しゅのけつみゃく
呪の血脈

 紅白歌合戦が終わった大晦日の午後11時45分から準備を始め、コートを着込んで家を出て、歩いて10分ほどの神社に到着するとだいたい都市が明ける。手を洗いお参りしておみくじを引いて絵馬を買って、出逢った同級生たちや親戚たちに挨拶をした後で別のこちらは寺へと回って賽銭を投げ、火にあたり甘酒を呑んでから帰途につく。およそ1時間で初詣の”儀式”が終わる。

 住まいを変えた最近では、流石に同じような行動を取ることはなくなったが、それでもせめて3が日、悪くても松の内の間には近所でも名の通った神宮でも、とりあえずはどこかの神社に詣でることにしている。それを怠るとどうにも心が落ちつかない。朝に歯を磨かなくても平気な人間が初詣を怠ると気持ちに引っかかりが出来てしまうのは、それが習慣ではなくもっと別の制約的な行動様式として、つまりは”儀式”として人間の気持ちを捉えているからなのだろう。

 本来の真摯な気持ちを外れた形骸化した”儀式”にどれだけの意味があるのかは分からない。かといって無視できないのは、人間のどこまで行っても神なり精霊といった超自然の存在から気持ちを解き放てない、およそ遺伝子レベルにまで擦り込まれた何かあるのだろう。たとえ民俗学が人間の歴史と心理から行動様式の成り立ちを科学的に解明したとしても、根本にある超自然的な存在への「畏怖」「畏敬」といった気持ちの根元に、迫れるという保証はない。

 加門七海の「呪の血脈」(角川春樹事務所、1900円)に登場する民俗学者の卵、宮地が諏訪の山奥で見たコブ付きの神木。そのこぶの中にある鎌を暴いたことから「呪い」を沈める「祭り」の日々が始まった。時は現代、神木と奉る村の人々もどれほど神木の「呪い」について現実感を抱いていたかは疑問だが、それでも初詣に行かないと味わう居心地の悪さに似た心理からか、宮地を責任者に「呪い」を沈める祭りを開くことにして、宮地にも参加を求めた。

 表向きは鹿を追い、その命を奪うことで神木を危めた怒りを鎮めることが目的の祭りだったが、かつてその村に伝わっていた「裏」の祭り、すなわち怒りを鎮めきれなかった場合に最後の砦となって怒りを鎮める祭りを執り行う一族が、役目を投げ出して村から逃走したことが遠因となって、呪いが積み重なって事態を複雑にしていた。その一族、高藤は東京に済んで一家の長兄、正哉は会社勤めをして妹は学生として暮らしていた。

 だが、祭りを発動させるきっかけとなった宮地が正哉の妹、梓と接触して正哉と接触したことから「裏」の祭りへの胎動が始まる。占いサイトの予言を我が身の事と思いこんだ梓は、ただでさえ自分の血筋を聖なるものと洗脳されていたこともあって、諏訪の村へと飛んで我侭勝手にふるまった挙げ句に非業の運命へと至る。そして正哉も発動した「裏」の祭りを成就させるべく、周囲で巻き起こる数々の「死」を傍観しつつ、諏訪へ、そして祭りの成就する場所へと走り回る。

 地方に伝わる伝承によって祭られている神が怒るだけで、どうして山ほどの死人が出たり社会が混乱を来すようになってしまうのか、疑問がまず立つ。伝奇めいた話として、例えば「日本を統べる闇の一族」の暗躍といったイメージの、世界を裏から支えるなり動かす巨大な勢力の存在が明示されて、日本的なスケール感の中で小さな村の神事への意味を持たせようとするなら分かる。が、そういった感じのないままに、社会を激しく脅かす奇怪な出来事が繰り出されてしまうのはやはり解せない。仮に日本中の神様が怒ったら、いったいどれだけの人が生け贄として捧げられなければならなくなるのか、7500人か、75万人か。

 それを置けば、裏の祭りを執り行う運命を担わされた青年の、否応無しに事件へと巻き込まれていくやるせなさが心に響く。民俗学的考察に基づいて、初詣をしなければならないという「伝承」が非科学的な”迷信”だと分かったからといって、初詣はしなくていいんだと、皆が思ってしまうような事態は起こらない。正哉を自身の命すら危うい状況を省みずに、血脈に従って裏の祭りへと身を投じさせるのは、やはり畏怖なり畏敬といった感覚が、人間の脳裏から消え失せることがないからだろう。人間は初詣の”呪縛”からは逃れられない。3世代後がどうなているかは保証の限りではないが……。

 「缶蹴り」が街中で流行っていて、誰彼構わず名前を読んで鬼としてその場に縛り付けるエピソードが、やがて生け贄の選別というより大きなスケール感を持ったエピソードと重なって、「かごめかごめ」や「とおりゃんせ」が持つ呪術的なイメージにも匹敵する、恐ろしげなイメージを「缶蹴り」に与えている。諏訪大社に伝わる「御柱」との連想や、捕まえた人たちがすなわち生け贄という発想も恐ろしいが面白い。これは加門のアイディアなのだろうか。

 ここでも諏訪の小さな祭りの執行が、渋谷や新宿といった繁華街での「缶蹴り」の流行に至るのだろうかという疑問が頭を持ち上げて来る。これはこれでありとして、別に一種都市伝説めいたエピソードとして、「缶蹴り」の呪術的な側面を取り入れたエピソードがあれば、読んでみたい気がしている。新たな都市伝説として、ふいに捉えられ翻弄される恐怖を、きっともたらしてくれるだろう。


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