手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ

 ファミコンは買ってもらえなかったし、スーパーファミコンも買わなかった僕が最初に手にしたゲーム機はセガサターンで、それで「サクラ大戦」を2周くらいしたのがサターンに1番触れた機会だった。プレイステーションも買って、こちらでは「みんなのゴルフ」や「パネキット」を遊んだか。プラットフォームを変えてきたドラクエにもFFにも触れなかった結果、今に至るまでFFは1本も、そしてドラクエはiPadで最初のをプレイした程度に止まっている。それが僕のゲームとの距離感。つまりはちょっぴり縁遠い。

 ドリームキャストも「サクラ大戦2〜君死にたもうことなかれ〜」の専用機と化し、他には「シーマン」を試した程度。ニンテンドー64は「マリオゴルフ64」と「F−ZERO−X」がメインで、XboxもXbox360も買ったもののほとんど遊んでない。WiiはEAのフィットネスゲーム専用機。そしてプレイステーション3はBlu−ray再生専用機。以後の据え置き来は僕の部屋には置いてないし、置く場所もない。

 ゲームボーイ? ニンテンドーDSや3DS? 持ってはいるけどポケモンシリーズをやらない僕には「ラブプラス」が1番遊んだソフトといったところ。スマートフォン向けアプリも「けものフレンズ」関係のタイトルを今は毎日ちょっとづず眺めるくらいで、そこに購入費はあっても課金は未だに1銭も発生していない。「Fate/GrandOerder」には触れたこともない。そんな距離感。やはりゲームとは縁遠い。

 そんな感じにゲームとは離れていて関係も薄い人間でも、ゲームセンターで格闘ゲームにかけるゲーマーの冷めた熱をすくい上げた大塚ギチの「東京ヘッド」は、そこに描かれている心情をどうにかつかむことができた。大昔にゲームセンターで「スペースインベーダー」に何枚もの100円玉を注ぎ込んだ記憶が、10数年を経て喚起されたからかもしれない。

 そんなゲームセンターに漂っていた残り香を漂わせつつ、オンラインゲームへと移行した世界を舞台にしたバトルが登場した桜坂洋の「スラムオンライン」も、取材を通してはやり始めていたMMORPGなりを一方に見つつ、タイムラグなしで通信ができるようになれば格闘ゲームも可能になるといった想像力からその楽しさを感じ取ることができた。

 距離は離れていても、空気はまだ吸え香りも感じ取れた場所にあったゲームの世界の描写が、藤田祥平の「手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ」(早川書房、1700円)ではすっと離れた場所院置かれた書き割りのように感じられた。理解はできる。eスポーツと呼ばれるゲームの大会を取材した経験が、「手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ」に描かれるゲーム大会の描写に関して、ゲームセンターで筐体を挟んでバトルをしていたゲーマーたちの熱さを今に移したようなものだといった認識をもたらしてくれる。

 ただし、オフラインでのeスポーツの決勝大会とは違って、「手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ」に描かれるのは、それぞれが家などに居てネットを介して行うオンラインでの対戦で、そこにはスタジアムに集まった観客が実況に一喜一憂しながら、繰り広げられる戦いを見守るようなスポーツ観戦的興奮はない。どこか乾いていて、そして静けさすら感じさせるものとなっている。

 中では血みどろの戦闘なり、壮大な宇宙での戦争なりが繰り広げられていても、それに携わっている人たちは家にいてイスに座ってディスプレイに見入りマウスなりキーボードを操作している。乾いていて静謐なゲームとの関わりは、生活のかたわらにあって汗を飛び散らせながら繰り広げられていたゲームとの関わりとは違ったものといった印象で、そこに自分のゲームに関する思いを添えようとしても、なかなかうまく添えられない。

 淡々として描かれるゲームとの関わり。中学時代から熱中して高校を途中で退学してのめり込んで勝負に挑んで決してトップには立てない厳しい世界の、その状況から浮かぶ主人公の心の動きは分からないでもないけれど、だからどうしたといった程度に収まってしまって、半歩から1歩、つづられた言葉たちから身が遠ざかってしまう。そうした場所から眺めると、つづられている日々は、刻まれていくカレンダーへの×印を眺めているような文章の羅列として見えてしまう。

