このページは、平成13年5月20日に発売された"SCIENSE of HUMANITY BENSEI" vol.34 pp55-59 (勉誠社)に掲載されたコラムを再録したものである。再録にあたって、誤字脱字等の最低限の修正を行い、補注を付け加えた。(H13.10.5ネット上公開)


ネットで読む"神の手"事件

早 傘 ("捏造問題連絡船"管理人)

その時私は

 11月5日昼、親戚の家で連休を過ごしていた私に昼食を準備中の台所から声がかかりました。
 「ニュースだよ。旧石器だって」
 洩れてくる音声に耳を澄ますと藤村氏がらみの報道のようです。慌てて慣れぬリモコンに苦労しながら居間のテレビの電源を入れると、甘粕考古学協会会長のコメントが終わろうとするところでした。断片的ながらも、どういうニュースか了解できました。ついにこの日が来たかと思いました。今頃ネット上は大騒ぎだろうなと気は急くものの、帰宅したのは夜10時過ぎでした。早速ネットに接続し、満ちあふれる発言をむさぼり読みました。それから毎晩ネット上の発言を追い続け、いつの間にか半年が過ぎました。

信じてました

 ここで私が一連の「前期旧石器」をどういう目で見てきたかを述べておきます。石器専門ではない末端研究者の一例として、また、座散乱木・馬場壇発見の頃に学生だった世代の一例として、ご参考になろうかと思います。
 1963年生れの私が、座散乱木遺跡での「前期旧石器」の発見を知ったのは高校生の時でした。歴史好きではあっても考古少年でなかった私にはその発見の重要性がわかりませんでした。大学に入って考古学研究会に所属し概説書(当時、旧石器文化の概説はほとんど芹沢氏の著述でした)を読みあさるうちに、座散乱木の発見こそ、頑迷な学界へ挑戦し続けた芹沢氏の勝利であると認識するようになりました。85年に実験試料をお借りしに東北歴史資料館に訪れた際には、発見されたばかりの馬場壇A20層の石器を見せていただき、感激するとともに、このような立派な石器を否定する人がいるとは信じられないとの感想を述べました。藤村氏のこともそのころ書籍か雑誌で読み、努力の大切さを思い知らされました(今振り返ると、東北前期旧石器発見物語とは80年代を風靡した少年ジャンプの3原則<友情・努力・勝利>そのものです)。旧石器に深い関心を持たず縄紋文化を中心に学んだ私にとって、高森遺跡まではおおむね素直に信じられる発見でした。

おかしいぞ

 95年に入ってからと思いますが、上高森遺跡の埋納遺構の写真を見たときに初めて違和感を抱きました。「これは縄紋の石器では?」(同様の感想を抱かれた方は、はなはだ多いようです)。しかしそれは調査のミスではとの疑念にとどまりました。そして97年夏に『ここまでわかった日本の先史時代』(岡村道雄編 角川書店)を読み、箆形石器が日本の「前・中期旧石器時代」に通有の存在であること、福島県でも同時代の遺跡が多数発見されていることを知り、一旦納得しました。
 同年秋、袖原3遺跡と中島山遺跡の石器の奇跡の接合の報道で、一気に決定的な不信感を抱きました。これは「努力」によって発見可能なことではない、“奇跡は「神」の御業”であり、批判者が言いたかったのはそういう意味だったのかと。ところが、知り合いの数人に不審点を述べても、遺物管理のずさんさの問題にすぎないだろうと言われ、困惑しました。翌98年、竹岡論文を読み、力付けられました。同年秋には石鏃にしか見えない「小形両面調整石器」の発見の報道を目にし、たまらず上高森遺跡の現地にも行きました。帰路、これは隠しカメラでも仕掛けるしかないか、でも個人では無理だしスクープに定評のある某新聞社に提案しようかなどと考えました(考えただけですよ、念の為)。

