海の仙人

 ひきこもり男性に女性作家が援助を申し出る、「NHKにようこそ」を反対側から見たようなストーリーを持った「ニート」(角川書店、1200円)が大人のためのライトノベルであったように、同じ絲山秋子の長編「海の仙人」(新潮社、1300円)もまた、2人の女性の間で惑う男を描いた「わたしたちの田村くん」にも類する、大人のためのライトファンタジーといった趣を持った作品だ。

 3億円の宝くじが当たり、それを機会にデパート勤めを止めて敦賀の海辺の町へと引っ越しては、仕事に就かず投資もしないでリタイアに近い生活を始め、空き家を買って住み始めた河野勝男が主人公。そして物語は、河野の所に「ファンタジー」と呼ばれる、神様とも幽霊ともつかない存在が現れて、アドバイスとも説教ともつかない言葉を発し始めたところから幕を開ける。

 もっともそんな「ファンタジー」の干渉を厭う訳でもなく、男は日々をゆるりと暮らしていたある日のこと。ジープに乗って敦賀までやって来た、岐阜で輸入住宅の販売会社に勤める中村かりんという女性と出会ったことで、河野の暮らしに変化が起こる。休日を利用して、白砂の綺麗な島に泳ぎに来たというかりん。彼女を島に案内したことから仲良くなり、河野はそのままかりんとのつき合いをスタートさせる。

 その一方で、元いたデパートで同僚だった片桐妙子という女性が、長い休暇を取ってアルファロメオを転がし河野を訪ねて来る。敦賀で河野や「ファンタジー」とともに数日を楽しんでから、妙子は河野が過去にいろいろとあった姉を訪ねる旅行につきあって、供に新潟へと向かう。

 そこで河野と別れようとする間際。あくまでも河野の友人然として振る舞っていた妙子が、なぜか河野の後ろ姿から目を離さず見つめ続ける。そんな姿に河野は妙子の本心とも言える愛を感じる。けれども既にいるかりんとの関係を大切に思って、河野は妙子の想いを遠ざける。

 どちらも大切にしたいけれどそうはいかない関係は、幼なじみと新しい知り合いとの間で板挟みになってもがく「わたしたちの田村くん」に似た雰囲気。ただし「海の仙人」の主人公の河野は、優柔不断にはせずかりんの方をとりあえずは選ぶ。かといって結婚に至ることはなく、河野は過去に姉との関係から負った心の傷を埋めきれないまま、体を重ねない淡々としたつき合いをかりんとつき合いを続ける。

 その果てに、悲しい別離が訪れそして、今ふたたびの妙子との関係が浮上し物語はクライマックスへと向かう。絶望か。それとも希望か。雲のたれ込めた冬の空の向こうにある、春の明るい空の訪れは物語からは伺えない。

 気になるのは、神様とも幽霊ともつかない「ファンタジー」の存在だ。見ればそれが「ファンタジー」なんだと誰もが気が付く存在。例えるならデ・ジャ・ヴュとでもいうのだろうか。けれども神様として奇跡を起こす訳でもなく、逆に悪いことをする訳でもなくただ淡々として、言葉を発して迷う人たちを迷わし悩む者を悩まし続ける。

 あるいは「ファンタジー」は人の迷う心を象徴した存在で、田舎の一人暮らしを楽しんでいるふりをしながらも、姉との断絶した関係に悩み、現れた2人の女性との関係に迷う主人公は、現れた「ファンタジー」を一目見てそれと感じたのかもしれない。またつき合っている河野との関係を深めたいと想いながらも、仕事への魅力も断ち切れないかりんも、ファンタジーの存在見れば「ファンタジー」なんだと分かったのかもしれない。

 けれども片桐妙子は「ファンタジー」を見る間でそういった存在のことを知らなかった。、同僚だった男への思慕の念を抱きながらも、言い寄れず虚勢を張って姉御肌を見せたまま、かりんにすっぱりゆずって身を引いた妙子はだから、迷いの象徴である「ファンタジー」を知らなかったのかもしれない。

 迷うことで開かれる未来への可能性を示す存在。あるいは「ファンタジー」をそう捉えることも可能だ。故にかりんを失い視力も失って半ば絶望状態にあった河野の前に「ファンタジー」は姿を現さなくなったのかもしれない。

 もちろんそれは想像でしかない。真相は分からない。分からないけれども人間だけが出てきて心をぶつけあった時に、生まれるだろう怒りや哀しみや怯えや喜びといった、激し過ぎて他人をともすれば傷つけてしまう感情が、間に「ファンタジー」を挟むことで和らげられているように見える展開が、迷いを受け止め悩みを飲み込み、大人を子どもへと戻してくれる「ファンタジー」の存在に、大きな意味を与える。

 ともあれ不思議な味わいの、そして柔らかくて暖かい感情の浮かぶ物語。読んで貴方だったらどっちを選ぶか迷いつつ、自分にはファンタジーは現れてくれるのだろうか、それだけ未来を未だに諦めず、迷いと不安とそして希望を抱き続けているのだろうかを考えてみるのも面白い。


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