辞書なんて、学校の授業で使ったり、手紙書くときに字がわからなくなったら引くぐらいと言う方が多いのではないかと思います。大抵の方はそうではないでしょうか。
そんな中ある日、東京都庁の職員で辞書を集めている方がいらっしゃるとの新聞記事が掲載されていました。辞書を集めて、時には日本で手に入らない辞書を求めて海外にも出向くとか。なんだか、自分のことが書かれているようでした。
辞書は安いものだと数百円、しかし高い物になるとそこには値段があってないようなものです。それにしてもその数百円、せいぜい数千円の値段で、あれだけの情報量のものが手に入ると考えると、 こんなすばらしい買い物はなかなかないと思っています。
辞書を買うとまず見るのは、「はじめに」であったり「緒言」だったりする、いわゆるその辞書がいかにして企画され、完成までにどのような経緯を経たのかを書いた部分を読むことにしています。著名な辞書の場合、そこには人間ドラマとも言うべき事柄が書かれていることがあります。挫折や苦難を乗り越えたことが綴られているのです。辞書の執筆は芋辞書でない限り、時間と労力を費やします。そして大部の辞書にいたっては、執筆者の中に黒枠で囲まれた名前があることすらあるのです。また、「〜〜に捧ぐ」などといった言葉が書かれていることもあります。
日本だけでも広辞苑、大漢和辞典、言海、など歴史をもつ辞書があります。そして、緒言があたかも一つの文学作品のような格調高い文章で構成されていることもあるのです。
街を歩いていて、本を読んでいて気になる言葉があると、すぐに辞書が引けないとちょっといらいらします。という訳で国語と英語については電子辞書を持ち歩いています。思い立ったらそのときに辞書を引く。これをしないとなんとなく気持ちが悪いのです。とはいっても全ての辞書を持ち歩くわけには行きませんね。電子辞書の前は英語は携帯用の小型版の辞書を持ち歩いていました。携帯用とはいえ電子辞書にはかないません。本では大きさがある程度以下にはならないからです。
これらの携帯電子辞書は気になる言葉を調べた後は、せっかく取り出した関係もあって、他の言葉を見たりランダムに文字を入れて、そこから順番に読み続けたりと、とくに通勤電車の中では時間の経つのも忘れて見入ることがよくあります。これは別に英語を勉強する学生のようかもしれませんが、殆どの場合は国語辞典を読んでいます。入っているのは広辞苑なので百科事典的な項目もあることから、人名地名なども興味深く愉しむことが出来るのです。あの大部な辞書を持ち運ばなくても手のひらに入るサイズで楽しめるのは 嬉しいことです。
海外旅行をするとその国で使われている言葉の辞書を買うことがよくあります。
こうした辞書は書棚を埋め尽くしています。日本ではなかなか手に入らない辞書などもあります。さまざまな辞書を眺めていると、まさに単語集としか思えないような形式で書かれているものをよく見かけます。こうした辞書は、欧米によくあるのですが、同じような言語だからと言うことでしょうか、なんとなくてう抜いている気さえします。
こうした辞書を使うときになると、単語の意味がただ並んでいるだけだとぼんやりして意味がつかみにくくなります。どういうときにこの意味で使われるのか、違いはどこかなど調べようがないので歯がゆい思いをします。
辞書は単語集というだけでなく、その単語がどのような状況でどのように使われるのかが最も重要で、その部分が欠けているとどうしようもなくなります。
ヨーロッパ旅行の際にはラテン語のポケット辞書をもって行くことがよくあります。いくつかのポケット辞書が出ていますが、私は名詞の変化タイプ、動詞の変化タイプ、形容詞の変化タイプがきっちりと書かれたものを使用しています。多くの辞書が単純に単語を並べているのに対して私の使用しているものにはそれが書かれています。当たり前のことですが、このようなことすら書いていない辞書が巷に多くあるのです。
何が使いやすいか、何が使いにくいか。意見が分かれることもあるかもしれませんが、私は単語の意味が構文とともに説明されているもの、文法事項が記載されているものが少なくとも最低条件といえるかと思います。