心臓を貫かれて

 母親にはよく殴られたが、父親に殴られたという記憶はほとんどない。まあ柔道・剣道ともに有段者という父親に殴られていたら、顔が変形していただけでは済まなかっただろうから、今となっては父親の自制に感謝するしかないが、もしも父親にひんぱんに殴られていたら、果たしてどんな人間に育ったのだろうかと思うこともある。

 「二十四人のビリー・ミリガン」や「ジェニーの中の四百人」のように、幼児期に受けた虐待がもとで多重人格になっていたかもしれないとか、最近読んだ「いつもの空を飛びまわり」のように、体から抜け出た魂だけを空に飛ばしていたかもしれないとか、いろいろと考えてみるが、そうなるにはいささか神経が鈍感すぎる。せいぜいが「いつか見返してやる」と内なる情念を燃やしながら、親の前ではいいこぶることを覚え、腹に逸物おいたまま、上っ面を取り繕って生きていく、ウラオモテのあるサラリーマンになっていただろう。(事実そうなった、みたい)

 ゲイリー・ギルモアは違った。1976年、酒とドラッグで酩酊する中で2人の若者を射殺し、10年近く行われていなかった死刑に処され、アメリカの死刑廃止の流れを逆転させるきっかけを作った男。そんなゲイリー・ギルモアが幼年期から少年期をすごした家庭には、ほうぼうを放浪して家にはなかなか寄りつかず、帰ってくれば帰ったで、何かにことつけて暴力をふるう父親と、父親から暴力をふるわれても、黙って耐え続ける母親がいた。

 ゲイリー・ギルモアの実弟で、著名な音楽ライターのマイケル・ギルモアが、兄の処刑から17年を経て著した「心臓を貫かれて」(村上春樹訳、文藝春秋社、2900円)のなかには、父親に暴力をふるわれて育ったゲイリーが、じょじょに”歪んで”いく様が、身内ながらも客観的かつ冷静な視点で、克明に描かれている。

 マイケルはこう書いている。「もし僕が彼らと同じくらい、とくにゲイリーと同じくらい手ひどく折檻されていたら(彼の感じた苦痛と恐怖とがいっそう残忍な鞭打ちをもたらしたわけだが)、僕だってかなりの確率で、いつか重の引き金を引くだけのために生涯を送るように育ったんじゃないかと思う。僕の兄たちが子供時代に、あるいは思春期に、ほとんど毎週のように味わわされたもののことを思うと、彼らがまだ子供のうちに殺人を犯したりしなかったことが、不思議に思えるくらいだ」(196ページ)。

 ゲイリーも最初から引き金を引いた訳ではなかった。父親から逃げるために家出をしたり、学校で暴力をふるったり、にぎやかな場所に出入りしている不良たちと、気勢をあげるくらいだった。それがいつの頃からか、明らかな犯罪に手を染め始める。恐喝、暴力、自動車泥棒などを繰り返し、少年院や刑務所に収監され、刑期を終えて娑婆に出ては、また罪を犯して逆戻り。40年に満たない人生の半分以上を、塀の中で過ごすことになる。

 処刑されるきっかけとなった事件は、ゲイリーの母親ベッシーが生まれ育ったユタ州で起こった。弱った母親のもとに早く帰りたいと言ったゲイリーに、出所させる代わりに一定期間をユタ州の親戚の監察のもとで暮らすことが条件として与えられた。そして向かったユタ州で、初めのうちこそ真面目に働いていたゲイリーだったが、間もなくニコル・バレットという女性を恋に落ち、また酒とドラッグに溺れて行く。そして7月の夏の夜、ガソリンスタンドで1人、モーテルで1人、若いモルモン教徒の青年を立て続けに射殺して、ゲイリーは逮捕される。裁判が行われ、死刑の判決が下された。

 不良あがりの常習的な犯罪者が犯した、(あくまでも数としての)たった2件の殺人事件が、にわかに全米で注目されるようになったのは、10年近く死刑が行われておらず、米国がそのまま死刑廃止へと向かうような潮流にあったなかで、彼があくまでも死刑を希望し、銃殺を希望して譲らなかったことが原因となっている。アウトロー的なカッコ良さにひかれたのだろうか、あるいはニコルとの刑務所の中と外での同時自殺の試みがロマンチックととられたのだろうか。ゲイリーの一挙手一投足がマスコミの注目を浴び、そんな注目の中でゲイリーは心臓を銃弾で貫かれて死んで行った。

 マイケル・ギルモアの筆致は、そんなゲイリーの生と死を、いささかも美化してはいない。ゲイリーだけでなく、マイケルにだけは優しかった父親の暴力と犯罪に満ちた前半生を暴き立て、そんな父親に付き従って全米を放浪して歩いた母親の心の内をえぐり出す。さらには、兄のフランク・ジュニアの出生の秘密、ゲイリーやゲイレンの父親にもまして過激だった暴力と犯罪に満ちた生涯を、自分自身の調査と、かつてゲイリーについて書いたノーマン・メイラー、ゲイリーの今際の際を看取ったジャーナリストのラリー・シラーらの情報に基づいて、白日のもとにさらす。

 社会現象になった事件を扱いながらも、「心臓を貫かれて」はどこまでも、「家族の絆」について描かれたノンフィクションだった。「絆」といってもそれは、引き合うポジティブな関係ではなく、反発し合うネガティブな関係だったが、それでも父と子、母と子、兄と弟の間にある、決して切れることのない「家族の絆」について描かれた、重く悲しい物語だった。

 訳者の村上春樹が、この物語のどこに惹かれて訳し始めたのかは解らない。けれども、訳し終わった村上春樹が、感想として述べている「『ある種の精神の傷は、一定のポイントを越えてしまえば、人間にとって治癒不可能なものになる。それはもはや傷として完結するしかないのだ』ということを、僕は理解できたような気がする。頭によってではなく、皮膚によって。理論としてではなく、ひとつの深いリアルな実感として」(598ページ)という言葉には、村上春樹自身が納得するだけでなく、読者に対しても強い説得力があるような気がする。

 解らないことがもう1つだけある。マイケル・ギルモアにこのノンフィクションを描かせた原動力は何だったのだろうか。おとしめられた家族を弁護するものでは毛頭ないが、かといって非難することによって自己を弁護するものでも決してない。それがポジティブなものであれネガティブなものであれ、彼はとにかく「家族の絆」の有り様を描きたかったのだと思う。自分自身のアイデンティティをそこから導きだし、これからの人生の糧としたかったのだと思う。

 辛いこともあっただろうし、悲しい思いもしただろう。それでもなお、自分の思うところに従って、「心臓を貫かれて」を書き上げたマイケル・ギルモアの強い精神に、今はとにかく憧れる。


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