“夜明け”前

 2000年2月に小鹿坂の“建物遺構”が大々的に報じられると、一般の方々にも話題が沸騰しました。ニフティーサーブ歴史フォーラム縄文会議室でも「年代は信用できるのか」との質問が書き込まれ、疑問の声もある旨の回答をしたりしました。私がよく参加しているある研究会の参加者の大半は小鹿坂の“発見”は信用できないとの意見であり、「秩父事件」とか「ローム真理教」という隠語を耳にしました。バブルが破綻するのは時間の問題というのがそこでの常識でした。ところが、著名で実績もある考古学者達のマスコミでのコメントは肯定的なものがほとんどでした。
 考古学ジャーナル6月増刊号(1999年の動向)では旧石器研究の分野におけるインターネットの活用の進展が報告されました。
 6月24日、考古学専攻生の情報交換の場の『総務の部屋*1』で「F村S一さんの手は本当にゴッドなのか」という書き込みがなされ、地道な調査にもとづいているから本人は神様呼ばわりを嫌っている、との回答がありました。
 7月22日、『石器の考古学』に角張論文が掲載され、Web上で静かな論争が始まりました。
 8月5・8日に『南河内考古学研究所』で岡安光彦氏と平口哲夫氏が「前期旧石器発見の真偽をめぐって」というやりとりをし、角張論文に不遜さを感じるという発言がありました。
 8月10日、『高知の縄文探訪』に「旧石器の釘」というコラムが掲載されました。光坊氏が若い頃、イタズラでローム層に釘を埋めておいて、知らずに掘った学生が大騒ぎしたという内容です。僕より少し上の世代では、そんなイタズラは珍しいことでなかったそうで、地山を掘って埋め戻し踏み固めた「遺構」に気付かない後輩や他大学学生に修業が足らないとたしなめたそうです。
  同12日にも『高知の縄文探訪』に「知の膠着」というコラムが掲載され、「学問の世界で“待った!”をかけるのは極当たり前」と、暗に“不遜”発言を批判しました。
 8月27日、埼玉県西部のある小さな研究会の暑気払いで「長尾根遺跡の土坑は墓なのか?」との質問を受け「そもそも、あそこが遺跡かどうか・・」と切り返し、その話題で盛り上がりました。このときに確認できたのは、前期旧石器に深い関心の無い多くの研究者は、TNT471B遺跡や総進不動坂遺跡に藤村氏が関与していることを知らず、複数の研究グループによる発見だから信頼できると思っていたことです(私自身もTNT471Bのことは99年に知りました)。なお、この時「盗撮すべきだ」と散々口にしたため、この宴の参加者からは発覚後にあらぬ嫌疑をかけられました。
 8月下旬、毎日新聞が取材を開始したとのことです(毎日新聞12/28朝刊)。ソースは当然伏せられていますが、根室通信部長という、藤村氏と縁が無い部署の得た情報がきっかけだそうですから、角張論文が引き金と推測するのが自然でしょう。新聞社の中でも考古学に関わり深い記者は以前から藤村氏に関する噂や批判を知っていたはずなのに動かなかった、また、雑誌論文では学会もマスコミも動かせなかった、それが、インターネットという経路を通したときに、広義の考古学業界に取り込まれていないマスコミに届いた。このことは、考古学における各種メディアの意義を問い直す必要を感じさせます。
 どのように取材が進んだかは、取材を受けた方による投稿が発覚翌日の11月6日に『高知の縄文探訪』の掲示板に掲載されました(掲示板の機能の制約のためすぐに読めなくなりました)。
 そのような取材が進んでいるのを知らずに私は10月15日、ニフティーサーブ「縄文の部屋」で『現代』11月号の藤村氏インタビュー記事の紹介を書き、それを発端に29日まで「前期旧石器」の信頼性に関する議論が展開されました。
 10月31日、『2ちゃんねる』の日本史掲示板で「世界最古の遺跡発見か?」というスレッド*2が作成され、11月3日にも「あなたは上高森を信じますか?」というスレッドが作成されました。11月4日午後11時58分にはYahoo!日本史掲示板に「午前2時を回ったら 毎日新聞のサイトを見てみそ。」と書き込まれました。これらは取材の動きを知る者の書き込みと思われます。

bang!!

