タマシイのゆくえ

 オールカラーの写真集といったらそれはもう高額なのが通常で、ペラッペラな奴でも2000円とか3000円とかするのがごく一般。買おうと思うとそれこそ小学校の校庭にある演台から飛び降りるくらいの覚悟がいったりする、朝礼で校長先生が演説している真っ最中に。

 だから松村昭宏という写真家の人が新しく出した写真集「タマシイのゆくえ」(第三書館)を本屋で見かけて、表紙の雰囲気の良さに欲しくなって、幾らだろうと思って値段を見たときには驚いた。1200円。ぜんぶで60ページ以上もあって「6色刷」という結構なも印刷技術が使われているにも関わらず、わずかに1200円という超お値打ちになっていた。

 もちろん1200円だからといって、中身が爺さんが撮ったような桜の花とか、アマチュアが30年間追いかけましたってな感じの富士山とかだったら、値段に関わらず欲しくないとその場で投げ捨てる。けれども「タマシイのゆくえ」は違う。表紙から中身から見てみたい、手元に置いてながめてみたい写真が60ページ以上にわたって満載で、おまけに値段が値段とあって1も2もなく購入した。永久保存用も加えて3冊だって購入しても良いと思ったくらいだ。

 何が写っているかといえば、「今」が写っていると答えるのが通俗だけど真っ当。それもことさらにフレームアップされておらず、かといって抑制もされていない「今」そのものが、「今」の目線で「今」の色でもって写し出されている、といった感じ。よく分からない? 見ればたぶん分かるだろう。

 コインロッカーの前で携帯電話を使って電話をかける女の子の写真を表紙に、渋谷とか、原宿とか、町田とかいった雰囲気の、ザワザワとしたエネルギーに溢れた街中での女子高生とかの(女子中学生かもしれない)のポートレートやスナップ。湘南あたりの海岸での水着姿のさわればはぜそうに膨らんだ女の子や、体脂肪のカケラもなさそうに薄くそげた胸板を持つ男の子たちのポートレート。あっけらかんとした表情に、鬱屈した自意識なんて蹴り飛ばしてあっけらかんと生きている、ように見える「今」の若い人たちの気分が漂う。

 ほかに郊外の住宅地とかラブホテルの前とかにありそうな看板代わりの「自由の女神」なんかが写った写真たち。時々雲がたなびく空とかも混じってて、喧騒と静謐とが織りなす「今」の人々の諸々の心象と、「今」の社会の諸々の様相を、写真を見る人にあれあこれや感じさせてくれる。

 解説が今の写真の動向にとても詳しい飯沢耕太郎さんだったから、というのも購入した理由のひとつで、言ってることはとりたてて目新しくはないんだけど、今をときめく”女の子写真”のほとんどを早くからプッシュしてきた人ならではの選択眼を信じるならば、この写真集も確かに今の、決してエネルギッシュにギラギラとはしていない、燻り漂うような空気を表現した写真集、ということになるのかもしれない。

 売りになっているらしい”ヘキサクロームによる6色印刷”の、それがどれほど凄いものなかは技術に詳しくないから分からない。けれども、どこかくすんだ感じがするにも関わらず、色だけは赤も青も黄色もクッキリ、というかベットリとりと出ている感じが目にも生々しく、ちょっとだけ毒々しい。女子高生か、あるいは女子中学生なのかもしれない水着姿の女の子たちの生々しさは、作り上げられたグラビアアイドルたちの写真集では絶対に感じられないもの。遠くから微笑みかけてくるアイドルたちへのそれとは違った、身近さ故の興奮が背中を走る。

 逆に人の誰もいない街並みとか空とか郊外の緑は静謐で怜悧。アラーキーこと荒木経惟の撮る空とも違った重さがあり、ホンマタカシの撮る街とも違った厚みがある。森山大道のエネルギーとも午腸茂雄の優しさとも違う。それがモチーフから来るものなのか、フレーミングから来るものなのか、色から来るものなのかを理解するのは難しいけれど、見れば感じる何かがいったい何なのかを考える材料として、1200円はとてつもなくリーズナブルだと思う。

 「綺麗なヌード」とかいってスレンダーな美少女がパンツ一丁でたたずんでいたりする写真集なのか雑誌なのか分からない本も結構出ていて、それに比べれば「タマシイのゆくえ」にはヌードの1枚も入ってなくって、目に寂しいと言えば寂しいかもしれない。けれど水着とかセーラー服とかを身につけた、今の普通の女の子たちの姿態をマジマジと見られる方が実は案外に貴重だったりする。だって電車や街並みでそんなこと、自意識過剰で鬱屈した大人にはとても出来ないからね。


積ん読パラダイスへ戻る