すべてがになる
THE PERFECT INSIDER

 髪は直毛で分け目は真ん中ボサボサ気味。顔は卵形で顎とがり無精ひげあり、目のまぶたは二重、眼鏡なし。背は低からずけれども高くもなく、当然ながら痩身、足も細く長くノータックのスラックスをはいて上着はジャケット(夏リネン冬コーデュロイ若しくはツイード)、中は洗い晒しのDBシャツ。靴はグッドイヤーウエルトのゴツ目の革靴。まとめれば目立たないながらもまずまずの美形で理知的な部分、柔和な部分を感じさせる、ちょっぴり若作りの中年男性と言ったところ。

 と、まあそんな格好を、文中の描写は咀嚼せず、雑誌などに掲載されるファンからのイラストも見ず勝手に思い描いていたのだが、森博嗣の「犀川創平&西之園萌絵シリーズ」の刊行順では第1作目となる「すべてがFになる」(講談社)を原作に、浅田寅ヲが漫画化した「すべてがFになる」(ソニー・マガジンズ、620円)に描かれた、主役でN大工学部建築学科助教授で名探偵の犀川創平は、髪はボサボサながらも固めてあるのか先がツンツンと三角に尖り、目つきも鋭い上に角の鋭いアンダーフレームの眼鏡をかけ、無精ひげどころか唇の下に生える髭をチョロっと残した忌野清志郎的面構えでまず仰天。予想と180度も540度も違った風貌に、ページを繰る手が瞬間止まる。

 ジャケットはジャケットながらもテーラードとはほど遠い、どことなくロックでモッズでパンクなディテールで、パンツはジーンズで且つ長く1つ折りしたロールアップ、靴は部屋ではサンダル外ではおそらくスニーカーとカジュアルで、シャツは着れば胸元を大きく開き着ない時はTシャツかあるいはVネックのカットソーを愛用する、その姿その見栄えその立ち居振る舞いに、これは違う、これは犀川蒼平じゃないと心の中で疑問と否定の気持ちが浮かび上がる。が、ページをめくり物語を読み進めるうちに、これこそが理想にして現実にだって居るかもしれない犀川創平と思えてくるから不思議なもの。ビジュアルが持つ視覚を通して脳へと直接働きかけるインパクトの強さを今さらながらに実感する。

 もちろん、ただそう描かれているだけでは従前の理解を塗り込めることにはならず、むしろ違和感だけを拡大するばかりになっただろう。浅田寅ヲが描く「すべてがFになる」とその鍵となるキャラクター、犀川創平が今や他の漫画家では描くのが難しくなり、仮に描けたとしても比較された果てに多くが打ち捨てられるだろうことは確実になってしまったのは、クールでスタイリッシュな原作をよりクールでスタイリッシュに描き切った上に、そのクールさの中で動いてしかるべき人物に、風貌から衣装から言動に佇まいのすべてを描き上げたからだろう。強烈に、あまりに強烈に網膜へと記録されてしまった浅田寅ヲの犀川蒼平を、そして漫画作品としての森博嗣の「犀川創平&西之園萌絵シリーズ」を、しばらくは誰も超えられない。超えられるものではない。

 若くして、実に10代にしてコンピューター・サイエンスに関する最先端の研究・開発を手がけ、その分野で圧倒的なまでの天才と讃えられる真賀田四季博士。両親の自らの手で殺害したという過去を負いながらも、人格障害という部分で罰を免れ、今は三河湾に浮かぶ孤島を買い取り、研究所を建ててその奥底へと閉じこもり、人前に姿を見せることなく新しいコンピューター・サイエンスの研究を手がけている。ふとしたきっかけで、その四季博士の研究所を訪ねることになった犀川創平と教え子の西之園萌絵だったが、幾日も連絡がとれなくなっていた四季博士の寝所に研究所の所員たちと踏み込んだ創平と萌絵を待ち受けていたのは、両手両足を切断され、自動ワゴンに乗せられ無言の行進をする死体となった四季博士の姿だった。