 かくして11.5を迎えました。ネットが爆発しています。寝る時間を削って毎晩むさぼるように読みます。ネット上にあふれる発言を追うのはこれが3回目です。1回目は95年のオウム事件で、まだインターネットが普及しておらず、ニフティーサーブの時事系の会議室を巡回しました。2回目は99年の東芝クレーマー事件で、事件自体がインターネット上で展開し、インターネット上の掲示板特に『2ちゃんねる』を読みふけりました。今回は、とうとう議論の当事者になりました。
 ネット上の発言だけでなく雑誌・書籍を買いまくり、新聞を切り抜き、と関連情報の収集にいそしんでいます。さらに会津でシンポがあれば車を走らせ、広島で講演会があれば新幹線で日帰りしています。単に面白いからというだけではなく、学史に関心を持つ者として、考古学の歴史に永遠に残る大事件の資料をできるだけまとまったコレクションとして残したいという思いもあってのことです。ネット上で「50年後に備えて」と表現したのですが2049年の岩宿百周年の際にまだ自分が存命ならば語り部として話の種にし、そうでなくとも誰かに役立てて欲しいと願っています。

情報の共有

 さて事件発覚後、ネット上でどのような情報が提供されどのような議論が展開したでしょうか。大事件が起きたときの例に漏れず、リンク集がいくつも作られました。歴史関係のリンク集の老舗『閼伽出甕』は「旧石器発掘ねつ造事件」を特集し、最も網羅的です。『縄文学研究室』の「発掘捏造事件関連リンク」は単なるリンク集にとどまらずネット上の動向がコメントをつけてまとめられ、経過表も作られています。
 目を引く動向の一つは、関連自治体の情報公開です。たとえば埼玉県は、インターネット博覧会のパビリオン『人類博物館』の中に「遺跡捏造問題に関して」のコーナーを設け、これまでの調査成果や検討委員会の記録を公開しています。「小鹿坂遺跡遺構配置図」を見ることによって石器の出土の仕方の異常さ(“遺構”にばかり出土し、4箇所の“生活遺構”から各5・6・7・8点、6箇所の“埋納遺構”から未掘の1箇所をのぞき各2・3・4・5・7点と“原人”が七五三のみではなくすべての数を平等に扱う数観念の持ち主であることが示されている!)が誰にでも確認できます。
 公的機関に限らず、多くの個人サイトで、各種考古学団体の声明や研究者の見解が速やかに転載されたり新規公開されたりしました。代表的サイトに『みやぎ文化財発掘出土情報』『日本の考古学リソースのデジタル化』『高知の縄文探訪』『ハカタントロプス』『宮崎モグラ通信』などがあります。そう、情報の迅速かつ正確な公開と共有に適したメディアとしてインターネットを活用し、事件の正確な理解の一助とすべく多くの人々が活動しました。

掲示板の議論

 そして、これらの情報やマスコミ情報、考古学に限らない多様な分野の専門家による知識の提供を交えながら、多くの掲示板で議論が展開されていきました。以下に代表的な6つの掲示板における捏造問題関連の議論をみていきます。

<ニフティーサーブ歴史フォーラム> 「縄文の部屋」と「考古学の部屋」で議論が交わされました。会員制ということもあり、元々活発に発言していた考古学ファンと一部の専門家を中心に落ち着いた意見交換がなされ、11月18日には「石器発見ねつ造について考える」と題したチャットも開かれました。議論は11月末にほぼ終息しました。

<2チャンネル> 多数の匿名掲示板の集合体で、ニュース速報・ニュース議論・日本史の3つの掲示板で関連スレッドが立ちました。ニュース速報とニュース議論は話題度に応じてスレッドが乱立する掲示板で、神の手事件に関しては11月5日〜7日に15件ものスレッドが立てられ、多くのスレッドは数日で消えていきました。中心となった「インチキ発覚*上高森遺跡発掘 」というスレッドには2日間で900を越える発言がありました。ニュース系の掲示板にはデマや誹謗中傷が書き込まれやすいのが通例で、この事件についても悪質な発言が多数認められました。ニュース系掲示板での議論は11月でほぼ終息しました。日本史掲示板もスレッドの乱立や中傷的な書き込みが見られましたが、専門家による書き込みも多く、ひととおり目を通すと思わぬ収穫があります。

<南河内考古学研究所喫茶室> 発覚以前から、考古学研究者同士による考古学と社会の接点についての議論が蓄積されており、比較的に落ち着いた議論が展開しました。頻繁な発言は12月上旬で止みましたが、その後もじっくり議論がすすめられています。

