次郎 誰にも愛されなかった男

 「愛する人よ 自刃か 然らずんば死か しばしの間 涙を湛えて 微笑せよ」

 精神科医で、書評家の風野春樹が書いた評伝「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」(本の雑誌社、2500円)終章の最後に書き添えられた、島田清次郎という作家の墓地にある記念碑に刻まれているらしい言葉に聞き覚えがあった。記憶をひっくり返してそれが、1995年4月15日にNHKで放送されたドラマ「涙たたえて微笑せよ 明治の息子・島田清次郎」で、タイトルに使われていた言葉だったことを思い出した。

 本木雅弘が島田清次郎を演じ、筒井康隆が新潮社の佐藤義亮社長をいかにもは風体で演じていたそのドラマのタイトルを付けたのが、脚本を手がけた早坂暁なのか、演出を手がけた久世光彦なのか、製作したNHKなのかは分からない。ただ、記念碑に刻まれたこの1文から読みとれる、苛烈でありながらも繊細で、苦衷を超えてなお突き進もうと足掻く青年の像こそが、島田清次郎という作家を現すに相応しいと、誰もが考えたのだろう。

 風野春樹がこの言葉を、終章の最後に書き添えて結末としたことも、評伝を著すほどに研究を重ねた島田清次郎という人間の像との重なりを、感じたからなのかもしれない。元々は「地上 第三部」に書かれている一節で、島田清次郎自身が好きだったという言葉。もしかすると彼自身も、時に傲慢ながらも内奥は繊細で、自分をどう見せようか、自分をどう見て欲しいかという思いからこの言葉を書き記し、だからこそ自分を重ねる言葉と考えて、愛したのかもしれない。

 その生涯は、周知のとおりに波瀾万丈で、NHKのドラマでもそう描かれていたし、風野春樹が島田清次郎という作家を知ったきっかけとなった、そして、同世代の少なくない人たちが同様に島田清次郎の存在を知った森田信吾による漫画「栄光なき天才たち」の一編にもそう描かれていたように、まずは生まれ育った金沢で苦境に喘ぎながらも文学を志し、新聞社に入って健筆をふるいながらも作家を夢みて上京し、そこで認められて幾つもの賛辞を得ながらながら20歳で「地上」を出版して、一気に大ベストセラー作家となっていく。

 交流を深め、外国に遊んで見聞を広めてまさに世界の帝王たらんとした一方で、傲岸不遜な態度を周囲に見とがめられるようになって支持者を失い、友人知人を去らせ、慕ってきた少女を相手に事件を起こして文壇から抹殺された果て。狂気を発して精神病院に入れられ、そこを出ることなしに31歳という若さで死を迎える。そんな評伝が、「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」にも、ドラマや漫画よりはるかに詳く綴られている。

 当時の文壇に生きた人たちが残した日記や作品の片隅から、当時の島田清次郎の動勢や言動や足跡を拾い集め、選び抜いて書き連ね、その言動がやはりどれだけ当時の人を辟易とさせたのか、といった辺りを浮き彫りにしている。さすが「栄光なき天才たち」で関心を抱き、半ばライフワークとして国会図書館などにも通い、研究してきただけのことはある。文壇に登場して来た当時の生田長江や堺利彦による賛辞は、確か漫画でも紹介されていた。加えて芥川龍之介の評や、読者たちの絶賛ぶりも集めて当初のスターぶりを伝えてみせる。

 事件を起こしたあとに泊まる場所もなくなった島田清次郎が、泊まり歩いたかつての師や友人らの家で見せたふるまいも、“被害”にあった人間たちの日記などから拾われていて、やはり相当に病を心に負っていたらしいことが伺える。いやどうだろう? どこにもしがみつく当てのない彼が、それでも必死に手を伸ばした姿が、傍目には滑稽で傲慢に見えただけなのかもしれない。もとより誰かに気に留めて欲しい、愛して欲しい彼が、それを傲慢さでしか表現できない不器用さを、醜態として見せてしまっていただけなのかもしれない。

