うつろな男
THE HOLLOW MAN

 題名は忘れたが、筒井康隆の短編に、テレパシストのエリートが主人公となった作品があった。人の心を読んで手を打つことができるため、若くして行政のトップを任せられた青年が、赴任先でノン・キャリアの男性の出迎えを受ける。

 たたき上げの上にようやく先の地位を確保した男性は、テレパシストの能力があるからといって、ポンと後がまに座った青年が我慢ならず、引継の時に心を罵倒の言葉でいっぱいにして、必要なことを心の表に浮かべない。心を読んでも悪意ばかりが伝わって来るエリートの青年は、徒労感に襲われ、最後は泣き出してしまうという結末だった。

 エリートの青年が、読もうとした時にだけ心を読むことができる、指向性のテレパシー能力の持ち主だったのかは覚えていない。ただノン・キャリアの男性の立場になって、相手が心を読むと解った時に、自分が心をブロックする能力を持っていなかったら、やはりそういう対処の方法を取っただろうと、妙に共感した記憶が今もある。

 また、たとえ罵倒の言葉でも、それだけで気持ちをいっぱいにしてしまうことができる、ノン・キャリアの男性の強靭な精神力にも惹かれた。目の前の美人のことを考えた次の瞬間に、チラシ広告の「ヌード美人」の文字、ロンゲーが履いているエア・マックス、窓の向こうの景色といった具合に、電車に乗ってひと駅を移動する数分間だけで、考えていることがぽんぽんと変わってしまう自分には、とても1つのことを考え続ける自身がない。もっともテレパシストにとって、脈絡のない思考が濁流のように押し寄せてくるのも、また辛い経験には違いはないだろうが。

 ダン・シモンズの新作「うつろな男」(内田昌之訳、扶桑社、1800円)に登場する数学者のジェレミー・ブレーメンは、人々の考えていることが無指向性のアンテナを広げているように伝わって来る、一種のテレパシストだった。といっても筒井康隆の短編に登場するエリートとは違って、能力が生活や仕事に訳に立つということはまるでなく、それよりは意識して精神シールドを張って、脈絡のない言葉が何十人、何百人によって同時に発せられている、騒音のような精神的おしゃべりの渦中から逃れることに、安息を見いだしていた。

 9年前、偶然出会った女性ゲイルもまた、無関係な人々の精神的なおしゃべりに悩まされ続けたテレパシストだったが、ブレーメンと一緒になった時だけ、お互いの力が干渉しあうのか、ぴたりと周囲の精神的なおしゃべりが止んでしまった。加えてお互いの心の奥底までをも深く共感することができるようになり、これは好機とブレーメンはゲイルと結婚し、幸せな生活を営んでいた。ゲイルが脳腫瘍によって斃れるその日まで。

 妻の死によって再び喧噪の直中へと放り込まれたブレーメンは、以前にも増して精神的なおしゃべりに苦しめられるようになり、二人で住んでいた家を飛び出してフロリダへと向かう。そこでマフィアの絡んだ事件に巻き込まれ、全米中を逃げて回るようになり、ホームレス生活、奇妙な農場での生活、この時だけは能力を生かしたギャンブラー生活と、職も住処も点々としながら、東へ西へと全米中を移動する。

 アメリカが抱える社会問題を切り取ったロード・ノベルのようなパートの合間には、「眼」と題された章が挟み込まれる。そこでは知り合って夫婦生活を営んでいるジェレミーとゲイルが、生と死の問題、思考と精神の問題を科学的に解明しようとする研究に触れ、没頭していく様が描かれている。

 死んだら人はどうなるのか。天国に行く(それとも地獄に堕ちる)魂などは存在せず、ただ存在を止めて肉体は朽ちていくなかりという結論が、科学者としての科学的な見解だと言えるだろう。しかし議論が重ねられ、研究が進んでいく過程で次々と繰り出される科学理論、数式などに幻惑される内に、読者は精神の存在、平行宇宙の存在を次第に心に植え込まれていく。

 物語の最初の方に登場する、車椅子の少年ロビー・ブスタマンテとの邂逅が、死んだ妻の面影を思い浮かべながら、全米をさまよっていたブレーメンに、しばしの至福の時をもたらす。そのことは、肉体が精神を定義することを逆に見た、精神の存在によって肉体が定義される可能性をブレーメンに思い至らせ、一見悲劇的な、けれども信じているものにとっては希望に満ちた結末へと導かれる。そして、リアルな世界では逃避にしか見えないブレーメンの行動が、刷り込まれた理論と数式によって意味のある、愛情と勇気に満ちた行動として読者の前に呈示される。

 ブレーメンの辿った運命を、信じるか信じないかは読者の自由。だが無しか残らない死への恐怖に、ただ脅え慌てるくらいなら、たとえSF作品で展開された議論であっても、夢を信じて1票を投じたいという気持ちにかられる。もっともしがない独り身では、死の恐怖から逃れて永遠の生に想い憧れるのではなく、作品のブレーメンのように、最愛の妻の姿を追い求めた結果与えられた至福の結末を喜ぶようになりたいと願っても、しょせんはかなわぬ夢なのだが。

 ロード・ノベル、テレパシストの悩み、肉体と精神の関係と、様々な難しいテーマを含んだ小説ながら、ダン・シモンズの語り口はエンターテインメントの精神に徹している。次々と新しい事件、新しい発見が文中に盛り込んで、決して読者を飽きさせない。合間に複雑な数式や難解な理論が挟み込まれるため、「夜の子供たち」よりも「殺戮のチェス・ゲーム」よりも、物語としてのメリハリにやや欠けているような気がするが、それとて作者は納得づくの計算づくでやっているのだろう。

 その証拠に、ロード・ノベル的な物語の部分と、それらの合間に挟まるジェレミーとゲイルとの結婚生活の描写とが結合し、やがて真実が明かされ衝撃のラストシーンへと向かうその手際の良さは、まさに稀代の物語師、ダン・シモンズの本領発揮というところ。複雑な数式の存在や難解な理論の存在やもはやどうでもよいこととなり、ただひたすらに主人公たちの幸せを願って止まない自分が立ち現れる。

 すべては妄想と片づけられるオチかもしれないが、やはりここは精神の強さが勝利したのだと感じとりたい。移り気な脈絡のない思考が身上の自分には、おそらくは永遠につかむことのない勝利だとしても、いずれこの身に訪れる、絶対に避けることのできない死を想う意味からも、「うつろな男」が苦難の果てに得た喜びを、信じてこれからを生きていきたい。


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