ヴァンデミエールの翼
 ヴァンデミエールは天使なんかじゃない。

 だってそうだろう。ヴァンデミエールが残したものは、辛く哀しい思い出ばかりなんだよ。ヴァンデミエールが誘(いざな)う先は、大人という欺瞞と虚栄でいっぱいの、醜く汚い世界なんだよ。

 鬼頭莫宏が描く「ヴァンデミエールの翼」(アフタヌーンKC、457円)の第1話。「ヴァンデミエールの右手」に登場する少年レイは、蒸気トレーラーに乗ってやってきた旅芸人の一座のなかに、白い翼を背負ったひとりの少女の姿を見つける。

 翼は飛躍の象徴。旅芸人は外界とつながった細い糸。ヴァンデミエールと名乗った少女のなかに、レイは果てしなく広がる外の世界と、そこでのふたりの甘い未来を見たのかもしれない。空へ、外へ、未来へと少年を導く優しい天使、それがヴァンデミエールだと、レイは感じたのかもしれない。

 けれどもヴァンデミエールは、レイの心に癒えることのない傷だけを残して去っていってしまった。父親の経営する酒場。夜になるとそこでは、ヴァンデミエールと大人たちの、猥雑な堕落した時間が繰り広げられる。ドレスを脱いだヴァンデミエールの体には、人としては異質の、機械としては脆弱な、天使としては地上的すぎる痕跡が刻まれ、見る者の嘲笑と憐憫をさそう。

 気高い天使が汚されることを、純だった少年の魂は許せなかった。2人で街を出ようとバイクを走らせるその先に、座長が現れてヴァンデミエールを破壊し、少年の腕を切り落とす。やがて大人になった少年は、街を出て事業を興こして成功する傍らで、未だ忘れ得ぬヴァンデミエールを探し求め、接ぎ木されたような細い右手をさする。

 「ヴァンデミエールの白翼」。興行飛行士の少年と、憐憫を誘う白い翼を背負った少女との物語。飛びたいと願う少女を救わんがために、少年は小さな城塞都市の周りを10周、30分で回る曲芸飛行に挑む。妨害を受けて空に散り、かろうじて一命をとりとめた少年は、ヴァンデミエールが空に逝ってしまったことを知り、今も飛び続けているかもしれない少女の魂を追って、騎士道精神も冒険心も感じられなくなった空をひとり、複葉機に乗ってさまよい続ける。

 「フリュクティドールの火葬」。黒い衣裳を身に纏った神父と闘う、ひとりの少女を助けた少年は名をグリーン・クロッシング伯爵といった。母屋に住むことを嫌い、少年貴族は乳母の思い出がつまった庭のなかの一軒家にたったひとりで寝起きし、闘いが嫌いだった乳母のフリュクティドールの教えに従って、貴族の責務たる闘うことを捨てて、人と交わることもほとんどなしに、止まったような時を過ごしていた。

 そんな少年の暮らしに飛び込んだ、黒い小さな翼を持ったヴァンデミエールは、小屋を「フリュクティドールの胞衣(えな)」と呼び、止まったままの少年の時計のネジを巻く。立ち現れる幻のフリュクティドールを乗り越え、少年は思い出の小屋を燃やして母の胎外、すなわち大人の世界へと足を踏み出す。

 今も心をとらえて話さないヴァンデミエール。思い出を残して逝ってしまったヴァンデミエール。被っていたシーツを無理矢理はぎ取って外の世界へと少年を追いだしたヴァンデミエール。もしもヴァンデミエールと出会わなかったら、少年は父親の酒屋をついで平穏無事な村での生活を全うしたかもしれない。少年は世界中の空を飛び回って歴戦の勇士となり曲芸飛行の天才と呼ばれて富と名誉を手にしていたのかもしれない。少年は胞衣に包まれたまま心地よい時間に浸り続けられたのかもしれない。

 けれどもヴァンデミエールがいなかったら、ヴァンデミエールと出会わなかったら、少年は恋を知らずに死んでいたかもしれない。命をかけて挑む愛に出会えなかったかもしれない。守られる愛の心地よさに溺れて守る恋の素晴らしさに目覚めなかったかもしれない。

 平穏無事だったり名誉を得たり温もりに満たされることを幸せと呼ぶなら、ヴァンデミエールは幸せを壊す悪魔だ。破れた時の辛さ、哀しさたるや他に類するものない恋に少年を目覚めさせたヴァンデミエールを、どうして天使と呼べるだろう。

 けれども高い山、深い谷の交差する、長くそして苦しい人間の一生で、たった一瞬でも良いから夢をみさせてくれた、思い出を与えてくれた、甘い檻から解き放ってくれたヴァンデミエールを、悪魔と呼ぶことも絶対にできない。天使か、それとも悪魔か。それは出会った者だけが知る真理なのかもしれない。出会えた者だけがたどり着ける地平なのかもしれない。

 ふたたび見えたヴァンデミエールが、天使の御業で少年を沃野へと誘うのか、それとも悪魔の所業で少年を荒野へと導くのか。第1巻で与えられた4編に、新たに加わる物語を待って、ヴァンデミエールが天使なのか悪魔なのかを見極められる、その真理に、その地平に少しでもいいから近づきたい。


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