<青森遺跡探訪掲示板> 掲示板の構造から発言にコメントが付けやすく議論の見通しがよいこと、一般の方と専門家の交流の場と位置づけられていたこと、サイト内に角張論文が転載されていたことなどから、最も激しい議論の場となりました。特に11月7日に登場した病理学者の難波紘二氏の舌鋒鋭い(アラも多く、時には中傷すれすれとなる)日本考古学批判とそれに対する反論が論議の中核となりました。他の掲示板の議論が終息に向かった12月に入っても盛んな議論が続けられましたが(論者がここに集中したため他の掲示板が落ち着いたという側面もある)、サイト管理上の事情から12月20日で書き込み禁止となりました。

 上記の3つの掲示板を指して「南河内はプロの練習場、青森は河川敷のグランド、2ちゃんねるは町中の空き地」と評したこともあります。

<捏造問題関連論争の部屋> “青森”の議論を引き継ぐ場として設置されました。 藤村氏関連資料の評価が暗黙の合意に達していたため、学界が今後とるべき方策や捏造の動機などが話題となりました。参加者同士の激しい非難合戦がしばしば発生し、特に3月10日の賀川氏のご不幸の後は、倫理観の断絶を背景とする激烈な論議となり、3月31日で書き込み禁止になりました。

<捏造問題連絡船> “論争の部屋”を引き継ぐ場として3月30日に開設しました。 もはや論争の段階は終わりとし、情報の交換・共有を主眼としています。“青森”・“論争の部屋”をとおして参加された多様な分野の方々の意見を聞き続けたいとの思いもあります。非難合戦や不法な書き込みをいかに防止するかが掲示板の命運を握るものと考えながら運営しています。この雑文が皆さんのお手元に届くまで存続しているとよいのですが。

残ったもの・残すべきもの

 考古学関係者から掲示板不要論・不毛論を多く見聞きするようになりました。これは今回の事件がもたらした負の遺産といえるでしょう。しかし「無かった昔には戻れない」のですから、どのようにすれば掲示板が生産的な議論や交流の場となるのか研究を進めるべきでしょう。
 捏造発覚後、旧石器文化専門のサイトで旧石器研究者自身による、関連資料の評価が示されることはありませんでした。発言に慎重となることは理解できますが、学術的な論評は印刷物で発表すべきであるとの観念も根強いようです。
 11月以降、閉鎖した考古学系サイトがいくつもあります。捏造問題が原因ではありませんが『青森遺跡探訪』も4月上旬に閉鎖されました。閉鎖に至らずとも掲示板には保存できる発言の数が限られているものがあり、発言者が自由に発言を削除できるものもあります。これらの要因で、ネット上の論考を論文等に引用しても、公刊される頃には読者が原文に当たれなくなっていることが生じます。匿名無責任の掲示板の代表とされることが多い『2ちゃんねる』は古いスレッドをきちんと「過去ログ倉庫」に保存しており、参照が可能な資料(または証拠)として利用可能です。公開された著作物は、社会的資産のはずです。公的な組織に保存用サーバーを置き、考古学系サイトの設置者の了解を得て保存・再配布する仕組みを作ることはできないでしょうか。
 この原稿の締切間際の4月22日に考古学協会発表要旨「考古学的脂肪酸分析の問題点」が公開され、「発表」に先だって議論が開始しています。発表要旨の事前公開が慣習となると、研究発表の討議も深まることが期待できるでしょう。

*1 上で紹介したサイトはすべて『神の手事件情報局』からリンクをたどれるようにしています(http://homepage2.nifty.com/HAYAKASA/godhand/)
*2 2ちゃんねるにおいて掲示板の下位にある特定の話題に関する発言の集合。閲覧者は自由に新規のスレッドを作る(立てる)ことができます。


執筆者紹介
早傘(はやかさ)
実名:早坂広人(はやさか・ひろひと)。1963年8月生れ。埼玉大学理学部生体制御学科卒。文化財保護に携わる地方公務員。縄紋文化を中心に研究し、"日本"の先史考古学の歩みにも関心を持っている。10年位前からパソコン通信を初め、NiftyServe縄文会議室の常連だったはずが、いつのまにやら「捏造問題連絡船」の管理人に。投稿をお待ちしてます。


補注

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