黄昏百鬼異聞録

 ああそうか。

 屍肉だけを食らう妖怪の魍魎が、この現代で生きていくためには、数少ない土葬の墓を暴く必要も、葬式に忍び込んで棺桶から死体を盗んで食らう必要もないのだ。都会だったら、30メートルも歩けば1軒は出くわすコンビニエンスストアに入って、黒胡椒チキンでもフライドチキンでも買って食べればいい。立派に屍肉。おまけに調理済み。美味くないはずがない。

 そうなのか?

 蒼月海晴の「黄昏百鬼異聞録」(講談社、1000円)によれば、セーラー服を着た美少女の姿をした神楽という名の魍魎は、彼女のような存在が見える「見鬼」の力を持った九十九秀真という少年の周囲に現れては、彼が出むいた先へとついていく途中、コンビニエンスストアで黒胡椒チキンを買って食べ、空腹を満たす。挿し絵として描かれた、コンビニで調理品を物色する神楽の物欲しそうな表情からは、黒胡椒チキンを不味いとは思っていなさそうな気持ちが伺える。

 とはいえ。

 魍魎はやっぱり人の死体を好む様子。秀真をおそらくは虐げていた彼の父が死に、病院へと行って死体と対面して家に戻ってきた秀真の側に寄って、神楽は「美味しそうな匂いを纏わりつかえているのね」と言う。だから葬儀のために病院から戻ってきた死体が、忽然と消えてしまった時も、骨の髄まで綺麗に平らげたのではないかと疑われる。

 もっとも、真相は別にあって、妖怪よりも恐ろしい存在、すなわち欲得にまみれた人間によって死体が持ち去られていたことが分かって、神楽が見境なく死体を貪る存在ではないことが見えてくる。妖怪にしては理性的。そして妙に秀真に親身な神楽が、どうして幼い頃から秀真の周辺に現れ、纏わりついているのか。そんな疑問を抱かせながら、物語では、見える秀真が妖怪変化と出会ったり、誰か別の人が巻きこまれた妖怪変化にまつわる怪異を収めたりするエピソードが連ねられていく。

 東京の王子で大晦日に繰り広げられる狐の面を被っての行列を、見たい出たいといった同級生の少女と連れだって、王子まで出むいた秀真は、結界らしきものがあって近くには寄れない神楽が、コンビニで黒胡椒チキンやフライドチキンを買ってどこかで食べている間、稲荷へと近寄っては常世へと紛れ込んでしまい、そこで稲荷の眷属たちに禍々しい存在と襲われる。幸いにして環という名の稲荷大明神から、直々に秀真は違うと認められた上で、小太刀を拝領して浮世へと戻る。

 死んだ父親の代わりに保護者として秀真と同居を始めた父親の弟で、妖怪を研究し、小説も書いている輝一が、祖父とともに出歩いていた幼い頃、道で出合ったべとべとさんという、人の後ろを付けてきて、先に行けと言うとすっと抜けていく妖怪と再開するエピソードでは、そのべとべとさんが実は「闇主」という人の想像を映してしまう妖怪で、輝一の想像を受けてべとべとさんの姿となって現れたこと、そして闇主自身は、ある企てから人の思いがそこらじゅうで具現化し過ぎて、力を衰えさせてすまっていることが綴られる。

 その企てとは、ある妖怪によってもたらされたもので、その妖怪こそがかつて神楽をこの世に生み出す原因となったもの。過去の因縁を知り、今の苦境を見た秀真による戦いが始まる。

 緑川ゆきの漫画「夏目友人帳」に出てくる夏目貴志は、妖怪たちが見え、言葉も交わせる境遇ゆえに、幼いころから周囲から遊離し、疎まれ避けられ続けるなかで、自分が“見える”ことを明かさず、周囲にもその存在を知らないように振る舞っていた。すべての災厄は自分が背負えば良い。そんな思いで身を犠牲にしながらも、一方では大勢と触れあえる日々を思っていた夏目は、転校した果てにたどり着いた場所で、友人たちが出来たことを心から喜び嬉しがり、一部には見えることを明かして共に同じ災厄を分けあうようになる。

 秀真からは、そんな夏目のような鬱屈や、屈託はあまり漂わない。見えるといっても悪さをしかけてくるような妖怪たちがいなかったこともあるし、秀真自身がそんな妖怪たちを祓ったり、斬り捨てたりするようなことをするくらいなら、自分が傷つく方を選ぶ性格だったこともある。そう言った秀真に神楽が、すこし逡巡したような反応を見せた理由は、彼女が魍魎となった経緯とも絡んで、人に禍を成す妖怪と出会った時に人はどう振る舞うべきなのか、という選択を迫る。かつて存在した鬼斬りの巫女のようになるべきか。秀真のように受け入れるべきか。

 秀真の学校を混乱に陥れ、輝一がべとべとさんと再開しながら、離別の可能性に怯える要因となった妖怪を相手にしても、同じように共存を示せるかという問題もはらみながらひとまずの幕を閉じる物語。おまけのように、古本屋でバラバラに売られている全集を集め、ひとりの少女の妖怪に全身を取り戻させるエピソードも添えられ、妖怪たちの人を脅かすだけでなく、人に寄り添い求め合って存在している、この世界の楽しさも見せてくれる。こんなに可愛い妖怪なら、見たいし会いたいし、いっしょにいたい。

 どうすればいい?

 信じること。信じ続けてあげることがやはり必要なのだろう。王子の稲荷神が今も霊験あらたかに町を守っているのなら、大晦日には狐の面を被って行列をつくり、讃え崇めて奉る。恐怖という強い力で信じれば、大きな恐怖となって襲いかかってくるのなら、そうでない一風変わった隣人として、そっとその存在を思い続ける。そうしてあげることで妖怪は在り続け、美しい姿でコンビニに黒胡椒チキンを買いに来てくれる。出会えたなら聞いてみたい。美味しいのかと。答えてくれるだろうか。美味しいわよと。


積ん読パラダイスへ戻る