** 陽子

陽子

 きっかけは荒木経惟だった。

 「センチメンタルな旅・冬の旅」(新潮社)の、「冬の旅」の部分で綴られる、張り詰めたような雰囲気の漂う写真の、1枚1枚に圧倒されて、写真集を見る目が、みるみる霞んで来た記憶がある。そしてその時、「触写」や「大股ぴらき」だったアラーキーを、ようやく「私写真」の荒木経惟として、認識した。

 アイドルの水着でもヌードグラビアでもない、また新聞社に馴染み深い報道写真でもない写真がある。荒木さんをきっかけに、写真への興味がわき起こり、恵比寿に暫定開館した東京都写真美術館に出向き、今は休刊となった雑誌「デジャ=ヴュ」を買い、小久保彰さんの「アメリカの現代写真」(ちくま文庫)をんだ。コンパクトだけど初めて自分のカメラを買い、旅行に行けば何枚も何10枚も写真を撮るようになった。

 今、店頭に並んでいる荒木経惟写真全集第3巻の「陽子」(平凡社、2200円)は、だから自分の写真への興味の、原点に当たるような作品集だといえる。

 第1巻の「顔写」と第2巻の「裸景」に収められた写真には、まず商業的な要求があって、その上に写真家としての自分の興味を反映させていく作業が、見え隠れしているようでならない。しかし「陽子」は、まずもって荒木の興味の、最大限の対象である、陽子さんという存在があり、そこに写真家としての行為が加わって、作品が出来上がっているのではないか、と思っている。無論、僕の勝手な思い込みに過ぎない。街を撮った写真、雲を写した写真、食卓やバルコニーといった身近な空間を切り取った写真も、どちらかといえば後者に近い雰囲気を持っていると思っており、荒木の膨大な作品の多様な作風のなかでも、好きな部類に入っている。

 いささか飛ばし過ぎの感もある、最近の荒木の活動を見ていると、あふれ出る才能というよりは、絞り出す才能という気がして、心配でならない。何10年に1冊だけ、写真集を出す写真家もいれば、月に何冊も写真集を出す写真家がいても良い。そのどちらがより正しいとは、絶対にいえない。荒木の場合、機関銃のようなペースで、密度の濃い写真集を作り続けられるとは、天才の名を欲しいままにするだけのことはある。ただ時おり、生き急いでいるような写真集が混じっていて、もう少しゆったりとしたペースで、仕事をして欲しいと思うことがある。

 せっつくくせにゆっくりやれとは、読者とははなはだ勝手なものだ。

積ん読パラダイスへ戻る