繕い裁つ人 1

 25年ほど昔に買ったツイードのジャケットを取り出して羽織る。茶色いチェックの3つボタンジャケットは、ところどころを虫が食って下地がのぞき、肘のあたりも少しばかり薄くなって突き出ている。

 メーカーの既製品で、一切の手直しをしていないジャケットは、ふくらみかけたお腹が、ボタンを締めたときにジャケットの前立てを、少しばかりせり出させる。それでも、大きく変わってさえいなければ、作られた時よりもしんなりとしてきたツイードの生地は、柔らかさを出していて、着心地良く体を包み込む。姿勢を整え、気分を落ちつかせてくれる

 「年々柔らかになって体に沿ってくる生地と仕立ての良さは、1カ月もすればあきて売ったり捨てたりする者にはわからんよ」。とある町に暮らす中田さんという老人は、年に1回の夜会に着ていくジャケットを、年ごとに体の変化に合わせて広げたり、詰めたりしながら、もう何十年も身にまとい続けている。

 その町にある洋裁店であつらえたジャケット。丁寧な仕事で評判だったその店の常連客たちが、集い語り合う場に混じって中田さんは、同じ服と長くつきあう喜びを語る。「10年、20年、おんなじ服と連れそうていけるいけるのが、どんなに幸せなことか」。

 おそらくは半年で、あるいは数ヶ月で来た服を、捨てたり売り払ったりしてしまう人には、意味が通じないかもしれない。それでも、普段は淡々と庭仕事をしている老人が、ジャケットを身にまとって毅然と話すその姿や、同じように洋裁店で1針1針丁寧に縫われたドレスをまとった女性たちが、老いを感じさせないで立ち語らう姿を見れば、服というものがただ身を包むだけではなく、心を引き出し、人生を彩るものだということを、誰もが知るはずだ。

 池辺葵の「繕い裁つ人 1」(講談社、590円)に綴られるのは、そんな、服と人との強いつながりを描いたエピソードたち。かつて祖母が1人で営んでいた南洋裁店を継いだ孫娘の南市江は、祖母と同じようにたった1人でミシンを踏んで、服を繕い続けている。

 中田さんのジャケットをはじめ、町中の人たちを幸せにした服を作った祖母の力量も受け継ぎ、デザインも縫製も素晴らしいと評判になる服を作っていた市江は、町にある百貨店に勤める藤井という青年から、ブランド化の誘いを受ける。町で1店、先代から洋裁店の服を扱っているブティックに時々出る市江の服を買い、果ては市江がミシンを踏んでいる工房にまで押し掛ける藤井に、けれども市江は頑として首をたてに振らなかった。

 着る人の顔が見える服を作りたい。着る人がお墓まで持っていけるような服を作りたい。祖母にも増して服への思いが強く、そして装う人がいてこその服なのだと考える市江には、ただデザイナーとして、あるいはパタンナーとしてブランドの服作りに関わる気はまるでなかった。

 もっとも、そんな市江の希望をよそに、町では祖母が作った服が長く着られていて、洋裁店にはそれを持ち寄り、直してもらう人が大勢いた。市江自身がオーダーメイドの服を作ることはあまりなく、店に卸した服も、買った人から手直しを頼まれる境遇。それも仕方がないと感じていたところに、居合わせた藤井が、完璧なフォルムをなぜ崩すのか、せっかくの刺繍をなぜ切ってしまうのかと憤ってみせた姿に、市江は藤井への前向きな関心を芽ばえさせていく。

 頑なだった気持ちにも変化が訪れる。祖母が多くの人を喜ばせたようなことを、自分もできればと、気移りの激しい女子高生たちのために、ドレスを作ってあげたいと言い出す。恩師から頼まれた死装束の替わりに、普段から着られる服を作ったりもする。藤井の願う、百貨店との取引だけはやはり、自分の仕事ではないと引き受けないものの、市江のファンとして、あるいは恋情もまじえて通い続ける藤井との関係は、少しづつ前へと進んでいく。

 シンプルな線と、淡々とした日常描写は、「虫と歌」(講談社、600円)の市川春子と重なる部分もありそう。もっとも、市川春子の淡々さは、SFという主題からくる異質なビジョンを日常にとけ込ませて、ここより他の場所への思いを抱かせた。池辺葵の淡々さは、日常に過ぎない衣服をテーマに据え、1人の女性の思いを入れ込むことで、読む人に改めて服とはなにかを意識させ、振り返らせる。

 キャラクターの内面に迫る筆致もなかなかに見事。淡々としてしずしずとした展開だからといって、南市江の性格は、「躾のゆきとどいた野犬みたい」と知人から評されるくらいに、豪快で強引。普段着のだらしなさ、家事のできないずぼらさ、許嫁より洋裁店を取る強情さが、淡々とした描画の奧に燃えて、藤井ならずともその存在に目を向けさせる。好きになるかはまた別の話だが。

 どうして服を作るのか。そんな、服への作り手としての思いの強さを描きつつ、どうして人は装うのかという、まとい手たちの服への思いの深さも示してみせる「繕い裁つ人」の漫画たち。服とは何か、装うこととはどういうことなのかを、派手なファッション業界を舞台にせず、小さな町の洋裁店を舞台にして、シンプルで淡々とした筆致の中に描いてみせる。

 読むうちに人は、知らず服への思いを喚起され、クローゼットに吊されたままになっている古いジャケットを手にとって、羽織ってみたくなるだろう。少し小さい? それとも大きい? ならば訪れればいい。南洋裁店へ。丁寧な仕事と深い服への愛情で、あなたにぴったりの服へと仕立て直してくれるから。


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