THE WHISTLING SONG
路の果て、ゴーストたちの口笛

 かつて少年は荒野を目指していた。それが永遠への逃走を目的とした行動なのか、荒野の果てにやがて現れる別天地を目指した行動なのかは、ひとりひとりの少年によって違っていただろう。ただ少なくとも、置かれた現状を甘んじて受け入れない、受け入れたくないという強い気持ちが、少年を荒野に向かわせていた。

 けれども今、少年は荒野を目指さず、行き止まりの路地裏に迷い込み、そこにただ立ちすくんだままでいる。訳知り顔で未来を絶望し、荒野の果てにある別天地を目指そうとはせず、かといって永遠の荒野に向かって突き進む、強い気持ちすら持てずにいる。自分を含む、路地裏に溜まったすべての少年たちを、ふたたび荒野へと向かわせるきっかけになれるだろうかと、1冊の本を読み終えて、今思う。

 スティーヴン・ビーチーの「THE WHISTLING SONG 路の果て、ゴーストたちの口笛」(渡辺伸也・近藤隆文訳、大栄出版、2575円)に登場する少年マットは、両親を殺害されて収容された孤児院を抜け出して、アメリカ中をヒッチハイクして回る旅に出る。街を少し出れば、そこに広がるのは果てしない荒野と1本の路。その上でマットは親指を立て、次の場所まで運んでくれる車を待ち続ける。

 マットの最初の旅は、孤児院で出会った美しい黒人少年ジミーと連れ立っての、困難に満ちた、けれども幸福感に満ちた旅だった。行き先々で出会う人々から、時には施しを受け、時には暴力を受けながら、マットとジミーの2人は、当てもなくアメリカ中をさまよい歩く。美しいジミーに惹かれ、いつかはジミーと1つになりたいと望んでいたマット。けれども野獣のように凶暴で、氷のように冷たいオーラをまとったジミーに、マットは自分の気持ちを伝えることができずにいる。

 宗教心に凝り固まった一家や、セントルイスでホームレスになっっていた”リザード・キング”ことジム・モリソン、ジミーの美しい肢体を目的に近づいてくる写真家や、少年愛の趣味を持った中年男。マットとジミーが出会う奇妙な人々は、アメリカ社会が抱える多様な問題を、それぞれに具現化した姿だろう。そんな醜悪で猥雑な世間に、時には反発し、あるいは共感しながら、2人はやがて、アメリカの死が集まるフロリダの地にたどり着く。

 ジミーとはぐれたマットは、死を目前にした老人ダストと出会い、いっしょに暮らし始める。しばし老人と少年のお互いを補完しあう平穏な暮らしが続いたが、再会したジミーによってマットたちを探している男の存在を告げられ、ダストの家を飛び出る事態へと追い込まれる。だがフロリダの地でジミーとマットはふたたびはぐれ、マットだけが元いた孤児院へと連れ戻される。

 金に目のくらんだ孤児院の経営者、拒食症の女の子。戻ったイーストリバティの地でも、マットは奇妙な、けれども現実をその中に映し出した人々と出会い、別れ、ふたたび荒野へを足を向ける。傍らには頼れる、そして愛するジミーの姿はなく、マットはたった1人きりで旅に出る。子供の頃に面倒を見てくれた女性アンダルーシャ、両親を惨殺して逃亡した精神異常の殺人鬼、フロリダの地で離ればなれになった美しい黒人少年のジミー。記憶を彩る人々たちとの邂逅を意識的に、あるいは無意識的に待ち望み、マットは荒野を越えて、広大なアメリカ中を西に、南に、東に、北にさすらい続ける。

 物語のクライマックス。次々と現実となって訪れる、待ち望んでいた人々との邂逅は、少年の時のままだったマットの心を容赦なく打ち壊し、彼を現実世界へと連れ戻そうとする。再び荒野に立ったマットに襲いかかろうとしている竜巻が通り過ぎた後、そこに残るのは永遠の荒野へと旅だってしまったマットの姿だろうか。それとも荒野の果てに別天地を見いだしたマットの姿だろうか。

 読む人それぞれに違った結末があるだろう。ただ少なくとも、長い旅の途中で、マットは1度たりとも絶望感を抱かなかったことを忘れないで欲しい。希望とか、勇気とか、そんな偽善的な言葉では決して言い表すことの出来ない、けれども確実に前を向いたマットの気持ちから、世紀末の混沌の中で、方向を見失った今の人たちは、何かを感じ取ることが出来るはずだ。

 行き止まりの路地裏で立ちすくんでいる今の少年たちが、ふたたび荒野を目指す時が来ることを願って。


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