少女キネマ 或は暴想王と屋根裏姫の物語

 映画であれ小説であれ舞台であれ絵画であれ、芸術と呼ばれる分野の作品を作ったことがない人間には、それらを生み出す苦労といったものは、なかなか分からない。

 構想やらアイディアやらが沸いたとしても、それだけでは作品にならない。映画なら役者を集めて演技させ、撮影して現像して編集して上映してようやく映画と呼べるものになる。絵画だってただ線を書き殴っただけでは、それは絵画とは呼ばれない。画家が徹底的に突き詰め、そこで完成だと思った段階まで描き抜かなければ作品にはならない。

 そんな、長くて内向的な作業の過程で、作り手たちが受ける葛藤なり不安といったものは、いったいどれだけの凄まじさなのだろう。最初は自信満々で臨んだとしても、途中で生じた迷いがやがて巨大な闇となって身を包み、これでいいのか、こんなものでいいのかと心を苛む。それにくじけて立ち止まったら、もう作品は完成しない。

 徹底的に覚悟して全面的に献身する。その果てにしか芸術は生まれ得ないのだとして、それでも芸術に立ち向かうにはどれだけの動機が必要なのだろうか。あふれかえる自己顕示欲か。いつか世界を見返したいという情念か。そんな境地にたどり着いたことがない人間には想像するしかないけれど、そんな境地に迫ろうとする者たちの言動を追うことで、少しは理解に近づけるかもしれない。

 一とかいて“にのまえ”と読む一肇による「少女キネマ 或は暴想王と屋根裏姫の物語」(角川書店、1600円)には、そんな創作活動への理解への道が描かれている。ギュウギュウに詰まって着々と綴られていくストーリーから、映画という芸術にのめり込んで命すら捧げようとした者たちの葛藤と逡巡、そして到達から突破へと至る心情が浮かび上がって、読む者たちを導く。

 熊本から2浪して東京にある大学に入った十倉和成は、友楼館という古い下宿に入って家からの仕送りもないまま、母親が送ってくれた食料品やカップラーメンを頼りにしばらくの間を凌ごうとしていた。ところが、少しばかり目を離したすきにカップラーメンが1つ消えてしまう。

 その前にもマフラーやハサミが消えてしまったことがあり、ほとんど荷物もない部屋で見失うはずがない、これらは誰かに持っていかれたのだと思った十倉は、壁が薄く隙間も多いアパートの全体に語りかけるように、物品への思いを語るとどうしたことか、部屋の押入の上にある天袋の上板をずらして、おかっぱ頭の楚々とした少女が降りてきた。

 黒坂さち、と名乗った少女はもう5年ほどその部屋の天井裏に暮らしていて、寒さで風を引き食事にも困って、十倉の部屋のものに手を付けたのだと言って謝る。それなら仕方がない、と笑って許す許さない以前に、どうして高校生の少女がひとり家にも帰らず5年もの間そんなところで暮らしていたのか。どこか謎めいている。

 のぞくと布団があり灯りもあり風呂屋に行くための洗面器もあって、寝起きできるようになっている。なっているけれどそこに居続けるのは大変。なにしろ友楼館は女人禁制が言われていて、なおかつ暮らしているのは安アパートにふさわしいおかしな奴らばかり。十倉と同じように2年遅れで入学して来た亜門次介に久世一磨をはじめとした男たちに見つからず、果たして暮らしていけるものなのかと疑問が浮かぶ。

 そこは耳そばだてて建物と一体になることで、誰が何をしているかは分かるから大丈夫だとさちは言う。そういうものか。どうだろう。ともあれ不思議なところだらけの少女と出会い、十倉のラブストーリーがこれで幕を開けると思いきや、それはほとんどサイドストーリーに過ぎなかった。

 十倉には高校時代に作った映画で賞を取り、もっと映画を撮りたいといって東京に出てその大学に進みながら、撮影の途中で死んでしまった才条三起彦という同級生が、最後になにを撮ろうとしていたのかを知るという目的があった。才条が途中まで残していた作品のタイトルが「少女キネマ」。未完成に終わったそのフィルムは、彼が所属していたキネマ研究部に、ひたすら傍若無人だった才条という人間の、天才と狂気の伝説とともに残されていた。

 それを見て、だったら自分がと十倉が動き出すかというと、彼は高校でも才条の暴走を横で見て時に抑えたりもしながら伴走していただけの存在だと自認していて、天才を爆発させてそして逝ってしまった才条の後を継ぐなんてことは考えもしていなかったし、出来るはずがないと確信していた。けれども。

 黒坂さち、という不思議な少女が久世の作る映画に出たことで、さちを久世にとられるんじゃないかといった気持ちが十倉に浮かんでやきもきさせる。才条のことを悪し様に言い、十倉に映画作りには絶対に手を出すなと強調する、同じ友楼館に暮らすキネマ研部長の宝塚八宏の存在もそこに重なって、十倉は逆に映画への興味を募らせ、そしてひとつの道へと歩んでいく。映画とはなにか、映画を撮るというのはどういうことかを探求する道を。

 才能がないとか、本気を出すのはまだ早いといった理由をつけて立ち止まっているうちは、絶対に物事は進まない。かといって絶対の自信だけで突っ走っていけば、壁にぶつかった時に跳ね返されてしまう。必要なのはただひたすらに、撮りたいという想いに従って突き進んでいくこと。傍若無人に見えても唯我独尊ととられても、気にせず意識すらせずに目的を果たそうと挑むこと。才能でも努力でもなく想いの深さ。それが作品に命を与えて周囲を染めるのだ。

 ラスト近く、物語は大きく2つの驚きを突きつけてくる。ひとつは映画に捧げられようとした魂に惹かれるように現れた奇蹟であり、もうひとつは映画を通じて捧げられた思いに応えるように浮かび上がった心の解放。これはちょっと反則かもと思えそうな展開だけれど、どちらも強い想いがあったればこその奇蹟であり解放。それらを自分も得たいと思うなら、迷おうとも悩もうとも逆に過剰な自信に突き動かされようとも、本当の想いだけは曲げず痩せさせないで抱き続けよう。


積ん読パラダイスへ戻る