじゃない。一緒に過ごす人がいなければクリスマスじゃない、というムードになりつつある12月18日。私は1人でクリスマスを過ごすの?誰のために、何のためにクリスマスをやる必要があるの?仕事じゃない。私のクリスマスはないのよ...。
>恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
と最初に告げられたのは、徹夜で羊の番をしていた羊飼いでした。彼らもまた、孤独と向き合いながら地道に仕事をしてました。いきなりの光にも神は「恐れるな」といいます。
>地には平和、御心に適う人にあれ。
足りない、とつぶやく心に、神から贈られたのがイエス・キリストでした。平和の君を心に受け入れられる人は幸いです。イエスが共に日常の歩みをして下さる恵みに感謝するものです。
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さあ、ベツレヘムへ行こう
(ルカによる福音書2.8−20)
去年「アドベント・カレンダー」(NHK出版)を読みながら、物語の展開と聖書の個所が重なっていることに気づきます。アドベント・カレンダーというのは、12月のカレンダーに1から25の数字があって、そこを暦にしたがって1日ずつ開いていくものです。開いた先には日替わりの絵があったり、場合によってはお菓子が入っていたりするらしいのです。いずれ、欧米ではアドベント・カレンダーを開けることで25日が近づくのを大人も子どもも実感するようです。
さて「かほくのクリスマスページ」も佳境に入ってきました。羊飼いたちは
「さあ、ベツレヘムへ行こう」
と言います。孤独と向き合って仕事をしていた羊飼いたちに、神からのスポットライトが当たります。飼い葉桶(=馬の餌入れ)に寝ている乳飲み子がしるし。彼らはしるしを確信し、イエスを探し当てます。そして一連のできごとがすべて天使の話したとおりだった!神をあがめずにはいられません。賛美をせずにはいられません。
クリスマスの出来事をたずねる。言い換えると人々がクリスマス礼拝に集うことは、わたしたちがイエスの降誕を今の出来事として確かめるためです。しるしを確信した時、わたしたちも神をあがめずにはいられなくなり、賛美が口から出てくるのです。
明後日の日曜日は多くの教会でこどもたちによる降誕劇が行われることでしょう。彼らもまた、わたしたちをベツレヘムへ導いてくれます。降誕まであと6日となりました。
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聖書の逆説
(ルカによる福音書2.8−20)
4日に渡って同じ個所(ルカ2.8−14の部分)を見てきました。なぜ4日も同じ個所なのか?「百万人の福音」で日課を紹介している小野淳子(おの・あつこ関西聖書神学校女子寮舎監)はこの個所をまとめるにあたって
>この中に二つの驚くべくも幸いなパラドックス(逆説)を見る
といいます(12/20付の注解)。一つは「神の栄光は謙遜と、自己否定と、自己放棄との中に惜しみなく輝くものである」こと。これはルカによる福音書で見てきた通り、エリサベト・ザカリア・マリア・ヨセフといった人々の姿に現れてます。彼らが神の前に自己否定をせざるを得なくなった時に、神の栄光が現れたのです。
もう一つは、「『天の大軍』が平和を告げ知らせたということだ」と小野は紹介します。地上の大軍がラッパを鳴らすときは戦争を告げ知らせることです。しかし、天の大軍がラッパを鳴らす(象徴として教会の奏楽者がオルガンを奏で始める)ことは、すなわち平和を告げ知らせる時なのです。オルガンは、われわれが考えているよりもさまざまな音色がでる楽器です。目を閉じ、心静かに奏楽を聞いていると音色がいきなり変わり驚いた経験が何度かありますが、オルガンから出るラッパの音もかなり勇ましいく感じます。
ともあれ、地上に天のラッパが鳴り響く時が近づいてきました。逆説の驚きを新鮮に受け取り、聖書に聞こうとする人は幸いです。明日、日本中、世界中で行われるクリスマス主日礼拝の上に、また礼拝に集う人の上に。それから集いたくてもかなわない人々の上に、神さまからの豊かな祝福がありますように。
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まっすぐ歩む
(マタイによる福音書2.1−12)
イエスが生まれたころ、時の王はヘロデでした。王は権力を持つと、1日でも長く地位を保つためにあらゆる手立てを講じるのが世の常です。そんなことを知ってか知らずか占星術の学者3人がヘロデのところを訪ね「ユダヤ人の王として生まれた子」が誰かをたずねます。王は不安がよぎります。自分は永遠じゃないのか?自分の子どもが王にならないのか?しかも王お抱えの学者が答えたのは、首都エルサレムではなく、小さな町ベツレヘムに子どもが生まれたということでした。
王位が乗っ取られるのを恐れたヘロデは「私も拝みに行こう」と学者たちを派遣しておき、実はイエスを殺そうと考えます。
学者たちは「その子のところに行ってくれ」と言われても、どうやって行けばいいか不安だったに違いありません。ともあれ星を頼りに進み、導かれるままに行ったところ星が止まります。ここがエルサレム、イエスのいる場所だ!