 小説か、といえばこれも小説なのだろう。日記のように見せかけて幻想が混じり、空想が入って虚構との区別がつかなくなるような文体は、ある種のマジックリアリズム的な雰囲気を醸し出す。望むなら、もっとより現実と虚構をシームレスにつなげ、ゲームという仮想の世界との境界線も溶かして混沌とさせて欲しかったけれど、それは相当の統御力がなければただの断片の羅列に止まってしまう。「手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ」はだから、意図して文学していくような計算とは無縁の、記憶をさらい表層を舐め時に深層をすくって吐露していく言霊に近いものになった。

 それが結果として小説となり、印象として文学になっていたところに、書き手の才気を見ることは可能だろう。破綻して支離滅裂にはなったりせず、きっちりとエピローグをまとめて来たところは、いろいろと思考された結果としての構成と言える。

 もっとも、そうした冒頭と結末の間につづられていった中学・高校のゲーム三昧の日々と、大学に入ってからの文学への傾倒との統一感のなさは、きわめて私的な感情の吐露を優先させた結果と言えるのかもしれない。細部に及ぶ心情の変化があまりつづられないままに母親が弱り、鬱となって自死を遂げ、それに揺さぶられて迷った果てに本人も自殺未遂を引き起こすような展開は、もっと煮詰めて自身の感情のはけ口にすれば、青春の叫びを放つ私小説をそこに描けた気がする。けれどもそうとはならず、日常として起こって日常として過ぎ去り、その中で少しずつ心を蝕む材料として羅列されている。

 帯にあるようには、母親の首つりという衝撃的な出来事と、その時にゲームをしていたという凡庸すぎる行動とのギャップを感じて、イマドキの若者の生態をそこに見いだす構成にはなっていない。後悔して気持ちが揺れて幽霊を見て自殺未遂も引き起こす。どこか当然過ぎる流れは、単なる私事であり私心のメモだととられかねないところがある。私小説ならそこからどれだけの心の葛藤を引っ張り出して言葉にして並べたか。そう考えた時に、「手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ」において、帯に取り上げられた部分は、実はキャッチだけれどメインではなかったのだと思えてくる。自分というものを語る上での材料。そんなところか。

 最大の読みどころになりえた部分が、もちろん底流としては存在しながら核とはならなかったこともあり、そこに感情を添えたり、逆に忌避感を覚えたりして読むことを困難にした。結果、子供のころからネットに親しみ、ゲームで遊びちょっとだけのめり込みすぎて不良めいた日々を送り、思い直して大検を受けて大学にはいりセンダ(浅田だろうか)から学び、そしてゲームへと戻りつつ現実へと近づいていくという、そんなひとりの人間の半生を遠巻きに眺めるような印象になってしまった。ゲームから縁遠い身には、それはだから遠くの書き割りに映っても仕方がない。

 ただし、同時代を生きるなり今まさにオンラインゲームの中でバトルをしながらプロを目指しているゲーマーたちにとって、先達であり成功者でもある人間のつづった苦闘として、強く共感を覚えるだろう作品であることは否定しない。なりたかった自分。なれなかった自分。なろうとしている自分。なってしまた自分をそこに見て、そしてこれからの生き方を考えるための指標になっているのかもしれない。

 そういった人たちから出てくる絶賛の言葉に、やはり自分との縁遠さを覚えつつ、それでも冷熱から遠ざかり湿潤の中におぼれるような感じもなく、乾いて静かな雰囲気を醸し出している今のゲームの世界、ゲーマーたちの日々の中にあるだろう熱い思いを、そこにしか居場所がない者たちの強い覚悟を探っていかなくてはならない。そのことだけははっきりと、明確に思わせてくれる作品だった。ここから何かが始まる。そんな気がする。そう願いたい気がする。


積ん読パラダイスへ戻る