四日間の奇蹟

 死は避けられない。そして取り返しがつかない。人は死ぬことを畏れ、死んでいくものを悲しむ。激しい感情を湧き起こさせる「死」はだから、ドラマとなって数多の小説に書かれ漫画に描かれ、映画に撮られて人々に素晴らしい感動を与える。浅倉卓弥「四日間の奇蹟」(宝島社、1600円)もまた「死」が絡み、それ故に激情と感動を読む人に与え素晴らしい気持ちにさせる。

 未来を嘱望されながら、留学先のオーストリアで事故に遭遇し、プロのピアニストとしては活動が不可能になった如月敬輔の今の仕事は、ピアノを教えている楠本千織という名の少女を連れて全国のホールや施設を周り、彼女の演奏を聴かせることだった。彼がピアニストとしての生命を絶たれた事件で両親を殺害された千織は、精神の発育に障害があって、15歳ながらも誰かの世話なしには普通の生活を送ることができない。

 だが、精神や肉体にハンディを持つ人が、時として超人的な能力を示す”サヴァン症候群”の例が千織にも当てはまったのだろうか。如月の弾くピアノを千織は完璧に弾きこなすことができた。自分では人前で弾くことを止めた代わりに、如月は千織にピアノを教え、かくして如月と千織という、それぞれにどこか欠けたところのある2人のペアによる全国行脚が始まった。

 その日も如月は、千織を連れて山上にある医療施設へと向かっていた。病院という訳ではなく、脳や体に障害を負った患者が、家族たちとともに住み込んで回復に向けてリハビリに努めたり、そうでなくても家族の世話を受けながら精一杯に生を真っ当しようと頑張る施設で、千織はそんな患者たちのリラクゼーションのために招かれたのだった。

 施設に到着した2人を出迎えたのは、医師とそして栄養士として働く岩村真理子という女性。会うなり施設の説明から朝夕の太陽を浴びる大切さに関する蘊蓄までを、如月に明るくまくし立てた真理子は実は、如月と高校生の時に先輩後輩の間柄にあった。彼女にとっては残念にも、如月は真理子のことを覚えていなかったが、多少の気安さを呼んだのか施設に滞在中の如月と千織の側に、真理子は出入りするようになる。

 体が言うことをきかない患者たちとのコミュニケーションで培ったノウハウからか、普段は誰とも馴染まない千織が、真理子や看護婦の長谷川未来には馴染み、いっしょに行動もするようになる。そしてそのことが真理子や千織たちにとっての悲劇の幕を切って落とし、奇蹟への扉を開いて、感動のフィナーレへと読む人たちを誘う。

 選評にもあるように、過去のベストセラーに類例のあるモチーフが用いられている点で、人によっては感動の幅を抑制される可能性はある。それを踏まえた上で、得られる感動の中身としては、山上の診療所にいた4日間に接した、真理子という女性の命運と、千織という少女の神秘に、如月の挫折を引きずっていた心が癒され、新しい生へと足を踏み出す力が得られた、といったものにウェートがかかる。まさに「四日間の奇蹟」という訳だ。

 なるほどこれがしごく真正直な読み方だろうし、強い感動を確かに得られる。あるいはひとつの犠牲の上に咲いた大輪の花への慈しみに、情動を引き起こされて涙する人もいるだろう。だが一方では、「死」が持つ残酷で悲しい様をつきつけられて、身を強く揺さぶられもする。

 期限を切られた生涯の中で思い描く葛藤とその後に至る覚悟、そして安寧の中で帰れない道へと進むことに、誰もが必ず訪れる自らの運命を重ね合わせて、同情や共感といったもを強く感じ、誰もが泣きたくなるだろう。人間ならば避けられない「死」の恐怖を和らげ悲しみを癒す糧として、「四日間の奇蹟」は強い力を持っている。

 脳にまるで障害の原因が見られない千織がどうして停滞を続けていて、それがどのようにして始動したのかについて、医学的な蘊蓄も含めた説明があれば、より得心がいったかもしれない。人の意識の唯一性から鑑みるに、これを大きく逸脱する展開にも懐疑を抱かない訳ではない。

 だが、これはあくまでもシリアスな現実に重きを置いて考えた場合の懐疑でしかない。何を語りたいのかというドラマ性なりメッセージ性を前提にして、そこから浮かび上がる感銘にこそ重きを置こうとした作品として捉えれば、「四日間の奇蹟」が生み出すものの前にはどんな懐疑も不要だ。考えるのは後でも良い。まず読むこと。そして感じること。素晴らしい気持ちにきっとなれる。


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