われわれが道に迷ったとき、もうちょっとまっすぐ行けば大路に着くのに、その手前で曲がったために抜けられず右往左往することがあります。迷ったらあれこれ手を出さないで「これだ!」と思ったものを信じて歩んだとき、世の中が見えてくることがある−−と昨日ラジオで聞きました。学者たちもまた、星の導きを信じて歩みます。そのとき、試練は喜びに変えられるのです。曲がりたくなったとき、もうちょっとまっすぐ行くと出口が見えてきます。悩みの中にある人たちもまた、クリスマスの喜びに預かることができますように。そして、きょうのクリスマス主日礼拝が祝福と感謝で満たされますように。
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悲観することなく賛美する
(ルカによる福音書2.21−35)
5時に起きて、共にクリスマスの出来事を見てきた「かほくのクリスマスページ」。どうやら24日まで穴を空けずに済みそうで、感謝です。特に14・21といった日曜日の礼拝を仕事で守ることができなかったにもかかわらず、ページを作ることで神さまは平安を与えてくださいました。かつ、アクセスカウンタが1ヵ月で500を突破したのも驚きです。私の見えるところで、見えないところで支えてくださった多くの方に感謝するものです。
さて、きょうは老人シメオンが登場します。彼は来る日も来る日も「主が遣わすメシア」を待ってました。特に名を知られていたわけでなく、一介の老人に過ぎません。ただし、彼は聖霊の導きを信じ、メシアに会うのを待っていた点が他の人と違っていたところでした。
このように見ていくと、ルカによる福音書に
・エリサベトは聖霊に満たされて(1.41)
・父ザカリアは聖霊に満たされ(1.67)
という記述がありますから、神の導きは一貫していることを感じるのです。
悲観のうちにとどまった場合、残るのは不平・不満です。
☆暗いと不平を言うよりも、進んで明かりをつけましょう
という言葉が実感できるようになったとき、口から出るのは祈りと賛美に変えられるのです。シメオンはやがて天に召されますが、彼は救いを実感することができ、感謝のうちに生涯を全うします。同じように、聖霊の働きがわれわれ一同のうちにありますよう。
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教会は老婦人が支える
(ルカによる福音書2.36−38)
日曜日の礼拝に出席して感心するのは、80を過ぎてもなお礼拝を欠かさず守っている老姉妹がいらっしゃることです。もちろん、家族が送り迎えを欠かさずしているからできることなのですが、彼女らをかきたてているのは何なのでしょうか。
彼女たちに共通するのは、2人とも夫に先立たれてしまったこと。そして双方の夫婦とも信仰生活をきちんと送り、夫の生前はともに教会の代表執事を務めていました。それから彼女たちの子ども・孫にも信仰が伝承されており、「日曜日は教会で過ごすこと」と体で理解していることが共通点です。
盛岡というところは夜になると気温が氷点下になるところで、さすがに高齢を考えると明日のイブ礼拝に出席することはままなりません。しかし、彼女たちが出席するだけで教会は引き締まります。教会には60代の女性も多く集っているのですが「まだまだ私たちもがんばらないと」という気にさせられるのです。
老婦人の2人は、積極的に来客者に話しかけます。長く生きていらっしゃいますから、話題も豊富です。われわれは「教会には年寄りしかいない」とつい言ってしまいますが、彼女たちの忠実な信仰は教会の財産です。そして日本にあるかなりの教会は、そのような婦人たちで支えられているといっても過言ではありません。彼女たちもまた、明日のイブ礼拝を覚えて、祈っています。明晩、教会の5本目のキャンドルに灯りがともります。
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祝・クリスマス
(ヨハネによる福音書1.1−18)
クリスマスおめでとうございます。神さまからの祝福がみなさまにありますように。
きょうの個所はイエス・キリストについてです。「言(ことば)」というのを「イエス」と置き換えてみてください。一気に聖書理解が進みます。−−イエスの中に命があった。イエスは人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。−−
時を同じくしてヨハネも神から遣わされるのですが、彼はイエスにバプテスマ(いわゆる洗礼)を施すために来ます。そのことでイエスが「人からバプテスマを受けた=この世でわれわれと同じように生活した」ということがはっきりとします。イエスは世にあった。
世はイエスによって成ったが、世はイエスを認めなかった。イエスは、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。暗闇は光=命=イエスを理解しなかったのです。
