海をみあげて

 鯨が空を飛んでいるのを見た人はいない。当たり前だ。鯨は海に泳いでいるもので、その姿だってイルカとかとは違って滅多なことでは拝めはしない。

 黒潮が流れる小笠原諸島とか、オキアミがいっぱい集まる氷の海とかにいってやっと泳いでいる鯨が時折水面上に頭をのぞかせては、盛大に汐を吹き上げる様を見られるくらいでそれすらも、本格的に探してようやく出会えるといったところ。いくら海に鯨が増えたからって海はとてつもなく大きい。鯨でいっぱいに埋め尽くされるなんてことは地球が滅びる時になったってありはしない。

 ましてや空だ。空に鯨は住めはしない。だいたいが重たい鯨が空中を泳ぐはずがない。だから浅霧町の上空を飛ぶ鯨は幻だ。10年前。大震災が起こって1000人近くが死亡した時、どんな時空のひずみが生まれたのかは分からないが、なぜか鯨が空に現れるようになった。
 鯨といっても幻だから、飛行機が飛んでも鯨にはぶつからずにすり抜けてしまう。鯨も気付かないまま悠然と泳いでどこかへと消えていく。ただひとつ。吹き上げた潮と起こした波しぶきだけは空中に広がって、雨になって地表に降り注ぐ。10年前の震災では、現れた鯨が潮を吹いて波を起こして降らせたことで、町を焼いていた炎が消えた。だから鯨は街にとって恩人なのかもしれない。

 けれども、鯨が現れたから地震が起こったのだという見方も出来る。どちらなんだろう? どちらにしても人は大震災の痛みとともに鯨を記憶している。だから鯨が現れた時に、モーツァルトを鳴らして鯨の訪れを知らせようとする青年の行動を良く思わなかった。青年の家にゴミを投げ込む意地悪をした。

 女子中学生の真琴は、そんな町の人たちと違って空を飛ぶ鯨が大好きだ。現れれば空を見上げ、空が見えない時でもモーツァルトが聞こえてくれば天井を透かして、空を行く鯨を感じようとする。ついにはモーツァルトを鳴らす鈴村康平の家を訪ねて話を聞き、モーツァルトに批判的な人たちが投げ捨てていくゴミを片づけ、庭を綺麗にしようと申し出た。

 そこに現れたのが同級生の鈴村洋助。聞けば康平の弟で、優しい康平と違って洋助は真琴には妙に厳しく当たる。何でだろう? それは大好きな兄がモーツァルトのことで嫌われていることが悲しく、それを思い出させる真琴の前向きさが鬱陶しかったからのかもしれない。とはいいながらも洋助は、真琴の素直さに何かを感じ、いろいろあったその後は一緒に掃除をして、一緒に出かける仲になる。鯨が取り持った縁、ともいえる。

 日比生典成の「海をみあげて」(電撃文庫、587円)はだから、空に現れる鯨の謎を探る話でもないし、ましてや鯨を相手に自衛軍を編成して退治に向かう話でもない。鯨はきっかけ。人が何かを取り戻すための。

 町に放たれた火が燃えさかる時、現れた鯨の噴く潮の有り難さを知って、10年前の鯨の功績を思い出し、町の人たちは自ら動こうとする。町を飛び立ちアメリカへと気球で向かおうとする女性の冒険を鯨は応援し、そして米国に留学しようとする洋介に憤る真琴の心を静めて前へと向かう力を与える。鯨はシンボル。復興の。そして前進の。

 鯨が時空をひずませるからなのか、浅霧街には不思議な現象が起こる。ここで取られた写真には誰も写らない。映像にもやっぱり映らない。理由は分からないけどそれを町の人たちは受け入れている。だから小さい女の子が現れて、昔撮ってどこかに埋めた写真を探しているんだといわれて奇異に感じたものの、他の町で撮った写真なんだろうと考えいっしょになって探してあげて喜ばれた直後。起こった出来事は涙を誘うけれどもその出来事が1人の老人の止まっていた気持ちを前へと促す。鯨のおかげ、なのかもしれない。

 気持ちから言えばもうちょっとだけ、例えば時空のひずみが空に鯨を映しているだけだとか、悲惨さに直面した人の想いが生み出した存在だとかいった、鯨の存在する理由めいたものが欲しかった気もする。残酷めいた話へと向かうけれども、主人公たちが暮らしている浅霧町は、震災で燃え尽きてしまった町と、そこに暮らしていた人たちの想いを飲み込んだ異次元の鯨が見ている夢のようなもので、故にそこで取られた写真には誰も写らず、映像にすら記録できないんだ、といった設定が成立しても興味深い話になったかもしれない。

 ただこれだと余りに残酷過ぎる。だから理由など語られないまま想像することが正しいのかもしれない。空の海を泳ぐ鯨によってもたらされる前向きな気持ちを、ここは大事にしたい。


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