S.I.B
セーラーガール・イン・ブラッド

 かつて「女子高生」はブランドだった。強さの、可憐さの、奔放さの、厳格さの、過激さの、可憐さの、清純さの、淫靡さの、凶暴さの、聡明さの、その他ありとあらゆるキャラクターを呑み込み咀嚼しては表現してみせられる、無限の広さを持った柔軟で底知れない器を持った存在だった。

 「女子高生」はありとあらゆるものになれた。スポーツ少女がいたし幼妻もいた。委員長がいてマネージャがいてスケ番がいた。そんなあらゆる存在になれる女子高生が主役を張れば、どんなドラマにも説得力が生まれた。パワーが満ちエナジーがほとばし物語によって、社会に強いメッセージを放つことができた。

 「女子高生」は神聖だった。神聖にして憧憬を持たれた存在だった。けれどもどうだ。今や「女子高生」では遅すぎる。強さは枯れ可憐さは衰え、奔放さも厳格さも過激さも退潮してはその座を「女子中学生」へと明け渡してしまっている。否、すでに「女子小学生」の方が自在さに溢れた存在として、社会を席巻しかかっている。

 現代において「女子高生」は大学生の、社会人の頑健さに頭を抑えられ、かといって中学生や小学生の奔放さにも戻れない、中途半端な若年寄に成り下がってしまっている。もはや「女子高生」では高ぶれない。「女子高生」では心踊れない。

 どうしてしまったのだ「女子高生」は。これで良いのか「女子高生」よ。良い訳がない。「女子高生」は圧倒的であるべきだ。「女子高生」にパワーとエナジーを取り戻せ。光文社の「KAPPA−ONE登竜門」からデビューを果たした佐神良の「S.I.B」(カッパ・ノベルズ、848円)は、かつて見た「女子高生」たちのバイタリティーを今の時代に蘇らせ、その凄さを日本に、いや世界に向けて再認識させるべく書かれた伝導の書だ。

 セーラー服姿の少女が機関銃を手に持った表紙絵の「S.I.B」、すなわち「セーラーガール・イン・ブラッド」は、だからといって世代の狭間に追いやられた今時の女子高生たちが、ぶち切れて男も権力もなぎ倒していく話では決してない。そうした部分は確かにあるが、決して主題ではない。

 そもそもが「少女」なんかじゃない。描かれた主人公のアムロは当年とって24歳。立派に女性と呼べる年齢の彼女が、セーラー服を着て「女子高生」として振る舞っているのはなぜなのか。それは関東地区が未曾有の大震災に襲われたことに端を発する。

 復興する過程で、千葉県の船橋あたりから習志野、幕張、検見川浜を経て千葉あたりへと広がる地域に出来上がった荒野とも原野とも呼べる「自由地帯」。そこである策略から送り込まれた「女子高生」たちが、武装して戦いを繰り広げた挙げ句、持ち前のバイタリティーと、環境適応能力によって弱肉強食の頂点へと躍り出ることになった。

 そんな「女子高生」たちによって作られた幾つものグループの中で、トップに位置するのが「北のグループ」。そしてこのグループを率いるのが、かつて1人で「自由地帯」に出来ていた男性による「自治政府」を壊滅させ、「伝説の女子高生」として恐れ讃えられるアムロ、その人だった。

 以後、物語ではどのようにして「女子高生」たちが、壊滅的な打撃を受けた神戸ですら見かけ上は数年で復興させた日本において、7年間も「自由地帯」に半ば隔離される形で放っておかれたのか、といった理由が明らかにされていく。過程ではそもそもどうしてして「女子高生」なのかが説明されて、強靱さとしたたかさを持って世界を席巻した、かつての「女子高生」たちへの憧憬が語られ、男性にはそのパワフルさを思い出させ、女性には今ふたたびの「女子高生」の復権を想起させる。

 物語ではやがて、背後に渦巻く国家的な陰謀の中で、アムロが自分のおかれた立場を知り、迫る陰謀に挑みこれを突破しようとあがく展開が繰り広げられる。友情の熱さと脆さ、別離の悲しさ、裏切りのやるせなさといったドラマとそして、決然として立ちセーラー服をなびかせて、「女子高生」らしく生きてるアムロの強さを堪能できる。

 強引きわまりないと言えば言える設定の、無茶も甚だしい物語だと思えば思えないこともない。が、繰り出される圧巻の戦闘描写と、苦闘する「女子高生」たちの生きようとする想いにたぎった姿を前に、やがて設定も何も気にならなくなる。何よりかつて誰もが感じていた、「女子高生」がその溢れるパワー、たぎるエナジーで世界を席巻するのでは、といったビジョンを蘇らせてくれるだけで、この物語に存在する価値はある。

 船橋にあるショッピングモールの「ララポート」をモデルにした「ダダ・ポート」に棲む「女子高生」一派の行ってきた、浅ましくもおぞましい振る舞いが発覚するシーンの身も凍る恐ろしさ、そこで発見されたものが醸し出す悲しさといった、読んで身を張り付かせ、心ふるわせる描写が所々に散見され、書き手としての将来も伺える。

 であればこそ作者には、もう少し可能性を信じられる設定の上で、圧巻のアクション、圧倒のドラマを描いてもらいた気もある。もっとも願望をこそ第一義として、それに設定を隷属させて繰り出す今だかつてない世界のビジョンにも興味が及ぶ。果たしてどちらの道を歩むのか。いずれにしても楽しみだ。


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