うなぎばか

 最後にうなぎを食べたのはいつだろうと振り返ると、前に過ぎた土用の丑あたりだったような記憶があるけれど、どこかのうなぎ屋に入って食べたということは絶対になく、あって店頭で売られている鰻丼の弁当を買ったか、スーパーなりコンビニだかで売られている鰻丼あるいは鰻重の類を買って食べた程度。そしてそれがとてつもなく美味かったといった覚えはない。

 土用の丑にはうなぎを食べようという平賀源内以来のコピーに煽られ、半ば習慣として食べているだけで、それで滋養がついて夏を乗り切れた訳ではないだろう。だから別に無理して食べなくても済みそうではあるけれど、染みついた習慣なり感覚というのはなかなかにぬぐいがたい。いずれ値段が上がり薄給では手が届かなくなった時、もういいやとなって“卒業”できるのかもしれない。

 もっとも、これがもう永久に食べられなくなると分かった時、値段が高いから諦めるといった気持ちになれるだろうか、それとも是が非でも口にしておいてその記憶を拙くても硬くてもゴムのようでもかまわないから、頭に刻みつけておこうと思うのだろうか。そうやって食べたことが絶滅の決定打となったとしたら……。後悔はしないか。そうなった時はもう早いか遅いかの違いでしかないのだから。

 そうなのだ。もう遅いのだ。それがうなぎに対する目下の環境的で現実的なシチュエーション。10年くらい前のスーパーはもとよりコンビニまでもがうなぎを大量に扱うようになった以前に時間を巻き戻せればどうにかなったと思わないでもない。とはいえ、日本が縮小させても人口が増え続けて豊かになり続ける中国とか、日本の習慣を取り入れうなぎを食べ始めたら、日本がどうとか言ったところで絶滅への道は止まらないだろう。

 運命なのだ。そう諦め絶滅を、もしくは禁漁を経た少し未来に生きる人間たちは、うなぎに対していったい何を思うのか。それを考える一助になりそうな小説が、倉田タカシの連作短編集「うなぎばか」(早川書房、1400円)だ。

 老舗のうなぎ屋が店を閉め、店主はベジタリアン向けの料理人になっていて、その息子は将来の培養なりが可能になる時代に向け秘伝のたれを受け継ぐべきか否かを問われる「うなぎばか」に始まって、うなぎに限らず海洋資源が枯渇しかかっている未来に起こる、監督官と密猟者との戦いが描かれた「うなぎロボ、海をゆく」、水産会社の元女子バレー部員たち4人が、持ちこまれた南米の奥地で飼われているという山うなぎとやらを求めジャングルを行く「山うなぎ」等々、うなぎに関わるエピソードが幾つも収録されている。

 山うなぎの意外な正体にそうなのかと思ったりもしたし、日本では割と普通に食べられているんじゃないかと思ったりもしたけれど、世界的にはそれを食べるのは厳しかもしれない。日本人だって好んで食べる訳ではないし。

 拾ったタイムマシンを使い、土用の丑のコピーを考えた平賀源内に会いに行ってそんなことしないでとお願いする「源内にお願い」も、だからといって絶滅の未来は変えられずそれどころか人類の未来にだって関わってくる展開に、地球の生きる生命として足下を見つめ直すべきだと思わされる。

 そして、「神様がくれたうなぎ」。神様にお願いして絶滅が少し伸びるならお願いするべきか、それでどうにもならないなら自分の好みを生かすべきか。迷うところだ。ともあれ読むとやっぱりうなぎが食べてみたくなるエピソード。土用の丑も近い7月上旬に発売して、読ませることによって読者をうなぎ屋へと足を運ばせ、絶滅の決定打を放つためにどこかから送り込まれた反うなぎにして親鰻丼連合の鉄砲玉かもしれない。ベストセラーになってうなぎが食いまくられて一挙に絶滅したら、作者も早川書房も責任とってと言われるかも。誰に? もちろんうなぎに。


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