『吾輩は猫である』殺人事件

 猫は人間とは違う時間を生きている。そんな話を読んだのは、何かの小説だった気がする。もしかすると漫画だったかも知れないし、あるいは何かのエッセイだったかもしれない。いずれいしても、どこか読んだとしか記憶していないこの話が、奥泉光の最新作「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮社、2700円)を読んでいて、ふっと頭に浮かんできたところを見ると、よほど気にいった話だったのだろう。

 猫がいずこからともなく現れて、いずこへともなく去っていくのは、人間が過ごしている時間と、猫が過ごしている時間が、微妙にずれているからなのだと、書いてあったように記憶してる。スピードも、進む方向も違っていれば、子供の頃に見た猫が、大人になってから全く同じ姿で現れることもあるだろう。あるいは、昨日までぴんぴんしていた成猫が、翌日には老猫に成り果てていることもあっていい。まさか、と思っている人、そういえば、と思っている人。いろいろだいるだろうが、それでも人に媚びず、無論狗にも媚びずに、己の思うところを生きているように見える、猫の摩訶不思議な生態に、興味をそそられる人は多い。

 「『吾輩は猫である』殺人事件」では、そんな猫の不可思議性が、とても大切なキーワードとなっている。苦沙味先生の家のカメで溺れ死んだ筈の「吾輩」が、突然中国の上海へと現れる。そこで知り合った世界の猫達と、探偵小説ばりの推理合戦や、ハードボイルドばりの冒険を繰り広げるストーリーは、猫を主人公にした古今東西の猫を主人公にした小説の中でも、傑出した作品だと思う。

 ただし、「殺人事件」と付いているからといって、ミステリーとして読むと失望する謎解きだろうし、SFとして読むにしても、そこまで至る道程があまりにも長くて込み入っていて、結構な努力を強いられる。ならば、真っ先に目に付く特徴といえる、漱石の「猫」や「夢十夜」の模倣、本歌取り、パロディー、パスティーシュとして読めるかというと、これらの作品が持っていた批判性、幻想性までもが模様、本歌取り、パロディー、パスティーシュされているとはいいがたく、わざわざ知識と技巧を総動員してまで成し遂げた、漱石の文体の完璧な吸収が、ストーリーの希薄さを補って、作品に厚みを持たせるだけの意味しか果たしていないとも思えてくる。面白く読めたけど、絶賛できない理由がこれだ。

 しかしまあ、ミステリーファンとSFファンを純文学の世界に引き込むだけの、独創性とパワーを持っているのも事実で、だからここまで評判になっているのだろう。それぞれに中途半端といえなくもないけれど、むしろあらゆるエッセンスを詰め込み成功した、希有な作品として評価したい。

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