 そう。繊細で臆病。誰かの目が気になり、誰かに愛してもらいたいと願い、そのためには自分を前面へと押し出し、それでも無関心を示されるならいっそう強く自分を出して目に触れさせよう、意識に止めさせようと足掻く。それが奇矯な振る舞いと受け止められる悪循環。成功している時は成り上がりの傲慢さだと周囲も笑って流したところを、落魄した身となると途端に鬱陶しがるというのも寂しい話だ。けれども仕方がない、そうした態度を一種の稚気だと認め、受け入れるだけの度量をもった友人知人を、彼は遠ざけてしまって来た訳だから。

 自業自得。問題はそうした状況が精神病院に入って後、しばらくして心身が持ち直しはじめた時にも続いてしまったことで、ここで誰かが手を差し伸べ、奇矯さを抑えつつ才能を伸ばしていたら、果たして今に作品が残る大作家になっていたのか、違うのか。その可能性を「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」はほんのりと感じさせる。なぜなら島田清次郎は心ではなく、体を病んで死んだのだから。

 「栄光なき天才たち」でも直木賞を受賞した杉森久英による評伝「天才と狂人の間」でもあまり触れられていなかった、精神病院での島田清次郎の様子について多く触れられているのもこの「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」の特徴だ。入院中の彼を誰が訪ねてきて、どこがどう書きたてたかをちゃんと調べて紹介している。新聞雑誌を探り、いろいろな人の記述を追って集めたその努力たるや! 感心するよりほかにない。

 それは、ただ一言に「狂人」という言葉で括られてしまい、世間から抹殺されてしまった人間であっても、本人はちゃんと生きて思考し、行動しているという、そのことを、精神科医としての日々の仕事から見知っていて、島田清次郎の生涯の最後の6年間を、“なかったこと”にできなかったから、なのかもしれない。そして精神科医としての知識を生かして、「早発性痴呆症」と診断された島田清次郎の症状が、現在でいうなら「統合失調症」であって治療の余地はあり、治ることもあると知りつつ現実には訪れなかった“その後”に、思いを馳せてみたかったからなのかもしれない。

 もうひとつ、興味深いのはこれも漫画で紹介されていた一編の詩、「明るいペシミストの唄」についての指摘だ。「わたしには信仰がない。わたしは昨日昇天した風船である」から始まって、「でも太陽に接近する私の赤い風船はなんと明るいペシミストではないか」で結ばれる詩について、「かつてのような傲慢な態度はすっかり影を潜めており、静かな絶望と諦観が胸に迫る優れた詩だと思う」と風野春樹は評価する。その一方で「これまでの清次郎の作品と比べると、どこか技巧的すぎる気がするのである」とも書いている。

 この詩が外に出て雑誌に掲載された経緯には、偶然隣に放り込まれた人間が受け取ったということがあるらしい。果たして書いたままにダイレクトに掲載されたのか、それともどこかで誰かの手が入ったのか、そもそも島田清次郎本人が書いたものなのか。ずっと島田清次郎の生涯を追い、その作品に共通する真っ直ぐさを感じ続けた身にはどこか、詩の雰囲気に違和感が浮かんだのかもしれない。原稿が残ってない以上は想像でしかない訳で、あるいは歳を経て諦観を得つつ自嘲も覚えつつ、再起へと居住まいを正したからこそ生まれた一編なのかもしれない。どうなのだろう。

 いずれにしても、1930年に世を去って80年も経った2010年代になって、その生涯を調べ尽くすには時代が離れすぎた。あれだけ大ベストセラーとなり一世を風靡しながら、もものの5年ほどで消えてしまってそして、しばらく口に上らす省みられることも多くはなかった作家について、ここまで改めて調べ直し、なおかつ独自の視点も加えて評してみせたその努力たるや! よほどの情愛を島田清次郎に対して持っていたのかと考えるよりほかにない。

 誰からも愛されず、かろうじてひとり、母親だけが愛した島田清次郎を時を超えて愛したひとりの精神科医がいた。その筆先から紡がれた天才であり狂人であり人間であった島田清次郎の像からいったい、どれだけの愛する者たちが現れて未来へと、島田清次郎を運んでいくのか。それがこれからの楽しみだ。


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