 コンピューターのプログラムという、一般の人間には馴染みのあまりない道具を使ってトリックを練り上げた原作を一読して、実のところどこまで理解できたのか、というのが本心だった。なるほど「すべてがFになる」という言葉の持つ意味は理解できたが、それがどう物語へと絡み、どのように使われた挙げ句に何が起こったのかを完璧に理解できたとは言い難かった。それがどうだ。絵にされた「すべてがFになる」を読んで、すべてが腑に落ちた。コンピューターのプログラムという、字でも絵でも説明するのが難しい道具であるにも関わらず、簡潔なネームと的確な絵によって何が起こり、どうなったかが一読で理解できた。

 かくも困難な作業いともた易く成し得た浅田虎ヲの物語への理解力については森博嗣が、「すべてが絵による」という題のあとがきに絡めて「弁作者もびっくりの素晴らしい理解度」と言い、「そうか、こういうことだったのか、と原作者が改めて驚いたくらいだ」と書いていることから、そこに漫画家への敬意をこめた世辞が若干混じっていたとしても、大枠において深さでも幅でも完璧以上の理解力だったと言えるだろう。

 さらに内面描写においても、浅田寅ヲの目は凄まじいばかりに正鵠を射たものだったらしい。「すべてが絵による」で森博嗣が指摘しているお座敷の場面、心の奥底へと封じ込められていた人格が現出したようにも見える、複数の犀川創平が主役の犀川創平を弄び、八方へと伸びる影を持った黒服の犀川蒼平が主役の犀川蒼平を見おろしている場面の描写は秀逸で、見かけこそ漫画ではパンクでロックな出で立ちながらも、心の内にはさまざまな感情が封印されうごめきざわついている、複雑にして多層的な犀川創平の人間像が見て取れる。

 本編の一方の主役にして原作ではシリーズ最終話、「有限と微小のパン」にも登場して蒼平とラストバトルを繰り広げる天才科学者、真賀田四季から「貴方は幾つもの目を持っている」「本当の貴方を守るために他の貴方が作られた」と分析されていることも合わせて、一見茫洋としながらも実は鋭い名探偵、などといった定番的なイメージを、覆し塗り替えて圧倒的なリアルさでもって犀川創平という男を描き上げる。

 外見・内面については真賀田四季についても犀川創平同様に、抱いていたイメージが浅田寅ヲのビジュアルによってねじ伏せられる。もっと小さく、もっと地味な風貌を予想していた所に現れた人形のように華麗な四季、そしてその妹というモダンにキューティな未来。派手なようでいて内心の強靱さがほの見える表情が、単なる秀才ではない、天才中の天才科学者という印象を感じさせる。

 そして西之園萌絵。抱いていたイメージはもっと清楚な髪麗しく顔立ち整ったお嬢様だったのに、描かれた髪短くやや下ぶくれ気味で表情豊かな美少女の、時折のぞかせる才媛ぶりとお茶目ぶり(デニーズで「ぶんぶん」という擬音に乗せて頭を振る場面の”らしさ”といったら!)、そして仄めかされる心の奥底へと封じ込められた大人びた感情の機微が、犀川創平以上に重層的なキャラクターを持った西之園萌絵、その人を感じさせて止まない。

 これを奇跡と言うと浅田寅ヲには失礼かもしれないが、異端がいきなりスタンダードになってしまった驚異に今はただ、心よりの拍手を贈りたい。願わくば10作ある原作のすべてを漫画化してもらいたいものだが、これも巻末にある森博嗣の「エンディングとは『心残り発生装置』なのだな」というコメントに従えば、心残りを抱かせたままひとまずの決着を迎えてしまいそうな感じがある。一方で浅田寅ヲ自身の「萌絵はスカート禁露出禁です。次は足を描かせて頂きたいです」というコメントには、まだまだ続きそうな印象もあって、果たしてどちらに転ぶのかに今は興味と関心のすべてが向いている。

 もし仮に、森博嗣の予見に沿った形でいくのだとしても、それならばせめて真賀田四季が登場し、犀川創平と語り西之園萌絵を解き放つ「有限と微小のパン」だけでも漫画化してはくれないだろうか。目覚める萌絵の心理をどう絵であらわすのか。2人で浜辺を歩くあのシーン、儀同世津子のマンションでのコミカルな邂逅をどう描くのか。再びの驚きに天を仰ぎ見させてもらいたい。


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