うずまき猫のみつけかた


 もう大学生になっていたと思う。本屋の店頭に、緑と赤のクリスマスカラーをした本が2冊、どんと積み重ねられたのを目にして、村上春樹という名前の作家を知った。

 中学生のころからSFしか読まなくなっていた僕は、同じ村上でも、「コインロッカー・ベイビーズ」というSFマインドを持った作品を書いた、村上龍の名前は知っていた。でも春樹の方は、たいして作品数もなかったし、世間を騒がすような大ベストセラーもなかったので、ついぞ名前を知る機会がなかった。

 書店の店頭に積まれた緑と赤の本は、またたくまに大ベストセラーになって、ある種の社会現象を引き起こした。あまりに売れてしまったため、天の邪鬼の僕は、よけいに村上春樹の作品を手に取るのをためらうようになった。「ダンス・ダンス・ダンス」が出て、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が出て、ますます村上春樹の名前が、メジャーシーンへと広がっていったのに、僕はますます意固地になって、小説はもちろんエッセイも翻訳も、いっさい読もうとはしなかった。

 2年前の夏、古本屋の店頭に置かれたワゴンに、ハードカバーの「羊をめぐる冒険」(講談社、1200円)が差し込まれていたのを見て、なぜか買ってしまった。魔がさしたのかもしれないし、300円という値段に「雑誌を買うよりましかな」なんて思ったのかもしれない。今となってはその時の心理状態を思い出すことは困難だが、結局それがきっかけとなって、その時の夏から秋にかけて、村上春樹の全小説と、全エッセイを読んでしまったのだから、自分で思っているほどには、性格が天の邪鬼ではないのかもしれない。

 村上春樹を同時代的に支持していた人たちは、彼の作品が、自分たちの世代の心情を、カッコいい小道具をちりばめたカッコいい表現で、カッコよく描き出してくれたところに惹かれていたのだと思う。しかし、僕のように遅れて読んだ人間にとって、村上春樹の小説は、高校時代に読んでいた「ポパイ」を、10年経って読み返しながら、あの時はこんな物がはやっていたなあと思い返す、懐古的な興味がまず先に立った。ジャズやビールといった小道具にはさほど感心はしなかったし、登場人物たちの行動もさほどカッコいいとは思えなかった。

 それでも村上春樹の全作品を、わずかの期間に次々と読んでしまったのは、逃避と倦怠が蔓延した彼独特の文体に、時代を超えた魅力を感じたからにほかならない。淡々と語り重ねられるように続く文章は、読んでいて心にすんなり抵抗なく入ってくる。村上春樹が最初に小説を書いた、30歳前後という歳に、自分がようやく到達して、村上春樹が登場人物たちに託した心情が、なんとなく解るようになったからかもしれない

 だが、現に生きている作家である村上春樹は、今なお最新作を次々と世に送り出していて、40歳の村上春樹が書いた本、45歳の村上春樹が書いた本が、新たに店頭にならぶ。同時代で成長してきたファンも、僕のように遅れてきたファンも、見過ごすことはできないなあと思って、彼の新刊を手にとり読む。しかし、最近の村上春樹の作品に、僕はどこか得体のしれない違和感を覚えるようになった。

 最新のエッセイ集「うずまき猫のみつけかた」(新潮社、1800円)を読んで、その違和感をいっそう強くした。文体自体に変化はない。変化があったの彼の生活だ。そして僕は、アメリカに住んで日々の生活を語る村上春樹、ジョギングをしたり米国の著名な作家と親しく交わる村上春樹、小説を書き上げその足でジャマイカへ向かって休息をとる村上春樹の日々に、正直ついていけなかった。いいなあとは思うけれど、うらやましいなあとは思うけど、共感はできなかった。

 「うずまき猫のみつけかた」に収められた16編のエッセイを、僕は決して嫌いではない。挟み込まれた写真の美しさも評価したい。しかしこれらのエッセイから、得られるものがほとんどないのだ。真似したいと思えるほど、村上春樹の日々がカッコよくないのだ。

 10年経って「うずまき猫のみつけかた」を読み返せば、この本を書いた時の村上春樹の心情が解るようになっているかもしれない。遅れて来た僕にとって、村上春樹は、永遠に10年あとの作家なのである。


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