sitai no aru 20 no hukei
死体のある20の風景

 女は死んでいた。鬱蒼と茂る。昼なお昏き。青木ヶ原の樹海で大きな箱に押し込められて死んでいた。管楽器と皮のジャケット。ポートレートに縫いぐるみにショール。何やらしれない物が雑多に詰め込まれ、その中に女はピンクの服を身に纏い、ペンを手に持ち紙にこんな詩を書いて死んでいた。「心の貧しい人は幸せである」。箱の中。テープで張り付けられたカレンダーは5月。時計は11時のおよそ18分。止まっているのか動いているのかは知らない。

 女は死んでいた。フロアの小綺麗なソファーの背もたれに半分、仰向けの姿で体を突っ込み血塗れになって死んでいた。腹に突き立っているのは羅紗鋏。身に纏っているのはシャネルのスーツ。ソファーの座面に乗った上半身から白いスーツの左手が伸びている。手にはライターを持っている。閉じられた指には金色のチェーンが通り抜け、その先にやっぱり血塗れのシャネルのハンドバッグが転がっている。時間は朝? それとも昼下がり? 差し込む光に照らされたバナナの葉ばかりが緑に煌めく。

 女は死んでいた。うっすらと立ちこめたガスはそこが富士山の5合目だと示している。広がる雪原はそこが極寒の地であることを現している。所々黒い岩が垣間見え、その上に敷かれたビニールシートに女は仰向けとなって、ヨウジヤマモトの真っ赤なマフラーを真っ白な雪の上に棚引かせて目を瞑ったまま死んでいた。マフラーと同じだけ唇が赤い。そして顔色は雪のように白い。白い顔色の上に少し、赤い口紅が棚引いている。

 男も死んでいた。たぶん男だと思う。どこにでもある公園の、どこにでもありそうな動物の形をしたベンチの脇の、地べたに仰向けになってたぶん男は死んでいた。たぶんと言うのは彼の、脚をびっしりと覆った体毛で類推したからなのだが、だからといって彼が、男だと断言できるものではない。言い換えよう。その人物は死んでいた。コムデギャルソンの薄く透けたワンピースを着て。頭に薄紅色の鬘を載せて。口にスポーツ新聞を詰め込まれて。ビニール袋からカップラーメンを2つとコンビニ弁当をまき散らして。太い眉を白日に晒して。

 これは男だ。そして勿論死んでいた。上屋のペントハウス。斜めになった外壁に沿って斜めに明いた大きな窓から差し込む光に照らされて、美術の本や写真の本や書類やコンピューターやコップが散らかった部屋の、仕事机と対面して置かれた椅子に縛り付けられて男は、ブルックスブラザーズのスーツを着てボダンダウンシャツにレジメンタルのタイを締めた格好で、右手に包帯を巻きたぶん天眼鏡を握りしめたポーズのままで、潰れた右目から血を流して死んでいた。テーブルの上。ペットボトルは大黒茶。缶の文字は烏龍茶。ガラスコップは2つ。紙コップも2つ。

 まだまだ女は死んでいた。轟音を立ててトラックが走り抜ける虹色の橋のアスファルトの上で、純白のドレスを纏って女は死んでいた。はちきれんばかりの胸。まくれ上がった裾から伸びるすらりとした脚。そして右手に瓶を持ち、散らばった黄色い薔薇の花々に囲まれて女は目を見開いたまま死んでいた。海を隔てて東京タワーが西日に輝く。それとも明け方の光? 1日の始まりとも終わりともつかない時の狭間に落ち込んだかのように、静寂の中で女は今もそこで死に続けているのかもしれない。今にも動き出しそうな胸を晒して。今にも歩き出しそうな脚を投げ出して。

 誰でもいつかは必ずたどり着く死体の世界で、誰もが美しい姿をさらけ出せるとは限らない。むしろ醜くおぞましい姿をさらして見る物を嫌悪の渦へと叩き込む。だがそう例えば、死体となる瞬間に凄惨だが麗しく、残酷だが美しく我が身を飾りたてられたら、いったいどんな場所のどんな格好を選ぶ事になるのだろうか。伊島薫はだから「死体のある20の風景」(光琳社出版、3800円)の中に、20人の女優と男優を使い、20カ所の場所を回って美しくセクシーでエロチックな死体を作り、撮り、収めた。

 写っているのは死体。いろいろな場所にいろいろな衣装を纏った姿で捨て置かれた女優と男優の扮する死体。だから当然美しい。凄惨だがしかし麗しい。ボクも砂丘にウェディングドレスで転がりたい。ボクも空のバスダブにグッチのドレスを纏い仰向けに斃れたい。ボクも大理石の階段に頭蓋を打ち抜かれてエルメスを血に染め転がりたい。ボクもドブ川にプラダのワンピースを濡らして浮かびたい。

 美しい死体になれるだろうか。死に様を美しいと讃えられるだろうか。手本は示された。後は伊島がボクを死体にしてくれるか。それだけだ。


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