ステーシー

 もし殺人が許されているのだとしたら、人を殺すことが出来るだろうかと考える。たぶん殺せると思う気持ちが半分と、絶対に殺せるものかと思う気持ちが半分、頭の中でぐるぐるとせめぎあって結論が出せない。

 殺せるという気持ちは、自分に危害を加える、あるいは嫌悪感をもたらすものなら殺せるかもしれないという、そんな理由によるものだ。逆に殺せないという気持ちは、殺すことによって悲しむ人が出る、自分を憎む人が出るという感情が、心を縛るからだろう。

 憎んでいるから、嫌っているから人を殺せる。憎まれるから、嫌われるから人を殺せない。どちらにしても人は、実行するとしないとに関わらず、人を殺すという行為に、相当の心の負担を求められる。

 ならば「ステーシー」だったら殺せるか。姿形は今でも人間とまったくおなじ、けれども人間とは決定的に違う、「ステーシー」と呼ばれる人間を襲う美しい少女たちの屍体だったら。もちろん殺せる。人ではないのだから。殺さなければ殺されてしまうのだから。肉親にも恋人にも知人にも悲しむ人はいない。むしろ積極的に手を貸してくれる。どうして殺すことに躊躇などしょう。

 けれども。いくら合法的とはいえ、そして祝福されているとはいえ、少女たちを切り刻みながら、誰もがきっと涙をこぼすだろう。それはたぶん、永遠の安息を切り刻むことによってしか与えることのできない、自分のふがいなさ、もどかしさ、やるせなさゆえに。

 愛しているから「ステーシー」を殺せる。愛しているから「ステーシー」を殺せない。「憎しみ」ゆえの行為と同様に、「愛」ゆえの行動もまた、心を強く縛り付ける。大槻ゲンヂが長編「ステーシー」(角川書店、1200円)で問いたかったのは、人が己の魂のすべてを絞り出し、「愛」を表現する行為とはなにか、至上の「愛」の形とはなにか、ということだったのではないだろか。

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 近未来。世界中で奇妙な病気が発生する。15歳から17歳の少女だけが罹かるその病は、少女を程なく死に至らしめ、その直後、生きている人間を襲う「屍体=ステーシー」となって甦らせる作用を持っていた。増え続ける「ステーシー」を「再殺」する方法はただ1つ。165以上の肉片に切り刻むことだけだった。

 冒頭のエピソード。偶然知り合った詠子と名乗る少女から、渋さんと呼ばれる男は「再殺の権利をあげるわよ」と告げられた。知人でも恋人でもなかった少女から、殺してくれと頼まれた男は、たぶんとまどったことだろう。迷惑にすら思ったかもしれない。しかし、避けられない死を前に、少女から自分だけはその前でぐっすりと眠っていいのだと告げられたことで、男は少女を再殺するに足る「愛」を得た。

 それでも、眼前に「ステーシー」と化した詠子を見たとき、渋さんは心に迷いを抱いた。短い生を終え、あさましい姿となって甦った詠子をそのまま切り刻むことは出来なかった。ふと目を落とすと、詠子が生前にしたためていた短冊が目に入った。そこにはこう書かれていた。

 『ありがとう。ごめんね。大好きだよ』−言うべき言葉を思い出した渋さんは、その「愛」に「愛」でこたえるために「ライダーマンの右手」とあだ名されるハンディタイプの電気ノコギリのスイッチを入れた。

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 やがて世界に「ステーシー」が満ちた時、「愛」だった再殺はただの行為にすぎなくなった。「ステーシー」の再殺を行うために結成された部隊でも、「隊員の多くが、再殺やに悲しみや哀れみを感じていなかった。もし”人”が少女に対する一般的な感情で再殺を続けていたなら、彼らは間違いなく狂っていただろう。だから彼らは無意識のうちに再殺という仕事を楽しむべきだと思い、神々の恩恵か単なる慣れか、実際、再殺を楽しむことに成功していた」

 苦渋に満ちながらも「愛」を与える使命感を忘却の彼方に押しやり、ただ機械的に「ステーシー」を処理していく行為は、憎まれる、悲しまれるという負担を心に感じることなく、ただ機械的に「人間」を処理していく行為と裏表の関係にあるようで恐ろしい。そして現実の世の中は、そんな機械的な「人殺し」が、今もそこかしこで行われている。

 ”主軸”の調整を経て到来した新しい社会で、「ステーシー」の発生と期を一にして生まれた異形(ミュータント)の「ハムエ」たちが、世界の担い手となって台頭してきた。「愛」もなく無感動に殺戮していた「ステーシー」も、言葉を得て世界の一角を占めるようになった。変化できなかった「ロスト」と呼ばれる人間たちは、「ハムエ」と「ステーシー」の狭間で罪悪感にさいなまれながら、種としての余生を送っていた。

 ラスト近く、再登場する渋さんこと渋川は、「爪の間の血の色は、今もまだ、取れていない。いくら洗っても、取れない」と訴える。それでも渋川は、自らの行為を「いたしかたのない」ものだったと受け入れる。それは”主軸”の所業だったのだからと、自身を無理矢理納得させる。

 ひるがえって現実の世界、「ハムエ」も「ステーシー」もいないこの世界では、無感動の殺戮を繰り返している「ロスト」ならぬ人間に、「ステーシー」の世界の人間と同じ、罪悪感にさいなまれる日はそうすぐには訪れないだろう。なぜなら現実の世の中に、絶対の指標たる”主軸”は存在しないのだから。

 けれども。気が付いた時にはもう遅い。人間が人間の責任で犯した罪事故に、”主軸”の所業と押しつけて、希望にすがることなどできないのだから。なればこそ、今再び問わねばならない。「憎しみ」であれ「愛」であれ、「人」を、あるいは「ステーシー」を殺すことが出来るのかと。読了後に胸にのしかかった痛みを伴う重圧感が、多分答えを表しているのだろう。


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