(『第7回石器文化研究交流会発表要旨』より)
もう少し海の水が温むと、冬のあいだ少し深場にひそんでいた蛸が、小エビや貝をむさぼりに浅瀬の岩場に現れるようになる。牡蛎をこじ開けるのに夢中になっている蛸を見つけて、おいしく頂いてしまったことがある(実は私も牡蛎を採っていたのだが)。しかし、普段の蛸は岩の隙間にすみかを定め、これを侵すものに対しては強烈な縄張り意識を発揮する。
「タコツボ考古学」という言葉がある。数年、十数年と同じ土器型式を自らの縄張りのごとく守り続け、新参者には強烈な反撃を加える、というスタイルを揶揄したものであるが、縄文土器研究には「生きて帰れない」とまで言われる型式が幾つもある。
こうした極端な例はともかく、縄文研究者の交わす議論には妥協や遠慮というものが少ない。かくいう私も、甘くみた批判や礼を欠く論調に対しては、それなりの姿勢で論争に臨むことにしている。
今回の「ねつ造疑惑」の遠因として旧石器研究における論争の不在を指摘する声がある。前期旧石器の存否をめぐって提示された問題点に対して、彼ら当事者のとったのは「議論」ではなく「事実」の累積で圧倒していくという戦術であった。前期旧石器を積極的には認めなかった研究者も、「事実」の前に沈黙した責任から逃れることはできない。
前期旧石器に限らず、旧石器研究全般を見渡してもこの10数年来、「論争」と呼べるものがほとんどないように見受けられる。仕掛けられた論点があっても、それを買って出ることをせず、自己のスタンスを守って業績を積み上げていこうという雰囲気が感じられる。こちらは「引きこもり考古学」とでもいうべきか。
静岡の交流会が研究者の懇親に終わることのないようにしたい。そのためもあって小討論会要旨では愛鷹・箱根独自の視点を提示して議論の材料としたつもりである。交わされるべきは「友好」ではなく「情報」と「議論」の筈だから。
掲載にあたって(lastupdate 01.3.23 am7:20)