T. 『ばらの騎士』の誕生
全15曲残したリヒャルト・.シュトラウス5作目のオペラが『ばらの騎士』です。1911年1月26日、ドレスデン宮廷歌劇場で初演されました。批評家からはその不道徳性とウィンナ・ワルツが生まれていない時代を舞台としながらそのワルツを使用したことへの批判をされたものの、大多数の聴衆からは好評をもって迎えられました。2月にはミュンヘン、3月にはウィーンと各地で繰り返し演奏され、ベルリンからドレスデンへ臨時の特別列車『ばらの騎士』号が運行されたほどでした。ウィーンではこの年だけで37回も上演されとことを見るといかに人気を博したかがわかります。なお、わが国では1956年に初演されています。
U. 時代背景
オックス男爵という田舎貴族の滑稽な姿を交えつつ、若い恋人から身を引く大人の女性の諦念を描くこのオペラは、オーストリア=ハンガリー帝国の絶頂期の最後を飾り、黄昏の始まりでもあった女帝マリア・テレジア時代のウィーン(治世は1740年から1765年)が舞台に選ばれました。18世紀半ばのウィーンは、オスマントルコの脅威から解放され、ロココ芸術が花盛りのオーストリア帝国の首都として見かけは華やかさを保っていました。しかし、政治的には、ウィーン会議後のメッテルニヒの反動政治がその頂点にありました。凶作、失業、インフレが庶民の生活に打撃を与え、体制は警察強化と検閲に血道を上げ、1748年3月の学生と労働者の蜂起(48年革命)によってメッテルニヒ体制は崩壊しますが、10月には宮廷勢力が盛り返し、市民側は敗北します。
V. リヒャルト・シュトラウスの軌跡 〜 グスタフ・マーラーとの対比
シュトラウスの父フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスは王立音楽院の教授でミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者でした。大のアンチ・ワーグナーで、その名物ぶりはリハーサルに立ち会うワーグナーも遠慮するほどでした。なぜなら、彼ほど完璧にワーグナーの書いたホルンパートを吹ける奏者は誰もいなかったからです。1883年ワーグナー死去の知らせを指揮者レヴィがリハーサル中に団員に告げると、全員が亡き巨匠をしのんで起立したのに、ただひとり座ったままだったのが主席ホルン奏者フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスだったとか。しかし、なぜ自分の息子にワーグナーと同じ「リヒャルト」という名をつけたかは不明です。この父親のおかげで優秀な教師から子供の頃から音楽の指導を受けます。シュトラウスは「父の厳しい保護のもとで16歳まで古典派音楽の中だけで育った」と回想しています。すなわち、幼少の頃からハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンに接してきたことはシュトラウスの音楽の本質を語るのにきわめて重要であると言えます。成人に達するまで、常に当時のトップクラスの音楽家と親交のある父親の後押しがあったのも事実です。生涯孤立無援であったマーラーとは大きな違いです。