私が語りはじめた彼は

 原始より女性は太陽として輝きを放ち、男に周囲をめぐらせ世界の中心として君臨して来た。対するに現代の男性は月の如くに、その周りを回る地球なり、その地球が回る太陽といった求心的存在を持たなければ、生きて行けず光り輝けもしない。

 三浦しをんの「私が語りはじめた彼は」(新潮社、1500円)に収録されている連作短編に、共通して登場する1人の男の生き様は、自在に天空を飛び回り自在に満ち欠けをして奔放そのものに見えてもその実、相手となった女性なり家族の存在あってこそのもの、だったりする。逆に語られる男の周囲の女性たち、少女たちの生き様にこそ信念があり真実があって、男は単にそうした人生を写し浮かび上がらせる鏡のような存在でしかない、まさに月の如くの生き様に見える.

 すべての連作で中心になって語られる男は、村川融という名の歴史学科東洋史専修の大学教授。決して美形とは言えない容姿ながらも彼は、なぜか女性の歓心を惹きやすく、妻子がありながらも幾人もの女性を平行してつきあっている。妻はこう村川を語る。

 「村川の魅力は、ある種の女にはたまらないものです。どこを掴まれたのかは自分でももうわからない。けれど、彼によってふいにもたらされた痛みと驚きだけは、いつまでも新鮮に残る」(17ページ)。

 そんな彼に届いた謎めいた脅迫状に、村川の下で講師の口を待つ弟子の三崎が差出人を捜す役目を仰せつかって、村川の妻を訪ねて行く短編「結晶」から幕を開けた物語は、村川とかつてつきあっていた女性とその女性の家に婿養子で入っていた男性とのぎくしゃくとして、それでも固まっていく関係を描いた「残骸」、家を出ていった村川を息子が訪ね、そこで出会った再婚相手の連れ子の少女から謂われのない中傷を受ける「予言」へと続く。

 その再婚相手の2人いた娘のうちの1人が、実母から村川との関係を疑われやがて哀しい結末へと突き進んでいく「水葬」等々、村川の周囲に現れ結ばれ去り消えていく女性たちの、感じ想い動いていく様が連作短編の中に描かれる。なるほど見れば村川を中心に女性たちが周囲をうごめく構造を、そこに感じるかもしれない。

 けれども果たして村川は、男性たちは太陽か。否。太陽の如くに光り輝きエネルギーを放ち、地球の如くにすべてを慈しみ包み込むのは女性たち。村川や男性たちの権威や家や体面や仕事に縛られ、羽ばたけないナイーブさ、主体性のなさは、太陽からの光を浴びて輝き地球に縛られ周囲を回るだけの、月の如くの存在を思わせる。

 それぞれが背景を負い、想いを抱いて人生を歩む女性たちとは対称的に、村川教授についてはどうしてそんな心理に至ったのか、家庭を捨てて愛人に走り娘を愛しつつもそれが受け入れられなかった存在としてどんな想いを抱いたのかが分からない。かくもユニークなキャラクターの真相へと分け入らない手さばきに、読んで戸惑いを覚える人もいるだろう。

 周囲に現れ来た女性たちや、その女性たちと関わりを持つ人たちの目線と経験に基づいてもに語られる構成故かもしれない。もっとも聞いてもそこに深みなどなくただ、流され動かされる人生だっただけなのかもしれない。各話でそれぞれに繰り広げられる男女のシチュエーションでもやはり、本気に狂気を混ぜてふくらむ女性たちの想いをもてあましている、月のように主体性の少ない存在として、登場する男性が軒並み捉えられている。

 なるほどやはり女性は有史以前から太陽で、男性はそんな女性があって初めて存在感を出せる月であった。月として女性の周囲を回り威光を受けて反射させながら、太りやせ細り太りってなサイクルを繰り返しているからこそ、世界は地味で危機感の少ない状況ながらもそれとなく円満で、円滑に事態が推移する状況が長く続いているのだ。

 ユーモアを含んだ物語を多く発表して来た作者にとって、シリアスに男性と女性たちの関係を突き詰め掘り下げながらもそれを直裁的にではなく、連作短編という形、女性たちの語りによって描いた構成は、書き手としての成長を強く感じさせる。中国での寝取られ皇帝と寝取った男との微妙な関係を描いたエピソードを冒頭に掲げ、作品世界への興味を抱かせつつ主題を変奏させつつ、心の移り変わりを読み込む楽しさを与えてくれる筆の裁きも巧み。三浦しをんの到達点を味わおう。


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