タイムライン
TIMELINE

 「ジュラシックパーク」のクローン技術による恐竜の復活にしても、「タイムライン」(酒井昭伸訳、早川書房、上下各1700円)での量子テクノロジーと多世界解釈を使ったタイムマシンの製造にしても、いかにも実現しそうな最先端の科学技術を物語に折り込む巧みさが、マイケル・クライトンの真骨頂の1つと言えるだろう。現役の科学者が「よく出来ている」と頷けるだけの理論だ。生半可な読者はただただ可能性を現実に近いレベルものと信じて読むより他にない。

 直観なり天啓が「現実には無理なんじゃないか」と告げていたとしても実は構わない、と思っている。科学について、量子論につてい詳しく知っていれば、それなりにクライトンの力技を楽しめるかもしれないが、別に知らなかっとしても、読む時には「そんな技術ががあるらしい」といった具合に、物語に「らしさ」を与えるツールなんだと了解しておけば、仮に実現が100%不可能であっても、物語自体は楽しめる、と思う。

 こういった捉え方は、理論のもっともらしさに着目する人たちからは怒られるかもしれないが、SF的なガジェットはシチュエーションを作り出すための道具であって、お話自体の面白さは、やはりキャラクターの立ち居振る舞いや展開といった部分にかかって来る、という意見も根強くある。そんな意見に従えば、実のところ量子コンピューターによるタイムトラベルが、想念によるタイムトラベルであったとしても、実は構わないとさえ思っている。

 とはいえ、思い込みだけで時空を自由に飛べると生じる不都合もある訳で、道具にタイミングが揃わないと時空を超えられないような設定を持ち込むという点で、「ガカクノチカラ」には有効性があるだろう。科学による論証は、妄想なり想念といった属人的な要素に比べて、一種の「制約」として物語に緊張感を与える役割も果たす。人間の都合とか思惑といったものではなく、一定に法則の元でしか発動しないという状況を作って、物語の展開を縛る。オールマイティのカードばかりのポーカーは面白くない。ルールがあってこスポーツもゲームも小説だって楽しめる。

 その上でクライトンが優れているのは、ページをめくらせる手腕の巧みさだ。アクシデントが起こり解決したと思えば次なるアクシデントが襲いかかって解決し……といった具合に、エンターテインメントの王道を行く引きの連続で、読者の興味を次へ、次へと引きつける。フランスで遺跡の発掘をしていた一行をスポンサードしていた巨大ハイテク企業。その行為に疑問を持った調査団の教授が、創業者につめよった挙げ句に見せられた過去の世界で行方不明となったことから、物語は教授の下で働いていた学生たちを巻き込んで、100年戦争の最中にある中世ヨーロッパを舞台にした領主と反乱者との城を巡る攻防戦へと発展していく。

 どちらに見方しているのが分からない謎めいた美貌の未亡人の存在や、やはり謎めいた出自を持つ凶悪な騎士の存在などが絡みつつ、過去に閉じこめられた教授と学生たちの命からがらの冒険が続く。未亡人の美貌に魅せられた学生の健気な振る舞い、騎士道に憧れていた別の学生の騎士に関する知識の開陳等々、過去に送り込まれてあがく人々の生き延びようと懸命ながらも憧れの場所で好奇心を充足させようとする様に、過去へと旅立つ幾多の物語でも堪能できた「あの時、あの場所で」といった感覚が呼び覚まされ、刺激される。

 さらにクライトンは、量子テクノロジーによって実現されたタイムトラベルがはらむ転写エラーの問題も、巧みに物語やキャラクターの行動へと折り込んで展開に関わらせていて、単なる最新の知識を題材にしたガジェットの自慢に留まることなく、最新のテクノロジーによって起こりうる可能性を、物語の展開の中で自然に明示して見せてくれる。物語の奔流に流されながらも、懸念はしっかりと植えつけてくれる啓蒙性もまた、クライトンの真骨頂かもしれない。

 現世で分解され多世界で再生される意識が現実な意味で連続しているのか、という疑問は現世に存在する各位の脳こそが意識の源という前提に立つとなかなか難しく、肉体がそのまま移動する訳ではないタイムトラベルへの潜在的な恐怖となって心を脅かす。客観的に見れば連続していても、自分が自分ではなくなる恐怖は避けられない。こういった点を量子テクノロジーはどう判断しているのかを知りたい。

 ラストの溜飲の下げっぷり、ロマンスの成就っぷりもエンターティナーならではの結末で、ただただその巧みさに嘆息する。難しいようで分かりやすく、優しいようで奥深い、読む人の知識のフェーズや関心のベクトルにあわせて様々なポジションから堪能でき、かつ高く評価できる極上のエンターテインメントだと、「タイムライン」は言えるだろう。

 それにしても金持ちの創業者が莫大な資金を当時で得ようとしたものは、過去を「正確に」再現するためのツールであり観光収入だったのか。動機として少しばかりの軟弱さを感じるが、金持ちと天才はいつの世も分からないもの、レオナルド・ダ・ヴィンチの素描を買い、アンセル・アダムスの写真のデジタル化権を手中に修める文化好きな面も見せるシアトルの天才が、小説の後塵を拝したことへの憤りから、現実の世界で最先端を行こうとする姿勢を見せる日が来るかもしれない。その日にむかって歴史学者は、物理学者は、すべての学者はシアトル詣でを欠かさないことが寛容、なのかもしれないと、やっぱりクライトンは教えてくれている。


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