私のおわり

 テレビアニメーション「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」の秘密基地の面々は、幼い頃に仲間が1人消えてその思い出を、さまざまな形で引きずって、高校生になった。近しい存在が消えてしまって、その責任の一端をそれぞれが引きずってしまって起こる心のもやもやと、それが生みだした人間関係のごたごた。苦々しいシチュエーションの中に、当の逝ってしまった存在が、ひょっこりと舞い戻ってきた時に起こる、残されていた者たちの心の激動が、アニメの中に描かれた。

 表向きには、死んでしまった者が未練をはらって再び旅立つ話だったかもしれない。けれどもその奥には、生きている者たちが、過去を埋めて本当の今を甦らせて、これからの長い長い生を歩んでいけるようにする話でもあった。ひとりの死を改めて強く認識させることで、周囲が生を自覚するストーリー。そのことを通して、見る人に生きている今を感じさせた。

 そんなアニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」に対して、泉和良が書いた「私のおわり」(星海社FICTIONS、1080円)という小説は、死を自覚した少女の姿から見る人たちが、生きている今を強く感じ取る物語、ということになるのだろうか。

 気が付くとそこは船の上。あなたは交通事故で死んだんだと、死神の船長がおネエ言葉で教え脅して身の回りの物をすべて奪う。憤り哀しくなった少女は船から海へ飛び込む。気が付くとそこは、よく通っていた天霧君という男子の部屋。ネットゲームを作って公開している彼が暮らしていて、その周辺に彼からは見えない幽霊となって少女は、大好きだった天霧君の日常を見守る。

 そこに現れた少女は、彼女ではない別の子で、やっぱり天霧君が好きらしく、いろいろと抜け駆けをしていたことが判明した。やがて少女自身もまだ生前の姿で現れたものの、もう1人の少女が隠れて天霧君にあって料理をしたりしていることは知らずにいた。

 知ったのは、何日か後に死んで幽霊となった方。そして、彼女は幽霊ながらも少しだけ現世のものに触れる力を使ってメッセージを書き、過去の生前の自分自身を動かして言えなかった思いを言わせようとして、そして考える。それで彼女は幸せなのか。そして天霧君は嬉しいのか。
BR>  言えなかったことを言えたことは良い。でも、それによって天霧君に負担がのしかかる。遠からず死ぬ女性から好きだと言われた負担はいったい、天霧君にとってどれくらいのものなのか。自分の我が儘に他人を巻きこむ振る舞いの是非が問われる。

 言わないよりは言った方が良いこともある。それですっきりとまとまったとも言える。けれども、言わずなかった場合でも結果はたいして変わらない。ならば言うべきか。言わざるべきか。ずっと生きていられるのなら、迷わず進めと言えるけれども、死ぬと分かってから遡れって見た場合、やっぱり迷いが生まれる。だからやるしかない。生きているうちに突っ走ることだけが死んで後悔とならないための最大の方策。そう教えられる物語だと言えそうだ。

 少女の死を必然としなくてはいけないストーリーには、ひとりの少女の死を媒介に、大勢が生を認識した「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」と同様に、どこか忸怩たる思いが浮かぶ。優しくて子供だった彼女にゴムボートを買ってあげた父親が、早くに娘を失ってしまった哀しみを思うと、少しばかり胸が苦しくなる。とはいえこれはフィクション。そこに感情を入れ込むより、そこからメッセージをくみ取って、今、こうして生きている生をどう生きていくのかを、考える方が適切だ。

 生きよう。精いっぱいに。


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