しかし、イエスは、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。それは神さまがなさることです。
きょう、全国・世界中の教会でクリスマス・イブ礼拝が持たれます。ある教会は聖歌隊が賛美をし、別の教会は子どもたちが劇を披露し、別の教会はパイプオルガンが奏でられるというように、さまざまな形で主イエス・キリストの降誕が祝われます。それは決してどこかの信者がすることでなく、この私が降誕の現場を見ることで、喜びを共有できるのです。そして礼拝が終わった後、こう祝福されます。「クリスマスおめでとうございます」、と。
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(ヨハネによる福音書3.1−16)
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DEC/26(TGIF=FRI)
(マタイによる福音書2.13−23)
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(ルカによる福音書2.39−52)
イエスが信仰深い両親のもとで育ったのは、いままでの個所でもわかりましたが、きょうの個所でも感じることができます。
「主の律法で定められたことをみな終えたので」
「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした」
という記述ではっきりとします。過越蔡(すぎこしさい)。
>ユダヤ教の三大祝祭の一。ユダヤ人の出エジプトを記念して春に行われる。贖罪のために小羊の犠牲を奉げ、種(酵母菌)なしパン
>を食べて祖先の艱難をしのぶ。ヤハウェによってエジプト人の長子は皆殺されたが、小羊の血を塗ってあったユダヤ人の家は通り過
>ぎて、難をのがれたことからの名といわれる。(「大辞林」より)
われわれがクリスマスを祝うように、2000年前の人々は過ぎ越しを祝い、感謝の祈りをささげたのでした。
さて、このイエスと両親のやりとりを見て、イエスの言動を「頼もしい」と感じたでしょうか、「生意気な」と感じたでしょうか。12歳のイエスが
「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。」
と発言した部分だけ取ると、正直「なんて生意気な」と思います。今も思います。両親は三日を棒に振ってしまうのですから、なおさらのことです。しかし、母マリアは「これらのことを心に納めてい」ます。神がなさることは確かなのだ、そう彼女は思い直すのです。
物事を限定して見るとつまずくことが多くあります。しかし、聖書全体を見渡すことができたとき、このイエスの言動も御心にかなっていると理解できるのです。
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(マタイによる福音書1.1−17)
このシリーズ最終回は、イエス・キリストの系図です。「だれそれはどこの出身で、親戚にはこういう有名人がいる」ということを、われわれは気にします。そして、関わろうとする人間の血筋によってはトラブルもあちこちで起こるのです。ところでイエスはどんな救い主だったのでしょうか。血筋を見ます。
・タマルは亡き夫の父ユダと通じた女性(創世記38)
・ラハブは遊女(ヨシュア記2)
・ルツは違法のモアブの女(申命記23.3、ネヘミヤ13.1)
・ウリヤの妻とダビデの姦淫。さらにダビデは夫ウリヤを殺害してます。
というように、ぼろぼろです。それらをたどっていくと、マリアから生まれたイエスは処女降誕が必然だったともいえます。つまりこの系図一つ見ても、神さまのあわれみなしにはわれわれが省みられることはなかったのです。
ひとまず、このシリーズはおしまいです。牧師でもない私がこのページを作ることができたのは各位の協力があったからに他なりません。聖書引用を快諾してくださった財団法人日本聖書協会、この企画を持ち掛けて下さったGospel
Japanの存在なしにはこのページはあり得ませんでした。また聖書日課の使用を快諾した「百万人の福音」にも感謝します。ぜひ、ホームページができたらリンクさせてください。
何よりも、1ヵ月ちょっとでアクセス数が700になったのには驚きました。みなさまがこのページを訪れたことが更新の原動力でした。このような機会があれば、また参加しようと思ってます。どうもありがとうございました。(1997年12月28日6時32分)
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《このページが一般公開になっていた時は「聖書 新共同訳」から引用しましたが、現在は聖書の個所のみ記してます》