しょうしょうかんにちろく

 学校で並ぶ美術の教科書に、岸田劉生の「麗子像」が、日本における洋画の代表作として、よく引っぱり出される。だが美を描く、あるいは美を形作るのが美術作品なのだという教えに従えば、正面から真っ当に「美少女」とは呼びにくい少女の絵を、美術と呼ぶのに抵抗のある人は多いだろう。

 見る人によっては、真に美なるものをを極めた人たちなら、あれで「美少女」に見えるのかもしれないが、絵巻物の引き目鉤鼻ですら美人に見えないこともなく、浮世絵にいたっては美というよりほかにないほど、過去において美は順当に許容されていた節があり、明治大正になってにわかに美の基準が変わったとも思いにくい。

 「麗子像」は本当に美しいのか。実は大正期に生きていた人も、おそらくは不気味な女の子なんだと思っていたらしいことが、大正末期から昭和初期にかけての東京を舞台にした久世光彦の「蕭々館日録」(中央公論新社、2200円)を読んで判って来た。

 何でも「麗子像」そっくりな風体をするよう親から言われた麗子という名の主人公の女の子は、玄関に飾ってあった複製画の「麗子微笑」を「猫背である。首が短くて着物の襟に埋もれてしまっている。子供のくせに鼻筋は通っているのだが、目が笹の葉で切ったみたいに細く、眉も薄い。何だか暗がりの座敷わらしのようで、気味が悪い」(18ページ)と常々思っていたという。

 実に特徴をピタリと言い表した描写を読むにつけ、当時も今もそれがやっぱり真っ当な反応だったんじゃないかと思いたくなる。もちろん昭和、平成と生きて来た著者が今の感性を当時の人に移した可能性もあるが、だとしたら少なくとも著者本人は、「麗子像」を決して「美少女」だとは思っていなかたっということは確実。決して乖離した見方ではない、ということになりそうだ。

 幸いというべきか、「蕭々館日録」で主人公として語り手を務める少女、麗子は自意識の上では「麗子像」のような不気味さではなく可愛らしさを持った少女のようで、客観的にも作家の父親を慕って「蕭々館」と名付けた自宅に集まってくる他の作家や編集者、学者、医者に金貸しといった大正期に生きる「高等遊民」たちの評判も悪くはなく、皆からそれなりに可愛がられている。中でも九鬼という名の人気作家は5歳のくせに気持ちだけはませた麗子の恋心を知ってか知らずか、何かにつけて麗子を気にして話しかけ、取材に連れだし病んだ心の奥底ものぞかせる。

 実は九鬼にはモデルがいる。芥川龍之介がその人で、「文章も凄いが、姿も顔も凄い。じっと見つめられると、もっと凄い。あんな柳を枯れ尾花を背負った幽霊みたいな人が、どうしてああ女にもてるのかね」(28ページ)と仲間の1人に言われるくらい才能にあふれていながら、発狂して死んだ母親への愛憎に心を痛め、自分にもそんな日が来るのかと怯えながら生きている様は、まさしく狂気への恐怖と戦い挙げ句にの「ぼんやりとした不安」を理由に自ら命を断った芥川の姿と重なる。

 他の登場人物にも多くにモデルがあって、麗子の父で才能では九鬼に遠く及ばないながら家族想いで皆からも慕われる児島蕭々は、後に随筆の分野で名を成す小島政二郎。九鬼とは盟友で「文藝春秋」なる雑誌を興して編集長として辣腕を振るっている蒲池はもちろん菊池寛。ほか「麗子像」の作者の岸田劉生や島田清次郎、佐藤春夫そして夏目漱石といった同時代の人々は直接は出てこないものの実名で登場しており、漱石「吾輩は猫である」にも似て、知識に生き好奇心に生きる作家やら学者やら編集者といった人たちの日常が風刺的に描かれる。

 もっともそうした文壇風刺は物語の大枠でしかない。否、それも確かにひとつの要素ではあるが、読んで強く印象に残るのは、やはり麗子と、そして九鬼の歳も離れた2人の不思議な関係、ということになる。

 暗がりの部屋の中で麗子の母親が嫁入りの時に持ってきた姫鏡台を見つめ、「眉間に皺を寄せて、この世の悩みを一人で引き受けたみたいな顔になって深い溜息を」(41ページ)ついてみたり、九鬼が飲み残した睡眠薬を飲んだ麗子の夢の中で、麗子に縋りつき悩みを吐露し「愚図愚図泣き言を止めない」(116ページ)痴態を晒してみたりする九鬼。そんな九鬼を、5歳とはとうてい思えない、世の中のこと男女の間のことを理解した目で麗子は見つめる。

 あるいは5歳とは言っても、あくまでも小説の設定の上だけの話で、実のところ麗子は、時に冷静で時に慈愛にあふれた眼差しで九鬼を見つめる観察者として、物語に存在されられているのかもしれない。九鬼=芥川という、天才であり純粋であるが故に変わり行く世界に自分を添えられなかった作家の悲劇、母親への愛情と反感を心の中で闘わせ傷つき病んでいった息子の悲劇を、そうやって浮かび上がらせようとしているのかもしれない。昏々と眠り続ける九鬼を見つめる麗子の「今夜、あたしは、あなたの五歳の母でした」(117ページ)という言葉が、そんな可能性を裏付ける。

 当然のように訪れる九鬼の死、すなわち自殺というある意味陰惨なラストにも関わらず、どこか晴れやかな印象が読後に漂うのは、悲劇であっても裏切りであってもそれが来るべくして来た最期なのだということを、精神的な母親としてもう十分頑張ったのだということを、麗子が認め称えたからなのだろう。また幼い恋人として、愛しい天才が生きるのには辛い世界なのだということを、麗子が理解し赦したからなのだろう。

 大正昭和の文壇事情。談論風発な知識人たちの日々。今に甦ってくる当時の東京の街並みや暮らしぶりといった読んで面白く為になる事柄と、時に谷崎、時に児島=小島、時に九鬼=芥川になりかわって麗子すなわち著者が綴る文体模写の驚嘆する巧みさといった読み所も随所にあって、読むのが惜しくなるくらいに思う存分楽しめる1冊。かつ女と男、母親と息子の強く激しい関係にも切り込んで、心になにがしかの痛みを暖かみを与えてくれる当世稀に見る小説。読んで損なし。否、読まねば生涯の損なり。


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