夢のまた夢 −決戦!大坂の陣−

 歴史の物語に描かれる時に豊臣秀頼は、脆弱な公家風の青年で母親にべったりで自己決定力に乏しく、豊臣秀吉の家臣だったものたちに担がれながらもその実、傀儡として言いなりになっていて、その挙げ句に、徳川家康の叛意にあって攻められ滅ぼされたといった人物として、よく描かれる。典型的な無能の2代目といった風情。そして石田三成も大野治長も淀君でさえも、プライドにすがり権威を振りかざし、挙げ句に情勢を見誤って豊臣家を滅亡させた、愚昧な者たちといった風情で語られる。

 それは本当か。後世に物語りが紡がれる時に、実態とはかけはなれた人物像なり経緯なりが刻まれるということはよくあること。ましてや豊臣を滅ぼした徳川の治世において固められただろう豊臣秀頼像が、徳川家康に拮抗した英明な君主でそれを無体に滅ぼした家康は悪逆非道の奸臣だと、そう言われる可能性をもったものになるはずがない。父親の秀吉に及ばない愚昧で意固地な俗物としておけば、身の程を知らず世流に逆らい自滅していったのも当然と、世に思われるから安心だ。

 けれどもそれは本当のことなのか。史実として伝わる豊臣秀頼像は、実は脆弱な青白い青年ではなく、身の丈6尺5寸という、当時では異例の巨漢で剣の腕も立てば頭も明晰な青年君主であったという。幼い頃より帝王学を受け、来るべき天下人として世を統べる時に向けて心身ともに鍛えていただろう人間が、脆弱であるはずがない。その下で闘われたであろう大坂冬の陣が徳川の大軍による攻撃もしのぎ、引き分けに終わったというのも当然至極。そこで何かボタンを掛け違っていたら、夏の陣でも大坂が勝利して家康は死去し、豊臣に求心力が戻り大坂を中心とした天下国家が作られていた、かもしれない。

 しかしそれは流石に本当のことではない。いやしかし。こうして振り返っている歴史があるいは、さらに未来から誰かによってそういう歴史もあったかもしれないと、掛け違ったボタンによって紡がれているものを、見せられているだけではないと果たして言えるか。本当はだから、やはり秀頼は聡明で淀君も実直で他の誰もが賢明だったという歴史が繰り広げられたのではないのか。「星界の紋章」シリーズで世に鳴るSF作家でありながら、豊臣秀頼とその家臣の物語をつづった歴史小説「夢のまた夢 −決戦!大坂の陣−」(朝日新聞出版、1600円)を、森岡浩之が書いたという時点で、そこに単なる新しい歴史小説ではない“イフ”があると考えたくなるのも当然だ。

 そして実際に“イフ”はあった。物語の中心を行く主人公は、秀頼の奥小姓として使えていた庚丸という少年。その彼は果たして歴史に実在していたのか。時代小説だったら架空の武士なり足軽なりを主人公にして、当時を語るということも可能だが、庚丸は豊臣秀頼の側近として、さまざまな事件の現場に居合わせ、時に歴史を進ませる上での重要な役割を担う。それすらも多くの実在した人間の集合体として処理することは可能だが、あまりに突出したその人物ぶりに、実在を信じたくなってきて、だからこそ実在を疑わざるを得なくなる。

 物語はその庚丸が、かつて自分を拾って育ててくれた和尚の元にいって、秀頼の使いを果たそうとする展開があり、和尚はそれをしばらく断る展開へと進む。その和尚の正体が後に明らかになるが、そこにやはり”イフ”に似た驚きが生じる。それより以前に、豊臣秀頼をどうしても滅ぼしたい徳川家康が、散々つけた難癖のひとつとして有名な方広寺にまつわる事件がある。それは「国家安康」「君臣豊楽」の銘が、家康への呪詛と豊臣への祝意をあわせ並べたものだといったものだけれど、歴史ではその銘が刻まれたのは方広寺の梵鐘ということになっている。その常識が「夢のまた夢−決戦!大坂夏の陣」では大きくズレる。

 そこに至って、読者は何とはなしに勘付いていく。「わたしは、この少年に注目して、綿密な検証を始めた」と帯にあるこの「わたし」とは。物語の冒頭で死去した秀吉を北政所が眺めている姿をしばらく見ていた「わたし」とは。そこにこの歴史を惹いて眺める傍観者の存在が浮かび上がり、傍観される歴史そのものに何か仕掛けがあるのではと気づいてくる。それは、聡明な秀頼を仰ぎ、賢明な家臣たちが囲み、純粋で無垢な若者たちが侍って構成された豊臣方があの混乱をどう切り抜け、そして大坂を舞台にした決戦で本当とは限らない何かをしたのではないかとうことだ。

 そうした結果としてもたらされる大坂の陣の物語は、大坂冬の陣なり大坂夏の陣といった歴史上の出来事から紡がれる、多種多様な物語とは少し違った展開を進む。こうしていればこうなったのだろうという想像をかき立てられる。その挙げ句にいったい世界が、現代がどうなっているのか、といったところになるほどSF作家であり「星界の紋章」の作者ならではのアイデアが垣間見える。そこに紡がれた歴史が大坂の陣の後にいったいどういう変遷をたどったのかにも興味が向かう。すなわち“イフ”への回答。それがいずれ紡がれる時を今は待ちたい。

 そこに描かれていることについては、こうすればこうなるという提言にも満ちている。暗愚なトップが担がれ、周囲は蒙昧な者たちばかりだという現代にも重なる状況を、どう変えどう導けばどうなるのか、といたシミュレーションを行う上で役に立つ。烏合の衆になりかねなかった浪人家臣を含めた多勢をまとめあげる仕組み、そして家柄ではなく力量で召し抱え的確な場所で使う適材適所の思想など、当時もおそらくは必要とされていただろうし、今はなおさら必要とされている事柄の運用法も、時代こそ違え書かれてあって役にたちそうだ。

 そうした架空を練り上げ、現実を裏から活写してみせるのもSFの役目であり効用。それを安土桃山時代の掉尾を飾る豊臣と徳川の決戦の場に持ってきてみせるところに、この国が大きく変わったかもしれない可能性が、そこにはあったんだと分かってくる。だからこそ本当はどうだったのかを知りたいけれど、やはり過去へ遡ることは無理。ならば想像するしかない。そして考えるしかない。その一助としてこの「夢のまた夢 −決戦!大坂の陣」は最高のテキストと言えそうだ。


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