SFバカ本 白菜編

 「楽屋話」は好きですが嫌いです。楽屋で話している人たちが好きな人たち、見知った人たちばかりで、その口に上る人たちも好きな人たち、見知った人たちばかりなら、「バカだなあ」とか言って笑いながら、楽屋話を心底楽しむことができるでしょう。ですが一方で、楽屋で話している人もその口に上る人たちも、嫌いだったりぜんぜん知らない人たちばかりだったとしたら、楽屋話はただのなれ合いとしか見ることができません。

 そういった立場の人に身を置くと、好きだと笑っていた楽屋話も、その面白さが半減するような気がします。そういった立場の人が、自分にとっての好きな人たち、見知った人たちに反感を覚える様を想像すると、「バカだなあ」と笑ってばかりはいられません。「楽屋話」が話題への親近感を増す効果を同じくらいに、反感も増す効果を持っているのです。「諸刃の剣」である「楽屋話」は、だから好きですが嫌いです。

 「原始、SFはバカ話だった」という名文句を帯に颯爽と現れ、読書界を未曾有の笑いに包み込んだ「SFバカ本」(大原まり子・岬兄悟編、ジャストシステム、1900円)に、待望の続編が出来ました。題して「SFバカ本 白菜編」(大原まり子・岬兄悟編、ジャストシステム、1900円)。白菜に帯が巻かれて「SFバカ本」とあるから「白菜編」なのでしょうか。だとしたら束子(たわし)に帯の第1作はさしづめ「束子編」となるのでしょう。もちろん中身は白菜にも束子にも、一切関係ありませんが。

 性に関わる話、いわゆる「シモネタ」で笑わせる作品が多かった「束子編(仮)」に代わって、シチュエーションとしての「バカ話」を読ませる小説が多く、指輪が空からおっこちて来たり、コレラが全世界的に流行したり、猫が頭に来たりする話に大笑いしていた昔を思い出して、「これだ、これなんだよSFは」と、感涙にむせびながらページを繰りました。

 中でも編者である大原まり子さんの作品「インデペンデンス・デイ・イン・オオサカ(愛はなくとも資本主義)」と、森奈津子さんによる「地球娘による地球外クッキング」の2編は、一方が宇宙人を金儲けの道具として使い倒せば、一方が天ぷらにして食べてしまったりといった具合に、発想のどぎつさ、すさまじさで読み手を圧倒します。

 また、遠視の宇宙人たちが繰り広げるおかしくて哀しいやりとりのなかに、気が付かないことの幸せをほんのりとまぶした岡崎弘明さんの「地獄の出会い」、筒井康隆さんのコレラにも通じる臭気に満ちた恐怖の世界を描いた梶尾真治さんの「ノストラダムス病原体」、意識が体のそこかしこに行ってしまうという不条理なシチュエーションをユーモラスな筆致で描いた、やはり編者の岬兄悟さんの「流転」等など。いずれも誰もが「エッ」と思うシチュエーションを作りだし、その中で戸惑い、あるいは気づかずに傍目にはおかしな行動を繰り広げる人だったり宇宙人の姿を描き出し、読み手を楽しませてくれます。

 漫画家のとり・みきさんが寄せた「ネドコ一九九七年」も、野阿梓さんの「政治的にもっとも正しいSFパネル・ディスカッション」秀逸です。娘の成長記録を撮影したビデオを見せたくて賞がない長屋の主人の空回りぶりを描いた「SF版『寝床』」ともいえる「ネドコ1997」、不思議な空間である「SF大会」に集まる不思議な人たちが繰り広げる不思議な時間を描いた「政治的にもっとも正しいSFパネル・ディスカッション」は、SFファンならおもわず「ニヤリ」とする描写がたくさん盛り込まれています。登場する人たちの一人一人を現実の人たちに当てはめて、そうだよこの人は、そうだったのかこの人はと、いろいろ思い浮かべながら楽しむとができます。

 ですが果たして、SFに一切の経験を持たない人たちが、この2作を読んで「ニヤリ」と笑えるでしょうか。「ネドコ一九九七年」のオチは実に他愛のないものです。とり・みきさんの漫画にも優る素晴らしい筆力で最後の最後までぐいぐいと引っ張られる作品になっていますが、だからといってそのオチから「SF的」開眼を受けることはないでしょう。楽しみはどうしても登場人物たちと現実の人たちとの関係性、つまりは「楽屋話」の部分へと向いてしまい、そこが解らない人はもどかしさを覚えて歯がみするのです。

 野阿梓さんの「政治的にもっとも正しいSFパネル・ディスカッション」の場合は、「楽屋話」の度合いがさらに強烈になります。登場人物のモデルになったと思われる人たちの誰一人にも直接合ったことはありませんが、著書やエッセイ、インタビューなどを通じて見聞している人たちがモデルになっているだけでも、「楽屋話」的な面白さが伝わってきます。「脱構築」な高見達幸、サイボーグでフェミニズムな谷マリコ、ウルトラマン・フェティシズムな真坂五郎、「敵も味方も山賊」の富田林調平等々。そんな登場人物たちが繰り広げる惑乱のパネルディスカッションです。SFファンならどうして興味を持たずいられるでしょうか。

 しかし、SFに詳しくない人がこの話を読んだとして、等しく「バカだなあ」といった気持ちを抱けるでしょうか。「バカだなあ」といった愛情ではなく「バカじゃないか」といった反感しか、そこから紡ぎ出せないような気がします。そして、こういった話を「バカだなあ」と喜んでいるSFファンを、いみじくも森奈津子が作品「地球娘による地球外クッキング」で登場させたSFオタクの少女のように、選民思想を持った特殊な人々と区別され蔑まれる存在にしてしまうのです。

 とり・みきの作品も野阿梓の作品も、個人的には大好きです。笑いと涙なくしては読めない傑作です。けれども自ら居場所を狭めてしまうような要素を持っていることも否定できません。「SFバカ本」を「SFってバカ話だったんだよね」といった成熟したSFファンのノスタルジックな感情を満足させるものではなく、筒井康隆や小松左京や星新一や平井和正や横田順彌やらが脳を振り絞って書き上げた「バカSF」の数々が、「SFって面白いんだね」と思わせて新しいファンをSFのフィールドへと引きずり込んだ、あのSFの黄金時代の復権を目指すものだとするならば、いつか編まれるであろう「達磨編」「洗濯挟編」「湯たんぽ編」では、SFを無視して来た人たちや、SFの面白さを未だ知らずにいる人たちを、ぱっくりと捉えて決して話さないような、ストレートな「バカ話」、誰もが大笑い出来る「バカ話」を、たくさん収録して欲しいと思います。


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