スピリット・アームズ オブリビオン 君と剣聖少女の未完成な現実
ネット弁慶という言葉があって、ネットの中でだけポジティブに、あるいは攻撃的に振る舞えても現実の世界では内向きで、いつも黙っているような性格の人のことをさして言う。しがらみに多い現実とは違って、匿名でいられるネットなら何に遠慮することもなく暴れられるといったこともあるかもしれない。もっとも今時のネットで完全な匿名などあり得ないから、限度を超えて暴れ回ればいつか本人を特定されてお仕置きされる。ネット弁慶もほどほどに。そういうこと。
だったら、ネットでも現実と同じ名前を使っていて、そして現実ではおとなしい性格の人間がネットではポジティブということはあり得るのか？ 第２３回［春］スニーカー大賞で特別賞の本山葵による「スピリット・アームズ オブリビオン キミと剣聖少女の未完成な現実」（スニーカー文庫、６２０円）に登場する末次文音という人間であり、キャラクターがまさにそれ。感覚を転送できるフルイマージョン技術が使われ、その上に痛覚も再現できるようにした「スピリットアームズ」というＶＲゲームが登場して、その中でひとり敵を蹴散らす獅子奮迅の戦いぶりを見せ、ジャンヌ・ダルクとまで賞されている末次文音というキャラクターがいた。
人間の姿態をスキャンしてアバターに反映させるゲームの性質から、現実と見た目がそっくりなキャラクターたちが動き回っている「スピリットアームズ」。そこで見かけた少女と同じような見た目を持ち、なおかつ名前も末次文音とまったく同じ少女が現実にいたら、やはり同じ人間だと思うだろう。「スピリットアームズ」で末次文音が作ったギルドの末席に所属している関場宏介もそう確信し、同じクラスにいた末次文音に話しかけたらまるで相手にされなかった。
同級生の末次文音は成績こそ最優秀だったものの、高校に入学してから誰とも会話をしたことがないくらい内気で、行動も全体の遅くてとても「スピリットアームズ」の中で暴れ回っている末次文音と同じとは思えない。ひとりで弁当をもそもそと食べは蹴躓いて弁当箱を落としあたふたする姿を宏介たちにさらしている。やはり別人なのか。宏介はそれでも気になって何度も何度も末次文音に話しかけたものの反応は薄く、関心すら向けようとしなかった。
クラスメートとして認識してくれているかも怪しく思えてきたある日。「スピリットアームズ」にログインし、過去に竜に噛み砕かれてロストしてしまった経験から、近接戦闘になるとイップスが出て体が動かなくなってしまうコースケこと宏介が、自分を鍛え直したいとゲームの中で『一緒に碧竜を討伐してくれる人を探しています』という奇妙なクエストを引き受けたら、それが末次文音本人からの依頼だった。
驚きながらもパーティを組んで竜退治へと向かった先で、宏介は現実の末次文音が抱えていたある事情を知る。それは一種の障害で、現実世界の末次文音を長く苦しめていたけれど、その障害がなぜかフルイマージョン技術が使われたＶＲゲームの世界では解消される。のびのびと振る舞えるゲームの世界で末次文音がめいっぱいに戦っていたら、いつの間にか最大ギルドのマスターに押し上げられていたという状況。良い意味での内弁慶が可能なゲームの世界にずっといられれば、末次文音も良かったけれど彼女の母親はなぜかそれを歓迎しない。それどころか文音がフルイマージョン技術を使えないようにしようとする。
それで起こるのは、ある意味で文音が築き上げてきたすべてのものの崩壊。交流も。立場も。それはイヤだとゲーム世界で抱いた思いを外に持ち出せない文音の苦境を宏介はどうやって救うのか？ 「スピリット・アームズ オブリビオン 君と剣聖少女の未完成な現実」はそんな展開の物語になっている。
感覚をゲーム内に写す技術が文音の脳が抱える障害をゲーム内で“治療”しているかもしれない可能性。一方で、現実の障害を持った文音こそが本物でゲーム内は技術がもたらした病かもしれないと考える母親。本当の文音分はどっち？ 記憶の外部化でもサイバネティックでも技術が人間を拡張するなら、人間が生きる場所だって拡張されても良いのだろうか。ゲーム内での体験が外の自分を変える可能性はあるのだろうか。そんな思考をめぐらしたくなる。
ＳＦ的であり、また少年や少女が自分を自覚し弱い部分を鍛え直して強くなっていく物語とも言えそう。異世界に転生するなりネット世界にアクセスし、いきなり“俺ＴＵＥＥＥ”となってすべてを蹴散らす物語も悪くないけれど、強くなっていく展開に段取りがある分、いっしょになって成長していく楽しみを味わえる。
これからも続くとしたらネット世界でのコースケと末次文音、そしてバロールとイルという２人に関わるキャラクターがパーティを組んで、「スピリットアームズ」の奥へと冒険に出るのだろうか。その果てに末次文音を現実世界でも弁慶にするような展開が起こるのだろうか。それが今は気になる。
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