恋するたなだ君

 デビュー作の「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」(小学館、1300円)が持っていた、底抜けに明るくてポジティブシンキングな面々、一致団結して難局に挑み打破していく痛快さに酔いしれた人なら、1作挟んだ藤谷治の第3作目「恋するたなだ君」(小学館、1400円)にも、きっと心からハマれるはずだ。青年が抱く純情一直線の恋心が、あらゆる障害を乗り越え貫かれていく様に、もやもやとした気分を晴らされ、明日へと向かう勇気をもらえるから。

 日産自動車が出してた「パオ」という可愛らしい車を走らせていたら、いつの間にか迷い込んでしまったどこかの街で、「僕」ことたなだ君は女性の後ろ姿がきらりと輝くのを見て、脳天にぴかぴかと稲妻が走った。容姿に惹かれた訳じゃない。顔を確認する視神経より先に心が捉えられてしまった模様。たなだ君はそのまま「パオ」を転がし女性の後を追い掛け、クラクションを鳴らして振り向かせることに成功する。

 当たり前ながら女性はたなだ君を知らない。「パオ」のキャンバストップから186センチの長身を突きだして、ぶんぶんと手を振るたなだ君をむしろ気味悪がって、女性は逃げるようにビルの中へと入って行ってしまった。そこで諦めれば話も終わったけれど、それで諦められないのが一目惚れという奴の凄さと素晴らしさ。彼女が入ったビルの壁面に「パオ」をぶつけて停車させ、裏口に現れたハンプティダンプティのように陽気て不条理な警備員のコンビと中身のない会話を繰り広げ、それからビルの表へと回ってホテルだったビルの中へと突入する。

 そこにあったのは金ピカの布袋さま。そしてそこにいたのが道路で見かけた輝く女性。喜び勇んでたなだ君は布袋像の収められているガラスケースへと頭から突っ込み、布袋像を奪いに来た強盗だと間違われて捕らえられては、地下にある牢屋のようば部屋へと閉じこめられてしまう。そこでも隣近所に閉じこめられていた人たちと、中身もつかみ所もない問答を繰り広げていたまさにその時。まばさんという名だった一目惚れの女性が現れて、たなだ君に食事を差し出した。

 そして動き出した物語は、たなだ君のまばさんへの一目惚れが心からの”恋”へと変わっていくプロセスを描き出す。恋とはいったい何で、好きという気持ちがあればそれはそのまま恋なのか、それとも恋はひとときの経験であって、すぐに過去へと押し流されてしまうものなのか、そしてその後で”失恋”へと変わり人を悲しませるのか、逆に”愛”へと発展するのか等々。人間が他人に抱く感情の中でも最高に素晴らしく、最高に謎も多い”恋”というものについて、あれこれ考えさせるストーリーが繰り広げられる。

 だからといって小難しさは皆無。粗暴で身勝手でお節介なホテルの社長とか、桃が大好きだという社長秘書といった、奇矯な面々の破天荒で不条理な行動に巻き込まれるたなだ君が、まばさんと逃避行をしながら育む恋というものが如何に素晴らしさを感じさせられる。そんな温かい場所にどっぷりと浸らせられ楽しまされる。不条理が不条理のまま心に棘を残して終わることはない。読む人の誰も彼もハッピーにしてページを閉じさせる。

 地下室でたなだ君が、まばさんの運んできた「トマト・ド・サルタンナントカ」という料理を食べて、言葉が出せないくらいの美味しさにうなり、その美味しさを分かち合いたいと考えて、料理を運んで来たまばさんにも食べさせようとする場面が、タイミングといい語り口といい絶妙な折り合いで楽しい。「美味しいものに言葉はいらない」という古来からの感覚が、読んでいて心と胃袋にビンビンに伝わってくる。

 忙しいと言って走り回るウサギに引っ張り込まれたアリスが、ワンダーランドで不可思議で不条理な人々や物事のと出会って、戸惑いながらも頑張って道を進む面白さと爽快さにも似た気分を味わえるストーリー。ハンプティダンプティのおうなチェシャ猫のような不条理な奴らが繰り出す不条理なシチュエーションも同様に、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」と共通の感覚を読んでいる人に与える。

 なにより29歳でのっぽで社会から必要とされてないんじゃないかと悩んでいるたなだ君が主人公というところが、似た境遇におかれている男性読者から愛憎入り混じった反応を受けそうな気もしないでもない。もっとも一方で誰もが抱いている今への不安を体現してくれつつ、そんな不安を一発で解消してくれる出会いの素晴らしさを教えてくれる物語ということで、生きることで得られる何かを求める素晴らしさを、感じさせられないこともない。

 驚異的に不思議で、それでいてしっかりと楽しい物語。ビルの裏口なり捉えられた地下室で繰り広げられる、中身のまるで分からないこんにゃく問答の場面はやや不条理が買っているものの、読んで展開がすんなりと頭に入ってくるのは、作者が徹底してシチュエーションではなくストーリーを描こうとしているから、だろう。その意気に打たれ、誰もが”恋”する素晴らしさを改めて心に刻んで、”恋”をしようと走り始めることだろう。

 成功するか失敗するかは誰も知らないけれど、これだけは言える。”恋”はとてつもなく素晴らしい。


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